山代悠

ヒトには、2つの手がある。


それは人類が文明を生み出し、活用していく上では欠かせないものである。


手からすべてが始まり、生まれた。


現代において、手は主に、電子機器を扱うものになっているように感じている。

かくいう私も、パソコンを用いて、つまりキーボードを手で押し込むことで、文字を打ち込んでいる。


諸君も、1日に何時間もスマートフォンを見ていることだろう。


その時に、タッチペンを使う、という人もいるかもしれないが、大多数は手で画面を触って使用していることだろう。


ただ、手には本来、数えきれないほどの役割がある。

今回はそれらについて語り、手の魅力について説こうと思う。


冒頭で、手は文明を生み出してきた、と述べたが、手が生み出し、我々にもたらしたのは文明だけではない。

文化も生み出した。


文化──

それは広義の言葉である。


藝術も文化の一つだろう。


藝術──

それは人々が自己の内面を表現するためにこの世に実在するものとして生み出した創造物の総称だ。


私のこのエッセイだって、その定義に基づけば藝術と言える。


藝術にはたくさんの種類がある。

文学、美術、音楽などなど…


そしてそれらの多くは、手によって生み出されてきた。


藝術に取り組む人々の手は、私を魅了する。


藝術家たちの手は、美しい。


たとえば、現代の作家はパソコンを使って執筆を行うことが主だと思うが、昭和やそれ以前の作家たちは、実際にペンを持って執筆にあたっていた。


そうすると、中指に「ペンだこ」と呼ばれる特有の固い部分が形成されることがある。


それも興味深い。

言ってみれば、それは彼ら彼女らが積み上げてきた、執筆時間の積み重ねに違いないのである。


目に見えない時間が積み重なって積み重なって、指にぽっこりと丘を造る。

そしてそれは目に見える。


なんと興味深いことだろう。


たとえば、絵画を描き終えたばかりの画家の手は、時に絵の具が付いている。


素晴らしい。


私にとっては、その作品を生み出した藝術家の手そのものでさえ、作品なのだ。


しかし、その画家が手を洗えば絵の具はきれいさっぱり落ちて、その人の本来の肌の色を取り戻す。


それもまたいいのだ。


その人本来の手の骨格、指の長さ、爪の形、肌の色、毛の生え方──

すべてが美しい。


現代において時たま、「オタクは手がキレイ」という偏見というか、噂を耳にする。

私自身オタクであり、自らの手についてじっくりと思案したことが何度かある。


「汚い手」というものがどんなものであるか私は知らないので、私の手がキレイであるかどうかは、判断・表現できない。


しかし、100人いれば200個の手があるわけで。


私もそのうちの2個を持っていると考えると、自らの手にも何らかの美しさがあるのではないかと気になってしまうこともある。


話が逸れたが、とにかく私が言いたいのは、手は美しいということである。


特に藝術に携わり、何か作品をこの世界に出し続けている人々の手には、それぞれの世界を表す「印」や「あかし」がある。


それを私が自分で見つけるために、私はいろんな人の手を見たい。


諸君も、自分が思い通りに動かせる「手」というものに注目する時間を設けてみればどうか。


世界が変わるかもしれない。


手が変われば世界が変わる。


手は世界を造り上げるのだから。

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山代悠 @Yu_Yamashiro

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