IOU

 思い出す。梶さんが、言っていたこと。

 毎週土曜日に彼の家へ遊びに行くと、決まって授業をしてくれる。大概は言葉のこと。けどたまに、本当の学校みたいなこともしてくれた。例えば、進路相談とか。


 「大人になったら何になりたい?」

 「……何にもなれないよ。特別な扱いを受けないと話もできない人に未来なんてない」

 「なら普通に話せる人は何にでもなれるってことかい?」

「そういう訳じゃないけど。世の中の職業には才能が必要で、なりたいものになれない人はそれが足りないの。人魚のお姫様は、人間にはなれないの。耳が聞こえないボクは、人に出来ることがなんにも出来ない」

 彼は首を横に振る。

 「私もね、才能というやつはあると思う。でも、才能には二種類ある。肉体的な素質と、意識の素質だ。私はね、後者の方が大事だと思ってる。躊躇の無さこそが才能であると思うんだ──例えば人を殴るのには躊躇いが生まれるだろう。それを乗り越えられる人には、格闘家の才能があると言える」

 もちろんそのあと大成するかは別の問題としてね、とシャドーボクシングをしながらボクの顔を見る。気遣いがあった。ボクに分かるように、ボクがよりよく生きられるように。

 「これは悪い例だけど、騙す躊躇が無い人は詐欺師になれるね?」

 オレだよオレ、と電話をかけるフリ。


 「同様に、キミの肉体的なハンディキャップは、その道で1番になることへの不都合にはなっても、何かになること自体には影響を及ぼさないと思うよ──人魚姫も足を生やして、外側だけなら人間になれただろう。そのあとの願望は叶わなかったけどさ。本当の才能は、意識の根っこに、躊躇を乗り越えられるだけの狂気があるかさ」


 「さ、何になりたい?」




 ボクは、幼く、愚かだった。

 「……不老不死の薬を作るの。梶さんといつまでも一緒にいられるように」


────


 「IOUってのは借用書のことだ。I owe youの省略。貴方に借りがありますって意味だな。テストに出すぞー」


 エコロの家で夕飯をご馳走になってから、一週間ほど経って、7月の中旬、もうすぐ夏休み。浮足立った学生を諫めるようにか、今日は授業参観だ。

 と言っても、高校生にもなってわざわざ授業を見に来る親ってあまりいない。別に来て欲しいとも思わない。こないだのことがなければ、何の感傷もなく今日いちにちを過ごしていたと思う。


 ──『他人のきょうだいの関係なんて、どうだっていいでしょう』


 机にべったり伏せながら、僕は未だに後悔の中にいた。それは、水族館で放った言葉。

彼女にとっては妹が、唯一の肉親なのだ。そりゃ大事にしろと言うだろう。それを僕は、姉が苦手な、自分の常識ばかりで──


 「おう今日も絶好調だなあ。自分の世界に閉じこもってよ。外から見たらキメえんだよ」


 背中をどつかれ呻いて、痛みと苛立ちが混ざった気分で上を向けば、スーツ姿の姉がいた。白く大きなリボンのついたシャツが印象的だ。混乱した頭で口走る。


 「授業を見に?」

 「んなわけねーだろ」


 白い無地の封筒を突きつけられ、とりあえず受け取る。中に紙が入っていることは分かるが、差出人も宛先も書かれていない。


 「忘れもんだよ。着払いなり家でテメエに渡すなりでいいだろうに、直接学校に届けろってりっちゃんがうるせえんだ」


 面倒臭そうに姉はオールバックにした長髪をいじる。の割には、わざわざ正装してきちゃうんだよな、この姉は。しっかりしてるんだ。


 「確かに渡したぞ。エコロちゃんに届けろよ」

 「……直接貴女が渡せば良いのでは」

 「テメーが独りよがりな自分の世界から抜け出す一歩目を提供してやってんだろうがカス」


 暴言が過ぎるが、言っていることは尤もだ。封筒の角を持って立ち上がる。エコロは自分の席で一心不乱に、何やら書類を書いている。


 「何をやっていらっしゃるんですか」

 「国民健康保険料の支払い」


 何やら、高校一年生とは思えない単語が飛び出してきた。

 国民健康保険制度とは、保険料を納めることで、自己負担額3割で医療サービスを受けることができる社会保障制度のことだ。その支払いは全自動というわけには行かず、支払う側が手間を負う。

 横から覗くと、エコロがボールペンを走らせる先には、青色で書かれた長方形の書類がある。横から覗けば、《払込取扱票》とあった。彼女は慣れた手つきで、住所や金額を書き込んでゆく。眺める僕に、説明する余裕すらある。

 「別紙に、その月納める額が書いてあってね、その通り金額を入れて納付するの。そしてそして、見て欲しいところがここ」

 誇らしげに彼女が指さしたのは、払い込み先。『井上家』と印字されている。

 「国民健康保険料はね、世帯ごとに支払いが行われて、世帯主に支払いのための書類が来るんだよ」

 鼻息荒く、教えてくれる。世帯主、と、いえば──

 「あ」

 「そう、姉さんがいなくなったので、私があの家の王様なのです」

 ふんす、とふんぞり返るエコロ。なるほど、誇らしげなのはそういうことか。

 僕は口元を緩めた。たぶん、この間のことを気にする僕に、気にすることはないと戯けてくれているのだと思ったから。

 「よっ一家の大黒柱―!」

 「よきにはからえー!」

 参考書片手に通りすがったゴードンが、呆れた様子で僕らを見る。それで冷静になって顔を見合わせて、笑い合う。


 「面倒だけど、これも夢生のため。きっちりやらないとね」


 夢生のことを思い出す。敵味方をきっちり分けて、味方には際限なく優しくする、本心の見えない女の子。味方であれば確かに可愛らしく、守ってやらねばという気分にもなろうもの。

 にしたって高1にして保険とは。せいぜい自転車くらいのものだろう。僕自身、まだこういうことは、親に任せきりだ。親がいくら持っていて、自分のためにどのくらいのお金を払ってくれているのか、僕は知らない。


 でもなんだろう、彼女が書いていた書類に、小さな違和感があった。


 (……姉さんに聞いておくか)


 振り返って探すも、姉さんはもういない。LINEで質問を送って、そのあたりで姉さんから預かったものをようやく思い出して、エコロの机をとんと軽く叩く。


 「そういえば、姉さんが手紙を持ってきていました。水野さんからだそうで」

 エコロは差し出した封筒を受け取ってカバンの中のクリアファイルに挿し入れて、それからじっと僕を見つめる。

 「……何か?」

 「……いや、中身が何か聞かないところがシンチョーだなあって思って」

 「気に入ってますね」


 《キンチョー》の時よりも速く気づけて、エコロはにんまり笑った。その笑顔のまま、保険料の書類をしまって鞄を閉めて立ち上がり、「今日ヒマ?」と首を傾げる。四時限目が終わったところだが、授業参観の日はこれでおしまい、普段なら昼休みのこの時間に、もう放課後だ。頷くと、じゃあさ、と続けて。


 「新盆だから、お墓参りに行こうと思うんだけど、一人じゃ寂しいなあって思って。着いてきてくれない?」




 制服を着たまま、校門から先を共に行く。家に遊びに行ったとき以来だ。誘いというのは何であっても嬉しいものだ。心を許されているのだと思える。自分が価値あるものだと思える。スキップでも踏んでやろうか……いや、墓参りでそれは駄目だな。


 「菊とか、買って行かないんですか」

 「これから行くとこ、お供え物とか禁止なの。合祀墓だから」


 合祀墓とは、不特定多数の遺骨を同じ場所に埋葬する方法のお墓である。管理は寺院側が行うため、維持費がかからないのが特長だ。その代わり、不特定多数の遺族がいる分、管理が面倒になるので、お供え物は禁止されている、のだそう。

 学校からエコロの家を通って、さらに10分ほど歩いた場所に、その墓地はあった。寺院墓地であるらしく、本堂に向かうと『写経体験会、随時募集中!』とチラシが貼られている。それを横目にお参りを済ませ、慣れた様子のエコロについて行く。


 墓は、本堂から数メートルもない距離にあった。エコロが手を合わせる場所で、同じように手を合わせる。墓碑には個人名が刻まれておらず、『やすらぎ』とだけある。横目でエコロの様子を窺うと、静かに目を閉じて、手を合わせたままだ。ただ、少しだけ。


 (眉が寄ってる)


 思えばエコロが、亡くなったお姉さん、陽菜子さんのことをどう思っているのか、知らない。家に遊びに行ったとき、『苦手だったから』とは言っていたけど、それは夢生が隠れている部屋を見ないようにしていたことの方便や、陽菜子さんのことが苦手な僕に調子を合わせる目的が大きいものだと思っていた。けど、この様子だと、本音だったのかもしれない。

 

 (まあ、妹と会わせないようにして育てるとかいう虐待染みた教育をされたら苦手にはなるか)

 

 それでも弔いはするあたり、僕の姉もそうだけど、真面目というかなんというか。

 

 エコロが目を開いて背を伸ばし、「行こっか」と僕を見る。石で舗装された3人分ほどの広さの道を、2人横に並んで歩く。


 「そういえば、ゴードンがドローン免許の勉強をしてるそうで、聞きました?」

 「もしかして今日すれ違う時持ってた参考書ってそれ。こっちは学校の勉強だけでも手一杯なのになあ、すっごい熱意だ」

 「マサバさんに頼まれたそうですよ。空撮を一回やってみたいんですって。そこで市街地で飛ばすには免許がいることを知って、ちょうど良いし取ってしまおうということらしいです」


 話の途中で、反対方向から歩いてくる人影が見えて、横並びではすれ違いにくかろうと、エコロに合図して縦に並んで歩く。そのまますれ違おうとしたところで、その人が、足を止めていることに気付いた。

 何がそんなに感情を揺さぶるのか、オーバーに顔を押さえてエビ反りになっている、ベリーショートの高身長の女性。水族館で見た時とは異なり、ウエットスーツもジャージも着ていないけれど、身振りと髪型で分かってしまう。正体に気付いて、エコロは過去一番にげんなりした表情になった。




 5分歩いて案内された洋食屋で、周囲をきょろきょろ見回す。一皿1500円程度の、中高生には高めの値段設定ゆえか、大学生やママさんばかりで、少し落ち着かない。そんな中、長い脚に見合ったジーンズに白のポロシャツ、サングラスをつまんで上げて見た目だけ決まった大人の女性、水野さんは、テンション高めに僕らに笑いかける。


 「陽菜子が死んでから、ずっと墓参りに行きたいとは思ってたんだ。でも、梶正幸がずいぶん不親切で。葬式一回開いたっきり、墓の行方も教えてくれない。心ちゃんに教えてもらって、こうして来たら、キミらにばったり。ご馳走様ってわけよ。有山君は何度もデートの邪魔してごめんねー。奢るから許してくれたまえ」

 エコロと夢生の親代わり、梶さんの名前が出てきて、身体がビクッとする。フルネームで敬称略、敵意を含ませた言い方だ。一応はエコロの恩人なわけで、気に病みはしないかと彼女の表情を窺ってみる。彼女はというと、ふくれっ面で水野さんに人差し指を向けている。

 「ボクにも謝ってよ。せっかく2人きりだったのに、なんで今日なの」

 「おやおやおや。ただの友達だったのでは」

 サングラスの向こうからニヤニヤした生暖かい視線が飛んできて、体温が上がって、梶さんどころではなくなってしまった。エコロは僕の制服の袖を引く。けれどよく見ればその表情はいつになく冷静で、口元の緩んだ気持ち悪い顔の水野さんを片目で見て、ため息をついて。

 「こういう感じでラブラブ感を出せば、青春ゾンビのこの人は機嫌良くして高いメニューもいけるから、次インチョーの番ね」

 辛辣。強か。ビジネスライク。ちょっと高鳴った心臓を黙らせつつ、水野さんにへらっと笑ってみせる。

 「そういうことで、邪推するようなことは何もないですよ……なんで背中反って顔押さえてるんですか」

 「眩しくて灰になりそうで。大人になったら分かるよ」


 どこかで聞いたような文句に、人知れず顔を顰めつつ、何でも頼めと言うので、普段は食べない海鮮パスタを注文する。エコロはデミグラスソースオムライス、水野さんはコーヒーだけ。「キミたちが食べてる顔を見たい」とのこと。ここまでくるとちょっと怖い。


 「……そういえば水野さん、こないだの話。夢生と話したんだけど、学校遠くなっちゃって不便だから、このままでいいや」


 エコロはオムライスをちまちま口に運びつつ、そんなことを言う。水野さんは「分かった」と頷いて、頭の上にクエスチョンマークを浮かべた僕の方を向く。


 「私の家に姉妹共々引っ越さないかって話をしてたのよ。親がいないってのは、無償の心配を注いでくれる存在がいないってこと。不安になるんじゃないかと思ってね」


 ──『手紙、読んでくれたのね。良かった』


 水族館で発覚したこと、水野さんがエコロに手紙を送っていたこと。その内容は、僕の前では話せないものだった。ゆえに、僕は先に独りで帰り、エコロは水野さんと手紙の内容について話をしていた。

 なるほど確かにデリケートな話題で、あの時の僕の前では話せないものだ。2人の両親が海外にいることは、今では僕も知っていることだから話しても良い、という判断なのだろう。エコロは青春ゾンビだなんだと詰っていた時とは別人のような遠慮がちな表情で、静かに柔らかく微笑んで。


 「有難いけど、大丈夫。ボクたち2人とも、お父さんとお母さんがいなくても、楽しくやっていけてるよ。お互い、心配し合ってる」

 「……んまあ、無理強いするわけじゃないから別にいいんだけど。せめて夢生ちゃんの顔は一目見てみたいなー。陽菜子の葬式の時は探す余裕が無かったし。有山君は見たんでしょ。どんな子だった?」

 「三つ編みで眼鏡の小っちゃい子です。なんと言うか奔放な子です。多分水野さんにもタメ口です」

 「最高じゃん。いいなー……」


 水野さんは行儀悪くぐでっとテーブルに倒れ込む。エコロは妹が褒められて誇らしげだ。


 「インチョー、スマホ持ってたら聖俊中学のフットサル部のブログ開いて欲しいな。この哀れな青春ゾンビに夢生の活躍を見せてあげよ」

 「哀れな青春ゾンビ、歓喜に震えてますけど」

 「普段は礼儀正しい子にキツめに弄られると心を許されてるんだなあって快感があるうー……」

 「……嘗められてるって分かんないんだね、可哀想」

 「ふへ、ふへへえ」


 『心を許されてる』のくだりが図星だったのか、ちょっと機嫌が悪くなったエコロに罵られ、気持ち悪い笑い声を上げる水野さん。無敵かこの人。一方の僕は件のブログを調べる。トップページには、砂のグラウンドが人工芝に差し替えられたニュースがある。ひとまず置いておいて、メンバーの欄を開く。


 (井上夢生、井上夢生……)


 「……名前、無いですけど」

 エコロの肩を叩くと、彼女は「うそお」と言いながら横からスマホを覗く。確かに名前が無いのを確認して、頭の上にハテナを浮かべる。

 「おっかしいな。前に夢生に見せてもらった時はあったのに」

 続いて水野さんが覗き込む。軽くページを眺め、何かに気付いたのか表情を明るくして、ちっちっち、人差し指を振って。


 「キミたち2人とも、前に教えたことを忘れていないかね」

 「日付の話なら、確かに更新は去年の12月11日を最後に止まってるけど。夢生は入学と同時に入部して、いま中2だから、書かれてないとおかしいよ。で、前に教えたことって?」


 エコロが返すと、水野さんは口笛を吹いて余所見する。なんかこの返し僕も受けた覚えがあるぞ。

 ブログの方は更新の途中で間違えて名前が消されてしまったとか、少なくともこの場で答えが出るものではないだろうし、見かねた僕は、話題を変える。


 「夢生とふたり暮らしとのことですけど、家事の分担はどうなさってるんですか。……確か料理の師は夢生って話でしたよね」


 夕食をご馳走になった話をすると水野さんがうるさそうで(というかエコロが目で言うなと言っていた気がした)、言葉を選んで質問をする。エコロは指折り数えて。


 「確かに夢生は料理上手だけど、フットサルで忙しいからね。基本ボクが作ってる。ボクが料理洗濯掃除生活料金振込、夢生が郵便受けの確認とゴミ捨て」

 「負担の配分エグくない!?」

 「おねーちゃんですから」


 水野さんの悲鳴に、ぐっと力こぶを作って、笑ってみせる。水野さんは、何か言おうとした。たぶん、やっぱり家で暮らさないか、と提案しようとしたのだと思う。それより先回りするように、エコロは口を動かした。


 「これはインチョーに言ったけど、電気ガスは両親の契約したのがそのままなのはいいとして、健康保険。ボクの名前が書いてあるんだよ。夢生の分も合わせて払えって言うの。一国一城の主って感じで格好いいでしょ」


 今朝僕にしてくれた、心配をやんわり遠ざけるような、空元気。水野さんは言葉を飲み込んで、小さくため息をつく。

 たぶん、エコロの胸中は、優越感と達成感で溢れているのだと思う。他人の助けを断って、自分の力で歩けていると思っているときはみなそうだ。


 だからきっと、これが急転直下して罪悪感に変わったときの、気分の悪さは、背中を駆け巡る悪寒は、ひとしおだったのだと思う。


 「梶正幸の顔面を叩きたい気分よもう。陽菜子もなんであんな人選んだやら」

 「まあ、見た目は格好良いですし。背が日本人離れして高くて、顔もシュッとしてましたから。さぞかしモテるんじゃないでしょうか」

 「そういや有山君は会いにいったんだっけか。勇気あるよなあ」

 「いや会いに行ったわけでは。あっちから来たんですよ」


 水野さんは、エコロに視線をやった。エコロは、誇らしげな様子から一転して、バツが悪そうに目を逸らす。


 「……心ちゃんや。それはちょーっと話が違うなあ」




 真面目な顔になった水野さんは、水族館でエコロと話した内容を、包み隠さず教えてくれた。事の発端は、水族館に届いた、差出人不明の脅迫状。


 ──『井上陽菜子は、井上心に殺された』


 「こんな脅迫状が届いたから、私は手紙を送ったの。身の危険が迫っていないか、差出人に心当たりはないか聞くためにね。で、あの日に心ちゃんから話を聞いたところ、候補として挙がったのが、梶正幸。とはいえ、証拠はない。警察を動かすには、彼がやったって確証が必要だった」


 彼女はエコロを見て、「今朝香澄に届けさせたヤツ持ってる」と厳しめな命令口調。彼女は大人しく従い、白の封筒を取り出す。その内容は、《指紋鑑定結果》。


 「夢生ちゃんが管理してる、家にあった梶正幸宛ての手紙は、年月が経ちすぎていて指紋照合が不可能だった。けど、有山君が貰った電話番号を書いたナプキンに指紋が残っていてね、指紋鑑定が出来た。結果は完全一致」


 つまり、梶正幸が差出人であるということ。僕は頷き、それから少し考える。


 (姉さんが届けたのって鑑定結果か。スマホが無いから手紙ってやり方に逐一こだわってるけど、固定電話で口頭で教えるんじゃ駄目なんだろうか。確か、家にあったはずだし)


 少し考え、否定する。そういやエコロは読唇術使わないといけない難聴だった。


 「私が心ちゃんから聞いていたのは、有山君が危険を冒して梶正幸に会いに行って、口八丁で指紋のついたナプキンを手に入れたって話。でも、実際は梶正幸が自ら、有山君に証拠品を手渡していた……ってことで良いのよね」


 水野さんが目線で確認するので、素直に頷く。エコロはどうしてか、梶正幸が僕に接触してきたのを、僕が自ら会いに行ったことにして、水野さんに説明した。

 考えられる理由は、いくつかある。例えば、《脅迫状について、僕に教えたくなかった場合》とか。怯えた表情で縮こまっているエコロに、出来るだけいつもの声の調子を心がけて。


 「いちおう、言っておきますけど。こんなもの信じやしませんよ」

 「そーそー。なにか主張すんなら証拠を一緒に提示しろって話よ。それが無いんじゃ陰謀論と変わらんわ」


 僕たちにとって、突拍子もない主張をする梶正幸よりは、エコロの方が信用できる、そもそも、エコロが人を殺せるとは思えない。

 さらには、個人的な事情も手伝っている。


 ──『騙していてごめんね。私の命で許してください』


 人魚が死んでしまったあの日、感じたこと。いくら自分が殺したわけではないと知っていても、死者と遺された人たちの持つエネルギーの強さに、『信用されないかもしれない』と思って予防策を張って動く気持ちは、痛いほど良く分かるから。

 事実を捻じ曲げられたからといって、責める気持ちは全くと言っていいほど起きなかった。


 「ただ、目的が何であろうと、嘘をつくのは感心しない。覚えておきなさいね。いま心ちゃんは、私と有山君の信用をちょっとずつ失ったのよ」




 軽く釘を刺した水野さんは、その後ケロっと笑って、「反省したならこの話はおしまい。これで楽しく遊んできなさい。食べ足りなかったら駅前のケーキ屋がオススメよ」と万札を出してくれた。しばらく待ったがエコロは受け取りそうになかったので、代わりに僕が受け取った。


 二人並んだ、帰り道。無言で二人、不揃いな足音だけが響く。

 水野さんの期待には沿えそうにない。この空気は、流石にお開きだ。


 沈黙に耐えきれずスマホを開くと、今朝の質問への姉さんの返答が来ていた。内容は予期していた中で最悪のもので、エコロに見られないように、スマホを学生鞄の外ポケットに放り込んだ。


 エコロは申し訳なさそうに俯いている。僕は彼女の方を向いて、少し待った。すると、用があると気付いたのか、恐怖に満ちた瞳で僕を見る。ので、出来る限り明るい声で。


 「銀行口座とか、お持ちですか」


 瞳の色が、困惑一色に染まる。


 「うん、まあ。海外のパパとママから、生活費を振り込んでもらう用の口座がひとつあるけど……なんで。迷惑料?」

 「そこまで鬼畜じゃないです。ただ、気になることがあって。そこから毎月、いつの間にかお金が無くなってたりとかありませんか」

 「別に無いよ?」


 急に何を言い出すのかと、胡乱な目つきで僕を見る。「姉が詐欺に逢ったことがあって」と、適当な嘘をついて話を終える。

 一応聞きたいことは聞けたし、罪悪感恐縮媚びモードから復帰させることは出来た。あとは僕が独りになればいい。そうすれば、疑問は解消されるはずだ。

 

 「また明日」と手を振って、真横を向いて別れようとしたところで、「待って」とか細い声で、小さく袖を掴まれて、足を止める。

 エコロは、食欲など全くもって湧いていなさそうな、後悔と自責の念に苛まれた顔で。


 「……まだ、食べ足りなくない? 男の子はほら、よく食べるから」


 《どちらかにしろよ》と内心面倒に思いながら、僕は渾身の笑顔で応える。どうだろう、上手く笑えているだろうか。


 彼女に秘密にしていることが、いろいろある。

 健康保険について、姉さんに質問した返答の内容はもちろん。

 通学鞄につけた四角いエミューの羽根のお守りが、一瞬機械的に震えたことに気付いたこと。

 それに気づいて以降、後ろを振り向かないようにしていること。


 貴女が、無理やり貼り付けたようなぎこちない笑顔を浮かべていること。




 水野さんがオススメしていた駅前のケーキ屋は、ショーケースに飾られたケーキと奥でケーキを作るパティシエ、という『ケーキ屋』ではなく、喫茶店に近い装いだった。店内で食べられるよう向かい合った2人席のテーブルがいくつかあって、リラックスできるサックスのソロが流れてる。


 僕たちは向かい合って座い、お互い好きなものを注文する。注文を取りに来た店員さんが少し気まずそうだった、とだけ言っておく。

 頼んだものが来るまでに、何の気になしにハードカバーの本をテーブルに出してみる。タイトルは『人魚姫』。話題作りもあったし、試し行為でもあった。結局、エコロは反応を示さない。いっぱいいっぱいだ。埒が明かないので、とんとん、と軽くテーブルを指で叩いて。

 「そういえば、吹奏楽部の方にピッコロの楽譜頂いてませんでしたっけ。どんな奴でした。吹けそうでした?」

 そう言うと、エコロは綺麗な無地のクリアファイルに入った楽譜を差し出してくる。受け取り眺めようとしたとき、彼女は急に、意を決したように頭を下げた。

 

 「ごめん」

 「何がです」

 「梶さんのこと、言わなかった。言わずに、証拠品だけかすめ取った」

 「気にしてませんよ。『それ欲しい』って言われたところで何したわけでもなし、あれを取っておいたところで一銭の得にもなりません。第一、家に置いて行ったの普通に忘れてましたし」


 ──『私と有山君の信用を少しずつ失ったのよ』


 水野さんの言う通り、不誠実である、ということなのだろうけど。

 

 「それを言うためだけにわざわざ満腹の中ここへ?」

 「……」

 

 エコロは答えない。隠していることがあって、それゆえに答えられない。そうだ、と言ったら、嘘をつくことになるから。面倒くさい性格だと、シンパシーを感じて苦笑する。

 

 「別に気にしてませんよ。信用を失ったとかも、とくに。『人間、欠点がある人のことも、そういうもんかって受け入れられるもんだよ』でしたっけ。昔言われたあれが、信条になっている節がありまして──ただ、老婆心で聞いておきたいことがあります」

 

 食前のコーヒーが届いて、いったん言葉を切って。ウエイターさんが離れたのを確認して。

 

 「脅迫状に書かれていることが真実ではないにしろ、誤解を受けるような事態になっているのではありませんか?」


 エコロは、顔を顰めた。


 「そう感じたのは、梶さんの演説を聞いた時です。正直話は理解できませんでしたが、貴女を制御の効かないモンスター扱いしていることだけは確かでした」

 

 ──『動物を操る力、テレパシー、声帯模写。音に関することならなんでもできる』

 ──『第4の能力が発現した時に、キミが無事でいられるか心配だ』


 「そして、先の脅迫状です。『交通事故は、井上心による殺人事件である』。このふたつから類推するに、梶さんは、『陽菜子さんが、第4の能力とやらを原因にして死んだものだと思っている』のではないでしょうか」

 「インチョーには、関係──」

 「ありますよ。今の仮定が正しいものであれば、ですが」

 

 関係ない、と突っぱねようとしたのに被せて話す。こうでもしないと、恩着せがましいのを何より嫌う貴女は、いつまでも隠し続ける。借用書を、IOUを、作って渡してやらないといけない。気付いてるんだって、教えてやらないといけない。

 

 「おそらく、この『第4の能力』は、陽菜子さんが僕に手をあげた日に使われたものです。貴女が、僕を守るために使ったものです。そう考えたのは、夢生の発言から」


 ──『下姉さまは危険だから、能力の制御ができるまで会っちゃいけませんって』


 「動物を操る力、テレパシー、声帯模写。この3つは、動物のいない屋内で『危険』と呼べるようなものではありません。『第4の能力』を指しているものと考えられます。つまり、陽菜子さんは、あの日の時点で、第4の能力の存在を把握しています」


 「にもかかわらず陽菜子さんは、反撃を恐れない、高圧的な態度で貴女に接していました。これはおかしな話です。蜂にむやみに手を出さないのと同じで、自分を害する力を持つ相手を害することには、覚悟が必要です」


 「それはおそらく、貴女が第4の能力を、理性で封じ込めていたから。他人に向けてはいけないものだと封じ込めていたのを、陽菜子さんは、自分に力が向かうことは無いと、高を括っていたのです」

 

 「あの日、僕は気絶してしまって、どうやって助かったのか覚えていません。けれど、それから3日後に陽菜子さんが亡くなったこと、梶さんが貴女に怒っていることを鑑みると、貴女が能力を使ってくれたと考えるのが自然です──要するに、共犯なんです、僕も」


 すこし、願望の混じった推理だ。

 もうすぐここに、梶さんが来る。エコロの仕込みで、梶さんが来る。それ自体はこの際、仕方がない。


 仕方がないと、思っているから。


 「ともかく、対応を考えなければなりません。事実無根であるのなら、毅然とした対応をすればいい。誤解するような出来事があったのなら、誤解を解くところから始めればいい。真偽すら不明であるのなら、調べる所から始めればいい。ですから」


 苦しそうな顔をしないでほしい。そう言うつもりでいた。

 それは彼女が隠していることを掘り当てようとする行いで、言葉にするのに勇気が必要だった。だから、異変に気付くのに少し、遅れてしまった。

 

 「ごめ、ごえ、え、ごめ、な、さ、あ、あ、」

 

 エコロは、肩で息をしていた。どんどん呼吸が浅く、激しくなっていって、呂律が回らなくなっていた。息が出来ないからか、目尻に涙が浮かんでいた。

 

 「大丈──」

 

 手を伸ばすと、エコロは何かに追われるように恐怖に顔を歪め、席を立つ。椅子が倒れて、激しい音が鳴る。彼女はひっくり返った椅子を戻しもせず、ただこちらに一瞬だけ顔を向けて、あとは振り返らず走り去る。俄かに周囲がざわめく中で、はっきりと聞こえる音が、ふたつ。

 

 『逃げて!!』

 

 ひとつは彼女のテレパシー。もう一つは、こちらに近づく革靴の足音。日本人離れした長身に、頭のてっぺんからつま先まで、つなぎで全身黒づくめ。

 

 「レストランで走ってはいけないと、きちんと教えたはずなのだけれどね」

 

 梶正幸。脅迫状の送り主が、そこにいた。




 何を言うでもなく、エコロの倒した椅子を直して、梶正幸は座って僕を見る。その視線は、クリアファイルに入ったままのピッコロの楽譜に注がれている。

 「ピアノでもやっているのかい」

 「ピッコロです。僕ではなくて、彼女が」

 自分で聞いたわりに興味が無さそうな彼は、エコロが一切口を付けなかったコーヒーを口に運び、ウエイターさんが持ってきたケーキをにこやかに受け取る。それで、周囲の客は、何事もなかったように、自分たちの世界へ戻ってゆく。

 

 ウエイターさんは、少し不審がった目で僕たちを見るけれど、誰かに呼ばれ、店の奥へと消えてゆく。僕は、唇を湿らせた。


 「……早速ですけれど、お聞きしたいことがあります」

 「何かな」

 「耳の聞こえない彼女に、どうやって言葉を教えたのですか。ボキャブラリーもそうですけど、発音が自然すぎます。周囲の音が上手く聞き取れない人に、あそこまで周囲に溶け込んだ発話ができるよう教えるのは、並大抵の業ではありません」


 そう言うと、梶さんは目をぱちくりさせて固まった。どうされました、と聞いてみる。彼は、やりにくそうに頭を掻いて。

 「《人魚の件》で怯えるか、そうでないなら脅迫状の話をするものだと思っていたから。意外だった」

 僕は頷く。

 「エコロや貴方がやろうとしていることが、僕の殺人に報いを受けさせることなら、大人しく受け入れるつもりでいました。けれど、エコロの持つ第4の能力が、他人に危害を加えうるものであると分かった以上、そうと悟られず僕を攻撃する機会が無数にあったことになります。彼女が人魚の件で恨みを持っているのなら、そうしなかったのは不自然です」

 机に出したままの『人魚姫』の表紙を撫でながら、敵意を込めて。

 「そして貴方に関しては、この本に反応しなかったあたり、先日の発言通り、僕に恨みは無いと見ました。どこで人魚の件を知ったのかは知りませんけども、ほんとうにただ伝聞で、そういうことがあったと知っているだけです。知っていたなら、これに反応しないわけはありません──エコロが《エミューのお守り》に仕込んだ位置情報を用いて僕を尾け、この状況を作り出した理由は別件にあるわけです」

 

 彼はここで初めて、感心したように口をおの形にした。

 「驚いたな。知っていたのなら、私は誘い込まれたということか」

 「そんな大層なものじゃありません。未だに、貴方がエコロに何をさせたいのか、分からないままです」

 コーヒーを飲み直す。考えていたことを整理する。少しでも、情報を引き出すために。

 「僕は甘やかされて育ったので、自分のためにどんな風にお金が動いているのか知りません。でも、ひとつだけ、知っていることがあります」

 思い返すのは、迷いを知らない姉のこと。

 『あたしは独りでも残る。バイトして、金稼いで、食費も、保険も、学費も、全部自分でどうにかするから、あたしをここに置いていけ』

聞いた当初は、自分との血のつながりを疑った。僕であれば百パーセント出ない言葉だ。損か得かの迷いなど無く、自分の選択であること、それだけを重視する、強い人だ。

 転居が3年間と期間が分かりきっていたこともあり、費用は父母が持った状態で、姉は理想的な環境で独り暮らしを始めたのだけれど、その結論に至るまでに、それなりに議論を重ねていた。その時に、父が返した言葉が、印象に残っている。


 ──『15歳未満の子供は、世帯主にはなれないよ。これは、法律で決まっていることだから』


 「国民健康保険料は確かに世帯主に支払い義務が生じる税金です。ですが、エコロは今年になるまで世帯主になれる年齢ではなかったわけですから、昔から彼女に支払いを催促する手紙が来ているのはおかしな話です──そう考えた時、世間知らずながら思いました。あの紙は、《払込取扱票》とやらは、保険料を納めるための書類ではなく、なにか全然違うものなのではないかと」


 違和感を覚え、姉に相談した。悪い予感が当たってしまった時のことを想うと、迂闊にエコロの前で口に出すことは出来なかった。そんな中先程届いた姉からの返答は、『クレカ使えないとはいえネットショッピングのひとつもしたことねーのかよバーカ』だった。


 「……実際、全然違いました。エコロが家を守るためとせっせと支払ったお金は、井上家(いのうえや)とかいうパワーストーンのネットショップに支払われています。代表の名前は、梶正幸。ふざけてますよね」

 「部外者であるキミが少し調べればわかることを、能天気に信じ続ける彼女にも責任の一端があるとは思わないかい?」

 「曰く、生まれたては誰でも白紙なんだそうです。教育が間違っていて、気づく機会も奪われていたなら、人は、間違った常識を身につけます」

 

 へらへらと笑う彼のことを、理解できない。これは、金品目的の悪事で片づけられないものだからだ。現実を紐解くと、利益目的よりもずっと、倒錯した欲求が感じ取れる。嫌悪を覚えながら、声に出す。

 

 「……ここでふたつの疑問が生まれます。『どのように』と、『なぜ』です。貴方のおっしゃる通り、こんな詐欺、ふつうはすぐに気づきます。例えば、本来の世帯主の陽菜子さんが亡くなった後ですから、貴方でしょうか。貴方宛ての保険料の請求書が届いていれば、すぐに嘘に気付いたでしょう。にも関わらず、エコロは貴女の幼少期教育を信じ続けていました。『どのように』すればそんな不可思議な事態になるのでしょう」


 たどり着いた結論は、妹を守ることを生きがいにしているエコロには、とてもじゃないが話せなかった。


 「──それは、夢生と貴方が、結託してエコロを騙しているから」




 「貴方からの脅迫状が届いた際、水野さんはスマホを持たないエコロに手紙で警告しました。にも関わらず、エコロは水野さんに直接会うまで、手紙の存在を知りませんでした」


 水野さんが投函し忘れたわけでもなく、姉さんが途中で横やりを入れたわけでもないのなら、エコロのもとに届かなかったのはなぜか。ここには一つ、大きな見落としがある。それは、身内の犯行である可能性。


 ──『夢生が郵便受けの確認と──』


 仮に夢生が家に来る手紙の管理をすべて担っていて、梶さんと協力体制にあるとすれば。

 エコロが本物の保険料納付書と、水野さんの手紙を入手できていないことの説明がつく。


 「ただ分からないのは、『なぜ』そんなことをするのかです。この払込取扱票で詐取した金額は、けっきょく国民健康保険料と同額です。彼女らふたりの健康保険が失効しておらず、エコロの口座振替で払っているわけでもないということは、貴方が普通に世帯主として全員分の保険料を払っているということです。単なる金銭目的であるのなら、こんなことをする必要はありません──そうなると、お手上げです。貴方がエコロに嘘をつくメリットも、夢生が大人しく従っている理由も、皆目見当がつきません」


 見当がつかないと口では言いながら、内心、予想していることがある。

 倒錯した行為に走るのは、ストレートな感情の処理が、倫理的に不可能である場合である場合。

 脅迫状のことも考えると、梶さんはエコロが陽菜子さんを殺したと考えているわけで。

 

 梶さんを冷静に見据える、彼はコーヒーを飲み干して。

 「ずいぶんと、あの子のことを庇うんだね。自分が利用されてこの場にいると分かっているのに。薄汚い人殺しどうし、傷口の舐め合いかい?」

 

 やはり、彼は怒りを原動力に動いている。「そうかもしれません」と答えると、彼は不愉快そうに眉間を押さえる。「心にもないことを」と彼は吐き捨てて、それから、一度、深呼吸して。


 「私は生きるにあたり、ひとつ心に決めていることがあってね。『子供は、守り育てられるべき』──たとえその子供が、どれだけ憎い、恋人の仇だったとしても、世帯主にもなれない義務教育課程中の子供に憎しみをぶつけるのは、私の正義に反した。だから、彼女が大人になるまで待つ必要があった。けれど、さっき見たろう、彼女が私を恐れるさまを」

 頷くと、彼は薄く笑う。

 「半端に憎しみを漏らしたせいで、彼女は大人になる前に死を選んでしまいそうだった。だから、彼女の誇りを刺激する必要があった。世帯主であるかのように仕立て上げたのはそのためだよ。『家長として夢生を守っている』という事実で、彼女に生きる実感を与えたんだ」

 

 ──『一国一城の主って感じで格好いいでしょ』

 

 「それで今、大人になった彼女に、復讐をしようというワケですか。散々化け物だなんだとこき下ろしていましたけど、その化け物に反撃されて終わりだとは思わないのですか」

 「復讐心と言っても様々だ。エコロには、無邪気に姉を殺した悪魔には、死すら生温い。それよりは、守るべき親しい人を、永久に失う痛みを味わってもらう苦しみを味わって貰う方が望ましい──自分自身の力によってね」


 梶さんは右手に何か筒を持って、こちらに向ける。筒が赤く光り、太陽を仰いだときと似た見え方をする。光の周りの輪郭が滲んで、まともに彼の顔が見えない。ただ、両肩に、球形の金属物体が乗っているのが見えた。目にも似たそれは、たしか、球形のスピーカー──


 『聞こえるかな』

 「──これは」


 聞き覚えのある声の変化が、テレパシーが聞こえて、梶さんを問いただそうとして。でも、前を向けない。

 レーザーポインターは見えなくなり、視界はこげ茶色に染まった。向かい合って挟んだテーブルの色だ。上半身が倒れ、机に伏してしまっている。

 幽体離脱でもしてしまったかのように、身体に力が入らない。現実との繋がりは、猛烈な気分の悪さだけ。顔が机に倒れた衝撃で、コーヒーのカップが床に落ちて割れる。顔をしかめてしかるべき大音量のハズなのに、どこか遠くに聞こえる。気持ち悪い。吐き気がする。指が動かない。


 「ちょっとだけ、お休み」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る