仕切り直し。/双葉紫明 への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





仕切り直し。/双葉紫明

https://kakuyomu.jp/works/16818093075167810430


フィンディルの解釈では、本作の方角は真西です。


「エッセイ・ノンフィクション」を選択されていること、近況ノートなどのご様子、そして本作の表現などから、およそ本作に書かれているのは双葉さんご自身のことだろうと推測できます。

もちろん事実関係において何らかの差異はあるのかもしれませんが、人生の概ねの容貌としてはおよそ同一だろうと思います。


本作表現のどこに「双葉さんご自身」らしさを感じたのか。

それは“人生の断片”を見るうえで「事情」と「内面」のバランスが非常に自然だったところにあります。

西向きの作品では“人生の断片”と感じられるような筆致が多くなるものと思います。読者がそのキャラクターの人生や経緯をしっかり把握できるように全体像を示すのが北向きエンタメの常道ですが、本作はそうはせず、まるで長期連載漫画から場面をランダムにピックアップしたような断片的な示し方をしています。これは典型的な西向きの筆致で、過去から連続する人生の一部にのみ接触させることで人生の広がりや深みを生々しく示すというものです。そして実際に人が人の人生に触れるときは往々にしてこういうかたちで、むしろ人生や経緯を一から把握できるように全体像を示されることのほうが稀です。


そういうふうな“人生の断片”の連続が綴られるのは西向きらしさを感じるのですが、そのうえで本作は「事情」と「内面」のバランスが非常に自然であると感じました。

人が自身の人生のままならなさを捉えるときは「事情」と「内面」に大別できるんじゃないかなと思います。

こういう事情があってままならない日々や人生を送っている。それに対して自分はこういう心情や決意を有していた。人が社会のなかで生きていくうえでは何らかの「事情(しがらみ)」を抱えているものですし、人が社会のなかで生きていくうえでは何らかの「内面(心情・決意)」を抱えているものです。「事情」だけで人生が構成されているわけでもないし、「内面」だけで人生が構成されているわけでもない。

なおこの「事情」と「内面」がインパクト重視・ワンイシュー・属性的であると北が強くなるものと思います。


基本的にインパクト重視・ワンイシュー・属性的だと、「事情」と「内面」は作りやすいものと思います。作者としても制御しやすいので。インパクトやワンイシューや属性のなかにパッケージングできれば、そのパッケージごと動かせばいいので人・人生というものを操りやすい。ただ人や人の人生というものはパッケージングできるようなものではないので、“キャラクター化”しやすいのですが。

逆にパッケージングしない場合は、「事情」と「内面」は作りにくいものと思います。キャラクターを作るのは創作的に簡単ですが、人を作るのは創作的に難しい。人生というものが「事情」と「内面」に大別できるなら、やはり(キャラクターでない)人の「事情」と「内面」を作るのは難しい。


なのですが、本作の「事情」と「内面」は非常に自然なんですよね。

何かしらの「事情(しがらみ)」は抱えているようだ、何かしらの「内面(心情・決意)」は抱えているようだ。しかしそれはワンイシュー・属性にパッケージングできるものでもなさそうだ。インパクト重視でもない。

「事情」は金銭関係が存在感を出してこそいますが、では「僕」の人生のままならなさは金銭関係に発しているのかというと、そうとは思えない。仮に「僕」が大金持ちになればままならなさは解消されそうかというと、そうとは思えない。

「僕」は時折強い言葉で自身を叱咤していますが、それは何か特定の対象や目的に対して向けられているエネルギーかというと、そうとは思えない。

本作に描かれているものは何なのか。それは具体的なワンフレーズで言えるようなものではないと思います。ワンイシュー・属性でパッケージングされたワンテーマで書かれた作品ではないと思います。そして幸不幸や正負に安易に支配させているわけでもない。

あえて本作を一言で表すなら「生きる」といった言葉遣いになるだろうと思います。

本作で描かれているのはただひたすらに「人生」なのではないかと思います。双葉さんご本人としてもそういう意識なのではないかという気がします。


これを、全くの架空で描くのは非常に難しいと思います。

「内面」についても筆者自身の内面が混ざるものと思いますし、「事情」については特にそう。「事情」を全くの架空で出すのは特に難しい。なのでこういう西向きの作品って「事情」よりも「内面」のほうが比重が寄りがちなのだろうとも思います。

ただ筆者自身のことを書くのであれば、現実的な難しさになる。架空でなく具体的なモデルがそこにあり、そのモデルの視野について解像度高く体験できるのなら、(エンタメ的でない)「事情」と「内面」を文章に乗せるのはそんなに難しくないと思います。これを私小説と一言で述べていいのかは今回はさておいて、筆者自身の「事情」と「内面」ならば十分バランスを整えられるものと思います。


それにくわえて先述したような判断材料もあるので、およそ本作に書かれているものは双葉さんご自身のことだろうと思います。

もしこれが双葉さんご自身と一切重ならない全くの架空であるならば本当に見事だと思います。ある程度でも重なっているのであれば、納得感のある筆致だと思います。


双葉さんご自身の割合がいくらであっても、“人生の断片”の連続が綴られていて、パッケージングできずワンフレーズで言い表せない「事情」と「内面」が綴られていて、「生きる」「人生」が相応しい作品ということで、真西が妥当と考えます。

この、湿ったような乾いたような土の斜面を四つん這いで素手でのぼって空転しながら汗かいて笑顔になっているような筆致、真西ならではの良さだと思います。

個人的には「第3話」を笑いで締めたことについて、人生の積み重ねを感じて好きです。



では、どうして南ではないのか。

正直そこまで興味ないのではないかという気もしますが、一応理由を述べたいと思います。


双葉さんは本作で綴られた言葉を全て大事にしているんですよね。それが伝わってくるので、南はないかなと思います。

一見すると筆の暴れるままに荒唐無稽に書かれている文章なのですが、それは雑に書いているわけではなくて、双葉さんにとっては全ての言葉に「人生」が乗っているんですよね。

「にょーんにょーんにょーんにょーん」なども含め、ここでこの言葉が降ってくるのが湧いてくるのがこの人生であり、この人生を描くということなんだ。そういう想いのようなものがあるんですよね。

本作の言葉達は、双葉さんが一度掌に乗せて、頷いてから、カクヨムという場に放しているのです。実際はどうあれ、少なくともフィンディルにはそう伝わりました。


そう感じさせる筆致は、南っぽくはないんですよね。

「掌に乗せて頷いている」というのは要は、脳をしっかり経由しているということです。

南は脳よりも感覚器官を重視する傾向があると思いますので、そういう意味で南は感じなかったかなと思います。

大事にしないことで大事にする、心ではなく感覚によって人生を表す、そういう領域になると多少南に振れるのかなと思います。


ただ本作は双葉さんが言葉達を大切に暴れさせているのが良いところだと思いますので、南がどうだとかは気にしなくていいと思います。

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