わたしたち、ふたりでひとつ。/野森ちえこ への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





わたしたち、ふたりでひとつ。/野森ちえこ

https://kakuyomu.jp/works/16818093075115205914


フィンディルの解釈では、本作の方角は北北東です。


フィンディルとしては、(野森さんの宣言どおり)北東がもっともしっくりくる着想・題材なのではないかと考えています。適性方角というのをあえて持ちだしてみると北東だろうと思います。

ただ現状の作品表現を見るかぎりは、北北東というのが無難な解釈なのかなとフィンディルは考えます。

ただそれで北に寄っている分、ライトにわかりやすく読める作品になっていると思います。どうして本作の適性方角が北東と思うのかについては後述しますが、仮にその適性方角相応の表現を出したら本作はもっと評価されるのかというと、正直微妙です。

北北東程度に抑えているから東的面白みが広くわかりやすく読者に届いているのだと見れば、事実上の適性方角は北北東であると見るのもまた一理あると思います。


フィンディルは本作のどこに東的要素を感じたか。二点ですね。

ひとつは物語の進行に合わせて句点表記をオンオフしている。

マルが隠れてしまっているときは、文章からも「。」がオフになっている。マルが出てきてくれてからは、文章も「。」がオンになっている。

またピリオドが登場しているときは、文章の句点もピリオドがあてられている。

マルと呼称されているので半濁音はどういう扱いなのかなという気もしたのですが、マル(句点)が隠れているときも半濁音は普通に表記されていますね。

物語状況と文章状況が連動している、というのは非常にライトではありますが東的要素といえば東的要素ですね。


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。、。、。、。、

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個人的にはこの、場面転換が句読点で表現されているのが面白かったです。

単純に読点と句点が交互に並んでいる図を見るのは初めてでしたし(初めて見たこと自体に気づけたのも新鮮でした)、句読点が楽しくはしゃいでいるように見えたのも物語に沿っていて良いと思います。


二つめの東的要素は、方角企画のメタですね。

「これは小説である」的なメタはエンタメでもまま用いられる手法でもはや新鮮味はないのですが、本作は小説メタというより企画メタというのが面白かったです。

企画レギュレーションがこうなんだ、とか、終止符でもOK、とか、投稿されることでみなさんとお話できるとか、ポップに企画メタが用いられていると思います。新鮮味がある。

北的面白みで言うと、この企画メタにより「作品が投稿できなくなるのでマルには戻ってきてもらわないといけない」と物語の一部になっているのも工夫がきいていると思います。メタのためだけのメタになっているわけではない。

ただ企画メタの弱点として「企画を知らない人や、企画終了からしばらく経つと、そのくだりが浮いてしまう」というものがあります。本作はマルハラを主題に据えていて作品全体としては方角企画を問わず読める作品であると思うので、「企画を知っていても楽しめるし、企画を知らなくても楽しめる」というメタの見せ方ができるともっと良いだろうと思います。時事題材ではあるので賞味期限の優先度は下げているのかもしれませんが。


ということでライトながらも東的面白みが認められたので北北東とフィンディルは判断します。


そのうえで二点、指摘をしたいと思います。

東的な指摘と北的な指摘がそれぞれひとつずつ。


東的な指摘から。

本作は基本構図だけを見ると、かなり東が強くなりうる設定を採用していると思います。

それが「読点が文章を書く」という視点者設定です。もっと言うと「文章を構成するパーツが、文章を書く」。これはとても東的な要素だと思います。

なお声を出しているのではなく文章を書いていると扱ってもよいであろうことは、「マルが姿を消しているときは文章から句点がなくなっている」から明らかだろうと思います。また企画メタを考えてもそうですね。

読点が自ら筆を執っているかは別として、発話ベースではなく文章ベースで考えてよいだろうと思います。


文章を構成するパーツが文章を書くって、すごく倒錯的で面白いと思うのです。

何なら読点が書いている文章に読点が出てきていますからね。自分が生成しているもののなかに、自分そのものが出てきている。人間が人間の絵を書いても「人間≠人間の絵」ですが、読点が読点を含む文章を書くうえにおいては「読点=読点」ですからね。とても面白い東的題材です。

ただ本作はそういう領域に全く足を踏み入れていない。読点が読点を書いていることに(意図的かどうかは別として)全く疑問や興味を示していない。


本作は、視点者が読点である必要がないんですよね。

本作の視点者は「文字や約物などとコミュニケーションがとれる文章筆者」として表現されている。文字や約物に協力してもらいながら文章を執筆する人、そういうファンシーな視点者表現であると思います。文章そのものとは全く独立した存在として本作の視点者は描かれている。

別の言い方をすると、本作の読点は「読点」ではなく「読点の精霊」なんですよね。それを前提とした「テン」なのかもしれませんが。

なのでたとえば、文字や約物などとコミュニケーションがとれるファンシーな小説家が主人公(視点者)でも(多少の調整だけで)本作は問題なく成立してしまうはずです。


読点が視点者であるという設定は「文章を構成するパーツが、文章を書く」という強い東的面白さを期待させるものなのですが、実際に本作で表現されているのは「文字や約物などとコミュニケーションがとれる文章筆者」というもので、ここのズレを非常に感じました。


本作は「文章を構成するパーツが、文章を書く」に深い気づきを得た表現ができれば、北東・東北東程度にはなるだろうと思いますし、フィンディルはより面白くなると思います。

逆に本作は(なまじ読点が視点者であるだけに)「文字や約物などとコミュニケーションがとれる文章筆者」に深い気づきを得た表現をしているわけでもない。たとえば文字や約物などと協力して文章を書くファンシーな小説家を視点者にして書いてみると、それはそれで真北・北北東作品としてより読みやすく面白い作品になるのではないかという気がします。

視点者設定と視点者表現が噛みあっておらず、どちらの面白さも出きっていないのが気になりました。


次は北的な指摘。

マルが戻ってきてくれた理由がきちんとエンタメ的に表現されていないのが少し気になりました。

マルに戻ってきてほしい気持ちをテンが感情的に言葉にしているうちに、マルは戻ってきてくれました。

もちろんそれは「テンの気持ちを聞いていて、戻ってやるかとマルが思った」ということで不自然ではありません。

ただ本作を「隠れてしまったマルに戻ってきてもらう」を目的に設定したエンタメ作品と考えると、マルに戻ってきてほしい気持ちを切々と訴えていたら戻ってきてくれました、はエンタメ的な納得感にやや欠けるものと思います。

本作はエンタメエンタメしていないソフトな世界観なのでそこまで追求する必要もないのですが、ここを引き締めてエンタメ的読み応えをやや向上させても本作の世界観との共存は問題なく可能だろうと思います。


たとえばですが、フィンディルはマルハラ関連についてマルハラ擁護を耳にしたことがないんですよね。フィンディルが耳にした言説の全てが「マルハラなんてくだらない」というものです。俵万智さんの一句もありましたね。

マルが隠れてしまった理由が人が発した「マルはハラスメントだ」ならば、人が発した「マルハラなんてくだらない」の声を受けてマルが戻ってくるのがエンタメとして映えるのではないかなと期待します。

そこにメタを絡めて「このお話を読んでいるみなさんも同じことを思ってくれてるよ」なんて言わせても馴染むだろうと思います。


本作は句読点やメタに絡めたソフトな東と北が楽しめる作品で良いと思いますが、そのソフトさを保ったうえで東を深掘りしたり北を引き締めたりする余地は残されていると思うので、また色々考えてみてほしいなと思います。

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