桜の切れ目に。/うさぎパイセン、オーナーはもうダメだ。 への簡単な感想
応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。
指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。
そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。
ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。
桜の切れ目に。/うさぎパイセン、オーナーはもうダメだ。
https://kakuyomu.jp/works/16818093075294954672
(うさぎパイセン、オーナーはもうダメだ。さんのことを、本感想ではうさぎパイセンさんとお呼びします)
フィンディルの解釈では、本作の方角は真北です。
高校受験および中学卒業に臨む中学生二人が描かれています。
高校受験の窮屈さに少しの反骨を見せる姿と、中学卒業で離れ離れになることに人生を重ね見る姿とが描かれています。いずれの姿も中学生らしい、この先の未来を前提にした希望ある様が表現されています。
本作は目的および達成というエンタメの構成はそこまで用いられていないと思います。
仮に本作をエンタメ然とさせるなら、目的に設定しやすい受験合格を(合格発表の場面を入れるなどして)もっと作品的に盛り上げるはずですから。
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結局。
桜は咲いた。が。
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と合格をさらっと流しているのはエンタメ然としていない見せ方だと思います。
ただ、そもそも本作で描かれている心情そのものがすごく共感的なんですよね。
高校受験の窮屈さ、それを自分達に課している社会への少しばかりの文句。冬の寒いなかで励ましあって受験に向かう様子。
桜咲くなかで卒業し、別れを爽やかに悲しみながら、自分に来たるであろう未来に対して目を輝かせている様子。
いずれをとってもすごく共感的です。実際にこのような中学時代を送ったかどうかは別として、俗に言う“中学生”という共通イメージとして多くの読者がすんなり受けいれるだろうと思います。すごく、大衆的な中学生表現だろうと思います。
まずこの姿が描かれている時点で、西はないだろうと思います。
さらに本作は後半になると、講談調になってきます。
文章のテンポ感を非常に重視するようになってきます。
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しかし、斜めに交わった線は止まらない。彩り鮮やか大人としてこれからまた、高校生活という名の極彩色であろう折り重なる人生の織物を紡いでいくのだ。
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ここなどは露骨ですね。「彩り鮮やかな大人としてこれからは」ではなく「彩り鮮やか大人としてこれからまた」と言葉を調整してテンポを良くしている。
声に出して読んでみると明らかなのですが、本作の後半は口上っぽい節をつけた音読が似合うようになってきます。
またテンポとはやや違いますが「反抗期の呼気」は韻を踏んでいますし。
基本的にテンポ重視の文章は、読者に飽きさせないのが目的です。他の目的もあるのですが、飽きさせずにするする読ませるのが主要な目的でしょう。
ですので文章をテンポに支配させると、方角としてはやや北に寄るだろうと思います。見せ方にもよりますが。
ということで真北と解釈します。
方角は置いておいて品質の話をすると、先述した講談調の筆致が作品に調和しているように感じました。良いパーツになっていると思います。
テンポを重視した文章はするすると読めるのですが、それは「=内容が頭に入っている」というわけではありません。するする読めるのはするする読めるだけ、といいますか。するする読めると読者としては読むこと自体が気持ちよくて、内容には意外と注意が向かなくなることがあります。
もちろんテンポが悪い文章は内容が頭に入らないのですが、逆にテンポが良すぎる文章も内容が頭に入りにくいものだろうと思います。
なので内容を具体的に理解しないと面白さが伝わらない(ストーリー重視などの)作品だと、テンポの良すぎる文章の相性は良くないとフィンディルは考えています。
ただ本作は大衆的な中学生表現をしているだけなので、読者は内容に注意を向けなくても問題なく作品を理解できます。極論「中学生だなあ」「こんな頃あったなあ」と思っているだけでもおよそ問題ない。共感一本だけで読める作品です。
本作は内容がシンプルで(中学生っぽい)空気感重視の作品なので、テンポが良すぎて内容があまり頭に入らない文章との相性が良いと思います。
たとえるなら、ミュージックビデオとかプロモーションビデオのような作品だと思います。
具体的な理解にカロリーを要する作品ではなく、ふんわりとした理解で十分でむしろテンポとノリが重要な作品形式。
作品と文章が合致している。良すぎるテンポが決して邪魔になっていないのは、本作にとって大事なことと思います。
また本作は逆に、講談調の筆致であることで救っているところもあると思います。
本作は適宜台詞が入れられているのですが、この台詞の話者が誰なのかがわかりにくい。
どちらが優美の台詞でどちらが吉野の台詞かがわかりにくいし、そもそもこの物語には二人しか出ていないことがわかりにくいし、そもそも視点者が吉野であることがわかりにくい。台詞回りの状況把握が非常にしにくい作品であると思います。
フィンディルとしては、読み始めはここが非常に気になりました。誰が話しているのかわからないし、何人いるのかわからないし、吉野が誰なのかわからないし、と。
ただ後半で本作が講談っぽくなってくると、こういうところがどうでも良くなってきます。
それこそミュージックビデオとかプロモーションビデオとかだと、状況把握の優先度は下がります。誰と誰がいて誰が何を言ってどうなってみたいな具体的な把握はあまり重要ではなく、テンポや空気感やノリといったふわふわしたものが重要になる。
わかりにくいところがむしろ良い、とまでは言いませんが、わかりにくくてもいっか、というような感覚になってきます。
むしろ台詞回りの状況把握に地の文をあまり費やしておらず、台詞と地の文が独立して並行しているような書き方は、動画におけるカットインみたいな印象を与えてミュージックビデオとかプロモーションビデオらしさをより演出しているようにも感じられます。
なので講談調の筆致でテンポに支配させて「細かいことはいいから空気感とノリを楽しもう」というメッセージを作品が出すことで、台詞回りのわかりにくさを気にさせないようにしていると感じました。
内容がシンプルで(ストーリー重視ではなく)空気感重視の作品なので、内容が頭に入らないテンポ支配の文章でも調和する。
内容が頭に入らないテンポ支配の文章なので、台詞回りの状況把握が緩くてわかりにくくても調和する。
そういうふうに総合的なバランスが取れているのが印象的です。
なので本作としては良いのですが、おそらくうさぎパイセンさんは上述したようなことは考えてらっしゃらないと思います。おそらく勢いで書かれているんじゃないかと妄想します。
これは即興小説あるあるだと思うのですが、即興で筆が乗ると文章がテンポに支配されがちだと思います。
(素質さえあれば)するする読める文章はするする書ける文章でもあるので、筆が乗って「何かするする書けるじゃん!」と楽しく書いているときはテンポが良すぎる文章になりがちだと思います。筆者としては「良い文章」を書けた気持ちになるけど、実際は「テンポが良い文章」であることが少なくありません。
本作の後半で講談調になっているのは、多分後半に差しかかってからうさぎパイセンさんの筆が乗ったからなんだろうなと思います。
なのでこれはフィンディルの妄想に過ぎませんが、うさぎパイセンさんは書くのが楽しくなると講談調になる癖があるんじゃないか、という気がします。口上的な節回しをしがちというか。妄想ですけどね。
筆が乗ると「巡り会う縁に句点はない」ではなく「巡り会う縁に句点はなき」とついついしたくなっちゃう癖があるのではないかと。「“なき”のほうがぱしっと締まるよね!」みたいな勢いで。
先述したようにテンポが良すぎる文章は意外と読者の頭に入らないので、内容の具体的な理解を求めてストーリーをしっかり組む作品には合わないとフィンディルは思います。ノリと空気感の文章になって、ストーリーが散漫になってしまうデメリットがあると思います。
もしこれが本当にうさぎパイセンさんの癖であるならば「自分にはそういう癖があるんだな」と認識されておくと、上手い具合に癖を管理できるのではないかなと思います。
ただ本作では上手く調和がきいていると思います。それは何か上手いことしっくりくるように勢いで仕上げられるうさぎパイセンさんの実力だと思いますので、それはとても良いことだと思います。
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