天使の石棺。/朝吹 への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





天使の石棺。/朝吹

https://kakuyomu.jp/works/16818093075110247823


フィンディルの解釈では、本作の方角は北北西です。


手触りの良い、王道の奇譚物だと思います。

他の方の感想から北西辺りなのだろうと朝吹さんも思われているものと認識しています。

そのうえでフィンディルが北北西ともう少し北に寄せたのは、本作が奇譚物として馴染みの構成やテクニックを採用しているところによります。

主人公は子供で冒険心くすぐる日々を過ごしていた→事件が起こる→大人に囲まれあの日々が“幻”であったことを知る→大人は何かしら結論づけるがあの“幻”は確かに存在していた→あれは何だったのだろう

というフォーマットは奇譚物としてはまま見られるものであると思います。視点者を子供にすることで不思議な世界に迷いこみやすくさせているのも、現実に覚まさせる象徴として(親含む)大人達に囲ませるのも、定石をしっかり踏んでいる処理であると思います。

また本作はこのフォーマットの常套テクニックとして「“幻”の範囲を大きく切りとる」が用いられています。「わたし」が見ていた“幻”は「卵」だけでなく「友達」ごとであった。これは「気がついた男は、荒地に立ちすくんでいた。例の女の姿はどこにもなく、それどころかあの豪邸も庭園も跡形もなく消え去っていた。」という奇譚物馴染みのテクニックと基本的に同様であると思います。“幻”の規模感を大きくして意外性や奇妙さ、ついでに寂寥感を増幅させる常套テクニックですね。ただ本作は“幻”の“首謀者”が「卵」なのか「祠」なのか「友達」なのかすら判然とさせておらず、ここはひねりがきいていて奇妙さが増していて上手いと思います。


「卵」「祠」「友達」「天使」などについて明瞭な解決を経ていないので、真北を向くことはさすがにないと思います。

ただ本作は構成やテクニックなど明瞭に技術と判断できるポイントで、しっかり定石を踏んで奇譚物としての安心感や予定調和を質高く提供している作品と判断できます。そういう作品としてのわかりやすさ楽しみやすさがしっかり具体的に受けとれる作品ということで、北北西が妥当かなと思います。

北西などだと、ここまで読者が手にとれるような確かな形で定石が置かれているだろうか、という気がします。


方角はこのくらいにして、本作についてフィンディルが気になったところを挙げたいと思います。

フィンディルは本作の冒頭から中盤を読んでいて、「わたし」の筆致について三種類の違和感を覚えました。


違和感1。

「わたし」は「卵」が卵であると確信していたところ。

色は黒。蚕の繭のような形をしている。ランドセルにギリギリ入るくらいの高さ。金属味を帯びた薄い虹色が浮かぶ素材感。叩くと硬い。重い。

この物体を見てそれが卵であると確信することはおよそないでしょう。せいぜい、可能性が低めの選択肢のひとつとして挙げておくくらいです。

しかし「わたし」はこれが卵であると全く疑いすらせずに確信している。「わたし」は「この卵は、竜の卵かな、鬼の卵かな、ウミガメの卵かな、人魚の卵だと思う」と卵の中身についてあれこれ議論していますが、本来は「この物体は、鉱石かな、ガラクタかな、卵かな」で議論するのが自然だと思います。奇妙なことに、議論内容が一歩進んでいるんです。

本作が始まって二文目で気づける違和感ですね。


違和感2。

一人称視点なのか三人称視点なのかがやや覚束ない。

本作は一人称視点に分類するのが妥当ですが、一人称視点であると判別する最重要要素である一人称「わたし」は、物語開始から約600字地点でようやく出てきます。2000字の作品ということを考えると、極端に遅い。

それまでは一人称視点なのか三人称視点なのかが覚束ない筆致で綴られます。「いそいで家に帰ると、」は一人称的ですが「男の子は鬼か天狗の卵だと云い、女の子は人魚の卵だと云い張った。」は三人称的です。

また

―――――――――――――――――――

 黒い卵が子どもたちの手から滑り、坂道を跳ねながら転がって、下の浜に落ちていくのが見えた。

―――――――――――――――――――

はやたらと第三者的な言い回しで、そこも奇妙さを出します。

なお一人称が「わたし」と「私」で表記揺れしていますが、さすがにこれはミスかなと判断しています。


違和感3。

「わたし」の筆致が、小学生にしてはやたら固い。

本作で初めて一人称「わたし」が出る文で本作が一人称視点であることが確定しますが、同時に「わたし」が小学生であることに驚きを覚えた読者も少なくないでしょう。

口ぶりも語彙も、とても小学生には見えません。このズレも違和感に数えました。


と冒頭中盤を読んでいたフィンディルは、「わたし」の筆致について三種類の違和感を抱きました。

ひとつひとつの違和感は小さいのですが、三種も重なるとさすがに無視できない違和感です。

ただ作品の途中ですし、これら違和感を肯定できる展開なり作品表現が認められる可能性も十分あるので、当然ながら評価保留にして読み進めました。

そして“幻”の展開がくることで、違和感1と違和感2については見事に回収されました。

「わたし」は物語開始時にはすでに不思議な世界に迷いこんでいたと思えば、謎の物体を卵と確信してしまうのは作品表現に合致しています。あるいは伏線相当として仕込まれていたのでしょう。

「わたし」の視点が覚束なかったのは、自我の距離感があやふやになる表現と受けとればやはり作品表現に合致します。前作でも視点の箍を外す表現が見られましたが、朝吹さんは視点を溶かすのが得意なのだろうと思います。決してひとりよがりということでもなく、作品と調和した上手い表現と思います。


しかし違和感3は回収されませんでした。

“目が覚めた”あとも「わたし」の筆致の口ぶりや語彙には変化がなかったのです。

ここがフィンディルは気になりました。


正直、違和感1と違和感2、および違和感1と違和感2の回収がなければ違和感3は気になりませんでした。違和感に数えるようなものではない。

一人称視点だからといって、用いられる語彙は視点者の語彙相場と一致していないといけないわけではありません。一致すれば語彙チョイスに気を遣ってていいねとはなりますが、仮に大幅な乖離があって気になったとしてもそれをわざわざあげつらう必要はない。

特異な語彙チョイスをしているとか視点者の繊細・精緻な心情描写が持ち味の作品であるとかならまた話は変わりますが、本作はそういうわけでもなく選択語彙そのものは本作の空気感に合っている。

ただ違和感1と違和感2の見事な回収を経ると、フィンディルは違和感3に対して据わりの悪さを感じてしまいます。


違和感1、違和感2、違和感3はいずれも「わたし」の筆致に関する違和感です。卵、視点、語彙。この三つが重なって、総合的な「わたし」の筆致の奇妙さがかたちづくられていた。

たとえばこの三つ全てが“幻”によって回収されれば、「わたし」の筆致に仕掛けられたギミックとして北向きの楽しさを強く得られたと思います。

たとえばこの三つのうちひとつも回収されなかったとしても、ただただ重層的な違和感により作品全体の奇妙さを演出する西向きの楽しさとして、十分肯定できただろうと思います。読み終われば、本作は解決されない奇妙さを核とした作品であることがわかりますから。

ただ本作は二つは回収してひとつは回収していないのです。こうなると回収による北的楽しさも、回収しない西的楽しさも、どちらも中途半端になってしまう。

違和感達が綺麗に回収されきらないのは北的に見たときには弱いし、作品全体の奇妙さを演出する筆致の違和感が最終的に語彙乖離しか残っていないのは西的に見たときには頼りない。三つのうち二つ回収するのは、回収するにしては残りすぎだし、回収しないにしては残らなさすぎるようにフィンディルは感じます。


これは妄想ですが、朝吹さんとしては違和感3が違和感になるとは思われていないのではないかなと考えます。

実際そうで、作品の空気感や人物描写から逸脱しないかぎりは、視点者と叙述の語彙乖離というのはある程度無視できるものだと思います。

ただ本作は「視点者の筆致の違和感」を展開により回収するという面白みがある作品なので、語彙の乖離についても気にしてみる価値が生まれちゃうんですよね。読者としては、卵、視点、語彙は同じ括りの違和感だろうと思います。

これは奇譚物に限らない話ですが、他の違和感が見事に回収されてしまうと、通常なら特別気にしなくていいような違和感であっても気にしてみる価値が宿ってしまうものだと思います。


本作には、時代設定は未来っぽいのに空気感は昭和っぽいという時代感の違和感もあります。これは「わたし」の筆致とは別の違和感です。

ざっと見て本作には「天使や卵関連のストーリーの奇妙」「(これまで述べてきた)筆致の奇妙」「舞台設定の奇妙」の三つの奇妙が流れていると思います。そのうち「筆致の奇妙」の処理が中途半端になっているのが気になったという話ですが、回収されなかった違和感3について「舞台設定の奇妙」と合流できるような見せ方などができれば、回収を経ての奇妙の再構築として納得しやすいのかなと思います。違和感1、違和感2の回収後の違和感3の処遇ですね。

あるいは、角度の違う第四の奇妙の流れを追加して奇妙の重厚感を上げるだけで「筆致の奇妙」の問題は相対的に些末になるので、見栄えは良くなるような気がします。フィンディルが見つけられていないだけかもしれませんが。


本作は違和感を積み上げて作られているのは明らかで、それはすごく良いと思うのですが、違和感の管理については洗練の余地が残されているように思います。

回収されて作品的回答がなされる違和感が作中にあると、違和感を積み上げればいいわけでもなくなるのが難しいところです。

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