幕間5:人魚姫

 父について行って引っ越した先は、一言で言うと、『海の見えるアパート』だった。母が希望を出して、僕は何も望まなかったから、そうなった。中学の3年だけこっちで暮らして、3年経ったら戻ってくる。

 勇気を出して友達を助けようとして、腹を蹴り砕かれたあの日から、僕は何事にも臆病になった。毎日が苦しい。周囲の視線が恐ろしい。姉が地元に残った分、両親は僕に構うほかない。それが嫌だった。何も望まないのなら、なぜおまえは存在しているのだと、言われているような気がしていた。

 

 ──『拓っくん、そんな小っちゃい池なんて眺めてないでさ』


 海へ行きたげな父の手を振り払い、『貝竜湖』と書かれた看板の前で、何をするでもなくぼうっと水面を見つめる。こんな不貞腐れた態度だから、友達なんて一人もできない。中学に上がって早速、僕は盛大に孤立した。もう、それで良かった。

 放っておいてほしかった。

 みんながみんな、海の向こうへ行きたいわけじゃないんだって、知らない癖に。

 なんとなく投げやりな気分になって、その辺に落ちてる石を拾って、思い切り湖の中に、投げ込んでやろうとして。


 「八尾比丘尼伝説って知ってるかい。人魚の肉を食べると不死になるってアレ」

 

 背後から声が聞こえて、僕は身体を跳ねさせた。30センチくらい跳び上がったかもしれない。着地して後ろを向くと、黒のタキシード、ブラウンのローファー。やたら長いストールとシルクハットに阻まれ、表情は分からない。髪型はボブ、声は女性。

 

 「一応、この湖にもそういうものがあることになってる。湖底には人魚が住んでるってね。石を投げ込むのは勘弁してやったら」

 シルクハットの鍔を指でなぞる。白いシルクの手袋を着けていることに、ここで初めて気がついた。

 

 「ま、実際のとこは幻覚だろうけどもね。海の隣にある湖は汽水湖といって、海水と淡水の層ができ、その密度の差から水が循環しなくなる。すると、空気からの酸素の供給が無くなって、無酸素状態で増殖する硫化水素産生菌が増えて、湖底は硫化水素で満ちるのさ。そんなところへ潜ろうものならもれなく恐慌状態だ」

 「……」

 言っていることの意味は分からない。けれど、凍りついた過去の思い出から、暖かな記憶が蘇り、僕は顔を綻ばせた。

 彼女は──公園のコスプレお姉さんは、ボブカットを揺らしてウインクした。

 「久しぶりだねえ、少年。脱獄の手段は見つかったかな?」

 

 「あ、え、お姉、じゃない、えっと」

 「お姉さんでいいぞ。お姉ちゃんでもいいし、キロちゃんでも、オサノさんでもいい。学生時代に呼ばれたかったあだ名。こっから本名を当ててくれたっていいぞう」

 アハハ、と笑うお姉さん。つられて、僕も笑ってしまう。

 旧交、と呼べるほどの関わりもないけど、だからこそ、後腐れなく身の上を話した。僕は、父の仕事の都合で引っ越したこと。お姉さんは、仕事の都合であっちに行っていたのであって、実家がこのあたりにあるのだと言う。

 「あっちが引っ越し先になることってあるんですね。言っちゃなんですけどちっちゃい街なのに」

 「そういうこと言わん方がいいぞ。悪気ないマウントほど鼻につくものはないからねえ」

 そう言って指を振り、ん、と小さく背を伸ばす。

 「近くに水族館があったろう。電車で一時間くらいのところ。あそこで普段は働いていてね。今回、貯めに貯めた有休を消化して、里帰りというワケさ。そしたら泳げもしなさそうな知り合いが何故だかいて、危うい顔で湖を眺めているものだから、つい、声をかけてしまったよ」

 白い歯を見せて笑う彼女の頬は、赤らんでじっとりと汗ばんでいる。暑い夏の日になんでか正装しているから、それはそうなると思うのだけれど、なんとなく、それだけではないと思った。彼女にとってこれは、勇気のいる行いだったのだと、今では思う。


 「わたしの言いたいことが分かったろう。人生はいつか、辛く苦しいものになる。前に教えた通り、脱獄の手段は、友人を作ることだ──けど、それすらできなくなっているんだね」

 僕は頷く。彼女も頷く。そして。

 「ここで会ったのも縁だ、わたしがキミの友人になってやる」

 ビジネスバッグから分厚い本を取り出して、僕に手渡してきた。

 「お近づきの印さ。たしか、誕生日が近かったろう」

 誕生日教えたっけ、とも思ったけど、プレゼントを貰った嬉しさで、芽生えた疑念は霧散する。タイトルが英語で、なおかつハードカバーの本だった。タイトルは、『The Little Mermaid』、日本語にすると『人魚姫』。

 「……童話」

 「多感な中学生にそんなものを渡すほど間抜けではないよ。よく見たまえ」

 栞代わりの紐だと思っていたものは、USB-typeCとライトニングケーブルの充電コードだった。よく見ると、収納式の電源タップまでついている。

 「本でカモフラージュしたモバイルバッテリーだよ。カバーを教科書に差し替えれば、真面目に授業を受けているふりをしながら携帯を充電できるぞ。中学生の男の子はこういうバカみたいなアイテムが好きだからな、学校に持っていけば友達もできる」

 

 そんなわけないだろ学校舐めてんのか、と僕は内心鼻白んだ。でも、シンパシーを覚える相手から贈り物を貰ったことは素直に嬉しくて、翌日からの学校も、頑張れるような気がして、僕は本を抱きしめて、お礼を言った。

 『アハハ。そう喜んでもらえると嬉しいねえ』

 彼女の笑顔は、ちょっとだけ引き攣っているような気がした。ほんのちょっとだけ。

 

────


 「お前、なんだそれ格好いいな! 探偵みたいだ! どこに売ってんだそれ!」

 アイデアグッズひとつで友達ができるとかそんなわけないだろと思っていたら、そんなことあった。

 似非スパイアイテムに食いついた男の名前は、剛堂毅、ゴードンだ。この頃はまだ僕と同じくらいの身長で、平均的な体格。悪く言えば、特徴がない。

 クラスで浮いている僕を気にかけ、前々から声をかけようとしていたのだが、タイミングが無かったのだという。そこで唐突に僕がジョークグッズを手にしたものだから、今しかない、と思ったのだそうで。サンキューお姉さん。ついでにネーミングセンスも借りました。キロちゃんっぽいでしょゴードン。

 

 内心の饒舌さとは裏腹に、僕は口数が少ない。脳内で表に出す3倍は喋ってるし、実際に喋ったことと混同する。さっき言った特徴がないだとか、そういう変なことを言わないように気をつけて、慎重に脳みそを回す。せっかくの友達チャンス、嫌われたくない。

 「……これは売ってないよ。工作が得意な人に、誕生日プレゼントで貰ったんだ。自分で作ったって言ってた」

 「ああ、いつも校門のとこで待ってる人だろ。ジーパンにTシャツにローファーの。普段お前さっさとあの人のとこ行っちまうから話しかける隙が無かったんだよな。今日は残ってるみたいだけど」

 「今日は用事あるんだってさ」

 お姉さんは先の友達宣言に違わず、カラオケに潮干狩りにサイクリングに、中学生の僕に合わせた遊びに付き合ってくれていた(コスプレっぽい格好はやめたらしかった。やらないの、と聞いたら気まずそうに話題を変えたのでそれ以降聞いていない)おかげで、潰れずに今日まで生きてこれた。

 「いいよなー仲の良い姉がいるって。一人っ子だから羨ましいぜ」

 後頭部で手を組んで口を尖らせるゴードンに、姉ではないよ、と言おうとして、そう言ったときに目の前の彼がどんな反応をするか考えて、止めた。

 心配されるだろうなと、なんとなく予測がついたから、曖昧な微笑みを浮かべるにとどめた。

 

 彼は賢く、強く、優しかった。たぶん、友達ってことで良かったんだと思う。次第に彼と遊ぶ時間が増えて、お姉さんと遊ぶ時間は減っていった。久しぶりに会ったとき、お姉さんは寂しげな、でも、満足げな笑みを浮かべていた。

 「もう大丈夫そうだね。有休も終わりだ、わたしは帰るとするよ」

 その微笑みに、言葉が詰まった。今が楽しいのは、間違いなく彼女のおかげだ。その恩に報いる術が、僕にはなかった。別れを惜しむことが、感謝を伝えることが、自分にできる精一杯だった。

 「うん。それでいい。……それに、べつに今生の別れってワケじゃない。キミも3年後戻ってくるんだろう。それまでゴードン君と、しっかり思い出を作っておきなさい。そのあとキミがわたしのことを覚えていたなら、その時に恩を返してくれたらいい」

 僕は頷き、決意した。強い大人になって、彼女に恩返しをしようって。まあ、ついこの間までそんなこと、忘れていたんだけど。


────

 

 「実姉じゃねえんだろ、あの人」

 京子さんの件でエコロと話し合ったような、誰かと2人きりの夕暮れの教室。目の前には、無表情のゴードン。お姉さんは、もう引っ越した。ゴードンに嘘をついていたことは、日常のうちに忘れていた。僕は気まずくて、目を逸らす。

 「疑念を抱いたのは、ずっとおんなじ茶色のローファーを履いてたから。お前と同じように引っ越してんなら、女性でそのバリエーションの少なさは、おかしいとは言わんでも違和感がある。で、こないだ試してみた。2人でいる時、『有山』って苗字で呼んでも、反応しなかった」


 ──『悪事を働かないこと、悪事を働いたなら罰を受けること』


 「ごめん」

 お姉さんの言っていたことを思い出して謝っても、ゴードンの無表情は崩れない。

 「別に俺を騙してたことについてはどうでも良い。自分で決めたことへの干渉が鬱陶しくて、距離を置くために嘘をつく気持ちも分かるからな。で、ほんとうは誰なんだ、そいつは」

 ゴードンは、怖い顔でラジオを弄っている。砂嵐の音が、ざあざあ聞こえる。

 「地元で会った、知り合いのお姉さん。実家がこっちにあるらしくて、有休使ってこっちに来たんだってさ。有休が切れて、もう帰るって」

 「そうか」

 「ごめん、ほんとに」

 「……俺はただ、お前が心配なだけだ」


 ざあざあ、ざあざあ、砂嵐が大きくなる。心臓の鼓動を、うるさく感じる。彼がラジオのダイヤルを回すと、途中から切れた声が聞こえる。『──なだけだ』


 「なんだよ、急に『急に』」


 間抜けな声が、反響する。これは、そうだ、僕の、声だ。さっきのは、ゴードンの声。


 「落ち着いて聞いて欲しい『聞いて欲しい』」


 そう言うと彼は、僕が彼女から貰った文庫本型モバイルバッテリーをアルミホイルで包み込む。「あー、あー」と彼は声を張る。さっきまでラジオから聞こえていた声は、もう聞こえない。

 

 「……アルミホイルには、電波を反射する力があってな」

 彼の無表情は、意図的なものだ。冷静であれと、僕に呼びかけるための。肩を掴まれた。冷静でいてくれと、強く握られる。

 「その本型の充電器には、盗聴器が仕込まれてる。充電器として電源タップに接続することで作動するタイプで、有効範囲は約一キロ」

 言葉が耳から入って、熱になる。冷静でいてくれと、肩を掴まれている。

 「お前の知り合いのお姉さんとやらは、いつも放課後、校門で待っていたわけだけれど、おそらくずっと前から車の中なんかで張って、お前の生活音を聞いていたんだ。知り合ったのが地元だってんなら、実家云々は嘘だ。お前が目当てで、ここまで着いてきたんだ」

  

 幼子のように駄々を捏ね、腕を振り回して、彼の発言を否定してやりたかった。けれど、人魚姫のハードカバーを外すと、確かに、充電器とは独立した、黒い機械の塊がある。邪心を具現化したような、小さな黒いシミがある。

 ゴードンの持っているガラケーが振動して、視線をそちらに向ける。ゴードンは、歯軋りして、教室のカーテンを後ろ手で閉める。

 「……友達に、写真を見せて、校門にいたら知らせるように頼んでおいたんだ。アイツ、帰ってないよ。今日も盗み聞いてる」

 熱がはじけて、立ち上がってカーテンを開こうとした。けど、ゴードンに掴まれ、押さえつけられて椅子に座らされる。

 「顔を出すな。お前が直接アイツの悪事を認識して、その上で拒絶するのが一番まずい。ストーカーってのは空想の中にいるうちは安全だ。現実に否定された瞬間に牙を剥く」

 

 ゴードンは、そんなことを知らずに言っている。ストーカーに追われる経験なんて、中学生にあるはずがないのだから。ただ僕を危険から遠ざけるために、僕が納得するように、虚勢でも、はっきり物を言わなければいけなかったのだと思う。


 ゴードンは、まっすぐ僕を見る。

 「今からアルミホイルを剥がすから、何にも無かったみたいに、普段通り会話しろ。アイツの怒りは、おそらくカーテンを閉めた、盗聴に1人気付いた俺に向かう。けど、お前に否定されたわけじゃないから、殺人にまでは及ばないはずだ。その間に警察を動かす証拠を集めて、捕まえる」

 

 言葉が右耳から入って、脳をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、左耳から出てゆく。

 どうすればいい。どうすればいい。

 僕にとって、お姉さんは確かに救世主だったんだ。こんなことをするはずがない。今すぐにでも話し合いたい。真偽を質したい。

 でも、それはいま僕を守ろうとしてくれているゴードンに対する裏切りだ。そんなことをして、お姉さんにも、ゴードンにも見放されたなら、僕はまた、ひとりになってしまう。

 なにより。

 

 ──『どんな思いで、私が、ここまで』

 

 腹を蹴られた記憶が蘇る。

 僕が思いついた施策は、良心の発露は、ろくな結果を産まない、なんて、そう思うのなら。

 お前はいつまで、誰かに守って貰い続けるのだ?

 

 怯えた瞳で、周囲を見回す。ゴードンは、まっすぐこっちを向いている。その瞳は、揺らがない。


 「大丈夫だ」

 

 やめてくれ。

 僕の弱さを肯定しないでくれ。

 

 「──俺が絶対、助けてやる」

 

 耐えられなかった。

 小さく、誰にも聞こえないような、喉から、うん、と、声が漏れた。

 

 打算が働いて、僕はゴードンの言う通りにした。お姉さんに対話を求めなかった。一度だけかかってきた電話には、居留守を決め込んだ。数日は、報復が怖くて、眠れる夜を過ごした。毎日ゴードンの無事を確認し、晴れの日でも傘を持ち歩いた。振り回せば少しは身を守れると思ったんだ。

 それでも、報復するくらいに元気でいてくれたなら、どれだけ良かっただろう。

 

 

 

 1週間後、貝竜湖へ向かうと。

 

 「──あ」

 

 全身の血の気が一瞬で引いたのを、今でも覚えている。

 お姉さんのローファーが、湖のほとりに揃えて置いてあった。

 何かの間違いじゃないかってローファーに近づくと、『有山君へ』って、片方の靴におさまるくらい、小さなメモ用紙が入っていて。

 

 

 『騙していてごめんね。わたしの命で許してください』

 

 

 ──このことは、誰にも言えていない。

 メモ用紙を読んだ瞬間耐えきれなくなった僕は、一目散に逃げだしたから。

 あの場に居たら、湖に僕まで引きずり込まれてしまう気がしたから。

 

 姉さんにすら、母さんにすら、父さんにすら。

 僕を守ろうとしてくれた、ほとぼりが冷めるまでずっと気を張り続けてくれていたゴードンにすら、言えていない。

 

 僕のせいで、お姉さんは、人魚は死んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る