壊れた国の谷底で

白里りこ

第1章 追放

第1話 転落

 大丈夫、俺、一人で行けるから。今までありがとう。


 そう言って笠を被って荷物を担ぎ、家を去ったルルナだが、目的地までの旅程は厳しかった。道も何も無い、点々と生えている謎の植物と奇怪な形の巨岩だらけの山を、どうにか歩けそうな場所を探しながら越えていく。

 何度も足が滑った。一度転げ落ちた時は死ぬかと思った。幸い、大きな岩に背中を打ちつけただけで、命は助かったけれど。


 こんなことになったのは、ルルナが「つの無し」だと分かったせいだ。

 角性かくせいに成らなかった者──ある程度の年齢に達しても頭に角が生えなかった者は、町や村から追放せよ、というのがこの国の決まりだ。

 角性の親から角無しが生まれる確率は非常に低いが、稀にそういうことがある。角無しだと分かった時点で、その子は家にはいられなくなる。


 追放された者が住まう集落は、いずれも西部に連なる山岳地帯の合間にある。中でも故郷に一番近いというタシャト集落に行くために、ルルナは急峻な地形を徒歩で越える必要があった。


 せめて、空を飛べたら良かったのに。

 ほとんどの角無しは翼性よくせいと言って、角の代わりに背中に翼が生える。

 しかしルルナはそのどちらでもなかった。腕にちょこっとうろこが生えただけ。

 鱗性りんせい、と言うらしい。五百年に一人程しか出現しないその性質は、災いを呼ぶという言い伝えがあり、殊更に忌み嫌われる。


 まあ、ルルナたちフウチャイという種族の寿命を考えると、五百年に一人というのは、ありえないほど希少とまでは言えないのだが……。


 とは言え、フウチャイの社会から問答無用で追い出されてしまう角無しに関しては、とにかく記録が無い。

 平民の家に生まれ、最低限の教育だけ受けて、後はもっぱら稲作に従事してきたルルナには尚更、鱗性にまつわる知識など無かった。


 それでも行くしかない。ルルナが決まりを破って故郷に住み続けたら、角性の親にも兄弟にも迷惑だから。


 山を登るにつれ、体がどんどん重くなっていく。疲れもあるが、寒さのせいもあるかも知れない。

 今はただでさえ涼しい季節だ。加えてこのプケア山脈を登り始めてもう丸二日は経っているから、かなりの高所まで来ているはずだ。


 森に囲まれた秘境に位置するこのニャンロアイ王国は、年間を通して温暖な気候をしているから、ルルナはこんな寒さを経験したことなど無かった。


 しかし回り道は存在しない。ルルナは何としても山越えをしなければならない。

 鉛のように重い腕を持ち上げて、小さな手で山肌に縋る。


「よい、しょっ」


 何とか山脈の頂上付近にまで這い上がった。

 ここからだと、谷を挟んで向かいの崖の上にある集落が見渡せる。つまりこの後の道筋としては、一度谷底まで下ってから、あの切り立った崖をよじ登ることになる。

 踏破できるかどうか甚だ不安だが、何にせよこの山を降りなければ始まらない。降りきったら足場も安定するし、一息つけるだろう。


 そう、気を緩めたのがいけなかった。


 腹這いになり、慎重に足を下ろしたつもりが、ルルナのくつの底はずるりと足場からずり落ちた。そのまま体の均衡を失ったルルナは、ごろごろと岩山を転がり落ちて、ぽうんと宙に投げ出された。


「わっ……」


 咄嗟に上げた悲鳴は、恐怖に飲まれて途中で出なくなった。


 そこから先の記憶は無い。


 気づくとルルナは、冷たい水の中に浸かっていた。

 川だ、と回らぬ頭で認識する。山脈と崖の間を緩やかに流れる川に落ちたのだ。

 上半身が何とか大岩に引っかかっているお陰で、呼吸にも問題は無い。


 しかし、一体どういうことだろう?


 あの高さから一気に落ちたのだ、絶対にこれは死んだと思った。だが確かにルルナは生きている。ありえない事態だ。

 体は擦り傷だらけだし、旅の荷物も編笠も失くしたが、それだけで済んだなんて奇跡である。


 ただ、冷水のせいで体は冷え切っていて、指の一本も動かせなくなっていた。


「……」


 眠くなってきた。視界は靄がかかったようで、意識も朦朧としている。


 だから、最初は夢でも見ているのかと思った。


 ばさりと音がして、ルルナの体が誰かに抱えられ、水から上がった。

 妙な浮遊感がある。

 ルルナは瞼をこじ開けて、己が空を飛んでいることを確認した。


 誰かがルルナをしっかり抱いて、朱色の翼で上へ上へと飛翔している。


 翼で空を飛ぶフウチャイ……。ではここは、タシャト集落の近辺か。


 その翼性の人は、崖の中腹にある窪みに降り立ち、翼を畳んだ。

 ルルナは疲れで目を開けていられなくなっていた。


 やがて、ボウッ、と謎の音がして、続いてパチパチと枯れ木が燃える音がし始めた。体が徐々に温まるのを感じる。ようやく動けるようになったルルナは、再び目を開けた。


 広い洞窟に、火が焚かれていた。日光の差し方と空気の流れからして、ここはさっきの窪みの入り口からそう離れてはいない。

 ルルナがもぞもぞ火に近づいていくと、先ほどの人が振り返った。


「ああ、動けるようになったのね。良かった」

 はっきりと通る声で声をかけられる。

「あ、うん……」

「川に誰か落ちてたからびっくりしちゃった。鱗性のフウチャイは寒さに弱いらしいの。危なかったわね」


 知らなかった。ルルナが腕を上げて、薄翠の鱗をしげしげと見つめていると、その人は灰色の着物と白い布を持ち出してきた。


「はいこれ、体を拭いて着替えて。あなたには少し大きいけど」

「うん……」

「村に着いたら、袖の長いじゅと裾の長いを作ってもらうと良いかもね。体を冷やさないように」

「うん……」


 ルルナはずぶ濡れの着物を脱いで、下着から何から全て取り替えた。この人の着物は、袖も裾も短い。そして背の部分には翼を通すための穴が空いている。

 ルルナが仕上げに藍色の帯を巻いていると、その人はルルナの若葉色の長髪を手で梳いて、紐で一つに結ってくれた。


「はい、あとこれ、薬草を潰したやつ。傷に効くから塗っておくわよ」


 ルルナは大人しく、薬を塗られるがままになっていた。その間に、だんだんと頭の中がはっきりしてきた。

 ようやく人心地ついたルルナは、正座をしてその人に向き合った。


「助けてくれてありがとう。俺はルルナ・チュオンと言います。タシャト集落に行く途中だったんだけど、あなたもそこの人?」

「んー」


 その人は癖のある橙色の短髪をぴょこりと揺らして首を傾げた。


「一応そういうことになってる。でも私はここに住んでるの。タシャト村はこの上ね」

「へえ」


 ここ、とは洞窟のことか。入り組んだ形をしているとはいえ、木造の家よりは雨風が凌げなさそうである。


「私はヒシア・トゥルガ。準備ができたなら、上まで連れて行くわ。あなたは村の人とうまくやれると良いわね」

「あ、ありがとう」


 ルルナは戸惑いがちに返答した。

 ──もしやこの人は、村の人と仲良くないのだろうか。


 タシャト集落に辿り着きさえすれば、角無しのフウチャイにも居場所ができると思っていたのだが、考えが甘かったらしい。

 翼性のヒシアでさえ追い出されてしまうとしたら、鱗性のルルナは果たしてどう思われるか。


 ヒシアは焚き火に手をかざした。すると火はたちまち消えてしまった。ルルナは目を丸くして、焼け焦げた枯れ木を見つめた。

 これは、ヒシアの仙力せんりきの一つだろうか。火を操るとは珍しい。少なくとも故郷の村に炎使いは居なかった。


 ヒシアが洞窟の出口まで歩いて行ったため、ルルナもそれに続いた。ヒシアは両腕を差し出した。

 

「さあ、こっちまで来て、私に掴まって。良い? 行くわよ」


 ヒシアはルルナを抱えたまま軽々と舞い上がった。鳥のような朱色の翼で力強く上を目指す。

 崖の上は、やや凸凹して歩きづらいことを除けば、比較的平坦な地形をしていた。ヒシアはふわりとそこに着地してルルナを下ろし、手を引いてくれた。


「こっちよ。ちゃんと村の皆に挨拶してね」

「うん」


 遠くに粗末な竹垣があるのを確認したルルナは、ヒシアの顔を見上げて頷いた。

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