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2024年5月2日 01:36 編集済
南はなかったのですね。あらら。読んでくださって、感想を書いてくださって、とても嬉しいです。感謝感激です。>ただそれでもここまで“願望”というものが色濃く出ている、あるいは積極的に肯定しにいっている作風だと、南というより西なのではないかという気がします。この作品は、「サクラ」とほとんど同じタイミングで降りてきたものを紙に書いていたので、そのまま書きました。とは書いても、文章は「南西」だと思うような分かりにくい言葉だったのですが、ホラーを書くと現実に影響が出るのですが、それと同じ感じで、(ホラーじゃなくても、ケーキを書いた直後にケーキをもらうとか、書いたセリフをそばにいる人が言うとか、雨のシーンを書けば雨が降るとか、現実とシンクロ、リンク? したりするのですが、それとはちがう感じなのです)、現実と精神的に影響が出たので、あれ? ホラーのエネルギーになってる?と思い、読める、理解できる日本語に整えたのです。わたしの場合、明るい時間のお話を書くのは苦手と言いますか、長編なら必要なので、朝や昼も書けるのですが、短編ではなかなか、明るい時間を書くことはできないのです。(方角企画1回目は、タイトル縛りのおかげで、東屋なら書けるかな? と思い、書いてみたら、昼間だったか夕方だったか、まだ明るい時間のお話になっていましたけどね)でも、灯りは好きで。自然と無意識に、夜に見える灯りを書いていたりします。あとは幼い頃から「自由」や「空」に憧れると言いますか、ドラゴンに乗って空を自由に飛びたくて、そういうゲームをさがして、やってみたりしていました。なので無意識に、物語の世界でも、主人公が自由や解放に向かおうとするのだと思います。肯定しようとは思わなくても、否定しようとも思わないので、肯定になっているのかもしれませんね。>“願望”を即座に肯定してボクにとって望ましいもののみで構成されているこの世界ですが、どこかその裏には孤独などが存在しているような気配も感じます。そうですね。気づく人は気づくようなのですが、無意識に、作品の裏には孤独があるのだろうと、最近思います。明るくて、毎日幸せだったなら、物語を書こうとしていないのだろうなって思うのです。無意識にある孤独を癒すために書いているのだと思います。8歳ごろから、30歳まで、怒りを感じることができなかったため(優しい良い子じゃないといけないと思い、断るとか嫌だと言えずに、素直な気持ちを抑圧していたため。言えなくても泣いたり、パニックや過呼吸になったりして、逃げることもありましたけどね)、さびしさや孤独や悲しみぐらいしか感じられなかった。(好き嫌い、嬉しいなど、少しは感じられましたが、感謝とか、しあわせとか、分からなかったのです。今は、感じられるようになりましたが。切ないとか、嫉妬を感じられるようになったのは、この数年です。カクヨムのおかげです)。なので、子ども時代は、ほとんど灰色と言いますか、そう、見えていたのです。2011年に、旅行先、東京の、ふらりと入った駅ビルで出会った占い師さんに、闇のトンネルから出たばかりと言われましたが、長く、トンネルの中にいたのです。その占い師さんに、小説家になりたいと伝えたら、「うーん」と言われたのですが、「光の作品なら良い」と言われました。その時は、何年か小説が書けなかった時期なのですが、何年か経ち、ネットで小説を公開するようになり、書いたことが現実や、テレビやネットで起こる(見える)ようになったり、霊感的にもいろいろあって、そういう意味かと理解したので、自分の中では、おかしなエネルギーにならないように、気をつけていたりします。話は戻りますが、灰色だった過去が元にあるので、無意識に作品にも、それが出ているのだと思います。>古代中国における桃源郷に似たような質感を覚えます。古代中国の逸話で桃源郷を求めている者の大概は、桃源郷とはほど遠い人生を送っている(し、最終的にその桃源郷に永住できるかというと必ずしもそうではない)。であるなら、この世の全ては桃源郷でないことを認めたうえであえて桃源郷で視界を埋めているかのような解釈もできると思います。ほほう。>なので成人の印象を受けました。フィンディルはこの台詞にそこはとない気持ち悪さを感じたのですが、それは成人っぽさによるところだろうと思います。おねーさんの赤いくちびる、ぽってりしてるね。色っぽい。とか、おねーさんの赤いくちびる、おいしかな? とか、書いていますしね。幼い子供ではないのです。最初は、むねが大きいとかも書いていたのですが、気持ち悪いかな? と思ったのと、なんかいらない気がしたので、やめました。
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南はなかったのですね。あらら。
読んでくださって、感想を書いてくださって、とても嬉しいです。
感謝感激です。
>ただそれでもここまで“願望”というものが色濃く出ている、あるいは積極的に肯定しにいっている作風だと、南というより西なのではないかという気がします。
この作品は、「サクラ」とほとんど同じタイミングで降りてきたものを紙に書いていたので、
そのまま書きました。
とは書いても、文章は「南西」だと思うような分かりにくい言葉だったのですが、
ホラーを書くと現実に影響が出るのですが、それと同じ感じで、
(ホラーじゃなくても、ケーキを書いた直後にケーキをもらうとか、書いたセリフをそばにいる人が言うとか、雨のシーンを書けば雨が降るとか、現実とシンクロ、リンク? したりするのですが、それとはちがう感じなのです)、
現実と精神的に影響が出たので、
あれ? ホラーのエネルギーになってる?
と思い、読める、理解できる日本語に整えたのです。
わたしの場合、明るい時間のお話を書くのは苦手と言いますか、
長編なら必要なので、朝や昼も書けるのですが、
短編ではなかなか、明るい時間を書くことはできないのです。
(方角企画1回目は、タイトル縛りのおかげで、東屋なら書けるかな? と思い、書いてみたら、昼間だったか夕方だったか、まだ明るい時間のお話になっていましたけどね)
でも、灯りは好きで。自然と無意識に、夜に見える灯りを書いていたりします。
あとは幼い頃から「自由」や「空」に憧れると言いますか、
ドラゴンに乗って空を自由に飛びたくて、
そういうゲームをさがして、やってみたりしていました。
なので無意識に、物語の世界でも、主人公が自由や解放に向かおうとするのだと思います。
肯定しようとは思わなくても、否定しようとも思わないので、
肯定になっているのかもしれませんね。
>“願望”を即座に肯定してボクにとって望ましいもののみで構成されているこの世界ですが、どこかその裏には孤独などが存在しているような気配も感じます。
そうですね。気づく人は気づくようなのですが、
無意識に、作品の裏には孤独があるのだろうと、最近思います。
明るくて、毎日幸せだったなら、物語を書こうとしていないのだろうな
って思うのです。
無意識にある孤独を癒すために書いているのだと思います。
8歳ごろから、30歳まで、怒りを感じることができなかったため
(優しい良い子じゃないといけないと思い、断るとか嫌だと言えずに、素直な気持ちを抑圧していたため。言えなくても泣いたり、パニックや過呼吸になったりして、逃げることもありましたけどね)、
さびしさや孤独や悲しみぐらいしか感じられなかった。
(好き嫌い、嬉しいなど、少しは感じられましたが、感謝とか、しあわせとか、分からなかったのです。今は、感じられるようになりましたが。切ないとか、嫉妬を感じられるようになったのは、この数年です。カクヨムのおかげです)。
なので、子ども時代は、ほとんど灰色と言いますか、
そう、見えていたのです。
2011年に、旅行先、東京の、ふらりと入った駅ビルで出会った占い師さんに、闇のトンネルから出たばかりと言われましたが、長く、トンネルの中にいたのです。
その占い師さんに、小説家になりたいと伝えたら、「うーん」と言われたのですが、
「光の作品なら良い」と言われました。
その時は、何年か小説が書けなかった時期なのですが、
何年か経ち、ネットで小説を公開するようになり、
書いたことが現実や、テレビやネットで起こる(見える)ようになったり、
霊感的にもいろいろあって、そういう意味かと理解したので、
自分の中では、おかしなエネルギーにならないように、
気をつけていたりします。
話は戻りますが、
灰色だった過去が元にあるので、
無意識に作品にも、それが出ているのだと思います。
>古代中国における桃源郷に似たような質感を覚えます。古代中国の逸話で桃源郷を求めている者の大概は、桃源郷とはほど遠い人生を送っている(し、最終的にその桃源郷に永住できるかというと必ずしもそうではない)。
であるなら、この世の全ては桃源郷でないことを認めたうえであえて桃源郷で視界を埋めているかのような解釈もできると思います。
ほほう。
>なので成人の印象を受けました。フィンディルはこの台詞にそこはとない気持ち悪さを感じたのですが、それは成人っぽさによるところだろうと思います。
おねーさんの赤いくちびる、ぽってりしてるね。色っぽい。
とか、
おねーさんの赤いくちびる、おいしかな?
とか、書いていますしね。
幼い子供ではないのです。
最初は、むねが大きいとかも書いていたのですが、
気持ち悪いかな? と思ったのと、
なんかいらない気がしたので、やめました。