金魚のおねーさんとボクはゆらゆらダンス。/桜庭ミオ への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





金魚のおねーさんとボクはゆらゆらダンス。/桜庭ミオ

https://kakuyomu.jp/works/16818093075129444000


フィンディルの解釈では、本作の方角は北西です。


方角解釈が難しい作品だなと思います。方角解釈が難しい作品は北西になりがち、はちょっとあるあるですね。

どうしてだろうというのを考察してみるのも楽しいかもしれない、というのはさておいて。


わかりやすいストーリーラインはないし、ボクやおねーさんが掘り下げられているわけでもないし、実験的な何かがあるわけでもない。

じゃあ南なのかというと、南という感じもフィンディルは受けませんでした。

どうして南らしさを感じなかったのかというと、本作の根底には“願望”が流れているように感じられたからです。


本作は夢なのか現実なのかを明らかにしていません。

ボクが見ている夢なのかもしれないし、あるいはおねーさんというファンタジーな存在がいるのかもしれない。どちらの可能性も否定していないと思います。

ただいずれであっても、おねーさんおよびこの世界は、ボクにとって望ましいものである。

ボクが笑ったらおねーさんも笑ってくれる、手を握って踊ってくれて嬉しい、くちびる美味しいかなと思ったらキスされる、みんなが自分達を見てくれて人気者だ、屋台には甘くて美味しそうなものが並んでいる。

おねーさんおよびこの世界は、ボクの“願望”を即座に肯定してくれて、ボクにとって望ましい事象を起こしてくれているのです。そしてそんなおねーさんと世界をボクは愛している。

夢だから“願望”を肯定してくれるのか、あるいは“願望”を肯定してくれる世界にボクが入ったのかはわかりませんが、いずれにせよ本作において“願望”の存在感が強いものと思います。


南らしさを感じない理由はここだろうと思います。

もちろん人は感覚器官から得た情報を脳で処理するので、感覚と思考を完璧に区別することはできません。(本人の意識によらず)見たいものしか見ないし、経験による予想と獲得した情報とを一致させようと加工もします。

ただそれでもここまで“願望”というものが色濃く出ている、あるいは積極的に肯定しにいっている作風だと、南というより西なのではないかという気がします。

“願望”を即座に肯定してボクにとって望ましいもののみで構成されているこの世界ですが、どこかその裏には孤独などが存在しているような気配も感じます。古代中国における桃源郷に似たような質感を覚えます。古代中国の逸話で桃源郷を求めている者の大概は、桃源郷とはほど遠い人生を送っている(し、最終的にその桃源郷に永住できるかというと必ずしもそうではない)。

であるなら、この世の全ては桃源郷でないことを認めたうえであえて桃源郷で視界を埋めているかのような解釈もできると思います。


そしてそういう解釈をしたならば、そういう桃源郷の存在って、実は共感は得られやすいものだと思うのです。

自分が脳内で望んだことを即座に叶えてくれて、右を見ても左を見ても自分にとって望ましいものしかない世界。こんな世界っていいな。

あまりに夢想的で至れり尽くせりで現代人があえて望むかというとそんなことはないのですが、一定の共感を得ることはできる。

ということである程度の北も入ってくるんじゃないかなと思います。


以上から、やや消極的判断ではありますが北西とフィンディルは思います。

フィンディルが知っている桜庭作品だと、こういう桃源郷で作中の全てを埋めているのは珍しいので、その点で感覚の解放をはかられているのかなと思います。

もっと現実との行き来だったり現実との狭間だったりを描くイメージが桜庭作品にはあります。そうではなく桃源郷で全てを埋めることで南を狙われたのかもしれません。


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「おねーさん、はだがきれいね。かみもきれいね。かわちいね。ボク、ドキドキしちゃう」

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ここが個人的に好きなところです。

人に対してその容貌を褒めるときに、肌と髪の綺麗さを挙げるのは一定の年齢以上だろうとフィンディルは思います。少なくとも小学生以下の人が、まずもって肌なり髪を褒めることはないだろうと思います。なので成人の印象を受けました。フィンディルはこの台詞にそこはとない気持ち悪さを感じたのですが、それは成人っぽさによるところだろうと思います。

これにより“願望”に切実さというか、絶望の裏返しとしての“願望”をフィンディルは感じました。

幼い子供の“願望”と、一通り人生にけりがついてしまった成人の“願望”とでは、ニュアンスは全く違います。そしてフィンディルはボクに、成人の“願望”を感じた。

だからこそ古代中国の桃源郷っぽさを感じたのでしょうね。

作品の性質を示唆する、大事で良い台詞だと思いました。

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