星空を吸う。/雨蕗空何(あまぶき・くうか) への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





星空を吸う。/雨蕗空何(あまぶき・くうか)

https://kakuyomu.jp/works/16818093075264741262


フィンディルの解釈では、本作の方角は真北です。

真北と北北西とで迷いましたが、“非日常の日常”を描ききれていない意味も込めて真北とします。


二人のやりとりや関係性自体は真北と北北西のあいだくらいだろうと思います。

関係は説明しないが関係性は窺い知れる、大きな変化はないが核心の周囲をくすぐるやりとり、きっちり主題へフォーカスした締め。真北にも北北西にもブレるタイプのお話だと思います。

ただ本作は「星を吸う」設定の見せ方により、真北への背が押されたような心地がしました。そしてこれは、本作にとってあまり良いことではないとフィンディルは考えています。


「星を吸う」設定のどのような見せ方により、真北への背が押されたのか。

それは本作では「星を吸う」一連が、二度描写されているところにあります。

―――――――――――――――――――

 竹箒のような先生の細い手が、慣れた手つきで星空に伸ばされた。

 砂粒をかき集めるように、両手を内側に払って、空をなでる。

 それで空に満ちた星たちは、先生の手の中に集まって、先生はその星を紙で巻いて、火をつけてくわえて、吸った。

―――――――――――――――――――

 先生はくすくすと笑って、また紙巻きをくわえて、星を吸って、吐いた。


 薄く光る煙が、真っ暗な空に登っていく。

 煙は空に溶けて、また星に戻って、夜空は少しずつ明るさを取り戻していく。

―――――――――――――――――――

と、

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 下を向いていると涙がこぼれそうな気がしたので、先生から目をそらして、空に目を向けた。

 紙巻きの煙がくゆらされて、あるいは先生に吸われて吐き出されて、空に帰っていく。帰って、星に戻って、星空は元の形を取り戻していく。

 何度も先生に吸われたことなど意にも介さないように、元通りに。

―――――――――――――――――――

とで、二度です。

これを見たときに、北かもなあと思いました。「二回描写しちゃったか」が率直な感想です。


他の方の感想でもありますが、本作は「星を吸う」設定の説明をしていません。どういうものなのかの説明をしていない。

そして仮に「星を吸う」設定の説明をすれば本作は北向きになることは、多くの方が共有できるものだと思います。

ではどうして設定の説明をすれば北に寄るのか。

それはわざわざ設定説明を設けることで、「この設定変わってるでしょ」「この設定面白いでしょ」「この設定がこの作品の見どころだよ」「この設定がこの作品の魅力だよ」というメッセージを作品(作者)が伝えることになるからです。

この作品の読み方を伝え、作中世界への接し方を教える。それは読者を案内する仕草なので、大衆的な北に寄ると考えられる。


なので設定を説明するかどうか自体はそこまで重要ではありません。

重要なのは作品がどういうメッセージを発し、読者がどういうメッセージを受けとるか。そのメッセージが北らしければ、手段がどうあれそれは方角を左右するものと思います。

そしてフィンディルの目には、設定を説明するのも設定一連を二度描写するのも、あんまり変わらないように映ります。


仮に本作の「星を吸う」設定関連の描写を、全て「煙草を吸う」描写に差し替えてみるとどうでしょうか。

ライターをつけ、煙草に火をつけ、煙を吸って吐く。煙は換気扇に吸いこまれる。

この一連の描写に適宜差し替えてみます。

するとおそらく、とても違和感が出ると思います。こんなに何度も描写する必要はないんじゃないか、と。

どうしてそう思うかというと、「煙草を吸う」は(喫煙に親しい者にとって)特別でない当たり前の行為だからです。当たり前の行為をわざわざ丁寧に何度も描写することに違和感が出る。

動作一連を一度くらいは丁寧に描写してもいいが、あとは断片的な描写に留めて何か別の意味あいを含めるのが作品として自然な描写だろうと思います。

ただ本作では「星を吸う」設定一連を二度描写し、それ以外でも「星を吸う」設定関連の描写を何度もそのまま入れています。

タイトル、作品外のキャッチコピー・前書きを含めるとそれこそ何度もです。


どうしてこんなに何度も丁寧に描写しているのかというと、「星を吸う」は当たり前の行為じゃないと、雨蕗さんが思っているからだろうと思います。

正確に言うと「星を吸う」は当たり前の行為だと雨蕗さんが思いきれていない。


本作は「俺」の一人称視点です。基本的に「俺」の認識に従った叙述となる。

そしておそらく「俺」にとって「星を吸う」は当たり前の行為です。それこそ「煙草を吸う」と同じくらいに。

しかし本作の叙述は、まるで「星を吸う」は当たり前の行為じゃないと言わんばかりに、都度新鮮さを伴なって「星を吸う」が描写されています。

仮に本作が三人称視点ならば(語り手は作中世界の人物と断定できないので)緩和のしようもあったのですが、一人称視点となるとそれも難しい。

そしてこのズレは、雨蕗さんおよび作品からの強いメッセージとして解釈されるのが自然です。


どうして雨蕗さんは「星を吸う」描写を、何度も新鮮さを伴なって描写しているのか。それは設定を説明していないからと考えられます。言い換えると、口寂しかったから。

面白くて変わってて魅力的な設定だと思っているけれど、それを露骨に出さずにさも当たり前の文化であるように示したい。示すのが本作に合っている。だから「星を吸う」を説明しない。

しかしそれでは物足りなく感じてしまう。だってこんなに当たり前じゃない設定なんだから。さらっと流すだけではもったいない。

そういう口寂しさが、「星を吸う」描写を何度も書かせてしまう。設定一連を二度繰りかえし、作品外でも言及してしまう。

以上はフィンディルの妄想ですが、この類の作品としては正直あるあるだと思います。

ただ、それを我慢するのが大事であるとフィンディルは思います。でないと事実上、説明しているのと同じになってしまうから。手段と目的を取り違えてしまうことになるから。

何でもそうですが、隠そうとしない想いよりも、隠そうとするも隠しきれない想いのほうが、ものを雄弁に語ったりします。


“非日常の日常”は、日常の流れに徹底して乗せながら非日常の良さを滲ませるのが基本と考えます。非日常の良さと日常の徹底とのギリギリのバランスを攻める。

そのときにまず大事になるのが、作者自身がその非日常を当たり前の日常のものと徹底的に思いこむことです。

―――――――――――――――――――

 中に戻りましょう、そう言って歩き出す先生の背中を見て、俺も後に続いた。

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こういった叙述からも、雨蕗さんは本作を日常として描きたいと思われているはずです。

ならばまず雨蕗さんは「星を吸う」を当たり前の日常のものと徹底的に思いこむことから始めるのが良かったのではないかなとフィンディルは思います。

それができて「星を吸う」は初めて、我々読者の認識を心地よくぐにゃりと歪ませることができる。本作の「星を吸う」は北的な「変わった設定」からまだ脱出できていないと感じました。

ここを徹底してみると本作の濃度は全然変わってくるはずです。軽めの口当たりの本筋との食べあわせも、もっとねっとりするはずです。

ということで真北です。

なお本指摘は「『星を吸う』描写は一回だけにしましょう」という具体的な手段に言及しているものではないことにご留意くださればと思います。


あとは細かいところを二点ほど。

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「星って、死んだ人がなるって言うじゃないですか。死んだら星になるって」

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上手いと思います。

架空の「星を吸う」設定と、現実の「死んだら星になる」ミームを絡ませている。これにより架空と現実がマーブルに混ざりあう感じがして、それまで本作を架空として接してきた読者の目線が気持ちよくズラされる。

本作に合った上手いテクニックと思います。さすが。

「星を吸う」まわりの“非日常の日常”をもっと洗練させられれば、より質の高い複雑な歪みが見せられると思います。


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 夜空は元通りになっているけれど、星の位置や数を覚えているわけではないから、もし減っていても気づかない。

 そしてきっと、増えたとしても気づけない。

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「気づかない」「気づけない」で主題に誘導しているのは、北らしい上手いテクニックと思います。

ただフィンディルの解釈としては、この締めは「星を吸う」と「死んだら星になる」を無理やり絡ませているように感じてやや腑に落ちませんでした。

「増えたとしても気づけない」はつまり、先生が亡くなって星になっても「俺」は気づけないということでしょう。どの星が先生なのかがわからないということです。

ただこの表現って本来は「死んだら星になる」ミームだけで成立している表現だと思います。夜空の星々の位置も数も、日や季節や場所によって違いますから。

むしろここに「夜空は元通りになっているけれど、星の位置や数を覚えているわけではないから、もし減っていても気づかない。」と「星を吸う」要素を乗せることで、ちょっとしっくりこなくなっているように感じました。

この文章を素直に解釈すると、星を吸って吐いてを繰りかえしているあいだに新たな星が増えたとしても気づけないとなります。ということは、新たな星(先生)が夜空に増えるタイミングはまさに星を吸ったり吐いたりしている最中となる。しかし亡くなった人が星として夜空に追加されるタイミングが、偶然そこと重なるのはやや考えにくいように思います。24時間吸ってるなら別ですが、普通に考えればそもそも吸っていないタイミングに追加されると考えるのが自然です。もし作中世界に朝と夜があり、星の位置や数が日や季節や場所によって変わるなら、なおさら追加タイミングをわざわざ限定することには違和感があります。


そういう設定の活かし云々ではなく「現実世界で『今日の夜に新しい星が追加されていてもわからない』と思うように、星を吸う世界では『一吐きした夜空に新しい星が追加されていてもわからない』と思っただけだ」ということなのであれば、やはり“非日常の日常”をどの品質で示せるのかが重要になってくると思います。

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