井上心の脱獄計画
目覚めると、知らない天井だった。白く清潔感のあるタイル張りで、無機質な蛍光灯の光が眩しい。じっと見つめていると、視界がぼんやり滲んでゆく。
最悪の夢を見て、寝ているうちに慣れない場所に放り込まれたわりに、自分でも驚くほど落ち着いていた。それは、見知った人の気配があったから。顔を横に向ける。オールバックの毛先を弄って、「身内だからって呼ばれるこっちの身にもなれ」と面倒くさそうな姉さんに、「ありがとう」と返そうとして、喉がカラカラで、しわがれた声になって、彼女は顔を顰めた。
「医者の話じゃ、バレーボールで顔面にスパイク喰らったときの脳震盪の症状が時間差で出たんだろうとよ。起きたら家で経過観察。一応、すぐにでも退院できる──んだが、その様子だと、脳震盪が起きた理由はだいぶ違うんだろうな。アタシも正直疑ってた。テメーが顔面スパイクなんて根性見せるタマかって」
「……そのバレー云々の言い訳をしたのは、エコロですよね」
姉さんが頷く。当たりらしい。そうだとすれば、おかしな話だ。梶さんを誘導して、僕を攻撃させたのはエコロ自身にも関わらず、救命措置を行うのも彼女とは。何がしたいのか分からない。顎に指を当て、考える。姉さんは、荷物をまとめながら。
「他人の事情に首突っ込むのはほどほどにしとけよ。理解不能なヒステリーも、案外そのへんにゴロゴロいるもんだ。子供のころに痛い目見たろ」
僕は、生返事を返す。彼女には、たぶん分からない。
人は時に、逡巡して、振り返ると意味不明で凄まじく愚かな決断を下すことがある。
自分の欲求と他者の視線の板挟みでパニックになり、最悪の決断を下すことがある。
とくに、他人に言えない秘密を持った、人間は。
──『人殺しどうし、傷の舐め合いかい?』
また寝ている間に掻きむしっていたのか、手の甲がズキズキ痛んで、思う。
僕は、彼女の言う理解不能なヒステリーの側の人間だ。
他人には言えない秘密を持っていて、抱えたままが辛くて、救われたいとずっと思っている。
僕みたいな人間は、それが叶わないと知っているから、代わりに自分に似た他人を助けて、溜飲を下げるのだ。
ベッドの横に置いてあったボストンバッグについた、エミューの羽根のお守り。役目を終えて、少なくとも今は動かない。僕の身体は十全に動く。バッグを背負って、ベッドから立ち上がる。
姉さんと目が合うと、「人の話聞いてたか」と苛立たし気に後頭部を掻いて、ため息をつく。「退院できるって話でしたよね」と返すと、大きな舌打ち。
「テメーはいつもそうだ。周りが見えてない。危険に身を晒すのは、自分だけだって思ってる」
「……いつも?」
「テメーが今日みたいに、公園で気絶してた日、覚えてるよな」
曖昧に頷く。あの日、気絶した後、姉さんがたまたま僕を見かけて、家まで運んでくれたという話だった。
「その日、テメーはエコロちゃんを助けた。学校で噂になってみんな避けてた、人攫い貞子の家から」
──『「なんで」って、どう考えたって誘拐でしょうに』
正直な話、そっちか、と思った。陽菜子さんに力及ばずボコボコにされたことかと思っていたから。口に出さなくて良かったと思う。姉さんは、不快に顔を歪めている。
「ソイツが、人攫い貞子が、あの日テメーが気絶してる間に家にやってきたんだ。テメーを出せって、居留守使っても分かってんだって」
初耳だった。それに、恨まれる謂れも無かった。「なんで」と声に出してしまって、姉は鬼の首を取ったように、僕を指さす。「そういうとこだ」と言いたいらしかった。
「あそこな、1人娘を首吊りで亡くした家なんだわ。気が狂って、他人でも良いから代わりが欲しいって、道行く女の子を引き留めてた──テメーはそれを知らないまま、正義ぶって、そいつからエコロちゃんを取り上げた。おかげで家に目を付けられた。これから独り暮らししようってのに、最悪の気分だったよ」
僕は返事を返せない。「最悪の気分だった」と言いながら、彼女の表情は、複雑だったから。姉さんは、正しい行いが何か、知っている人だから。
もう一回、「なんで」と聞きたかった。「そんな目に合ったなら、なんで言わなかったんだ」って。彼女は言うだろう。「親が心配して、今度こそ独り暮らしを止めるだろ」って。でも、僕だけに口止めして、鬱憤を晴らすことだって出来たはずだろう。
「テメーがこれからやろうとしてんのはそういうことだ。テメーの縁のある人間全員に、迷惑をかける行為だ」
彼女は、くるりと踵を返す。都合のいい解釈かもしれない。でも、これは、彼女なりの、妥協点なんじゃないかって思う。
「それ聞いたうえでやりたいってんなら好きにしろよ。ただし、解決するまで家帰ってくんな」
念のため2日ほど様子を見て、異変があったらすぐに知らせてくださいね、とのことで、退院することになった。なんでも脳には痛覚が無く、怪我で脳に異変があってもすぐには症状が出ないことが多いのだとか。時間差と呼ばれる症状は、脳震盪による損傷が時間と共に進行し、事故から時間が経ってから症状が出たものを言うのだそう。
「保険証をお返しします。お支払いは──」
健康保険に加入していても入院費は嵩む。顔を顰めながら、考える。
確かめるべきことが、4つある。
ひとつは、エコロ自身の意思。これから、現状をどう変えたいのか。梶さんを説き伏せるのか、立ち向かうのか、恭順するのか。手伝うにしても、本人の意思が肝要だ。
ふたつは、最後に見た彼の兵器の仕組み。『自分自身の能力で』という口振りからして、エコロの能力を模したものであることが予想される。テレパシーを使っていたのは間違いない。けれど、脳震盪を起こす能力は無かったはずだ。あれが「第4の能力」である可能性がある。要確認。
みっつは、夢生の立場。おそらくあの兵器で脅されて、手紙を処分する指示に従っていたのだと思われるけれど、最終的にはエコロの味方なのか、梶さんの味方なのか。
よっつは、梶さんを動かす、陽菜子さんの交通事故の真相。エコロの能力によって引き起こされたと彼は考えている。エコロの罪状は、結局事実無根なのか、勘違いか、はたまた。
ともかく、会って話をしなければ始まらない。
病院を出ると、夏の夕日が沈みかけていた。それでも、家に帰ろうとは思えなかった。
聞きたいことが、山ほどある。
逸る気持ちを抑えてエコロの家の前までたどり着くと、彼女もまた、僕に弁明せねばならないことがあると考えているのだということが分かった。それは、一階の窓から、軽快なピッコロの音色が聞こえたから。
聞こえるのは、規則的な音の繰り返しの練習曲だ。視線を向けると、柵で区切られたベランダで、水色の制服のままのエコロが手を振っている。玄関を指さすので、言われた通りに回ってドアを開ける。鍵はかかっていなかった。
靴を脱いで、この間は入らなかった一階へと足を踏み入れる。左に目を向けると、大きな窓ガラスに、観葉植物が置いてあるベランダ。夏の暑さを和らげる風がわずかに部屋の中に入っていて、そこからエコロが部屋に戻ってくる。
右に目を向けると、家族で食事を取るための大きなテーブル(前回ご馳走になったときはエコロの部屋で食べたので見ることはなかった)の上に、ひとつポツンとワイングラスが置かれている。視線を向けていると、エコロは「説明用だよ」と言って、持ち手をつまむ。物憂げな表情のせいで、妙に様になっている。そのまま「共振って分かる」と言うので、物理の授業を脳内で検索する。
……出てこなかったので、ボストンバッグから教科書を取り出した。
『全ての物体は外力を与えられたとき、その物体に固有の周期で振動する。これを固有振動と呼ぶ。固有振動と同じ周期の振動が外から与えられると、共鳴しその周期で強く振動する。例としては、管楽器で音を鳴らす仕組みが挙げられる。空気の振動に共鳴し、管が振動することで音が鳴る』
要するに、物体に合った周波数の空気の振動をぶつければ、物体はひとりでに振動するということだ。
「……共振は、固有振動によるもの。固有振動は、揺れ方によって周波数が違うんだ。縦揺れに必要な周波数と、横揺れに必要な周波数は違う。それを同時に当てると、こんなこともできる」
エコロは口を「あ」の形に開く。真横から、小さな犬歯が見えた。視界の端で、ワイングラスがカタカタと揺れる。慌ててそっちに視線を向けると──ワイングラスは、粉々に砕け散った。
えちょ、と声が漏れる僕に、「安物だから気にしないで」と、そっけなく彼女は掃除機をかける。用意された、よどみない動き。どう説明しようかと、僕が来るまで考えていたのだろう。掃除を終えると、彼女は「ここまでが前置き」と、テーブルの前の椅子を引いて座る。「物体によって異なる固有振動は、知らないうちに身体にも影響を及ぼしてるんだ。例えば、口の中。噛めば噛むほど頭が良くなるって言うじゃない。それには、歯の固有振動が影響してるんだ」と、彼女は口を開いて、小さな犬歯を指さす。
「食べ物を咀嚼するときに、歯と歯がぶつかって、固有振動する。そのうちの高周波成分が頭蓋骨にまで届いて、脳がちょっと揺れて、それでいい刺激になってるんだって。お年寄りとか、歯が無くなって噛まなくなるとボケるって言うじゃない?」
頷く。ボケると聞いて、マサバのことを思いだした。確かにふにゃふにゃした声だったし、あんま硬いもの食べられなさそうだった、と、そんなこと考えてる場合じゃない。エコロは、床に目を落とした。ここまでくれば、なんとなく察する。第4の能力とは──
「──ボクの第4の能力は、その高周波振動を、規模を増幅させた状態で、共振によって無理やり引き起こす。要するに、脳震盪を引き起こす力だ」
そう言って、どこかから取り出した、B5サイズのノートをぱらぱらと捲る。『能力取り扱い説明』と書かれている。
「……梶さんが書いてくれたんだ。知らなかったじゃ済まされない、って」
彼女が開いたページには、こう書かれている。
──『振動の恐ろしい点は衝撃が継続すること。1秒で成人男性の全力アッパーカットに相当する衝撃を、キミは連続して起こし続けることができる。キミのその力の前では、どんな屈強な人間だろうと全員首の座っていない赤ん坊だ。怒りを収める自信が無いのなら、使うべきではない。端からこんな力は無かったものと思いなさい』
僕は、どんな顔をしているだろう。多分、見るに堪えない表情をしている。
それでも、彼女は使ってしまった。弱い僕を、守るために。
「ぜんぶ、インチョーの言っていた通りだよ」と、エコロは下を向いたままで、独り言のようにつぶやく。
「ヒナ姉は、精神的に不安定だった。ボクは、インチョーの言う『高圧的な態度』──姉のストレスの捌け口になっていた。それでも、反撃しなかった。梶さんから教わった通り、人を殺せる力は使ってはならないと、耐え忍んでいたけれど、あの日、キミがやられて、それで、言い訳ができた。日頃の鬱憤を晴らすために、我慢ならなくて使ってしまった。それが、すべての始まりだった。梶さんは」
一度言葉を切って、恐る恐る、判決を仰ぐように顔を上げ。足を、声を、震わせて。
「──梶さんは、ヒナ姉の事故が、脳震盪の後遺症で起きたものだと思ってる」
……ここまでは、想定通りだ。「で、おそらくお互いに、証拠の提示ができないのでしょう。梶さんは貴女のせいだと決めつけていて、貴女はそうは思っていない。だから今、こうもこじれているワケですね」
そう言うと、エコロは途端に晴れやかな顔になって、うんうん頷いて、また少し陰った表情に戻った。たぶん、僕が実際に梶さんから被害を受けたことで怒りを露わにすると思っていたのだろう。分かりやすい表情の変化を眺めながら、考える。彼女にとって、第4の能力は、梶さんの誤解を招いた忌むべき力で。僕に対して新たな誤解を生むことを考えると、秘密にしておきたかったもののはずだ。それを、今になって急に明かしたのは、巻き込んだ申し訳なさもあるのだろうけど、それ以上に。
「僕が最後に受けたのは、第4の能力ということでよろしいのでしょうか」
顔にレーザーポインターを当てられ、気づいたら気絶させられていた、梶さんの武器。それが引き起こす症状は脳震盪であると、病院で偽の説明をしたエコロは、先んじて知っていた。頭を指さし聞くと、彼女は頷く。
「そう。彼の使った武器は、ボクの能力を模倣する。レーザーポインターで重ね合わせ位置を決めたら、テレパスの要領で、2つのスピーカーから出る超音波を重ね合わせて歯の高周波固有振動の音を作ることが出来るんだ。それを歯に当てて、脳震盪を引き起こす」
梶さんの肩に乗っていた、球形スピーカーから、音波が出ていると見て良いだろう。「対抗策は」と聞くと、
「音波を当てる位置を決めるレーザーポインターが顔に当たらないようにすること。もしくは、ノイズキャンセリングヘッドホンの要領で逆位相の音を当ててもいい。そうすれば、音は打ち消し合って消える」
「……そんなこと、出来るんですか?」
「うん。けど、ゾウのときと同じで、それに集中して、喋れなくなる」
続けて「だから」と呟いて、彼女は僕の手を握る。手の甲の生傷が見えていないようで、傷口に触れるのも厭わず、握りしめる。その瞳は、妖しく輝いている。
「一緒に梶さんを説得してほしい。梶さんの武力から守るから、その間に、どうにか梶さんを説得して欲しい。証拠なんて無いだろって、こんなこといつまで続けるつもりだって、言い方はなんでもいいけど、どうにか止めて欲しい。脅すような言い方をするけれど、それが身を守る一番の手段だ。だって梶さん、言ってたでしょ」
──『守るべき親しい人を、永久に失う痛みを味わってほしい』
僕は、何も答えなかった。今エコロは、非難されるべきことを言ったのだ。当人にも自覚があるらしく、僕の手を上から握る手の体温が、上がってゆく。
「全部遠くで見てたし、聞いてた。足がすくんで動けなかった。助けられなくてごめん」
手を握る力が、強くなる。
「でも、インチョーが一緒に戦ってくれるなら、頑張れるから。頑張るから──」
捨てないで、とでも言うかのように。
僕は、手を振り払う。エコロは「あ」と小さく驚いて、払われた手を握りしめ、唇の端を噛んだ。
うん、当たり前だけどすっごく誤解されてる。急いで自由になった手を使って、「なんだ、聞いていたならこれはいらないですね」と芝居がかった口調で人魚姫の本の仕込み表紙からボイスレコーダーを取り出す。エコロは、目を丸くして固まった。
「人魚姫の本、テーブルの上に置いていたでしょう。この中にレコーダーを仕込んでいたのです。梶さんが詐欺行為を認める様子を、貴女に伝えるために。元から貴女の味方です。それは今も、変わりません──脅すような言い方をしなくたって、手伝いますよ」
正直、苛立つ気持ちもある。どう考えたって彼女の行動は身勝手で、客観的に見て僕はまさに、都合のいいように利用されているワケで。
「自分の身が恋しいのもありますけど、貴女のこともちゃんと心配です。変に遠慮した言い回しは止めてください」
それでも、見捨てる気は起きなかった。
その生き汚さに、過去の自分を見ている気がした。
言葉に詰まった彼女を視界に入れつつ考える。よっつ聞くべきことがあって、そのうちみっつは達成した。あとは、夢生のこと。エコロが話を全部聞いていたのなら、夢生が手紙を処分していたらしいことも耳に入っているはずだ。武力で脅されていたのだろう彼女のことを、僕と同じように味方に引き込めたのだろうか。
おそらく、最善の結果とは行かなかったのだろう。だって、今しがた頼まれた僕の役目はただの説得要員。極論、口がついてれば誰でもできることだ。事情を知る夢生が味方にいるのなら、夢生に頼めばいい話だ。
噂をすれば影、小さな足音が聞こえて、2人で廊下の方を向くと、扉が遠慮がちに開いて、「下姉さま」と声がする。
ゴスロリ服に知的な眼鏡、小さな賢者が廊下から顔を出す。ただし、右手の中指にもとあった包帯に加え、頭にも、痛々しい血の跡がついた包帯を巻いている。三つ編みツインは包帯のせいでストレートへと変わっている。幼き日のエコロが重なって見えて、ぼうっと眺めてしまった僕を夢生は見て、「インチョーさん、久しぶり」と社交辞令とばかりに一瞬微笑んで。
「それで姉さま、引っ越しの決心はついた?」
────
エコロは夢生に引っ越しについて聞かれると、わたわたと僕と夢生との間で視線を往復させて、悩んでいるような素振りをして黙ってしまった。夢生は予想がついていたようで、これ見よがしに深いため息をついて、僕の方に向き直った。聞きたいことがあれば答えるわ、とのことで、頭の包帯を指さすと、梶さん被害者のお仲間よ、と口を尖らせる。
曰く、僕がケーキ屋で襲撃を受けたのとほぼ同時刻に、夢生も梶さん擁する音波兵器の被害を受けていたそうだ。彼は僕のところにいたのにどうやったのかと言えば、電話。受話器を添える耳周辺には奥歯がある。そこを揺らされ、卒倒して床に頭を打ったのだという。廊下に備え付けられた固定電話を二人で見に行くと、前にナプキンに梶さんが書いた番号と同じ番号が、確かに履歴に残っていた。
エコロはついてきていない。僕は、そうと悟られないように身構えて、「どちら側ですか」とだけ聞いた。夢生は、「見てるだけの不甲斐ない姉でごめんなさい。だいたい聞いたわ」と、二度目のため息をついて。
「インチョーさんが予想した通りよ。水野さんの手紙を隠したのはわたし。梶さんの作った払込取扱票を渡したのもわたし。全ては、梶さんを刺激しないように──下姉さまが大人になるまで復讐はしないって言ってたから、賭けたのよ。ほとぼりが冷めるのを、大人になった後、怒りを忘れてしまうのを期待していたわ」
結果はこの始末、と頭を指さす。
「彼は宣言通り、下姉さまが高校生になったとたん暴走しだした。私だけならまだしも、部外者のインチョーさんまで怪我させる復讐の化身に、もはや言葉は通じないわ。大人の元へ逃げるしかない」
「それで引っ越しですか。アテはありますか。水野さんはいつでもウェルカムみたいでしたけど」
「当たらずも遠からず。陽菜子姉さまの葬式にいらしていた人たちとコンタクトを取って、住まわせても良いって人を見つけたから、そこへ引っ越すことにしたのよ」
「……当人は、あまり納得していなさそうでしたけど?」
「『家を空けてほったらかしにして、お母さんやお父さんが帰って来た時になんて思うか』ですって。あの人たちに帰る気なんてあるのかしらね、年末年始すら帰って来ないのに」
そう言って、三度目のため息。
「あとは、『引っ越し先の人が梶さんに狙われるんじゃ』とか言ってたっけ。インチョーさん巻き込んでるんだからなんにも変わらないと思うんだけどね。他人に遠慮して、自分の身を守れないんじゃどうしようもないと思わない?」
同意を求める夢生に、頷くことはできなかった。自分の精神の安寧を保つためだったのかもしれないけれど、夢生を守ろうとする気持ちは、本物だったと思うから。
──『学校が遠くなっちゃって、不便だから』
「学校については、何か言っていませんでしたか?」
「……言ってた言ってた。電車通学になったら部活が大変じゃないかって。でも、便利さより身の無事よ。時間がかかると言っても通えないワケじゃないんだし、部活もそのまま。文句は無いと思うんだけどねえ」
そう言って、恨みがまし気な瞳で僕を見る。
「たぶん、引っ越しを渋っているのは貴方のせいよ。下姉さまは自分で自分の身を守れるもの、身の安全は二の次になる。ああだこうだと私のためだって言ってるけど、実際私のことなんてどうでもいいんだわ。お荷物の妹についていくより、気になってる男の人の近くに住む方が良いのよ、きっと」
僕は、首を横に振った。答えを返すことはできなかった。考えを纏めるのに忙しい。会話に脳を割く余裕が無い。
(……エコロが引っ越しを渋っているというより、夢生が引っ越しを急いている)
それは間違いが無い。そうでないなら、『梶さんに襲われた』なんて嘘をついて、仰々しい包帯をつける理由が無い。彼女は偽物の怪我でエコロを脅して、なんとか引っ越しをさせようとしている。
(……でも、何のために)
言葉通り身の安全を守るためだとしたって、大人を頼ったところで何の役に立つだろうか。頼ったところで、エコロの能力を模倣した兵器に太刀打ちできるワケがない。身を守ることを第一に考えるなら、やはり最善はエコロの側にいることだ。第4の能力を打ち消せるのは、彼女しかいないのだから。
(……そもそも、夢生は梶さんの指示に従っていた。その支配が解けたとは、誰一人、一言も言っていない)
引っ越しの先が、エコロの行く末に対して倒錯的な欲望を抱いている梶さんの差し金であるとすれば、具体的に何が起こるかは想像できないが、よからぬことになるのは間違いない。
だから、エコロは引っ越しを渋っている。夢生のことを疑っているから。夢生はそのことに気付いて苛立っている。お互いに、口には出せない。口に出した瞬間が、決裂の瞬間だから。
「下姉さま、聞いてるんでしょう。どうなの。引っ越しを拒む、合理的な理由があるの」
リビングから半身を出して廊下を覗いていたエコロに声がかかって、彼女は肩を跳ねさせ、慌てて下を向く。下を向いて、答えない。僕は内心、目を覆った。痛々しくて見ていられない。思い出すのは、京子さんの件で放課後に話した時のこと。
──『唇が見えるように喋ってくれないと聞こえないから、よろしく』
要するに彼女は、身体的なハンディキャップすら利用して、『聞こえなかった』と、結論を先送りにしようとしているのだ。夢生は、4度目のため息をついた。エコロの肩が、ぴくりと跳ねる。それを見て、夢生は。
「……下姉さまに後で言っておいてくれる。夢生は、一人で引っ越しましたって」
そう言って、くるりと僕にも背を向けて、玄関のドアを掴む。
間違いなくキレていた。慌てて腕を掴んで、「荷造りは」と聞くも、「服もご飯もあっちで用意してもらえるからいらないわ」と振り払われる。
あまりにも唐突に扉が開いて、夜風が入る。「もう夜ですし」と苦し紛れに引き留めても、夢生はもう僕の方を見ていなかった。下を向いたままのエコロをじっと見ているその瞳の色は、失望一色に染まっている。
「……『おねーちゃんですから』だっけ」
エコロには、視界の端で唇の動きが見えている。けど、嘘をついていたことが明るみに出るから、反応できない。それならいっそ本当に見ないようにすればいいのに、それもできない。見たくないものほど、見てしまう。から、夢生の、怒りに任せた、関係の終わりを意味する言葉さえも。
「あまり保護者面しないでね。この家を守っていたのは、お姉さまじゃなくて梶さん──お姉さまが守ってたものなんて、何一つ無いの」
───
夢生の最後の一撃は、致命的なものだった。抜け殻みたいな無表情で、機械的に食卓にご飯を配置してゆくエコロに、ぎこちない笑顔を向ける。
「……まあ、本人も言い過ぎたと思ってるみたいですし、反省していて可愛いものじゃないですか」
確かに夢生は出て行って帰ってこなかったが、彼女が家を出た直後、ポストから音がしたので見てみれば、住所が書かれた紙が入っていた。「ここに引っ越すよ」ということなのだろう。その紙を畳んでエコロに渡すと、彼女は、目を泳がせながら、独り言みたいに。
「中学生がひとりでこんな夜遅くに出歩いて大丈夫かな。今すぐにでも連れ戻した方が良いのかな」
「それが出来るんならやればいいと思いますけど。さっきの惨状で追いかけて帰ってこいって言えます?」
うぐ、と呻きながら、僕の分までよそって渡してくれる。多分、普段は夢生にやっていること。染みついた親代わりとしての仕草に、どんな顔をすればいいのか分からない。
『確かに夢生は中学生ですけど、貴女も一年前までそうだったんです。親代わりとしての責任を優先する気持ちはあるのでしょうけど、いったんそれはさておいて、年の近い妹と思い切り喧嘩したって良いんじゃないでしょうか』
なんて、そんな台詞を吐けるのなら、手に傷はついていない。似たような台詞をさっき吐いたような気もするけれど、それは自分のことだから言えただけ。他人の人生を決定する優しい言葉を、僕は口に出せない。それに流されたうえで逆恨みしそうになった自分の醜さが、蘇るから。
「……あのさ」
エコロが口を開いて、けど、すぐに噤んだ。僕のポケットに入ったスマホが、デフォルトの着信音を鳴らしたから。念のため番号を確認する。梶さんではない。というか名前が表示されてる。母さんだ。僕は顔を顰めながら、応答ボタンを押す。なあなあで終わらせられるかと思っていたけど、まあそんなはずはない。エコロが今さっき抱いていた不安を、彼女は数倍の責任感と共に抱いているのだから。
「もしもし──『アンタいま何処いんの!?』母さん」
『入院したってこと以外何も知らないのよこっちは。香澄に聞いても適当なことしか言わないし。バレーボールで脳震盪とかなんとかって!』
「それは大変──『もう退院したの? 今何処にいるの!?』……もう退院した。いま友達の家」
『普通そういうことがあったらまず家に戻って報告でしょうが。常識ってもんが無いんじゃないの!?』
言い訳も反論もさせない勢いで、母はぎゃいぎゃい捲し立てる。ヒステリーは遺伝なのかもな、と思うとともに、何も言えない自分がいる。ついさっき、わずかながら夢生が家を出て行った不安を共有したから。僕は子供だ。世間から見て、親の庇護下にいる。保護者を安心させるのが、子の務めだ。
なんと言い訳をするか考えていると、エコロが横から手を伸ばしていて、ひょいと電話をひったくる。画面をオンにして、「ご紹介に預かりました、友達です」。目を丸くして固まった、母さんの顔が見えた。
「大事な話があると、ボクが彼を呼びつけました。インチ……拓実さんは、無理を押して来てくれたんです。我儘を言ったのはボクです。あまり、責めないであげてください」
『何を騒いでるんだい、お母さん』
母の背後を父が通りかかって、母は無言で画面を見せる。父はエコロを画面に認めるとしばし固まり、背後に映った食卓を見て目を丸くし、僕に視線を向けて優しい笑みを作った。
『拓実、お父さんな、これから家にバルサンを撒こうと思うんだ』
「……やめてくださいマジでそういうノリ。違いますからね友達だって言ってんでしょ。日帰りとはいえ入院費だってバカにならなかったんですから」
父の言わんとすることを察して、口を挟むと、不思議そうな顔で、
『なら、帰って来るのか? 香澄ちゃんから帰るなって言われて、反論のひとつもしなかったのに』
これだ。これだから、僕は父が苦手なのだ。顔を顰めて無言でいると、
『別に、帰ってくるなって言ってるわけじゃないんだ。不審者のひとりやふたりに目を付けられて、ビビッて息子を追い出すほど柔じゃない。けど、受け容れられることを前提にするのは違うだろう。自分は間違ったことをしていないから、黙ったまんまでも受け容れられるべきだって、そりゃ傲慢だよ。まずは「間違ったことをしていない」って、説得しなくちゃいけない』
「でも、姉さんは」
『「話が通じない」ってか?』
「……」
『そう思っているうちは、壁を作っているうちは、ずっとお前はそのままだよ』
黙っていると、父は隣のエコロに再び笑顔を作る。
『というわけで、家じゅう煙たくなるもんで、今日は帰ってこれません。よろしければウチのバカ息子を泊めてやってください』
『何を勝手なこと言ってるのお父さん、先方にもご迷惑が、というか事情知ってるんじゃないの──』
「切れちゃった」
「……中学の時に姉さんがひとり暮らしするって言いだしたの、半分くらい父さんのせいだと思ってます。あんな感じで、思春期の子供にもお構いなしで」
言い訳だ。格好悪いと自分でも思う。「ホントにね、ボクも耳が痛かったよ」とエコロ。
誤魔化すように、「そういえば」と口に出した。「電話の前に何か言いかけてませんでしたか」と。彼女は、「ちょうどいいや」と微笑んだ。
「寂しいから、泊っていかないって聞こうとしてたんだ」
夕食を終え、入浴を済ませ、あとは寝るだけ。ただそんな気分にならないのは、ここがいつもの自分の部屋ではないからだ。
『これ、夢生の部屋の鍵。寝室に使って……あ、ちょっと待って、たぶん床がグラウンドの人工芝で汚いから、一回掃除機かける。待ってて』
そんなこんなで掃除をしてもらって、陽菜子さんの部屋、今では夢生の部屋に、お邪魔することになったのだ。家具はタンスとベッドと学習机、それから、趣味の数々。遠慮がありつつも、椅子を引いて机に向かって、部屋を一面、くるりと見渡す。エコロと違って、ある程度趣味の物が散らばって、人となりが分かる部屋だ。
壁には地元のサッカーチームのポスターが貼られ、洗ったばかりと思われるビブスがハンガーに掛けられている。机の横には、埃を被った子供向けのデザインのサッカーボールがある(フットサルとサッカーってボール違うんだっけ、あんま覚えていない)。クローゼットには『趣味の服、開けるな!』とある。ゴスロリ服が入ってるんだろう。興味はあるけど流石に開けないよ。
(……夢生は、何処へ行ったのだろう)
固定電話に記録されていた梶さんの番号は、090から始まる携帯電話番号だ。第4の能力での攻撃だったと言っていた夢生への電話は、携帯電話からかかってきたことになる訳だが、そうなると、夢生の証言は成立しない。
それは、携帯電話の通話音声が、実際の声ではないからだ。携帯電話の通話音声は、コードブックと呼ばれる機械音声のデータベースから、似た周波数の声が代替として出力される。そして人間が発せない音をデータベースに載せる必要はないので、コードブックに超音波はない。梶さんは電話で攻撃なんぞできないのだ。
あの頭に巻いた包帯は見せかけの物で、実際彼女は怪我をしていない。怪我をした振りをするのは、エコロに引っ越しを強いるため。
(……エコロが、それに気付いているかは分からない。でも、不自然なところはいくつかある)
ひとつ、そもそも夢生が郵便物を処分するという裏切りをしていたにも関わらず、それについて言い争いをした様子が見られないこと。まるで、予期していたかのような振る舞いだ。
ふたつ、引っ越しの提案に対して、妥協案の一切を出さなかったこと。お試しで数週間とか、引っ越し先の人とひとまず顔合わせとか、そうした姿勢を一切見せず、強硬に拒否の姿勢を示した。
みっつ、住所の紙を見せても、検索ひとつしなかったこと。口では追いかけなければと言いながら、焦っている様子は見られない。まるで、行き先が分かっているかのように。
……これ以上は考えても分からない。思考を保留して、机の上を見る。よく整頓されていて、デスクマットの中身がきちんと見える(ちなみに僕の机が物が大量に置かれてそんな隙間はない)。中には通知表や賞状の数々が敷かれていて、夢生の優秀さが見て取れる。
そんな整頓された机の上に唯一あったのは、写真立てだ。映っているのは三人。小学生くらいの子供が一人、赤ん坊一人と、大人一人。大人は梶さんだ。今と比べてかなり若い。子供の方は──
「……夢生?」
エコロによく似た見た目で混同したが、これは夢生だ。いつもの特徴的に編んだ幻想的な髪型はいずこへ、包帯を巻いていた今日のような、昔のエコロのようなストレートのロングヘアで、眼鏡をかけていて、赤ん坊を抱えて微笑んでいる。
「エコロと陽菜子さんが、いない……」
思考を整理するための独り言を放った瞬間、そこまで壁が厚くないことに気付いた。風呂から上がったらしいエコロが階段を上がる音が聞こえたからだ。僕は慌てて視線を学習机に備え付けられた本棚に向けた。いやあんま変わんないけど、家族写真まじまじ眺めてんのなんか嫌じゃない。
夢生は自分の部屋に入ったらしい。隣の部屋の扉が開いて閉じる音が聞こえた。また、木が軋む音が聞こえて、それから集中しているみたいで、静かになる。今度はドライヤーの音も聞こえてきた。エコロの部屋の机には大きな鏡があるから、風呂上がりの習慣を部屋で済ませているのだろう。
僕が今いる夢生の部屋とエコロの部屋は、隣同士、扉で直接繋がっている。机から立って、背中側にある扉へ向かい、ノックする。
『……インチョー?』
「はい。少し、お聞きしたいことが」
そう言うと、「ちょっと待って」という声と共に、ドタバタと音がする。それを聞きながら、自分の心境の変化に少し、戸惑っていた。普段であれば、こんなことはしない。他人を急かすことも、傷を暴くことも、しようとは思えない。自分のことで手いっぱいだから。
でも今は、躍起になっている。それは多分、自分自身を救うため。
「おまたせ」と前髪をいじりながら出て来たエコロは、ピンクの寝巻きを着ていた。急いでドライヤーをかけたらしいパーマのかかった茶髪は、ほんの少し湿っている。夢生の机の椅子に座った僕の顔を見たエコロは、そこで今日初めて、くすりと硬さの取れた笑みを見せた。
「なんです」
「……だって顔に書いてあるんだもの。デリケートな話題だから、どうやって聞こうかな、って、言葉選びを考えてます、って顔してる」
そう、僕が聞きたいのは、そういうことだ。とてつもなく不躾で、傷口に塩を塗るようなもの。
それでも、やらなくちゃいけない。この子が梶さんの怒りを逃れるところを見たい。そのためには梶さんを説得する必要があって。そのためには、おそらく、夢生について、正確に知る必要がある。
──『陽菜子姉さま、厳しかったから、事故で亡くなるまで姉さまとは一度も顔を合わせたことが無かったの。レコーダーを使ってやり取りしていたわ』
「夢生は、貴女が虐待を受けていたことを知っているのですか?」
「知ってる。というか、レコーダーに記録されていたのは、励ましの言葉だった」
感傷もなくあっさりそう言うと、エコロは引き出しから、キャラクターのシールが貼られたレコーダーを取り出した。画面を僕に見せ、『録音1』のボタンを押す。
『7日ぶりね、お姉さま。ご飯は食べさせて貰えてる?』
夢生の声だ。今とあまり変わらない。
『いつも通り、数日分のおにぎり、ありったけの保冷剤と一緒にクーラーボックスに入れてあるから、上姉さまがいないうちに温めて食べてね。食べられなかったぶんとゴミは回収するから、引き出しに入れておいて──何回没収されても、メッセージ、送り続けるから。負けないでね』
「……とまあ、こんな風に。京子ちゃんと同じ。凶行を止めたいとは思っていても、ヒナ姉の方が強いから、そういう気休めしかできなかった」
「レコーダーを使ってやり取りというのは、具体的にどのようにしていたのですか。顔を合わせたことが無いと言うのなら、直接手渡ししたわけではないのですよね」
「ボクは学校が嫌で、代わりに梶さんの家に通っていたんだ。なんなら休日も、家に居たくなくて、彼の家に通っていた。毎週土曜日、梶さんの家からここに帰ると、引き出しに、レコーダーと食糧が入ってた」
僕は、泊らせてもらっている、夢生の部屋を、元陽菜子さんの部屋を見渡す。
「夢生は昔も、この部屋が陽菜子さんの部屋であった時から、ここで過ごしていたという話でしたよね」
「……嘘だと思う?」
「……なんとも。ただ、当時夢生は小学三年生、貴女は小学六年生、陽菜子さんは社会人。同じ家で過ごしていて、各々が違うスケジュールで、社会の権利や義務をまっとうしていながら、一度も顔を合わせないなんてことは、そも不可能だと思います。それに」
さっきのことを思い出す。エコロが階段を昇る音も、風呂上がりのケアをする音も、この部屋から筒抜けだった。
「このふたつの部屋は、互いの息遣いが聞こえるほどの距離です。部屋の向こうに人がいるかいないかはすぐに分かります。そして、少なくとも僕が夢生であったなら、気にかけている姉の顔は、一度くらい見てみたいと思います。でも彼女はそれをせず、決まって貴女が留守の土曜日を狙ってレコーダーを置いてゆきます。おそらく彼女はこう言うでしょう。『会ってはいけないと言われていたから、様子を見て会わないようにしていたの』とでも」
そう言って、一階を意味するように、下を指さす。キッチンは、一階にある。
「であれば、わざわざ土曜日を選ぶのは奇妙です。貴女が『家に居たくなくて』とおっしゃるくらいですから、陽菜子さんは休日は家にいらっしゃったのでしょう。一日中家に居る彼女の目を盗んで、料理を拵え、メッセージと共に部屋に置くのは難しい。平日の放課後、陽菜子さんが仕事から帰ってくるまでの時間の方が現実的です」
「現に、少なくとも一度はバレているようです。『何回没収されても』と言っているあたり、最初に使ったレコーダーは陽菜子さんに没収されてしまったのでしょう。にもかかわらず、なんと夢生はお咎めなし。再び料理を作れるほどの自由が保障されています──赤の他人である僕の腹に蹴りを入れるほど短気な人の意に添わなかったのに、それだけで済んだのです」
長台詞を終え、エコロの表情を窺う。これから口にする予想に思い当たったらしく、唇の端を噛んでいる。
「……すべて、空想でしかありませんが」
机の上にあった写真立てを、目の前に置いて。
「夢生が真に警戒していたのは、陽菜子さんではなくて、父の、梶さんの視線ではないでしょうか」
「一度も顔を合わせたことが無いのは、そもそも住む家が違うから。仕込みの日に土曜を選んだのは、夢生自身が休日で自由であり、かつ父が貴女の相手にかかりきりになるから。貴女とのレコーダーでのやり取りという背信行為に気付いても陽菜子さんが手を出せないのは、夢生が陽菜子さんの妹ではなくて、梶さんの、恋人の連れ子だから。……何より、夢生が梶さんの命令を貴女に隠れて大人しく受けていたのは、もとより父娘の関係があったから」
「そして貴女は、そのことに前々から勘付いていたから、夢生の裏切りにそこまで動揺していなかった。引っ越しを急かされても首を縦に振らなかった。夢生の行き先に興味を示さなかった。夢生には、初めから、こことは違う帰る場所があることを知っていたから」
長い沈黙があった。僕には、これ以上聞くことが無かったから、ただ待った。
「……あんまり、気持ちのいい話じゃないんだけどさ」
ぽつぽつと、言葉が漏れる。
「ヒナ姉は、ボクに日常的に暴力を振るってた。ボクはそれが本当に嫌で、1枚扉を隔てた先に対して聞こえない耳をそばだてて、機嫌を窺ってた。足音や寝息なんかは、ぎりぎり聞き取れたから──前から、分かってたんだ。隣の部屋には、姉さんしかいなかった。小学3年生の妹なんていなかった」
「ある日の土曜日、ヒナ姉がお客さんを連れてきて、隣の部屋が2人になった。ひとりは背の低い子供だった。今思うと、あれが夢生だったんだと思う……ヒナ姉は、たまに来る夢生とボクを絶対に会わせようとしなかった。それで何か勘付いたんだろうね。次の週から、さっきみたいなメッセージと一緒に、ご飯が届くようになった」
そんな間接的な手助けにとどめていた夢生が、陽菜子さんの葬式を契機に、妹を自称し同棲を始める。それは、京子さんのように、直接止めに入れなかったことへの罪滅ぼしか、それともその頃から梶さんの命令は始まっていたのかは、夢生本人に聞かないことには分からないけれど。少なくとも、エコロに抱いていた違和感は解消した。
エコロはそうした可能性に思い当たっていたから、夢生の裏切りも予見していた。でも、夢生と別れる最後まで、それを口に出すことは出来なかったのだ。「すみません、言いづらいことを」と、暗に質問の終わりを告げると、彼女は、口を真一文字に結んで。
「ボクにも、ひとつ質問させてくれる」
改まってなんだと言うのか。頷くと、彼女は。
「……なんで、怒らないの?」
そう問うたエコロの表情は、質問をする側にも関わらず、追い詰められているように見える。彼女はそのまま順に指を立てて、
「ヒナ姉の時も、石山くんの時も、水族館の時も。理不尽な目に合っているのに、ちっとも怒らないよね」
「陽菜子さんの時は、自分の身が危うかったからです。従わなければ、追加で被害を被ると思っていました。石山くんの時も同じですね。自分の身が危うかったからです。水族館のときは──何か理不尽なことありましたっけ」
「惚けないでよ」
棘のある声だった。別れ際の「ごめんね」が、翌日のぎこちない誘いが脳裏に蘇る。
「気付いてるんでしょ。前に渡した、エミューのお守り。あれの中身が、スマートタグだって。おまじないなんて、中身を見られないための方便で、梶さんを呼んだのは、梶さんにインチョーの位置を教え続けたのは、ボクだってこと──教えてよ。なんで怒らないの。なんでそんなに、協力的なの」
それは、ずっと溜め込んでいた疑念なのではないかと思う。僕に限らず、京子さんにも、夢生にも、水野さんにも。答えを聞くのが恐ろしいと、そんな追い詰められた顔で。
「ボクが、怖いから?」
少し考えて、控えめに言葉を発する。
「まず聞かせてほしいんですけど、これって本当に貴女の発案なんですか?」
じろりと睨まれた。誤魔化すな、とでも言いたげだ。
「いえ、惚けてるわけではなくて。スマートタグの存在には確かに気付いていましたけど、アイデアの首謀者はどう考えたって夢生でしょう。怒り心頭の梶さんが貴女から『これがボクの関係者の位置ですよ』って言われて、受け取るわけないんですから」
「……」
答えない。たぶん、妹に責任を擦り付けてる感じになるのが嫌なんだろうな。僕は沈黙をいいことに、そのまま続ける。
「狙いは多分、夢生が言っていた通りです。怪我人が出れば、自分のやっていることを省みるんじゃないか、ってことですね。で、僕がお守りを貰ったのは4月ですから、この時点で、梶さんの脅迫は始まっていたわけです。夢生が弾いたのは水野さんからの手紙のみで、家に直接届く脅迫状はそのまま貴女に贈られていたんでしょうね」
「どんな気分だったんでしょう。いつ来るか分からない復讐に怯えて、スケープゴートにしようとしてる相手とにこやかに話して、内容に察しのついた手紙のことを、覚えがないなんて言って。いやはやすっかり騙されてましたよ。演技力の高さは確かに怖いかもしれません。おーこわ」
茶化しつつ怖くなんざないと暗に伝えても、彼女の警戒は途切れない。じっとこちらを睨んだままだ。ちょっとおかしな話だとは思う。先に裏切ったのは彼女の方で、謝られた覚えはなく、そのことを棚に上げて、僕に胸の内を曝け出せと迫っているわけで。
それが道理に反することを、彼女自身も理解している。深く息を吐くと、肩を跳ねさせた。
「真面目な話をご所望ですか。梶さんとの話を聞いていたなら、疑問に思ったのではないですか。『人殺しどうし』みたいなことを彼は言っていたと思うのですけど」
人差し指と、中指を立てる。
「貴女と同じように、人生が劇的に変わってしまった日が、僕にもありました。ひとつは、それこそ貴女と同じ、陽菜子さんの日。もうひとつは、僕も、人殺しと誤認されるようになった日」
「貴女と違って、僕を糾弾する人は、もういません。陽菜子さんは亡くなって、もう一人も亡くなって、その人たちの親族も、会ったことは無いですが、僕を責めはしません。にも拘わらず、僕はあの日からずっと、自分の世界に閉じこもっています」
手の甲を見ると、塞がりかけの茶色い傷と、今朝できたばかりの紅の傷が混じっている。生傷が絶えない。起きているときは、そんな気分にはちっともならないのに。
「自分で自分を傷つけることに、なんの意味があるでしょうか。罪を犯したのなら、迷惑をかけた人に償うべきで、償う相手がいないにしても、一度やってしまったことはどうあっても取り戻せないのだから、次が無いように、肉体か精神か、どちらにせよ強くなることに全霊を注ぐべきで。自分自身を傷つけたって、可哀想だって天から幸福が降ってくるわけではないのに。そんなことは、頭ではとっくに分かっているはずなのに」
朝起きると、いつも虚しい。何よりも、自分の滑稽さが身に染みて。
「いつからか、癖がつきました。取り返しのつくことも、自傷で解決しようとする癖がつきました。父さんに指摘されたような、どうせ理解されないと、傍から交渉を諦めるのもそのひとつなのだと思います──ええ、諦めていました。ずっとこのままだって」
言葉を切って、虚空にやっていた視線を、彼女の双眸に向ける。揺れていた。後悔の色に染まっていた。
「でも、貴女に出会ってしまいました。初めはまるきり別の人種だと思っていた貴女が、似たような感情を持った人であると、知ってしまいました」
今になって、思う。再会を果たした日のこと。
──『人間、欠点がある人のことも、そういうもんかって受け入れられるもんだよ』
あれは、エコロ自身の、僕自身の願望だ。
生き汚い自分と、誠実でありたい自分の狭間で、陽菜子さんとエコロの狭間で、ゴードンとお姉さんの間で、梶さんと僕の狭間で、僕と夢生の狭間で揺れる天秤を、壊してしまいたいって願望だ。
「勿論、ただ利用されるだけは気に食いません。けど、貴女は、謂れのない罪を否定するために、責める梶さんを説き伏せるために、僕を利用したのだと思いました。その気分がよく分かってしまって、責める気が起きませんでした。それが、怒らない理由です」
湖のほとりに揃えられたローファーが、今でも時折、頭に浮かぶ。
朝起きたとき、昼に幸福に浸るとき。夜、一日を振り返るとき。夢から醒める一瞬の不快に似た感覚が、現実への没入の邪魔をする。
エコロは、もはや追い詰められた表情をしていなかった。痛ましいものを見る目で、僕を見ていた。たぶん同じ話をされたら、同じ顔をするだろうと思う。僕たち、昔はもう少し幸せそうな顔をしていたはずなのに、どうしてこうなっちゃったんだろうな。「で、協力的な理由ですけど」と、放課後のあの日と、なんだか似た構図を感じながら。
──『貴女が話すところを見たい』
「僕は、貴女が梶さんの怒りから逃れる瞬間を見たい。言葉が通じる瞬間を見たい。それを見れば、無意味な自傷癖から、抜け出せる気がするんです」
───
エコロは僕の我儘を聞くと、ただ「分かった」とだけ言って、自分の部屋へ戻って行った。彼女が何を思ったのかは分からない。手伝う理由が私欲によるものだと知って、失望したのかもしれない。考え出すとキリがないと、僕は思考を取りやめた。今日は自傷に走りたくないから。夢生のベッドを使うだけでも問題な気がするのに、血で汚すとか論外だ。電気を消して、ベッドに寝転がる。エコロの部屋の電気は、まだ点いている。案外夜更かしなんだなと、2つの部屋を区切る壁を撫でると、コン、と音がして。コン、コン、とノックが続いた。起きてるか、と聞くみたいに。なんとなく一回返すと、頭上で無遠慮に扉が開いて、隣の部屋の光と共に、エコロが遠慮がちに入ってくる。
「電気点けていいですよ。寝たばっかりなので」
「……いいよ、このままで。すぐ済む用事だから」
そう言うと、彼女は。
「ごめん」
頭は下げていない。表情は、逆光でよく見えない。でも、予想はついた。
「心配してくれる二人のどっちにも離れて欲しくなくて、自分で考えることを放棄した。責任を無かったことにして、コイツに言われたからって心配してくれる人に責任を全部擦り付けて、悪事を正当化した。インチョーの事情を聞くより、謝る方が先だった……ほんとに、ごめん」
「さっきも言いましたけど、怒る気が起きないんです。謝らなくて結構です」
「それでも、だよ。謝っていいのなら、謝らせて。それが、ボクのためになる」
そう、エコロは、「インチョーがボクの気持ちを分かる気がするように、ボクもインチョーの気持ちが分かる気がするんだ」と。
「たぶん、自分を傷つけるのは、怒られないから。誠実でありたいと思っているのに、生き汚い自分が勝ってしまうのを、許せないから。でも、生き汚い自分のことも、本当は受け入れたい。だから、他人の生き汚い部分は、積極的に抱きしめたくなる──そうすれば、自分は誠実一辺倒でありながら、生き汚い自分が受け入れられている気分になるから。僕たちがずっと求めてる、誠実と欲望の共存が、実現できているつもりになれるから」
なんだか、小難しい言葉の並びだ。でも、真剣に考えたのだろうことは分かる。僕に伝わるように、彼女なりに言葉を探したのだろうことは。
「僕はあの日からずっと、自分の判断に自信がありません。余計なお世話って言葉を、初めて知りました。悪事を働いて叱られるのではなくて、良かれと思ってやったことで、逆鱗に触れたあの日から、人を殺したあの日から、今日までずっと、判断に迷いがあります──動物園の時も、石山君の時も。何かひとつ、己の善意に基づいて決めるとなったとき、頭にモヤがかかります。汗が止まらなくなります。誠実な自分なんてものをそもそも信じられなくて、すっきりと物を決められたことは、あの日以来ありません。そうして、もう、生き汚い自分がほとんどです」
「だからか、同じように誠実と欲望の狭間で迷っている人間を見ると、嬉しくなります。その人の迷いを晴らす手伝いが出来たときなんかは、天にも昇る心地でしょうね。人を自慰の道具みたいに使って、嫌な話ですけど」
お互いに、長話。不思議な気分だった。辿った道のりは違うのに、苦しみを共有できている気がした。お互い抱く悩みはシンプルで、それこそ一言で言い表せそうなものを、長々言葉を紡いで、伝え合う。
「たぶんさ、本当はそんなに考えなくたっていいことなんだよ。石山くんの時も思ったけどさ、偽善も善も、出力される結果がおんなじなら、貰った側は嬉しいわけじゃん。インチョーがどんな思いで石山くんの摘発を後回しにしたのかはさておき、それで彼は孤立せずに済んだわけで──なんて、他人のことは簡単に言ってしまえるのに、どうしてか気にしちゃうんだよね」
「他人ですか。『インチョーは、他人じゃないよ』とかなんとかって」
「やめて鳥肌立ってきた。でもそういうことだよね。自分のきったない欲望が見えて、スッゴイ嫌な気分」
エコロは、両手を後ろに回して、天井に視線を向けて。
「あーあ、なんにも感じなくなれるような強さが欲しい」
「強いんですかね、それ」
「分かんないけど。何か、盲目的に愛せるものがあれば、そんな細かいこと、気にしなくて済むと思うんだよ」
それはまあ、確かに、幸せだろうと思う。そういう、愛を注げる対象が、エコロにとっては夢生だった。そう思うから、僕は提案する。この子が梶さんの怒りから外れる景色を、見るために。
「そういえば、夢生が示した住所、調べたんですけれど」とスマホで地図を表示して、ものぐさに腕を伸ばしてエコロに見せる。ここから電車で一時間ほどの距離の場所だ。地図を見たエコロは、目を見開いたのだと思う。暗くてよく分からないけど。「梶さんの家じゃないですよね。小学生の頃の貴女が姉の目を盗んで向かうには遠すぎます」
そうなれば、まだ可能性はある。
「夢生が嘘をついてまでこの家から離れようとした理由は、そうした住所の指定を鑑みると、梶さんの追跡を撒くためだとも考えられませんか。戻れと叫ぶ彼の手を離れ、新天地で2人仲良く暮らすため、彼女は先を急いだのだとも考えられます──ので早速明日、夢生を追いませんか。楽観的な推測が当たるよう祈りながら、真意を聞き出しに向かいましょう」
「……分かってると思うけど、梶さんが待ち伏せている可能性だってある。そうなったとき、全力は尽くすけど、ボクが守り切れないことだって」
「四六時中一緒に居られるわけじゃないんです、貴女がいないうちに襲われたら僕負け確なんですよ。だったらどう考えても早めに元凶を絶った方が身の安全に良いでしょ。情とかじゃなくて合理的な判断です」
エコロは戸惑いつつも頷く。言質取ったり。
「はいそうと決まったらさっさと寝た寝た。眩しいので出てってくださーい」
照れ隠しに騒ぐと、彼女は大人しく自分の部屋に戻る。かと思えば、半身を出して。
「……返す返す、ごめんね」
「良いって言ってるんですけど」
「インチョーは、自分でもそうすると思うから謝らないでって言うんでしょう。でも、ボクはインチョーとは違うよ。インチョーは、迷いながらも自分で、天秤のどっちかを選んだ。ボクはそもそも、選択を放棄したから、夢生に見限られて今がある……自分の道は自分で決めないと、いろんな人に迷惑がかかるんだ」
──『自分から京子ちゃんに説明しなよ。何をやったか、なんでやったか、これからどうするか。許されるかは分からないけど、公衆の面前で暴かれるよりいいでしょう』
「……なら、これからどうします?」
言葉足らずだったと思う。それでも彼女は何を言いたいのか分かったみたいで、少し悩んで。
「裏切る前に、相談するよ」
それは、『裏切らない』と同義の言葉であろうと思うのだけれど。一度裏切った以上、そうは言えないのだろう。
そういう律儀なところが、好きだった。
「お休み、インチョー。今日は手の甲、掻いちゃダメだよ」
「善処します。そっちは明日、ちゃんと守ってくださいね」
────
学校を終えて、夢生が残した住所へ向かう。電車に揺られ1時間ほど、駅から歩いて15分ほど。2階建てアパートの1階の部屋。梶さんの住所ではないことは分かっていた。昨日立てた楽観的な予測が俄かに現実味を帯びて、足は自然と速くなる。たどり着いた玄関表札には、『水野』とある。僕たちは顔を見合わせる。頷いて、呼び鈴を押した。
「……その、井上心と申します、そちらに、妹が来ておりませんか」
遠慮がちにインターホンに声を掛けると、ドタバタと音がして1分ほどで、上下ジャージの女性が飛び出してきた。想定した通り、水族館の館長である水野さんだ。
ベリーショートの髪はちりちりボサボサ、首にヘッドホンがかかって、ジャージの腹周りにクロワッサンと思しきパリパリのパンのカスが付いている。いつの間にかかけていた指紋のついた眼鏡の奥の瞳は目の周りの隈で暗く見えるけれど、水野さん……の、はずだ。
「なんだね2人ともその目は。今日は休館日、オフモードなのだよ。徹夜トロコンチャレンジ中はみんなこうなるのだよ。孤独な闘いの証であってだね──」
「……夢生がそっちに来てるはずなんですけど」
無視して要件を伝えると、伊達であろう眼鏡の奥で、目が真剣に切り替わる。黒の太ぶち眼鏡で、追っているからか、夢生のものとデザインが似ていると思った。
「そのことなんだけど、まずはこっちの話を聞いて欲しい。その方が、話が早いと思う」
水野さんに続いて部屋に入ると、10畳くらいの単身者向けの部屋があった。テレビに繋がったゲーム機、端には昨日掃除しましたって感じのゴミ袋、流しには洗ってない皿の数々。正直意外に思っていると、「見ないふりをするもんだよ」と頭を軽く叩かれる。ゴミ袋を隅に寄せて、水野さんはテレビの前で胡坐をかいて、右手の親指と小指を立てる。電話のジェスチャーだ。
「墓参りの日、心ちゃんと話したじゃない。あのあと、夢生ちゃんから連絡が来てさ、心ちゃんと私を住まわせてくれませんかって。夢生ちゃんから聞いてる?」
「……初耳」
だよね、と水野さんは頷く。
「昨日の今日で話が180°違ったから、たぶんこりゃ心ちゃんと話し合ってないなって思って、いっぺん断ったんだけど、なんかのっぴきならない状況っぽかったから、話だけ聞くつもりで、昨日ウチに来るって約束してたのよ──でも、待ってたら電話が来てね、『やっぱり大丈夫です、お姉ちゃんと話し合って、2人で元の家のまま住もうって決めました』ってさ、それで安心、私はトロコンの旅に出たんだけど……どうやら言葉通り落着ってわけではないようで。家出かなんか?」と水野さん。
エコロは答えず、「携帯の通話履歴見てもいい」と右手を出す。ほい、と番号を表示して見せる水野さん。表示されているのは、やはりと言うべきか、梶さんの携帯番号。夢生はいま、梶さんの傍にいる。
昨日立てた楽観的な予測は脆くも崩れ去った。梶さんの娘である夢生が出て行ったのは、単に命令が終わったから。夢生は、梶さんの家に帰ったのだ。
「……夢生ちゃんは実際は梶さんの娘で、妹なんかじゃなかった。これは、梶さんの携帯番号……心ちゃんやけに落ち着いてんね。私今めちゃめちゃびっくりしてんだけど」
エコロに経緯を説明されて驚く水野さんを尻目に、僕は考える。夢生が梶さんの家に帰った、それはいい。そうなると問題は、僕たちがここにいる理由、夢生は何故、水野さんの住所を書き残したのか。「心当たりとか、無いですか」と、水野さんに問うと、彼女は記憶を検索するように、難しい顔をしてしばらく黙って、自信なさげに、絞り出すように。
「……そういえば、今朝、知らない住所から宅配便が届いてた」
と、部屋の隅にあったすでに開かれた段ボールを脚で引き寄せ、僕らの前に置く。蓋に《速達》と書かれた段ボール箱の中に入ってるのは、ハードケースの上に大量の緩衝材が巻かれ、厳重に梱包された、おそらくは楽器に、小さなメッセージカード一枚に、見覚えのあるボイスレコーダー、というか、これ楽器の方も見覚えが──。
「……ピッコロ、ボクのだ」
「昨日まで、普通に使ってましたよね。昨日の能力の説明の後、ベランダから回収は」
「してない。いろいろあって忘れてた」
差出人の住所を確認し、地図に表示してエコロに見せる。案の定、梶さんの住所だった。
となるとこれは、夢生の仕業だ。ベランダに置きっぱなしだったピッコロを持ち出して、メッセージカードとボイスレコーダーと共に、梱包して送ってきた。メッセージカードを確認すると、五線譜に、和音の音符2つがある。ド、レ、ソの和音の四分音符と、同じ和音の二分音符。四分音符の方にはそれぞれド、レ、ソの隣にA, C, H、二分音符の方にはド、レ、ソの隣に0, 2, 7と書かれている。
不可解だ。何が言いたいのか分からない。多分、それが夢生の狙い。
「……水野さんへの電話の内容は、本意ではないのではないでしょうか。夢生は本当に水野さんに助けを求めていたけれど、梶さんの手で捉えられ現在は軟禁状態にあり、水野さんの介入を恐れた梶さんに言われるがまま、心配いらないと連絡を入れたのでは」
エコロはピッコロを持って、夢生を思うように遠くを見つめて、頷く。
「ボクのピッコロを持って行ったのは、梶さんの家で軟禁状態になる予想がついていたから。どうにかボクたちに真意を伝えるため。ピッコロを返すためだからと軟禁状態を逃れ、宅配を用いて意思疎通のチャンスを用意するため、かな」
「ちょい待て待て。いきなり軟禁状態とか発想が突飛すぎんぞ。夢生が梶さんの娘だってんなら、帰って普通に幸せに暮らしてるかもしれないじゃんか」
「そうだとしたら、僕らに送るのは普通の日本語で書かれた手紙でいいんです。でも彼女は、この通り暗号を残しました。これこそが、軟禁状態である証拠でしょう」
「暗号?」と首を傾げた水野さんに、僕は人差し指を立てる。
「姉さんが『お客様の声』を丸めて廃棄したあの時、外側に数字の羅列が書いてあったのを覚えていますか。あれは数字とアルファベットを変換する暗号で、僕が小学校時代に考え、エコロと共に使っていたものです。彼女の部屋に暗号表がありますから、夢生もその存在を知っています」
「え、小学校時代の贈り物未だにとってあるってマジああごめんいまそれどころじゃないよね空気読めなくて本当ごめんなさい痛い痛い」
エコロに背中を叩かれる水野さんに苦笑いしながら、僕はメッセージカードを開いてみせる。
「これは、僕らに馴染みあるその暗号と、同じ仕組みだと思われます。その仕組みは、『音の高さをアルファベットに対応させる』ものです。そう思うのは、この横に書かれたアルファベットが不自然だからです」
「不自然」と、復帰した水野さん。
「音の高低とアルファベットの関係は暗号として強引に紐づけるまでもなく英語圏に存在しているのですけれど、この対応はド~シとA~Gの対応です。それに、順序にちょっと注意が必要で、Cから始まるんですよ。書き出すと、こういうことです」
ド→C, レ→D, ミ→E, ファ→F, ソ→G, ラ→A, シ→Bと書き出してゆく。
「ですが手紙を見ると、ドにA、レにC、ソにHが配置されています。僕はこの最後のHが、本来の英語音階表記では使わないHが、『これが暗号である』という夢生の意思表示であると思います」
「つまり、オリジナルルールでやるぞ、ってことだね。半音ずつアルファベットを当てはめれば合うから、こういうことだ」
すぐに理解して書き出すエコロ。水野さんは、こめかみに指を当てて。
「……隣の二分音符プラス数字は、音程を数字に変換するってことでオーケー?」
「そうだと思います」
纏めると、ド→Aor0,ド♯→Bor1, レ→Cor2, ……ソ→Hor7……、となる。僕はボイスレコーダーにイヤホンを刺した。
「あとはこのレコーダーに記録されているであろう曲の音程から、メッセージを割り出せるはずです」
エコロはイヤホンを耳に嵌め、紙とペンを持って書き出す姿勢を取る。さあ、反転攻勢だ──!
──と、思っていたのだけれど。
10分後、疲れ切ったエコロが書くのを止めた紙を見て、僕たちは顔を見合わせる。全員が全員、微妙な顔だ。苦笑いというか、呆れというか。結論から言うと、僕たちの予想は正しそうだった。ボイスレコーダーには電子ピアノで演奏された曲が収録されていた。機械的で強弱の表現が意図的に平坦にされたような演奏で、暗号であるという確信を一層深めた。ただ、暗号を変換した結果が以下の通りで。
『GAGAGCCCTTGTAGGCTCTGCCTTTTCTGTTTTGATTCGAATAGAATTAGGATCTACTACCATCATTTTAGGTTCTCCTCATTTATACAATGTATTGGTTACAGCCCATGCTTTTGTTATAATTTTCTTCTTTGTGATGCCTGTTTTAATTGGGGGATTTGGGAATTGAATGCTACCTCTATTGGTAGGTGCTGCTGATATGGCGTTCCCTCGCCTTAACAATATAAGATTCTGGTTTCTTCCTCCTGCAATAATTTTATTGCTAGTATCTTCTTTAGTAGAAGGAGGGGTAGGTACAGGTTGAACTGTCTACCCTCCACTAAGGTCGCTAGTAGGGCATAATAACCACTCTGTTGATCTAGCTATTTTTTCCTTACACTTAGCTGGTATTAGGTCTATTTTAGGTGCGGTAAATTTTATTACTACTATCTTAAATATACGAGCTCCTGGAGTTAGTTGAGAACGACTATCTCTATTTGTATGGTCACTTTTAGTGACAACAGTCCTTTTACTTCTATCTCTTCCTGTATTAGCGGGAGCTATTACTATGCTTCTTACTGACCGTAATTTCAATACAGGGTTCTTTGACCCTGGGGCTGGTGGAGACCCTATTTTATTCCAACACTTATTCTGATTTTTTGGTCACC10H』
「……これ夢生、意外と余裕あるのでは?」
予想の10倍長い暗号に、書き出しを担当したエコロはぶんぶん首を縦に振る。長い。なっがい。水野さんは苦笑いのまま机に向かってデスクトップパソコンを立ち上げ、「手打ちはめんどいなー」と言いつつ暗号を打ち込んでいる。立ち上げたパソコンで検索しているのは、配列情報データベースだ。
A, T, G, C。アデニン、チミン、グアニン、シトシンは、生物の設計図であるDNAを構成するヌクレオチドに結合する、4種類の塩基である。生物はこの塩基配列設計図に応じて、生きるのに必要なタンパク質を作っている。が故に重要で、塩基配列の情報は多くの場所で研究され、データベースに登録され続けている、と、生物の授業で習った。確か、高校の授業で。……これ、本当に夢生が考えたんだろうか?
「……分かったかも」
呟く水野さんの後ろからパソコンを覗く。何やら小難しい英語がズラズラ並んでいる中で、共通する単語があった。水野さんがドラッグして線を引いていて、水色の帯が掛けられたその単語は。
『clione』
「くらいおんえ」
「クリオネだよインチョー」
「……いやまあ、分かってましたよ、はい」
言いながら、思い出す。エミューのお守りについて水野さんに揶揄われたときの、エコロの返答。
──『水野さんだってヒナ姉にクリオネのストラップあげてたでしょ。クリオネだってハート型、でも姉さんに対してその、そういう意図なんてなかったでしょ。普通のプレゼントだよ。特別な意味なんてないの。分かった!?』
「……うちで働いてる子のロッカーの鍵には、水族館のガチャガチャのストラップを着けさせてたのよ。お土産コーナーにあるやつ。で、陽菜子に渡したのは、クリオネのストラップ。心ちゃんは知ってるよね」
ゲーミングチェアを回して僕たちに身体を向けて、水野さんは人差し指を立てる。
「手紙ではなく暗号を送ってくること、梶正幸に命令された通りの電話をさせられていたことから、夢生ちゃんは軟禁状態にあって、まともに私たちと意思の疎通ができない状況にある──そして、夢生ちゃんはわざわざキミたちをここに呼び寄せ、私の住所に暗号を送った。私にしかできないことを、あの子は求めている。そして、夢生ちゃんにとっての困難は、梶正幸の目を盗むこと」
《私にしかできない》《梶正幸の目を盗む》で一本ずつ指を立てて。
「そう考えると、クリオネは、待ち合わせ場所を示す暗号だと思う。《陽菜子のロッカーがある、水族館のロッカールームを密会所として使わせろ》ってこと」
「最後の数字は、そういう?」
声に出すと、水野さんは頷く。
「あのレコーダーは、時間指定で送られてきてた。最後の10Hが、時間を指すなら、指定時刻は配達された10時から10時間後の20時。あと2時間だ。車出すよ、行こう」
クリーム色の軽自動車に乗り込みながら、考える。正直、違和感が拭えない。というのは、クリオネの暗号について。水野さんの解釈を成立させるだけなら、遺伝配列を送る必要は無い。『clione』でも『kurione』でも変換できる曲を送った方が明らかに早いはずだ。わざわざ遺伝配列を使う所に、『軟禁を脱しようとする必死さ』よりも、『暗号らしさ』を優先している感じがする。
だいいち、軟禁を逃れるためという名目で、宅配便に楽器とほぼ白紙のメッセージカードを入れるまでは良いとして、あんな明らかに暗号ですって曲の記録されたボイスレコーダーを入れるなんて行為、梶さんが見逃すだろうか。嫌な予感がして、僕は2人に呼びかける。
「暗号は梶さんが用意したもので、ロッカーに彼が待ち構えている可能性はありませんか」
「大いにあると思う。確かなのは、夢生がピッコロを持ち出したってところまで。梶さんに利用されて、ボクらは誘い出されているのかもしれないね」
答えたのはエコロ。言葉とは裏腹に、迷い無くシートベルトを締める。
「そしたら逆にラッキーだ。言いたいこと、全部言える……なんて、インチョーに言ってもらうことにはなるんだけど。その時はとりあえず、『暗号作んの下手糞だぞ間抜け』って言ってくれる」
「……何もしてない今ですらお冠なのにんなこと言ったら絶対キレますよ」
「だいじょーぶだよ。絶対絶対、何があっても守るから。ね?」
両腕で力こぶを作って、気楽で、気軽で、雑な口約束だ。制服のスカートから伸びる両足は、小刻みに震えている。先に学んだ教訓を生かして、見ないふりをしつつ。
(……でも、実際そうだよな)
先に待つのが夢生でも梶さんでも、どのみちやることは変わらない。待つのが夢生なら彼女自身の意思と父の情報を聞き出すことが主目的になるし、梶さんならもう直接に会話を試みるほかない。危険に近づくのが一歩早まるだけだ。分かっている。いずれは立ち向かわねばならない。けれど、やはり恐ろしい。
普段は煩い水野さんも、緊張を感じ取ってか、静かに運転している。なんとなく気になって、声をかけた。
「にしても今更ですけど良いんですか。確証も無いのに付き合ってもらっちゃって」
「暗号が違ったらその時はその時。また美味しいご飯屋さんにでも連れてったげるよ」
「いえそうではなくて、休館日の施設の鍵開けって大変なんじゃ、そもそも水野さんの時間を奪って──」
「そういうこと言うの、やめて欲しいな」
珍しく強い口調に、エコロと顔を見合わせる。水野さんは、「ごめん」と誤魔化すように笑った。「最近寂しくってさ。上司になると、他人に触れなくなるのよ」
「セクハラ上司だ」と揶揄うようにエコロ。
「身体じゃないわよ、精神的に触れないの」
水野さんは話しながら、事もなげにハンドルを切る。
「将来何をやりたいとか、自分のチャームポイントはどこかとか、何を食べたいとか、何が得意とか、そういう自己表現を一切聞かなくなるの。部下は嫌われたくないってそればっかりでペコペコしてさ、生きるためだけにお互いを利用するって、割り切ってるのね──まあそりゃ仕事先の人間関係なんてそんなもんなんだろうけどさー、寂しいなって思っちゃうんだ」
駐車のために振り返った水野さんは、遠くを見ている。僕たちは声を掛けられず、ただ顔を見つめていた。その視線に気づくと、人が変わったようにカラッと笑う。「だからまあ、好きなだけ甘えて欲しいなって思うわけよ。金ならあるぜい」
「金で釣るあたりがあれっぽい。カオナシ」「なにおう」と、車を降りて駐車場を歩くと、水族館のガラス張りの入口が見える。近づいても開かないが、水野さんがICカードをかざすと自動ドアのランプが緑に光って、僕たちを暗闇の中に誘うように口を開ける。
水野さんは電気を点け、迷い無く歩いてゆく。『この先触れ合い用屋内プール 関係者以外立ち入り禁止』の扉を開くと、廊下の突き当りに、屋外プールへ繋がる自動ドアが見える。前に遊びに行ったときはあそこで、イルカへの指示出し体験をやったのだった。歩いてすぐ右に見える階段には、『関係者以外立ち入り禁止』のチェーンがかけられている。それを素通りした水野さんは、すぐ隣にあるロッカールームの扉をICカードで開く。
「……プールのにおい」
エコロの言う通り、今でも普通に使っている場所らしく、所々床が濡れている。部屋の壁際にはロッカーが並んでいる。縦2つ、横6つで扉がついていて、手前にスノコが敷かれていて、それぞれの扉には従業員の名前と、海生生物のステッカーが貼られている。「インチョーのお姉さんのやつ」とエコロが指した先には、《有山香澄》にシャチのステッカーが貼られている。海のギャング。ぴったりだと思ったのは黙っておこう。
「私はさっきの入り口で待ってるよ。夢生ちゃんが入れるようにしなくちゃだしね。夢生ちゃんが来たらインチョーくんの携帯に連絡して、ここに案内するから」
「重ね重ねありがとうございます」
「そういうの良いって言ってんでしょ。あと、はいこれ」
水野さんはエコロに手招きして、近づいた彼女に何かを手渡す。エコロの手の中で銀に輝くそれは、クリオネのストラップがついた、小さな鍵。渡されたエコロはというと、「お酒飲みたくなったの?」とすっとぼけた返し。
「……この状況で酒飲むほどイカれてないし、飲みたくなったんだとしても無免許の高校生に運転任せるわけないでしょ。ロッカーの鍵よロッカーの鍵」
水野さんは、姉さんの上のロッカーを指さす。『井上 陽菜子』にクリオネのステッカーが貼られている。
「陽菜子さんは亡くなったはずでは」
「あの子のロッカー、物がとにかく多くってね。必要なものが分からなくて、処分のしようがなくってさ。いつまでも置いておくわけにゃいかないし、夢生ちゃんと心ちゃんが揃うタイミングで、持って帰る遺品を決めてもらおうかと」
「全部処分でいいよ。お金は出すから」
「……そんなこと言わずに、ね?」
陽菜子さんの名前が出た途端やさぐれ気味のエコロに、水野さんは困った顔だ。僕のことをちらと見ると、よろしく、と口パクして、逃げるように去っていく。よろしくって言ったってなあ。壁にかかった時計を見ると、19時45分。あと15分で、夢生が来る。
「どうしましょう。言われた通り、残り15分でロッカーの整理でもしましょうか?」
「別にやってもいいけど、急がなくてもいいと思う。夢生は来ないだろうし」
「……え?」
訳が分からず聞き返すと、エコロはなんというか、しらーっとした顔で僕を見る。本当にワケが分からなかったので首を傾げると、静かに長く、はあああああ、とため息。あれこれ本気で呆れられてる?
「いや、車の中から今の今まで気を張ってたのはボクだけだったんだなあって思うと、なんか徒労感と、インチョーに失望感が。昨日までのドキドキを返して欲しい。返せ」
「そこまで言います──あ、はいごめんなさい静かにですね」
思わず大声を上げて、エコロが人差し指を唇に当てるのが見えて、慌てて声量を落とす。まったく、と腰に手を当てて、しゃがんで、とジェスチャー。耳を貸せとのことなので、大人しく顔を横に向ける。
エコロが耳に顔を近づける。パーマのかかった前髪が、側頭部に触れてこそばゆい。
「……水野さん、嘘ついてるよ。何を言われたのかは分からないけど、梶さん側」
「え゛っ」とまた大声を出しかけ、静止されて慌てて口を押さえる。エコロは呆れを露わに僕を見て、「覚えてるかな」と人差し指を立てる。
「ボクは携帯を持っていないんだ。水野さんはそのことを知っていたから、手紙でボクに警戒を促そうとした」
頷く。何を今更、という顔をしていると思う。
「そして、ボクたちが説明するまでは、水野さんは夢生のことをボクの妹だと思っていたはずなんだ」
頷く。いや本当に、何を今更。
「そしたらさ、夢生からの電話が来たって言って、携帯電話の番号が表示されてたら、普通おかしいって思わない。緊迫した状況だって水野さんも知ってるわけでさ、誰かから電話借りたの、くらいは聞くんじゃないかな」
「……あー」
──『夢生ちゃんは実際は梶さんの娘で、妹なんかじゃなかった。これは、梶さんの携帯番号。心ちゃんやけに落ち着いてんね。私今めちゃめちゃびっくりしてんだけど』
確かに水野さんは、僕たちに指摘されて初めて、電話番号が梶さんのものであることに気が付いたような言い方をしていた。手紙を送るのは前時代的だと文句を垂れていた水野さんは、井上家の人物が電話で連絡してきたら人一倍反応しそうなものなのに。
「ボクはあの時から、水野さんを疑い始めてた。だから、インチョーが言っていた暗号の不自然さ──軟禁されて切迫してるって言うより、暗号らしい暗号を作った感じ──っていうのを聞いたとき、これは水野さんが作った暗号なんじゃないかって思ったんだ。遺伝配列の発想はともかく、クリオネからこの場所に紐づけるのもちょっと突飛に感じるし。水野さんに促されるまま車に乗って、中に梶さんが隠れてるんじゃないかってガクガクだったよ」
だって言うのにインチョーは、と睨むので、僕は余所見して口笛を吹いた。吹けないけど。エコロはため息をついて、「あと、ボクが疑う最大の理由がこれ」と、手元の鍵を振り、対応する陽菜子さんのロッカーを指す。
「スノコが敷かれてたり、所々濡れてたりしていることからして、ここは調教師さんのロッカーだよ。水場に出る人が使う部屋。ヒナ姉は受付担当の事務員だったから、ここは使わないはずなんだ」
なるほど、エコロが水野さんを疑う理由は理解した。僕は頷き、そのうえで改めて首を傾げる。「何が目的で、そんな嘘を?」
「さあ。でもボクを生かすために保険料の支払いやらすとか良く分かんない演出が好きな人だし、良く分かんない演出があるんじゃないかな。例えばロッカーにヒナ姉の日記が入ってて、ボクの能力で死ぬ前の恨み言が書いてあるとかね。こんなとこに誘い込んでおいて梶さんビビッて出て来ないし、思い切ってロッカー開けてみよっか。やりたい事やらせた上で全部踏み越えて、こんなもの屁でもないってボコボコに負かしてやろうよ」
たぶん、梶さんが聞いてる前提で言っているんだろう。柄にもなく挑発的な口調だ。でも、言葉ほどの余裕は無さそう。というのも車で見た時みたいに足が震えてるし、さっきまで周りに聞こえることを恐れていたのに、急に声が大きくなってるし。これあれだ、お化け屋敷のびっくりポイントが怖すぎてそれっぽいポイントでお化け来る前に威嚇しちゃうやつ。
「……そうですね、見ましょうか」
「なんか視線が生暖かいんだけど。てかなんでそんなに落ち着いてんのさインチョーは。もう呑気じゃいられない敵地のど真ん中だって説明したでしょ!?」
「自分より緊張してる人見たら落ち着く奴あるじゃないですか。あれです……と、ほら、ロッカー開けたら球面スピーカーないし梶さんとご対面とかあったら嫌なので、扉を開けますが中身の確認は貴女にお願いします。カウントするので構えてください。5,4,1,0ガチャ」
「インチョおおおー!?」
なお本当に開けてはいない。効果音を口走っただけだ。悪ふざけが過ぎるとエコロに背中を叩かれ、真面目にカウントして開けた二回目。
「「……きったな」」
ロッカーを開けてまず目に入ったのは、積み上がったレシートの山。奥が見えないほど豪快に積み上がっている。埒が明かないのでいったんスノコの上に落として、拾い上げて検分する。濡れて字が滲んだもの、折れてぐちゃぐちゃになったもの、経年劣化で掠れたもの。状態の違いにバリエーションがあることから、同じロッカーの中にずっとあったものではなく、別の場所からかき集められたレシートが一堂に会したものと分かる。僕は早々に興味を失い、立ち上がってロッカーを覗く。
「なんか鳥の巣みたいですね。木の枝とか雑多に集めて、住処を作る感じがまさに。そう考えると、中央にはさぞ大事なものがあるんでしょう」
そう覗いたロッカーの奥には、一冊の本が置かれている。
『育児日誌 井上陽菜子』
──『例えばロッカーにヒナ姉の日記が入ってて、ボクの能力で死ぬ前の恨み言が書いてあるとかね』
僕は固まり、こっそりとエコロを見る。何やら熱心にレシートを検分していて、こちらには気付いていない。
(いちおう、先に中身確認して、梶さんの嫌がらせの類じゃなかったらエコロにも見せる、これがベスト)
そう思って、音を立てずに日誌を開こうとして──
「……インチョーさん?」
蚊の鳴くような小さな声が聞こえて、思わず跳び上がる。「ぎょえー無しかあ」とかほざくエコロを鋼の意思で無視して声の方向を向くと、そこには、左半身だけ出して様子を窺う夢生がいた。頭の包帯は取れて、三つ編みツインに戻っている。「2人とも、どうしてここへ?」なんて言うけど、こっちの台詞だ。暗号は偽物で、夢生は来ないはずじゃなかったのか。
時計を見ると、20時。暗号で指定された時間通りだ。僕は思わず反射的に口走る。
「遺伝配列をわざわざ使ったのはどうしてでしょう。英名をそのまま使った方が楽だったと思うのですけど」
「………………何の話?」
夢生は困惑している。
やはりと言うべきか、暗号を知らない。
なら暗号は、水野さんか梶さんが作ったもので間違いない。であれば、新たな問題が生まれる。
(……夢生はここに。何しに来たんだ?)
僕の疑念が顔に出ているのか、夢生は緊張で強張った顔だ。
「閉まってるはずの水族館の内部へどうやって?」
「貴方たちと同じよ。水野さんに開けて貰ったの」
「水野さんは、貴女が来たらスマホに連絡して案内すると言っていましたよ」
水野さんの裏切りを伝えていない点で誠実ではないが、決して嘘ではない。夢生の表情がさらに強張る。けれど、声音は冷静に。
「……そうなの。眠そうだったし、忘れちゃったのかもね」
焦りがあった。何か、尻尾を掴まなければならないと思い、僕は彼女の顔を指さす。夢生は顔を顰める。
「貴女はいま、僕から見て右側から身体を出していましたよね」
「……それが?」
「水野さんは今、正面入り口にいるはずです。でも、貴女が身体を乗り出しているその方向は、屋外プールの方向です。つまり貴女は、屋外プールの方から来たのです。水野さんを正面入り口で見つけて、見つからないように裏回りした証拠──」
「インチョー、流石にそれは言いがかり」
ぺしっと後頭部を叩かれた。「スマホ借りるよ」とポケットに手を伸ばすので、「5140です、暗証番号」と答えて渡す。エコロは受け取り、番号を入れると、夢生に微笑みかける。
「ごめんね夢生。インチョー、ショックなことがあったばかりで疑心暗鬼なんだ」
「むしろ警戒心0じゃないかしら、今の」
強張った顔も、前日の喧嘩もどこ吹く風。穏やかな表情で、エコロは問う。
「心配してたんだよ。どこで寝たの。お父さんの家?」
「……うん、家よ。梶、お父さんの家」
夢生の表情から警戒が解けてゆくのを見て、僕は己の失態を悟った。そういえば、『梶さんが夢生の父親であることを僕たちが知っている』ってことを、夢生は知らないのだ。そこから教えてやらねばいけなかった。
エコロはその点、冷静だ。僕は、思いついた追及をひとまず飲み込んで、思考に集中することにした。
「梶さんの携帯から、水野さんの家に電話した。もしくは、電話があった?」
エコロの質問に、夢生は、長い長い、逡巡のあとで。
「……してないわ。父さんに言われるまま渡した住所を書いた。それだけよ」
「そっか。そこから水野さんの嘘か。これは結構、根が深いなあ」
エコロは、額に手を当てて。
「──それで、ここに来たのは、梶さんの命令?」
切り込んだエコロに、夢生はたじろいで答えられない。そうだと思う。よほどの胆力が無ければ、ここで『梶さんの命令だ』と嘘をつくことはできない。理由は、以下の通り。
夢生は梶さんに言われるがまま、水野さんの住所を書き置き、僕たちを水野さんの家へ誘導した。
水野さんは梶さんと共謀している。夢生が20時にロッカールームに来ることを示唆した暗号で、僕たちをここへ誘導した。
梶さんは、2人を操ることができる立場にいる。エコロの予想では、ロッカーの中にあった日誌を、僕たちが読むことを望んでいる。
問題は、2人とも梶さんの指揮下であるにもかかわらず、水野さんと夢生の連携が上手くいっていないことだ。梶さんの命令で夢生が来ているのなら、夢生は「水野さんに電話をかけた」と答えるべきだし、水野さんは「夢生が来たら連絡する」なんて余計なことを言わずに顔パスで通すはずだ。
これまでの状況が、「夢生が梶さんの支配から離れ自分の意思で来た」ことを示している。
あとは、その意思の中身が何であるのか。
「梶さんと共謀しているのだろう水野さんのことはおいおいでいいんだ。ボクたちは上手く誘い込まれてしまったはずなのに、なぜだか出てこないし──重要なことは、夢生が何しにここに来たのか。暗号とか関係なく1人でここに来たのなら、水族館へ不法侵入をする気はあったということだけど、何の目的で来たのか、言える?」
エコロも、そのことを分かっている。あるいは、それ以上を。
「ボクの予想では、夢生の目的は、あれなんだけど」
エコロは確信を持った声色で、僕が抱えている日誌を指さす。夢生の頬が、わずかに引き攣る。指さす先の僕は、両手で抱えた日誌を軽い気持ちで読もうとして。
「──やめて!!」
夢生の叫びに驚いて、表紙を捲る手を止める。夢生は、先程問い詰めた時と比べでも明らかに余裕を失っていた。鼻息荒く、怪しい輝きを持った瞳で、僕の持つ日誌を見つめている。エコロは、その様子を醒めた表情で見ている。
「ついていけてないんですけど……とりあえず、夢生はこれが欲しいってことで良いんですかね」
「付け加えると、夢生はただ日誌を我が物にしたいわけじゃなくて、誰にも見られたくなかったんだよ。処分しようとしていたの。一方で、梶さんと水野さんは、暗号を作って僕たちを呼び寄せて、この状況を作り出そうとした」
「この状況って」
「日誌を処分しに来た夢生の前で、ボクたちが日誌を読む状況」
エコロは、断定する。彼女はなにか確信を抱いていて、僕はそれに思い至らない。でも、詳細を聞くことはできなかった。醒めきった無表情は、空っぽな感情を意味しない。激情を抑え込んでいるのだと、彼女が夢生の方へ歩く足音を聞いて、気づいてしまったから。
「ボクの悪いところは、一個心配なことがあると、他のことが手につかなくなるところ。人当たりの悪さとか日常で感じる自己嫌悪は、だいたいここに端を発する気がしてる」
エコロは、大量に拾い集めたレシートを抱えて、夢生の元へ歩いてゆく。
「梶さんは、ボクのことを良く知ってる。流石は演出家だ。彼の予定通りに事が進んでいるのを分かっているのに、敷かれたレールから抜け出せない」
「下姉さま?」
様子を心配し表情を窺った夢生を、エコロは、ぞっとするほど黒い瞳で、睨みつける。
「キミは誰だ?」
「……誰って、妹、じゃない、けど、夢生」
「キミと同棲を始めた日、キミはまず特技を教えてくれた。ボクに似た、声真似の特技。耳が聞こえなかったり、携帯電話のコードブックに載らないような声を出す、ボクの人間離れした能力など大したことはないのだと、身体を張って教えてくれた」
エコロは、抱えたレシートを一枚落とす。風に乗って足元まで来たそれを、僕は拾い上げる。ホームセンターのレシートだった。書かれている買い物の内容は、《パーティ用クリプトンガス》と、《パーティ用ヘリウムガス》。
──『私のはただのかくし芸よ』
「嬉しかった。嬉しかったんだ、梶さんがいなくなって、それでも、ボクのことを考えてくれる妹と、共に人生を歩めることが」
夢生は答えられない。僕は、口を挟めない。
エコロが、怒りと悲しみの淵にいることだけが分かった。分かっているのはそれだけだった。
彼女が掴んだ真実が何なのか、それが、どの程度彼女の心を揺さぶるものであったのか。
「色んなことがあったね」
呼びかける声は、深い悲しみに満ちている。蛇に睨まれた蛙が金縛りから解放されたのか、夢生はようやく、一歩後ずさる。
「マラソン大会があったって、河川敷を20キロ走ったせいでお腹が痛くてあんまり食べられないって言うから、おかゆ作って、ずぶ濡れの体操服洗ってさ。案外臭くないなって思ったりして。夢生の汗は臭くないんだなって、自分は歳なんだなって、ちょっとがっかりして」
風に乗って来たレシートを拾う。駅のキオスクの、《ゼリー飲料:リンゴ味》。
「キミの話してくれる学校生活は、いつも楽しそうだった。ボクはきっと、キミに夢を見ていたんだろうな。気付けるチャンスは無数にあった。違和感を抱ける瞬間は、無数にあった。でも、そのすべてを見逃していた。幸せな時間を失いたくなかったんだ」
落ちて来たレシートを2枚拾う。文房具屋の、《賞状用紙:業務用》と《筆ペン》。ホームセンターの、《プチトマトのタネ》に、《プラスチック植木鉢:ブルー》。
「さっきから、何を言いたいの?」
訝しむ夢生に、エコロはすぐには答えない。唇の端を噛んでいるのが、横から見える。
言いたいことはシンプルだ。僕はその内容に、いちおう思い当っている。ただ、信じられるかと言ったら別だ。そんなことをする意味も、理由も分からない。
(どっちだろう)
夢生は本当に分からないのか、分からないふりをしているのか。
エコロは、深く息を吸い込んで。それを吐いて吐いて吐ききって、それから、しらを切って首を傾げる彼女のことを睨みつける。
「……ボクも日記をつけていてね。全部覚えてるんだ、キミとの思い出」
エコロは、レシートを落とす。ホームセンターのレシートで、買い物は、《人工芝プレート》と《ゴムチップ》。夢生の表情が、わずかに強張る。エコロはおかまいなしに、僕のスマホを使って、フットサル部のホームページを開いて夢生に突きつける。
「キミが靴や体操服にゴムチップをつけて帰ってくるようになったのは、ちょうどこのホームページで、人工芝のグラウンドが写真に映った日──去年の、2022年の12月11日から。それまでは、砂をつけて帰って来てた」
そのまま、フットサル部のではなく、夢生が通っている──《ことになっている》、聖俊中学のホームページを開く。ページ上部から目次を開いて、『ヒストリー』と書かれたボタンに触れると、フットサル部のホームページに映っていたものと同じ、人工芝のグラウンドが映っていて、フットサル部がそこで練習している様子も確認できる。彼女はそのページの右上の、日付を指さした。《2022:06:02》と書かれていた。
「ホームページの管理者がルーズだったのが、キミにとって一番の不幸。グラウンドの工事自体は、フットサル部のホームページに記載される半年前に終わってるんだ」
エコロは、夢生に一歩詰め寄る。
夢生は、一歩後ずさる。その瞳は急に潤んで、強張って、何度も何度も瞬きして、そして、こともあろうに、僕の方を向いている。たすけて、とでも言いたげに。
「ねえ、教えてよ。答えてよ」
──『教えてよ。なんで怒らないの。なんでそんなに、協力的なの』
昨日見た顔だった。しばらく見ることはないと思っていた。見てなるものか、させてなるものか、とも思っていた。けど。
「キミは、本当に、部活をやっていたの」
「その中指の怪我は、膝の怪我は、本当に部活でついたもの?」
「というか、改めて最初の質問に戻ろう。正直に答えて欲しい。キミは誰なんだ?」
エコロの追及をよそに、考える。確実に言えることは、『夢生がフットサル部ではない』、『にも拘わらず夢生はフットサル部であるかのように振る舞っていた』ということ。
そしてエコロはそれに加えて、レシートを取り落としながら語っていた『マラソン大会』や、『競技大会で得た賞状』、『学校で育てたプチトマト』の全てが嘘ではないか、そもそもお前は学生ではないだろう、と言っているのだ。
(……学校で購入したものはレシートに残らないから夢生が個人的に購入したものだって言いたいんだろうけど、そもレシートが夢生の物とも限らない。梶さんが演出でかき集めただけかもしれない。それこそ言いがかりじゃないか?)
一応、学生として振る舞う偽装は可能だと思う。彼女の部屋に置かれたクローゼットには、『趣味の服、開けるな』と、ゴスロリ服を大量に入れているかのような書き方がされている。エコロもプライバシーを尊重して、あの中身を見たことはないという。あそこに人工芝やゴムチップを敷き詰め体操服を汚し、運動部の活動の痕跡を作る。賞状やプチトマトは自作する。テストや通知表でさえも。まあ、出来ないわけじゃない、けど。
(考えるだけでも、虚しい)
そこに進歩はない。ただ、エコロの目を誤魔化すために、一日のほとんどを使う。そんなことをする意味が、どこにあるのだろう。きっと、そうした喪失感を一番に覚えているのが、今のエコロだ。爆発しそうな怒りと哀しみを湛えて、それでも夢生の反応を待っている。
夢生は、潤んだ瞳を隠すように手で抑えて、「……ごめんなさい。フットサル部にいたわけではないし、成績優秀なわけでもないわ」と、身を縮める。
「わたし、この間、心配をさせまいと、友達いっぱい、みたいなことを言ったけど。実はそこまでいなくって、不登校になってしまっ──」
ガゴン、と、顔をしかめたくなりような鈍い音がして、夢生の言葉が途切れる。
エコロの小さな拳がロッカーに跳ね返されて、真っ赤になっていた。
「……ボクはね、充実した学生生活を送っているかどうかを疑っているワケじゃないんだよ」
怒りに満ちた彼女が差し出したのは、整形外科の領収書。
自分の声が漏れていたことに気付くのに、すこし時間がかかった。
病院の領収書には、記名するまでもなく名前が印字されている。そこに書かれていた名前は、
「……いのうえ、ひなこ」
「お願いだよ。答えてくれよ──」
嘘でもいいから、ちゃんと騙してくれるならそれでもいいからと、聞こえた気がした。
それくらい、喉が裂けたみたいな、悲痛な叫びだった。
「──キミは、誰なんだ!?」
脳味噌が半分に分かれたような衝撃があった。井上陽菜子は、エコロの姉は、死んだはずだ。そう聞かされていた。生きていたら30くらいだろうか。目の前の夢生は、申告通り中学生で通じる見た目をしていて、そうは見えないし、第一陽菜子さんとは身長も髪色も目の色も違う。
(……けれど、そこを無視すれば辻褄が合う)
部屋にあった写真、ロングヘアの夢生だと思っていたものが井上陽菜子で、抱えられた赤子がエコロであれば、これまで正体不明だった赤子の説明が簡単につく。不可解な生い立ちについでも、エコロが陽菜子の死まで夢生と顔を合わせなかったのではなくて、陽菜子が死を装い夢生になったのだとすれば、これまた説明がつく。
(けど、『無視すれば』なんて、無視できないから分からないんであって──)
考える暇を与えてくれるつもりはないようだ。
ロッカーを開けて落ちて来たレシートの山を拾い集め、部屋に埃が舞っていたのだと思う。本来横からは見えないはずのレーザー光の軌跡が、埃で散乱して明確に見えた。入り口からまっすぐに進んで、台の上にいる夢生の顔へ向かう。
長々と説明している余裕は無かった。
「エコロ!」
頭に血が上っているであろう今、ちゃんと答えてくれるか不安だったけれど、エコロは冷静だった。夢生の前に立ち、叫んで脳震盪の音波をかき消す。本来察知できないはずの争いが、埃の揺れではっきり分かる。レーザーの通る直線上だけが揺れている。あそこに入ったが最後、意識を失うことになる。僕は駆け足でエコロの背に回る。
それからは、一瞬の出来事だった。
「痛った……くはないけどっ……このっ、返せ……!」
まず、右腕に衝撃を感じたかと思えば、夢生が全体重を使ってタックルして、僕が持っていた日誌を奪った。そのままエコロに守られた領域から飛び出し、ロッカールームの出口へ向かう。初めは夢生を狙っていたはずのレーザーはエコロに固定されたままで、第4の能力は彼女を襲っている。相殺を止めることができないため、彼女はすぐには動けない。
必然、僕が追いかける。埃の舞うすぐ横を通って、夢生に続いてロッカールームを出た瞬間、鈍い音が聞こえる。その方向を向けば、夢生は防水タイルの上に倒れ伏していた。その隣には、いつの間にやら音もなく、梶さんが気だるげに立っている。前に会った時と同じ全身黒のツナギに、サングラスは今日はかけていないらしい。レーザーポインターが夢生の耳元から動くのが見えて、身体が硬直する。
(やっべ詰んだ、てか二台目は聞いてないって──)
後ろから、ローファーで賭ける音がして、緊張と安堵が駆け巡る。ロッカールームから出たエコロが僕の前に躍り出た。
「こっちに撃っていた分がなくなった。梶さんの兵器はあれ一台しかないはずだよ」
その梶さんはというと、足元で倒れ伏した夢生をちらと見て、それから、独り言のように。
「一度罪を犯した者は、慎ましく生きなければならない。被害者が許した部分のみをありがたく頂戴し、それ以上は欲しがらず無欲に生きなければならない──彼女は日誌を取りにここに来ると踏んでいた。私が許した領分を超えている。罰を与える必要があった。故に、手紙を書いて、キミたちに来訪を知らせた」
廊下にまで飛んで行ったレシートを拾い上げ、破り捨てる。
「罪人の自覚が無いからこうなる。許されたつもりで気を抜いて、あらゆる書類にシュレッダーをかけるのを怠ったからこうなるんだよ」
エコロは警戒して、構えている。問い詰めるのは、僕の役割。
「やはり、暗号を用意したのは貴方ですか。では、この証拠品の山々も、同じく貴方の差し金だと思って良いのでしょうか。貴方の狙いは、夢生の正体が陽菜子さんだと、僕たちに教えることにあったのですか」
彼は何も答えず、ただ視線をこちらに向ける。僕を庇い立つエコロか、それとも僕か。その目に宿した感情は、曖昧模糊で読み取れない。
でも、お前がそんな目をしていいはずがないだろ。陽菜子さんが亡くなったことに怒っていたはずの。お前が。
「レシートを用意したのが貴方なら、陽菜子さんが死んだのはオマエのせいだと、エコロを責める正当性はどこにもないではないですか。大事な人を失う苦しみだとか最もらしいことを言って、僕を、夢生を傷つける正当性も、どこにもないではないですか!?」
「心」
梶さんは、僕を見ていなかった。ただまっすぐに、エコロを見ていた。
「行方不明者を探す放送を聞いたことはあるかい。『黒のニット帽、短髪に中肉中背』って、人の弁別能力なんて大したものじゃなくてね。服、髪型、色、体格。大きな枠組みを取り換えてしまえば、案外他人のことなんて分からない」
「前まで海外様式の暮らしをしていたそうだが、一度でも、陽菜子が靴を脱いだ姿を見たことがあるかな。ああ、高校生なら生物の教科書を開いてみるといい。キミのような不可思議を前にして言うのもナンだが、ブロンドの髪は潜性遺伝だよ。クオーターで発現する確率はほぼゼロだ」
息を呑んだ。呼吸が上手くできなかった。おそらくは、怒りで。
言葉は、通じている。でも、会話は、していない。
陽菜子さんは生きていたのだと、肯定している。その上で、己の非については認める気がない。
今まで散々、罪だ罰だと、自分が正しい人間であると、彼女のことを抑えつけていたのに、自分の番が回ってきた途端に、こいつは、こいつは、何様で──!!
「お前は!!」
「インチョー、前に出ないで」
一歩踏み出したところで、エコロに首根っこを掴まれて、首が締まって踏みとどまる。目と鼻の先を、レーザーが通過する。梶さんは、今気づいたかのように僕を見て鼻を鳴らし、踵を返す。
エコロを見ると、去り行く梶さんのことを見据えて、ひとつの瞬きもせず、微動だにしない。けれど額は汗ばんで、呼吸は安定していなかった。
「夢生が、まだ、間にいるから。追撃は、できない」
自分に言い聞かせるような口調だった。様々な葛藤があるはずだ。冷静になれるはずがないのに、冷静であろうとしていた。胸が詰まった。そんな折、背中から足音が聞こえて、ぼうっとしていた自分に気付き、エコロを庇うように背中合わせで立ち塞がる。
「……何やってんだお前ら」
姉さんだった。倒れた夢生と身構える僕らを見て、露骨に嫌そうな表情を浮かべる彼女は、背後の屋外プールの自動ドアを親指で指す。
扉が開いていた。
「あの自動ドアが開きっぱなの、胡散臭い男の仕業か? のっぽで全身黒づくめで地球儀みてえなダッセエ肩パッドつけてる奴」
「……姉さんは、なんでここに、自動ドアって何が、というかソイツなら今」
「落ち着け。質問に質問で返すなバカ」
姉さんは後頭部を掻いて、
「今日アタシ当直でよ。イルカプールの様子見てから本館に引き返してきたんだ。そしたら自動ドアが誰もいねーのに長いこと開きっぱ。様子を見に走ったら、黒づくめが入ってった。やり口は分かんねーけど多分ソイツの仕業だろうって、とっちめに来たんだよ。どこにいる」
「……入り口側に逃げました」
聞くや否や姉さんは、入り口側に走り出す。そして、その入り口側から水野さんが逆走してきた。追いかける姉さんが一瞬ぎょっとした表情で彼女を見て、けれどすぐに気を取り直して走り去る。水野さんは、僕らを見ると。
「心ちゃん?」
心配そうな声音に鼻白む。梶さんとすれ違っているはずだけど、協力していたのだから、そりゃあ見逃すか。嘘をついていたことを、今指摘しても仕方ない。水野さんを無視して、夢生を助けるために救急車に電話をかける。
「その、ふたりとも。梶さんが来てたけど、あの人どうやって入ったの。というか、その倒れてる子だれ──」
れ、の口で言葉を失う水野さんに苛立ちながら、冷たい声を意識して、可能性の一つを挙げる。
「陽菜子さんのICカード、彼女のロッカーを残してるくらいですから、名簿の消去をしてなくて、そのまま入れるようになっているのではないですか」
「そうだよね。名簿が残ってれば、ヒナ姉と仲の良かった夢生が、遺品のカードを使って中に入ることだってできるよね」
エコロは縋りつくように、楽観的な推測を水野さんに放る。
水野さんは、いたたまれない表情で、それでも微笑んでエコロの頭を軽く撫でて、倒れ伏す夢生に近づく。しゃがんで、そのつま先をじっと眺めた。
彼女の黒髪に触れて、手で梳いて。いつまでそうしていたか、目を閉じて、立ち上がる。
僕らを見つめるその瞳は、どこか遠くに焦点を結んでいた。
「……私も知らなかったなんて言っても、信じてもらえないんだと思う。せめて、キミたちを騙してしまったぶん、憎まれると分かっていても、真実を伝えるよ」
悲壮感に満ちた表情。分かっていたことだ。エコロは、蜘蛛の糸が切れたことに気付いて、天井を見上げた。夢生は、そんなことも知らずに呑気に眠っている。
「こいつが、キミたちが考えている通り、井上陽菜子。死んだふりして、これまでずっと、心ちゃんの傍で生きていたんだ」
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