第3話 最後の試練


 天高くから伸びてきた気根をくぐって、聖地に入る。外側の雪原とは全然違う。屋根のように被さった透明の葉が太陽だけを透かしたお陰で、中は暖かい。

 ただ、それだけではない。聖なる気が、この地を漂っている。混じりけの無い純な空気を胸いっぱいに吸い込みたくなるけれど、これはきっと真のものである悪魔には毒だろうなと考える。


 早く、涼八の所へ。出しっぱなしにしていた翼を広げ、少しの助走から宙へと舞い上がる。そういえば、記憶を失ってから飛ぶのは初めてだけど、無理なくできていた。自転車の乗り方みたいに、これも体が覚えているのかもしれない。

 下を見ると、花の上から妖精が顔を出し、周囲を見ると、精霊がこちらへ微笑みかけている。天使を歓迎している、というよりも、何十年ぶりかの帰郷を喜んでくれる故郷の人、のようだ。


 そう、私の故郷はここなんだ。それを意識すると、涼八とは別のことで泣きそうになる。幸福感と悲しみが、同時に心を満たしていく。

 前を見ると、神木があった。私が分霊のツゥリッパだった一万年以上前から、ずっとずっと変わらずこの場所に立っている。父のように、母のように、不思議な親密さを神木に対して抱く。


 神木の根元は、森になっている。生えている木々は全て神木の直系の子孫だが、葉っぱの色や大きさ、寿命などは普通の樹木と変わらない。それが、神木が世界で唯一の神木たる所以でもあった。

 聖地の中でも、この森は特殊で、聖職者以外の村人たちは、冠婚葬祭の時しか入れない。とはいっても、周辺を柵や塀で囲っているわけではなく、ただ、一本の道が人の住む地域から伸びているだけだ。


 実家でも、玄関から上がるべきだという感覚があったので、私は一度地面に降りて、歩きながら森へと向かった。すると、森の内側に、二人の聖職者が緊張の面持ちで待ち構えていた。

 私が空を飛んでいるのを見たのか、もしくは、神木からの神託があったのか……ただ、硬い表情は、あまり歓迎していないようにも見える。二人を安心させようと、木々を挟んで向き合った私は、「こんにちは」と笑いかけてみた。ちなみに、天国の門を出た際に、翻訳魔法をかけてもらっているので、私たちの言葉はちゃんと通じる。


「天使様。ご訪問いただき、誠にありがとうございます」

「何かございましたでしょうか?」


 右側の男性、左側の女性が順番に口を開く。彼らを見ていると、何かあったんだなと、ピンときた。


「この地に、魔のものがいますね?」


 ピリッとした緊張感が走り、意味深な目配せをしている二人に対して、私はおほんと咳払いをする。そうして、私は、天国の門を出てからずっと考えていたシナリオをすらすら話し始める。


「彼は、正確には魔のものではありません。人間に、魔が取り憑いてしまっただけなのです」

「そんな……」

「とても恐ろしい化け物だったのに……」


 男性と女性が、驚愕に目を見開く。彼女の「恐ろしい化け物」という一言が気にかかった。涼八は、もう一つの姿になっていると、神木から伝えられていたが、確かにそれは、普通の人にとってはそうなのかもしれない。

 悪魔がどう捉えれているのか、その現実に胸を痛めながらも、私は毅然とした態度で、彼女に向かって頷く。


「それも、魔が取り憑いてしまった影響です。ただ、私がそれを祓えば、彼は元に戻ります」

「分かりました」

「彼は、どこにいますか?」

「神木様の中にある聖堂にいます」

「ご案内致しましょう」


 踵を返した二人に続いて、私も森の中へと足を踏み入れる。神木にとって、私は勘当した子供が帰ってきたようなものだ。強い向かい風で押し返されることも覚悟したけれど、思ったよりも森の中は穏やかで、空気も暖かい。

 森の中の道は、木を避けるように整備されているので、意味もなく曲がりくねっている。聖地の成り立ちを知っているので、普段は気にもならないけれど、涼八の身を案じる今は、この遠回りがもどかしい。


 不意に、左手側から冷たい風が吹いてきた。そちらへ目を向けてみると、この聖地にはありえないもの……凍った地面が見えた。


「あの、あれは?」


 私が前を行く二人に声をかけると、私の指の先を見て、ああ、と納得した様子で頷いた。


「突然現れた魔のものが、暴れ回った後です。口から、何もかも凍り付かせる恐ろしい息を吐いていました」

「立ち向かった聖職者たちに、怪我人が出なかったのは本当に幸運でした」


 安堵した様子で話す女性に、「そうですね」と頷きながら、頭では全然違う事を考えていた。

 涼八は、自分が消えてしまうかもしれないピンチの中でも、誰も傷つけないように気を付けて、地面だけを凍らせていたのだろう。だから、怪我人が出なかったのは、涼八のお陰……と考えたところで、目の端に、見覚えのあるものを見つけて、立ち止まった。


 私は迷わず道から出て、見つけたものへ向かった。背後で、聖職者二人のまごついている気配がする。私の行動が気になるが、むやみに聖地を踏み荒らしてはいけないと思っているのかもしれない。

 お構いなしに、私は、木の根元に落ちていたマフラーを拾った。ビリジリアンとモス、二色のグリーンのチェック柄のマフラー……間違いなく、私が涼八に送ったものだった。


 きっと、身体が変化していく中で、このマフラーを破らないようにと、ここに放り投げていったのだろう。涼八の思いやりが手に取るように分かり、私はマフラーをぎゅっと抱きしめる。

 振り返ると、二人の聖職者が固唾を呑んで、私の行動を見守っている。何か言いたいが、よい言葉が思いつかない……そんな表情の彼らの元に戻り、私ははっきりと言い切った。


「行きましょう」


 マフラーと私の顔を交互に見比べながらも、二人はそれぞれに頷いた。

 ちょっと疑われているかもしれない……そう思いながらも、私は前の進む二人の後に続いた。






   ◖◗






 神木の根元にぽっかり空いた大きな穴……と言っても山を貫通するトンネルのように、神木と比べると小さく見えるそこへ納めるように、聖堂があった。足を踏み入れると、ここも聖の気で満ち溢れている……のは当然だが、涼八の魔の気配が全く感じないのが、不安にさせる。

 それを悟らせないように、私は聖職者二人の後に続いて、聖堂を進む。ここに関して懐かしさをあまり感じないのは、恐らく、分霊の入った木像が作られるのは、こことは違う場所だからだろう。


 途中、男性の聖職者が私の案内から離れたのだが、特に説明はされなかった。何か嫌な予感を抱きながらも、女性の後に続いて、この聖堂の中の一際大きな扉の前まで来た。


「この中に、魔のものがいます」


 振り返った彼女が、緊張の面持ちで言う。私は、彼女の指す扉を見た。魔の気配どころか、生き物が存在しているかどうかも怪しいほど、その中は静まり返っていた。


「先程、応援を呼びに行きました。あとから合流する聖職者たちと共に、魔のものを祓いましょう」


 彼女が気合を入れた様子で言い切る。その様子を見て、私はどうしようと、目が泳いでしまった。

 今から涼八に行う事を思えば、正直、聖職者たちはいない方がいい。これから魔を祓うこととは、正反対のことをするから。私は、彼女の手を両手で取った。


「魔のものに近付くのは、とても危険です。私一人でも大丈夫ですので、あなたは、この扉の中に、誰も入らせないように、守っていてください」

「はい……」


 私の能力で、信仰心を底上げされた彼女は、だんだんと真剣な顔になって頷いた。本当は、人の心を操るようなことしたくないけれど、今は綺麗ごとなんて言っていられない。

 後ろは彼女に任せて、私は扉を開けて、中に入っていく。何も音がしないそこだったが、獣の匂いが、確かにした。


 きっと、集会などで使われるであろう、何もなくて天井も高い広間に、涼八が横たわっていた。いつも見ている人間の姿とは全然違う、三メートル近くある、真っ白な毛並みのオコジョの姿で。

 これが、涼八のもう一つの姿……。一歩一歩、近付きながら、彼をよく観察する。以前に見た画像のオコジョは可愛らしかったけれど、人よりも大きく、鋭い爪を持つこの姿を、恐れるのは仕方ないだろう。


 でも、私は全く恐ろしくなかった。この子が涼八だと分かっているから、というのもあるけれど、今の彼の背中には、何本も聖槍が刺さり、その傷口から出た血が、黒く固まっている。ぐったりと目を瞑った彼からは、何の脅威も感じられなかった。

 

「涼八」


 その顔の前まで来て、そう話しかける。とても小さい声だったけれど、きちんと届いたみたいで、彼は南天のように赤くてつぶらな瞳を開ける。そして、こちらを見た。

 私がここにいることに、彼は驚いているのは、何となくでもわかった。その驚きのまま、彼が口を動かす。声は聞こえないが、「スターチス」と、私の名前を呼んだのは分かった。


 泣きそうになりながらも、まだここで終わっていない。私は、彼に頷いて、その大きな顎を、両手で包むように持った。

 ふわりと、雪のように軽く、でも温かい毛。そこから、涼八のわずかに残った魔力を探り出し、角砂糖くらいの大きさになったそれに力を注ぎこみ、大きく大きく育てていく。


「—―試練だったのよ」


 目を開けたままでいられるほど、回復した涼八に、私はそう語り始める。彼は、その言葉の意味が分かっていない様子で、きょとんとしていた。


「いつかあなたは、自分の前世が、分霊だった私の前世に、やってはいけないことをしてしまったから、神木から罰を受けたと言っていた。だから、私たちはどの人生でも、『必ず出会い、親密になるが、望まぬ別れをする』と。でも、本当は試練だったの」


 「試練」と、微かに涼八が言った。瞬きをする彼に、私は力強く頷く。


「神木は、心が通じ合った私たちを祝福したかった。でも、神様だから、特定の誰かを贔屓することは許されない。そこで、私たちに『必ず出会い、親密になるが、望まぬ別れをする』試練を与えて、それをすべて乗り越えられたら、あらためて、私たちの幸福を願おうと、決めたの」

「……僕たちは、これまでの、僕たちは、それを、乗り越えられたの?」


 喘ぎながらも、涼八ははっきりとそう言った。私は微笑んだ……だけど、同時に涙が出そうになった。


「試練を乗り越える条件は、私たちが人生のどこかで、『別れたとしても、また会いたい』と思うこと。それが、私たちへ課せられた、理不尽なさよならを覆す、最高の方法」


 そうだ。全部全部、覆してきたんだ。これまでの人生が、瞼の裏を通り過ぎていくから、思い出せる。


 砂漠の町の中で、アマランサスとして、ジュアンから自分たちにも繋ぐ糸があるはずと教えて貰ったあの日。

 魔法が盛んな王国の中で、トードリィとして、カッコウのように母親から何もかも奪ってしまったと、背徳を浴びている娘のリゴの旅立ちを見送ったあの日。


 早めに開くバーの中で、店主のラウルスとして、片思いをしていたレウコノエから、一生忘れられない七分七十七秒を貰ったあの日。

 広い世界を旅しながら、一頭の馬のアイビーとして、相棒の旅人のジャスティの太陽の音のような鼓動を背中に感じていたあの日々。


 他の惑星との交易が盛んな世界で、言語学者のストローフラワーとして、一から言葉を教えている異星人と教え子の間の子供のぺペラから、月を飛ぶ蝶のようなイメージを伝えられたあの日。

 商店街近くのアパートの中で、新人雑誌編集者の福寿ふくじゅ健也として、同棲している恋人の晴子と、この先もきみと息をしていたいと願ったあの日。


 田舎の村から駆け落ちした、若い娘のローズとして、双子の姉のローザへの悔恨、あるいは幸運なミステイクに感謝していたあの日。

 また田舎の小さな村の中で、猟師の息子のウィリー・サイプレスとして、村の子供たちと猟犬見習いのシュルツと、見上げると降るかもしれない空の下で宝探しをしたあの日。


 マフィアが支配する治安の悪い町の中で、適当に名付けたローダンセとして、相棒のジョッキーがその名前にもう一つの名前を足してくれたあの日。

 そして、ここで、分霊のツゥリッパとして、くだらないことのすべてを愛するパピリオから、一秒後に胸を揺らすことをすべてくれたあの日々。


「今だってそうよ。あなたが、『始まりをいくつ数えた頃に、僕らは幸福な終わりを迎えられるのだろうか』といったあの日も、私たちは、別れの後にまた出会えることを願っていた。そして、今も、あなたも私も諦めきれず、再会を願ったからこそ、こうしてまた会えている……」

「僕は、きっと、君に、何度も酷いことをしたと思う。それでも、会いたいと思ってくれたの?」


 魔力が回復して、いくらか意識も言葉もはっきりしてきた涼八が尋ねる。ちらちらと、鋭い牙が見え隠れしても、私は全く恐怖心を抱かずに、むしろ力強く首肯した。


「もちろんよ。娘のあなたに会いに行った時に誰かに殺されてしまっても、大喧嘩した後に家を飛び出した後にあなたが火事に巻き込まれてしまっても、盗賊に囲まれたあなたを残して逃げてしまった後も、私を助けたせいであなたが死刑にあったと知ったとしても、生まれ故郷が戦争によって何もなくなってしまっても、罠にかかってあなたの心臓を突き刺しながらあなたに頭を撃たれて瞬間も……ずっとずっとあなたに、どんな形だろうと、会いたいと願った。

 だから、私たちはまた巡り合い、そして、友情とか、家族とか、師弟とか、関係性が違っても、必ず、必ず愛し合った」


 涼八は黙り込んだが、私の耳元に、神木が囁いているのが聞こえる。最後の試練、さよならを覆す方法、幸福への最後のひとピースを、今、すべきだと。


「苦しみも、悲しみも、確かに存在した。でも、それはあなたが、私に命をくれたから、存在したもの。それを凌駕するほどの、喜びも、幸せも、あなたのお陰で存在したもの。

 だから、今、私はあの日、あなたがくれた愛を、ここで返したい――」


 涼八の顔、丸くて赤い瞳に、黒い鼻、ぴょんぴょんと生えた髭に、大きく裂けた口。どれも初めて見るけれど、迷わずに涼八だと感じるから、私は躊躇なく、そこへ自分の顔を近づける。

 そのまま、彼の口にキスをした。パピリオが、ツゥリッパにしてくれた禁忌の、しかし、命を与える儀式と同じように。


 ざわりと、涼八の毛が全て逆立つ音がした。私の髪も、一緒に逆立っているのを感じる。柔らかくて、温かい涼八の口へ、私の涙が落ちる。

 頭の上で、鐘の音がする。私たちにしか聞こえない、神木からの祝福の音だった。






















 


 

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