大好きよ。もう二度と、会いたくない。/野森ちえこ への簡単な感想
応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。
指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。
そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。
ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。
大好きよ。もう二度と、会いたくない。/野森ちえこ
https://kakuyomu.jp/works/16818093074792581663
フィンディルの解釈では、本作の方角は西北西です。
本作は、非常に丁寧に心情を抜きだしている作品だなあと思います。
状況と心情のうち、状況を取り除いて心情だけを残している印象です。あんぱんにたとえるなら、周りの生地を取り除いて中のあんこだけを提供している感じです。
この取り除き方も上手い。「心情だけ書くんだ!」と勢いあまって心情を理解するための最低限の状況さえも取り除いてしまうことがあるのですが、本作は状況がわからない程度に状況を残すことでむしろ心情がより鮮明に伝わるような取り除き方になっています。
「心情を伝えるために状況を取り除く」という意図がきちんと大事にされていて、過剰で機械的な状況排除ではなく、心情を伝えるための状況排除になっているのが上手いと思います。
それにより心情の吐露という見え方がかなり強くなっているので、相応に西が強いだろうと思います。もちろん北は弱く。
また上手いと思ったのが、良い意味で冗長なところです。
緩急や起伏をほとんど使わずに、同じ色の心情を何度も何度も叩きつづけている。
本作を読むかぎり、ライフステージや時系列はけっこうバラバラなのだろうと思います。もしかしたら同一人物と決まっているわけでもないかもしれない。一人の人生から月日をこえて集められた心情群かもしれないし、複数の人生から集められた心情群かもしれない。
ただ集められた心情は、いずれも同じような色をしている。
これがとても上手いなと思います。緩急や起伏をつけるのを我慢するのってすごく大変なんですけど、上手く冗長に仕上げられていると思います。
この冗長さにより、日が変わってもライフステージが変わっても、同じような辛い日々が続くことがとてもよく表現されていると思います。明日になれば違う景色が見えるかもしれない、ライフステージが変われば違う人生が始まるかもしれない、でもいざそれを迎えてみるとそこに見えた景色も抱いた心情も同じものだった。やっぱり私の人生はこのままなのか、という。
本作はその人生を送る元凶との別れで締められていますので、最終的には主人公(達)は違う景色を身て違う心情を抱く人生へ分岐できたのだろうと思います。これを北的なハッピーエンドと考えてもいいのですが、フィンディルとしては作者(野森さん)の願いというニュアンスが強いのかなと思います。作品としてどうこうというより、この人(達)の人生に良い分岐が訪れてほしいという願いですね。
それを感じさせる作品については、フィンディルはむしろ西が強いのかなと思います。
ではどうして南向きではないとフィンディルは考えるのか、について。
あんぱんのたとえをまた持ちだすとすると、本作は周りの生地を取り除いてあんこだけを提供しているのでそれがあんぱんだと受け手はわかりません。あんぱんのあんこなのか、大福のあんこなのか、饅頭のあんこなのか、受け手はぼんやりとしかわからない。しかしそれがあんこであることははっきりとわかるんですよね。
このあんこには、あんこ由来の甘味はあるのですが、あんこ由来でない酸味や苦味は見られないように思います。
状況はわからない、ライフステージや時系列はぼんやりとしかわからない、同一人物かも定かではない。しかしそこに描かれている心情はどのような心情なのかはよくわかる。自分の人生を自分の思うままに生きられない窮屈感、自分の人生の主導権を他者が握っていると感じる苦しさ。そのような心情が描かれているものと思います。
おそらく野森さんは、本作で描かれている心情がどんな心情なのかをよくよく把握されていると思います。状況は野森さんのなかでも定かでないかもしれませんが、心情はおよそ定かだろうと思います。
まずここが、南っぽくない。あるいは真西っぽさも弱い。あんこの甘味を丁寧にスマートに受け手に届けている様が、西北西っぽい。
南とか真西は、もうちょっと書き手自身でもよくわかってないんですよね。わかっていないことを愛している。渦を渦のまま披瀝することを愛している。
そしてフィンディルは、本作で描いているものは“社会”であるように感じました。
本作は心情を描いているのですが、その本質は“人間”というより“社会”であるように思います。
本作は心情を吐露する者一名しか描かれていないのですが、その心情には必ず他者が存在している。他者との関係のなかで生まれた心情が吐露されている。規模は小さく縮尺も変動しているかもしれませんが、本作で描かれているのは“人間”ではなく“社会”なんですよね。人間社会。
人間一人がただそこに存在するだけで自然発生しうるものではなく、人間が人間社会のなかで生きるからこそ発生したもの。仮に吐露する者が人間社会のなかに生きていなかったのならば、本作の心情は発生しなかっただろうと思います。
もちろん人間が大なり小なり社会のなかで生きている以上、発生する思考は間接的に社会の影響を受けているものと思います。しかし本作に見られる思考は、直接的に社会の影響を受けているものと思います。他者の存在に影響を受けている思考。有無の話ではなく多寡の話ですね。
そしてフィンディルを含む読者が、本作で描かれている“社会”を理解するときに何をツールにしたのか。それはおそらく経験と伝聞だろうと思います。人間が人間社会のなかで生きるからこそ発生した心情が描かれているわけですから、読者は各人が人間社会で生きていくうえで蓄えてきた経験と伝聞を用いてその心情を理解するのが自然です。そして対応する経験と伝聞を有していれば、本作でスマートに綴られた心情をしっかり掴んで理解するのは難しくない。
南が強くなると、もっと感覚が幅を利かせるようになると思います。言葉である文章を通じたコミュニケーションなのに、まるで以心伝心に頼らざるを得なくなるような。そういう感覚で掴めるような掴めないような作品表現が主になるだろうと思います。
ということで、フィンディルは西北西と判断しました。
どの心情を描くのかが野森さんのなかで定まっている(ように感じる)、表現そのものも定まっている。
“人間”ではなく“社会”を描いており、読者は(感覚ではなく)経験と伝聞でそれを受けとっている。
これらにより南らしさをフィンディルは感じませんでした。あんこに、あんこ由来でない酸味や苦味が混じるようになったら南らしさ(あるいは真西らしさ)も出るんじゃないかなと思います。
ただこれは飽くまで方角の話であって、方角抜きにすれば今述べたようなことは本作の魅力だと思います。
描きたいことが野森さんのなかで定まっていて、表現そのものも定まっていて、人間が人間社会のなかで生きるからこそ発生した心情が描かれているから、本作は良いのだと思います。
周りの生地を取り除いて、あんこをあんことわかるかたちで甘味をスマートに届けているのが本作の良さだと思います。甘味といえるほど甘い心情ではありませんけども。
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