鍋を作って食べた。/久志木梓 への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





鍋を作って食べた。/久志木梓

https://kakuyomu.jp/works/16818093075502839060


フィンディルの解釈では、本作の方角は北北西です。


久志木さんや他の読者が「西から入って北に抜けていく」ということを仰っていますが、フィンディルも同様の読書感を抱きました。

その西と北がどの程度なのかは人それぞれですけどね。ただ西北西・北西から入って北西・北北西・真北に抜けていく、という変化自体は概ね一致するものと思います。

フィンディル個人としては、久志木さんが当初仰っていた「真北と北北西のきわを狙いました。」という感覚にかなり近いです。北西程度から入り、真北に近い北北西で終わる感覚。


ただこれは前半が西で後半が北という解釈はやや違うかなとフィンディルは思います。西から入って北に抜けるのは飽くまでその時々の読書感を指すものであって、読み終わって本作を見返すと別の見え方がしてきます。

キャラクターが西で構成が北、というのがフィンディルの解釈です。あるいは人が西で作品が北、とも言い換えられますね。

このように考えたときに本作には気になるところがあるのですが、それはまた後で。



まずは本作に対する簡単な解釈を示したいと思います。

「実習」という言葉から、視点者およびAは大学生と考えるのが一番丸いと判断します。大学院生や卒業して数年の可能性もありますが、概ねこのあたりだろうと思います。

そして視点者とAは恋人関係や友人関係と考えるのが自然だろうと思います。あるいは一般的なそれらに収まらない、いずれにせよ特別な関係。ただの友人や知りあいにしてはAの、視点者の人生と生活への関与度は高いように見えますので。なお視点者とAの性別についてはどの組みあわせでも解釈可能なようにしているものと思います。


おそらく視点者はいわゆる“普通の人”と同様の人生と生活を歩むのが難しい人なのだろうと思います。それは障害ということではなく。“普通の人生”のハードルの高さを日々感じている人。

視点者が大学生とした場合、おそらく中学高校のころからそれを感じていただろうと思います。しかし大学受験までは、何となく“普通の人生”っぽいレールに乗ることができていた。

しかし(遠方の)大学に進学して一人暮らしを始めて自分の人生と生活を自分で管理するようになると、自身と“普通の人生”との隔たりが表面化した。“普通の人”が活力と気合を入れてこなしていく大学生活をまえに、視点者はあえなく萎んだ。“普通の人生”を歩めないことを思い知らされた。みんなが当たり前にできることができないし、みんなが当たり前に知っていることを知らないことを思い知らされた。元気がなくなり、駄目になった。

そのときに大学の学友か何かだったAが視点者を支えてくれたのだろうと想像します。視点者がまだ大学生活に臨めていたころに仲良くなったAが。


率直に、Aの人物表現が非常に素晴らしいと思います。本当の意味での優しい人の表現がすごく上手いと思いました。見事。

Aの言葉を思いだしながら涙を流す視点者の姿が描かれていますが、この場面はフィンディルも目を潤ませました。こんなに優しい人いるのかっていうくらい、Aは優しい。

フィンディルの想像ですがAは周囲からは「ちゃんとしてて良い人だけど、ちょっとクセがある」といった程度の評価だろうと思います。ただ視点者からすると、何でも一人でできて、いつも情緒が安定していて、自分の人生の光を一手に担ってくれている人くらいの見え方がしているのではないかと思います。

自分の隣に立って、人生や生活に希望を見せてくれるような、希望ある未来を指さしてくれているような、そんな人。「元気になったらあれをしよう、あれはすごいぞ」と楽しげに自分に話してくれるような人、視点者のこれまでの人生にはいなかったでしょう。自分の人生を首の皮一枚でつなぎとめてくれているような人。何でこんなに自分の人生に関わろうとしてくれているのか不思議なくらいに、どこまでも優しい人。

視点者からすると本当に頭が上がらないし、何よりも大切にしたいし、この人に嫌われたらそれこそ自分は本当に終わりだろうなと思っているような人。

こういうAの人物表現を、Aの台詞と視点者の内面描写だけで見事に作っているのは本当に素晴らしいと思います。


そういう気持ちを姿勢で示すことは視点者にはなかなかできないだろうと思います。しかし視点者は視点者なりにちゃんとAを大切にしています。

―――――――――――――――――――

「昨晩のことについて話し合いの場を設けたいです。場所はいつもの。時間は以下の日時から、第三希望まで書いて返信お願いします」

―――――――――――――――――――

視点者の内面描写に比してこの文面はすごく事務的でそっけないように感じますが、視点者側から仲直りのアクションを起こすということ自体が、視点者にとって特別なことです。いかに視点者がAを大事にしているかが伝わります。

視点者がこれまで起こしてきた色々な人とのすれ違いや仲違い、そのおよそ全ては視点者にとって不本意なものだったでしょう。しかしその仲直りのアクションを視点者から起こすことはなかっただろうと思います。その気力がないので。

ただそれでもAに対してだけは、絶対に仲直りしないといけないということでアクションを起こしたのだろうと思います。

なお昨日の仲違いの内容はわかりませんが、おそらく視点者に原因があるのだろうと思います。それは視点者も自覚しているはずです。そしてAも怒ってこそいますが、それも視点者の一部だと思っているはずです。本当はAは自分から仲直りのアクションを起こしても良かったのでしょうが、怒りの表明と視点者が人と交流をしていくリハビリも込めて、視点者からのアクションを待ったのだろうと思います。視点者から連絡がきた時点で、Aはもう許し、何なら「頑張ったね」と喜ばしく思っているはずです。


Aはありきたりなエールや精神面での支えを選ばず、視点者の生活面を、とりわけ食事面に手を入れようとしたのだろうと思います。それはA自身のモットーによるところが大きいでしょう。

心が元気になるにはまず生活が元気であることが大切だ。生活を元気にするのはまず食事が元気であることが大切だ。だから視点者のペース感を大事にしながら、視点者が自炊をできるように指導したのだろうと想像します。安全・楽・経済的というのを重視しているのは、(そもそもAがそれを重視しているのもありますが)視点者が無理なく取り入れるためのものなのだろうと思います。

自炊一周年記念に情操教育課程として土鍋をプレゼントしてくれるなんて、本当に涙が出るくらい優しいですよね。Aがいなければ視点者が土鍋を手にするなんてこと、絶対になかったろうと思います。


キッチンばさみで鶏肉を切ったあとにすぐキッチンばさみを洗剤で洗っていたのが印象的でした。これはカンピロバクター食中毒防止のためですが、これを視点者が自身の知識だけで実行できるとはとても思えません。食器を洗うのを厭う視点者に食中毒防止の洗浄が癖づいているところから、「食器を洗うのが手間なのは仕方ないとしてこれだけは必ずその場で洗うように」とAが口を酸っぱくして言い聞かせた場面が浮かびます。

また鍋キューブを四人前(四つ)クセで入れていたのは何でだろうとあれこれ考えましたが、それが経済的だからだろうというところに落ち着きました。一人暮らしにおいて鍋料理は一度作れば数日間は持つ経済料理ですから、Aがそういう指導をしていても不自然ではありません。ラクですしね。

視点者も独白していますが、視点者のひとつひとつの調理動作は全てAの指導の範囲内なのだろうと思います。意識していることも意識していないことも含めて。いわばAは視点者の人生を創造する神様のような存在なのだろうと想像します。

そして人は人に対するような配慮を神に対してはしないので、そういった態度をとってAを傷つけてしまったのだろうとも想像します。コートをプレゼントしてもらったのに。コートも「元気になったら一緒に色々なところにお出かけしよう」というメッセージが隠れているのでしょう。


素晴らしい人物表現だと思います。

正直、視点者を表現するのは難しくない。西の王道ですからね。“普通の人生”を送れない人を描くのは(北における起承転結くらい)難しくない。

ただ本作はAの人物表現と、視点者とAの関係性表現と、視点者がAをどう思っているかの内面描写が、非常に素晴らしいと思います。こちらもこの解像度で表現できるのは素晴らしい。視点者がAを大切にしたいと思う心情について、強い納得感がありました。そりゃこんな優しい人は頑張って大切にしたくなるわと思えました。

そしてここが勘所と見定めて、作品としてきちんと注力できているのも素晴らしいと思います。視点者を描いているようで、描いているのはAだし、Aの優しさだし、Aに対する視点者の想いだし、で素晴らしい配分です。

お見事。



ここからは指摘です。

フィンディルは本作を「人が西で作品が北」と評しましたが、この方針をとることで得られる面白みと犠牲になる面白みのバランスが上手くとれていないように感じています。


「人が西」というのは、これまで述べてきたことですね。視点者、視点者とAとの関係性、視点者がAをどう思っているか。視点者は、創作でいえば西の世界の人物だろうと思います。

そして本作としても、視点者という人物を北に加工しきることを嫌っているように思います。できるだけ視点者を視点者のまま描きたいと、久志木さんは思われているのではないかと想像しています。

「作品が北」というのは、視点者やAについてのことが徐々に明らかになってくる全体の構成のことを指します。

視点者はどういう人物であると想像できるか、視点者とAはどういう関係性であると想像できるか、Aは視点者に何をしてくれているのか、視点者にとってAはどういう存在なのか、昨日二人に何が起こったのか。これらの情報が、作品が進むにつれて推し量れるように本作は整えられています。およそ視点者の自由な思考に任せていればこういう傾斜は描かれませんので、作者である久志木さんが視点者の思考を制御していると受けとれます。

視点者を視点者のまま描く西、ただその思考は作者が制御をして構成を組む北。この両面が本作にはあるものと思います。

なお本作は最後に視点者が仲直りのアクションを起こしますのでその成長でもって北と判断することも不可能ではありませんが、本作で描かれた進歩については西の懐でもあるので、北を特別に肯定する要素ではないと考えています。


「人が西で作品が北」という方針、得られる面白さについては「背景が徐々にわかってくる」というものだろうと思います。

情報を小出しにしていって明らかにしていく手法そのままの面白さです。そこには作者による制御も見てとれますので、エンタメのそれに通ずる面白さ。

では犠牲になる面白さとフィンディルが考えているのは何かというと、要所要所で視点者の心理心情描写が縮小されているというところです。


作品が進むにつれて背景が徐々にわかるようにするということは、作品の序盤では情報を隠蔽するということです。後半に明らかになるということは前半は隠すということです。これは基本的に西的な心理心情とは合致しません。

その人がその人のままに思考することを西とするならば、作品都合により思考を制御する北の仕草は、ここと衝突してしまいます。

背景を概ね理解したうえで本作を読み返すと、視点者の思考のなかで不自然に縮小されている点を見つけることができます。


まず、昨日すれ違い仲違いを起こしてしまったのならば、視点者は目が覚めて昨日のことを思いだしたとき、心臓にナイフが刺さる心地がしたはずです。「そうだった」と。それは直接的な要約であればあるほど鋭利となるはずです。

しかし本作は直接的な言及は避け、核心を刺さないスロースターターな目覚めとなっている。昨日何があったのか直接考えてしまわないのが上手すぎる。

次に、視点者は豆乳鍋をまえにして「考えるのは食べたあとだ」と、昨日のことに向きあわないようにしています。しかしそんな強靭なことが視点者にできるのか。考えてはいけないと言い聞かせるも考えてしまい、考えてしまったから考えてはいけないと言い聞かせ、それでも考えてしまってまた言い聞かせ。この波が視点者にとっては自然であるようにフィンディルは思います。

本作の視点者は先んじて禁止線を引いてその線を頑なに守ることに成功していますが、視点者を視点者のまま描くのならばまず最初に禁止線を破ったあとに禁止線を引いて越えたり戻ったりを繰りかえす思考の様が、起きながら鍋を作りながら泣きながら食べながら混沌のうちに塗りたくられるのが自然であるようにフィンディルは思います。


さらにAへ連絡するにあたって視点者は決意を固めていますが、その様も決意の具体的内容を隠すような仕草が感じられて違和感を抱きました。

本当なら決意が固くなり柔らかくなりを繰りかえしながら、視点者なりに文面を考えたり没にしたりするのが自然なのではないかという気がします。


これらはいずれも「背景が徐々にわかってくる」北的な制御に視点者の自然な思考が曲げられているように、フィンディルには見えています。

本作は(頭痛の表現からもわかるとおり)視点者の思考との一致度が高い一人称視点です。そのなかで(視点者が一顧だにする必要のない)「背景が徐々にわかってくる」のために視点者の思考が不自然に縮小処理されているのは、視点者の描かれる姿として強い違和感を覚えます。

仮に自然な思考が徹底されていないとしても、それが視点者をより深くより良く表現するためなのであれば、作品としてそれは合致していると思います。ただ本作で視点者に自然な思考を徹底させていない理由は、視点者をより深く表現するためではなく、作品をエンタメ的に盛り立てるためなんですよね。読者に「背景が徐々にわかってくる」面白みを提供するため。この制御をしても、視点者のことがより深く表現されるわけではない。

これが、視点者を視点者のまま描きたいという方針と衝突しているように思います。


おそらく久志木さんもご自覚されていると思います。それぞれ対策が打たれていますからね。

心臓にナイフが刺さる心地の表現は(序盤の)コート回りの叙述で代用していますし、視点者が昨日のことを直接的に考えないのは「考えるのは食べたあとだ」と言い聞かせることで処理していますし、「それだけで気おされる。情けない。」でも決意が柔らかくなる表現はしています。

「背景が徐々にわかってくる」ために視点者の自然な思考が曲げられていても、明らかな不自然にならないようにフォローは細かくされています。

ただこれらは対策を打ったという事実を置くだけのものであって、視点者の思考が作品都合で制御されていることを根本から解決するものではないと考えます。ちゃんと工夫はされているんですけど「ちゃんと工夫はしているんですよね」と思ってもらいたがっているように見えます。


ということで「人が西で作品が北」で視点者の内面描写で大きな犠牲が払われているなと感じるのですが、一番の問題だとフィンディルが思うのは、その大きな犠牲を払う価値のある面白みが「人が西で作品が北」にあるのかというところです。

作品都合で視点者の思考を制御したとしても、その犠牲を超える大きな面白みが「人が西で作品が北」にあれば、総合的には全く問題ないと思います。差し引きでプラスであればいいと思います。

ただそういうような面白みが「人が西で作品が北」にあるようにフィンディルには感じられませんでした。「人がで作品が北」の「背景が徐々にわかってくる」構成に見られる面白みと、本作に見られる面白みには大きな差がないように思います。見つけられていないだけかもしれませんけどね。

「人が北」なら視点者の思考が制御されることの犠牲はほぼないのですが、「人が西」で視点者の思考との一致度が高い一人称視点なら思考が制御されることの犠牲は大きい。犠牲は大きく違うのに得られる面白みに大きな差がない、ようにフィンディルには見えます。

本作が、「人が北で作品が北」の「背景が徐々にわかってくる」に比べてプラスもマイナスも大きい作品ならば別ですが、実際はプラスは小さくマイナスは大きい作品であるように見えるのが一番の問題であるように感じます。


「背景が徐々にわかってくる」構成を採用しない「西から入ってそのまま西に抜ける」作品だと、視点者の思考を制御するしがらみが発生しないので、視点者をより視点者のまま描けたと思います。

もちろん「人が西」を「作品が北」に乗せることで作品の楽しみ方がわかりやすくなる側面はあると思うので、そこ自体に価値があると判断するのならばそれを否定することはできないんですけどね。

ただ「人が西で作品が北」の「背景が徐々にわかってくる」構成でないと得られない面白みを表現できたほうがより突き抜けると思いますので、そこを模索して表現できるとまたステージが変わるだろうな思います。

あるいは西的な自然な思考と北的な思考の制御、この融合をより洗練させる方向でも良いとは思います。ちょっと「気づかない人はそれで良し、気づく人にはそれぞれの対策・工夫を見て許してもらおう」でご自身を納得させているように見えました。


西的な人物表現は素晴らしい、「人が西で作品が北」の仕上がりには洗練の余地あり、というのがフィンディルの雑感です。

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