猫はずっとそばにいて。/水木レナ への簡単な感想
応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。
指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。
そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。
ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。
猫はずっとそばにいて。/水木レナ
https://kakuyomu.jp/works/16818093074986335408
フィンディルの解釈では、本作の方角は北西です。
方角の判断ということでは、「おばーちゃんが死んで。」とほとんど同じですね。
「今の気持ちを文章に預けたら、自分のなかで何かがほんの少しでも変わるかもしれない」という西的な執筆動機と、今の気持ちを慎重に大事に扱って文章にしたいという気持ちからきているのかもしれないバランスの良い筆致。その両者から、フィンディルとしては北西に感じられます。
方角を抜きにすると、愛猫に対する水木さんの捉え方が印象的です。
「自分を心配してくれているんだ」と強めな期待をするでもなく、「猫だからわからないよね」と過剰に現実的にいるでもなく。愛猫が水木さんに対してとっている距離感に対して、すごく尊重のある受け止めをしているなあと感じました。ちゃんとした愛を感じました。
また
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さびしさだけが、埋まっていく。
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も、すごく印象的です。
「さびしさが、埋まっていく。」ではなく「さびしさだけが、埋まっていく。」なんですよね。滲んでいるニュアンスが全く違いますね。
「さびしさが、埋まっていく。」だと寂しさが埋まっていって嬉しいというニュアンスですが、「さびしさだけが、埋まっていく。」だと寂しさが埋まっていく様を嬉しいと判断するのも現時点では難しいというニュアンスになっているように思います。
「おばーちゃんが死んで。」への感想で喪失について言及しました。それまでの自分の一部が欠落してできた穴から滲んでくる、引き算の心情であると。
愛猫の存在により寂しさが埋められたとしても、それって自分の総数が回復するわけではないんですよね。それまでの100の自分から50が欠落したとして、50補充して100になったわけではない。それまでの水木さんに、すでに愛猫は存在しているはずなので。
補充ではなく補填のニュアンスが近いんじゃないかなと感じました。新たに何かを入れたわけではなく、既に自分が持っているものをあてたというような。なので自分の総数自体が戻っているわけではない。
そういうニュアンスが「さびしさだけが、埋まっていく。」に表れているようにフィンディル個人は感じまして、すごく印象に残りました。
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