ざまぁねぇや。/縦縞ヨリ への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





ざまぁねぇや。/縦縞ヨリ

https://kakuyomu.jp/works/16818093075277214929


フィンディルの解釈では、本作の方角は真北です。

真北と北北西とで悩みましたが、真北と解釈します。


どうして真北と北北西とで悩んだのかというと、本作には「あの人の愛人としての人生を歩んだ私」と「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」の二つの主題が存在しているように感じられたからです。前者は広く西向きで後者は真北、そしてより存在感が大きいのは後者だと判断したので真北と解釈します。


あの人の愛人という角度から自身の半生を淡々と振り返る筆致は「あの人の愛人としての人生を歩んだ私」らしさがあります。愛人という属性でパッケージングこそされていますが、起こった出来事をただ時系列に並べていく。そこから一人の人生を滲ませていくような見せ方は、確かに西を感じます。


ただ本作はそれ以上に「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」が印象に残るような書き方をされているように思います。特に後半にかけてはかなり顕著ですね。

本妻が亡くなり、あまり間を置かずに自分が本妻になった。他に愛人達がいるのも知っていたが、あの人に選ばれたのは自分だった。あの人の家族に疎まれたとしても浮いたとしても、私は正真正銘の本妻になった。

しかしあの人は前妻の生き写しとされる孫娘を愛し、自分の前では見せなかった涙も見せていたようだ。現在本妻の椅子に座っているのが自分であろうとも、あの人が心から愛しているのは前妻なのだ。そんなことは昔からわかっていたはずなのに、あの人が亡くなったこのタイミングでまざまざと突きつけられることになろうとは。本妻になったというちっぽけな自負で心を満たしていた自分も、いくら愛を侍らせようとも結局は前妻を心から愛していたあの人も、何と無様なことか。

こういう具体的な表現が、本作の後半からは存在感を出しているように思います。


また「ざまぁみろ」「ざまぁねぇや」の対比や、しょぼくれた顔や写真により孫娘を出しておく構成などを用いて、「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」を作品的に盛り立てています。

愛人という立場に納得していたつもりだった→本妻という立場になって見返した気持ちになった→あの人が愛していたのはやはり前妻だった→無様だ

という私の認識の変化が段階を踏んで描かれ、かつその表現が各種技術を用いて盛り立てられていますので、これはエンタメ的な表現だろうと思います。愛人の性(さが)が題材であるので文学的な香りこそするのですが、見せ方そのものはエンタメのそれであると感じます。主人公にとっての望ましい形望ましくない形を行ったり来たりするのは、サクセスストーリー的なそれを思わせます。


繰りかえしますが本作には「あの人の愛人としての人生を歩んだ私」と「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」の二つの主題があると思います。

ただ実態としては、「あの人の愛人としての人生を歩んだ私」という骨格を利用して「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」を描いているように感じましたので、総合的に見ると真北が相応しいのかなとフィンディルは感じます。



そしてこれは本作の品質を考えたときにも気になるところです。

どうしてフィンディルは二者択一のかたちで真北と解釈したのか。それは、本作は西向きの要素と真北の要素のいずれもあるというより、本作は西向きの書き方をするのか真北の書き方をするのかが定まっていないように感じられたからです。

あるいは企画参加ということでやや強引に西っぽい筆致を取りいれられたからかもしれません。

西向きと真北がお互いの良さを邪魔しあっているように感じたのです。


「あの人の愛人としての人生を歩んだ私」として本作を見ると、対比や構成を用いて「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」に「私」の心情が収束していく見せ方は、人の人生っぽくありません。これでは「あの人の愛人としての人生を歩んだ私」の良さがあまり出ない。

「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」として本作を見ると、そのための構成が始動するのが遅く、後半はかなり駆け足になっているのが気になります。前半の「あの人の愛人としての人生を歩んだ私」としてやや茫洋とした筆致が足枷になっている印象を受け、「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」の良さがあまり出ない。


たとえば西向きに「あの人の愛人としての人生を歩んだ私」を描きたいのであれば、終始淡々と出来事と事実を振り返るのに徹するのが合っていると思います。縦縞さんが技術を用いてそれを効果的に演出する必要はない。愛人人生の悲喜交々をありのまま見せて、本作を通しての「私」の特定の心情が強調されないような表現が合っていると思います。

たとえば北的に「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」を描きたいのであれば、本作の前半から「自負と無様」「ざまぁみろとざまぁねぇや」への収束を見越した心情描写や構成に徹するのが合っていると思います。「私」の特定の心情が作品的に映えるような表現が合っていると思います。

本作は、「私」の愛人としての人生を全てありのまま描きたいのか、「私」の愛人ならではの特定の心情を盛り立てて描きたいのか。ここをはっきりと選択して集中できると(西と北いずれの選択であっても)作品としてより読み応えが出るのではないかなと思います。



そこと関連してひとつ指摘します。

―――――――――――――――――――

 ざまぁみろと思った。

 今まで散々私を蔑ろにした報いだ。

―――――――――――――――――――

ここがややわかりにくいのが気になりました。

「私」は誰にして「ざまぁみろ」と思ったのか。

あの人に対して思ったのか。自分(「私」)を愛人の立場にして蔑ろにしてきたから、この歳になって家族からの総スカンを食らうことになってざまぁみろなのか。

あの人の家族に対して思ったのか。自分(「私」)を愛人として煙たがって蔑ろにしてきたから、あの人の裁量で一等地の家を売り払われて生活に喜ばしくない変化が起きてざまぁみろなのか。

他の愛人に対して思ったのか。前妻がなくなって自分(「私」)が本妻の立場に立って、自分があの人からもっとも愛された愛人であると示せてざまぁみろなのか。

誰に対してというわけでもなく思ったのか。ずっと愛人という立場に甘んじて納得してきたが、ここにきてあの人の本妻になれた事実を受けて、世界に対してざまぁみろという気持ちになったのか。

文脈的にはあの人の家族に対して思ったのが一番丸い解釈ではありますが、ここがわかりにくいのが気になりました。


そしてこのわかりにくさは、西と北とで考えたときに評価が変わります。

西で考えたときには、このわかりにくさは決して悪くないと思います。むしろわかりやすすぎて、もっとわかりにくくしたいと思うくらい。このとき「私」はこう思った、それの意味するところは明瞭ではないが、とにかく「私」はこう思ったという事実がある。そういう見せ方は西の懐の内なので、そんなに悪くないと思います。

北で考えたときには、あんまり良くないと思います。

というのも「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」と考えたときに、この件のわかりにくさの性質が厄介になるからです。

文脈的には「ざまぁみろ」はあの人の家族に対して思ったのが丸い解釈ですが、「ざまぁみろ」をあの人の家族に向けるのは北としての本作にとってそれほど重要ではないように感じられてしまいます。

「本妻になったという自負のあった私だが、あの人にとって何より大事なのは前妻だった、そんな無様さ」を主題としたとき、本作にとって重要なのは「私」・あの人・前妻・他の愛人の四者です。愛で繋がっている者がこの四者ですからね。(前妻の生き写しである孫娘は別枠として)あの人の家族は本作にとっては重要ではない。実際「私」はあの人の家族が自身に向ける心情に対して基本的に無関心です。そう考えるとこの件自体の重要度も高くないことになります。

しかし「ざまぁみろ」というワード自体は本作にとって重要です。「ざまぁねぇや」と対になっていますから「ざまぁみろ」は相応に重要です。重要でない人物(達)に向けられている心情で、重要とされるワードが用いられている。これにより解釈がしっくりこない。

また対という意味なら、ワードとして対になっている「ざまぁねぇや」と「ざまぁみろ」はその意味においても対になっていると解釈するのがエンタメ的に自然です。そういう意味ではあの人に対しての「ざまぁみろ」のほうが、エンタメとしては筋が良い。自分を愛人としてしか愛してこなかったから家族から総スカンを食らうんだ、ざまぁみろこれからは本妻として愛せよ、と。しかしやはりあの人は前妻を一番愛していて、そんな自分はざまぁねぇや、と。ただこの解釈は文脈的には不自然だし、あの人が孫娘の運動会に問題なく行けているところとバッティングする。

文脈的な解釈と作品的な解釈とでねじれが発生しているので、(真北の作品として見ると)この件は厄介なわかりにくさを有しているように思います。


逆に考えると、「私」の心情は誰に向けられているものなのかというのを統一して明確にして作中で示せると、本作は真北作品としては非常に読みやすくなると思います。

あの人なのか、前妻なのか、他の愛人なのか、世界なのか。複数回答でもいいのですが、メインは一者で。

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