第七章  楽園の終わり

 異常なほどの赤い光が、辺り一面に満ちていた。

 灯る。灯り続ける。視界のどこを見ても赤、赤の海。毒々しい血液をぶちまけたかの如く、膨大な量の赤色の渦が視界を支配している。

 離れた強化ガラスの向こう、医療スタッフが焦燥の顔つきのまま奔走していた。青ざめた表情で同僚と会話、あるいは端末でどこかと連絡を取り忙殺されている。

「――海斗くん、起きたのか!」

 青い顔をして白衣の医師、大牟田が目の前に現れた。――記憶に混乱があった。海斗は呻く。メイヴTP5からの覚醒による記憶障害。ひどい頭痛を覚えて、思わず顔を歪めた。

「……ここは? 現、実……?」

「そうだよ。……そうか、内部からでは操作出来ないのか。待っていて、今すぐ出すから」

 状況がわからない海斗に向かって、大牟田はメイヴTP5の端末を操作した。

 いくつかの機械音の後、ピーという音と共に、白い棺を覆っていた透明な強化ガラスが開けられる。ふらつく体と共に海斗は解放されてふらつく。

「何が、これはいったい……?」

「時間が惜しい。すまないが海斗くん、強制覚醒剤を打ち込ませてもらうよ」

 大牟田は白衣のポケットから無針式の注射を取り出した。まだぼんやりとする海斗の右腕に処置すると、激しい頭痛がさらにひどくなった。

 まるで頭をハンマーにでも殴られたかのような激痛に、頭が割れそうだ。

「うう……っ!」

「海斗くん、すまない。でも時間がないんだ」

 ALERT ALERT ALERT ALERT――先程からやまない警告音と真っ赤なメッセージ。海斗は荒く息をついた。部屋のいたる所にある、電子版で危機を現す文字列が濁流のようにはびこっている中で荒く息をつく。

「はあ……はあ……っ」

「まだ状況の整理も難しいだろうけど、すまない。聞いてくれ」

 大牟田は白衣を翻し、海斗の両肩に手を添えながら言い募った。

「――非常事態が発生した。――『この地下施設が、襲撃された』。今からシェルターへ避難する」

 大牟田は今まで見たこともない険しい表情で、海斗の目を見て告げた。


†   †


 ――それは二時間前。

「ここが第一仮想メンタルラボですか。通称VR研究所。なかなか殺風景ですなぁ」

 地下5780メートル。地面の、そのまた地中の、深い底。そこに続くゲートを潜った先、複数の人影が侵入を果たしていた。

「――正面ゲート、第一階層の到達に成功。脱落者は無し。アラート警報皆無。全て順調」

 人影のうち、一際目立つ背の高い人影が冷たい口調で呟いた。先に軽口を叩いた者と同じく、漆黒の装甲服だ。鈍色のバイザーで身を覆い、全身がまるで黒尽くめの怪人といった様相。手にある銃器類の物々しさが異常さに拍車をかけている。――侵入者の頭目だ。

「各セクションに異常は無い。連中はまだ我々に気がついていないようだ」

先に口を出した、背の低い男が即座にせせら笑う。

「みたいですな。医者と研究者は呑気ですなぁ。いつまでもお仕事が出来ると思っている。その平穏は、いったい誰かの仕事の上で成り立っているのか」

「無駄口を叩くな、《道化師(クラウン)》。――時間が惜しい。制圧を開始する」

「はいな。了解」

 道化師(クラウン)と呼ばれた男が、背の低さを生かし身軽に先行する。

 手には機関銃。全身を黒尽くめに覆っている中、それは不吉な影のように天井のライトに照らされていた。手元の機器からコード付きの機材を取り出す。それらを手近な壁に装着させる。

「壁の中に端末を発見。……んー。一、八、九、六、八、五、……めんどいな。桁が45桁ありますな。まあ、我々のツールには関係ないですが。……ほいっと」

 数秒だけ、時間を稼がれただけであっさりと小さな機械音が鳴り響く。彼らの周囲にあった警戒装置や防犯装置の大半が、それで意味を成さなくなる。

 普段は見えていない――壁中に仕込まれている対人機具。その七割が彼らによって無力化されていた。

「《死神(リーパー)》。終わりましたぜい。これでいつでも突入できる」

「オンラインで管理している機具は殺したな? だがオフラインも存在している。各自、警戒続行、作戦通りに潜入せよ」

『了解』

 他の人影たちが頷く。全員が灰色、装甲服をまとった異形の侵入者だ。指揮官であることを現す死神(リーパー)と道化師(クラウン)を除き、統制された四十七名の侵入者たちが無言で地下施設内――その入口から潜入を開始する。

「さぁて、どんな面白い玩具が見られるかなぁ。楽しみですな」

「各隊は三人で行動。もし研究員や医師の類を見つけたならば――」

 リーパーと呼ばれている、二大頭目のうち長身の男が、冷然と通路内で告げた。

「――殺せ。音は立てるな。速やかにこの施設の全てを――制圧せよ」


†   †


 そして現在。大牟田医師が、青ざめた顔つきで説明を続けている。

「今から約二時間前、武装集団がこの地下施設に侵入を果たした」

 大牟田は海斗の手を引っ張りながら、白い長い廊下を歩き、説明を続ける。いつもはきちんとセットされた髪が乱れていても気にする余裕もない。

「侵入を把握できたのは今から七分前だ。それ以降、総力でこの施設内の人員や設備で阻止しようとしているが――」

「そんな……っ」

 アラート音が止まらない。立体的に映し出される警告文。危機を知らせる赤色の光。それは海斗を否応なく不安にさせた。海斗が急ぎ足のまま尋ねる。

「どういうことです? 武装集団って……」

「詳しい話は移動しながらしよう。……管理室、アラート音が邪魔だ。患者を余計に不安にさせないでくれ」

 大牟田が苛立ちを帯びた声音で端末に向かって叫ぶ。渋る管理室との応答が何秒かあった後、アラート音が減音された。しかし、赤い警戒光は消え去らない。小さくなったアラート音と共に、視界いっぱいを踊っている。

「海斗くん、これからシェルターへ向かう。そこなら安全だ。すぐさま君を避難させる」

「ま、待ってください!」

 海斗は冷水を浴びせられたかのように、はっとして大牟田の手を引っ張った。

「非難? シェルター? 何が起こっているんですか、それに武装集団って……」

「私も全てを把握してはいないが、可能な限り話そう」

 大牟田は端末で地図を確認しながら状況を語り始めた。

「君が利用している『VRメンタル治療』。あれは画期的な試みだと、先日に説明したね?」

「はい。――俺たちは仮想世界で暮らしていて、その体験を元に、メンタルを治療しているって」

「そうだ。それに関して追加になるけれど……仮想世界が医療以外にも応用出来るとしたら、君は何を思いつく?」

「え?」

 大牟田の問いに戸惑う。応用? 医療以外に。なんだろうか、日頃の生活の充実?

「……自分の好きなことに使う、とかですか? 例えば理想の家族、恋人、とか?」

「そうだね。まっとうな人間なら、そう考えるのが自然だ」

 大牟田は苦しげな顔をして、ある意味で笑ったような表情を取って告げる。

「でも、そういう人種ばかりではない。VR世界を医療のために使うのが我々のメンタル治療なら、その反対――犯罪に応用する人間たちも、中には存在しているんだ」

「どういう、ことですか?」

「――『人を殺すために使う集団』も、この世にはいるということさ」

「……え?」

 アラート音と赤い警戒光の中、すれ違うスタッフの姿の中。非現実的な単語や説明に、海斗は一瞬、脳内は空白色に染まる。人を殺す――集団。非現実な響き。

「人を殺す? そんな、馬鹿な」

「――VRをメンタル治療に使えるということは、その『逆』も然りなんだ。君が体験した通り、死を与えることで、自分の精神を治療するが――それとは反対に、『他者に悲劇的な体験をさせることで、相手の精神を破壊する』――そう目論む連中もいるんだ」

「そんなっ!」

「多くは大国の首脳などを対象としたものだ。他にも、大企業やインフルエンサーなど、影響力を持つ人間を狙う集団がある」

 大牟田は瞑目し、首を振った後に続けた。

「VRメンタル治療が考案した当時、最も懸念されていたのがそれだった。――VR世界は画期的な技術だが、簡単に犯罪へ利用出来てしまう。当然だね。何せVR世界はもう一つの現実。そこで悲劇の体験を繰り返せば、どんな人間でも精神を破壊出来てしまう」

「そんなこと! 技術的に可能なんですか!?」

「残念ながら」

 大牟田は嘆息をする。急ぎ走り回るスタッフたちを横目にさらに続けていく。

「VR世界は当初から、各国首脳や研究者たちで対抗策が模索されていた。――直接手を下さず、人を殺し得る手段。一時期、治療法そのものが凍結されかけた時もあった」

「そんな……」

 無理もないではある。仮に海斗が決める立場だとして、新たな犯罪の芽の可能性があるなら躊躇は当たり前だろう。リスクはなければないほど望ましい。

「ゆえに、VR推進派は提案した。『ごく一部の人間にだけ研究に携わらせる』――人里から離れた場所で、地上や空からも侵入が困難な施設。そこを拠点とすることで、研究と治療は進めるように至った」

「それは――じゃあここは一体、どこなんです?」

 大牟田は地面を指さした。

「――海底の地下施設。それがいま君や私がいる場所だ」

「海底の……地下施設……っ」

 信じがたい言葉に海斗が呆然と目を見張る。嘘だ、荒唐無稽だ。だが大牟田の瞳に冗談や戯言を言っている様子はない。これは紛れもない真実なのだ。

「そう。いま君と私が立っているこの施設。VR世界の管理施設――正式名、『第一VRメンタルラボ』は、太平洋の人工島――その海底の地下深くに造られた、科学の結集地だ」

「そんな……ことが」

 海底の、そのまた下の――人工の空間。

「この施設は、ある意味理想郷だ。何せ好きな様に自分の世界を体験できる。海底の底をさらに掘削し、地下五キロメートル以上の深部に存在している地下のエデン。地上からも航空手段でも侵入が困難なこの場所は、VRの研究――及び精神治療としては最適だった」

 大牟田は床を指し示していた指を腰へ戻す。

「最新ドローン技術や、最新AIによる管理。各国の有識者や技術者の努力の結集さ。完成したときは誰もが喜びに満ち溢れた。――けれど」

 長い廊下の分かれ道で、スタッフをぶつかりそうになり、咄嗟に大牟田ともども下がる。謝罪もそこそこに早足で進む海斗たち。

「VR世界に目をつける集団は諦めなかった。多様な手段を用いて発見しようとする輩は常に存在していて、中でも最も危険とされたのは、『ERUDEN』と呼ばれる連中だ」

「エル……デン?」

「楽園(エデン)をもじったのだろう。彼らは、主に電子世界を舞台に犯罪を繰り返してきた。国際集団の一つだ。――二〇三〇年初頭に存在が発覚し、関係者は何名か拘束された。近年では内部改革があったらしく、VR世界にとって危険な集団と化している」

「そんな……っ」

 大牟田は端末で画像を見せる。その集団の関連画像なのだろう。

「ぼかしは入っているが、これだ。――ハッカー集団を備えている。これまで十一回、国連のサーバーを攻撃。さらに主要三十四ヶ国、有名SNS、発展途上国への研究施設の襲撃――年々規模は大きく苛烈になっている。電子戦だけでなく、重火器を用いた活動も活発になってきている」

「そんな、どうしてそんなことを……?」

「背景には、武器商人や左翼系の人々が関与していると言われている。――問題なのはその規模だ。彼らは準最新の軍事装備を所持している。傭兵、ハッカー、その他、危険思想を持つ集団を集めているんだ。各国へ干渉を続けている」

「どうして、そんなのが野放しに……?」

「活動が本格化したのはここ数年だからね。――この地下施設も、当然彼らへの警戒を主としていた。最大限の対策は講じていた。しかしこんな簡単に、直接介入を許すとは」

 大牟田は遥か上、地上へ向けて仰ぐ。その声音には明らかな緊張と恐れが混じっている。

「……あの、大丈夫なんですよね?」

 海斗は思わず聞いた。

「地下五キロ……以上の施設なんでしょう? そう簡単に制圧されるなんてことは……」

「そう願いたいね。ただ管理室の報告を鑑みるに、事件発覚はつい先ほどだった。おそらく、相当な数が侵入している。……仮に彼らが順調に進んでいる場合、すでに上層――十階層までは制圧されている可能性がある」


 ――第38階層。施設内管理室では、スタッフが焦燥の顔で対策に当たっていた。

 モニターや各自の携帯端末、口頭による報告、焦燥の表情で全員が焦りを滲ませながら対応に当たっている。

 施設の防衛を担う参謀長が、長身に整えられた髭の大柄な司令に向けて発する。

「祇園司令。第4階層の防衛隊から連絡です。――賊はJ地区など四区画を中心に展開。我が部隊との交戦は、やや優勢とのことです」

 祇園雄悟(ぎおん ゆうご)――この施設の防衛の最高責任者であり、対テロや暴徒鎮圧のための部隊の総指揮官を兼ねる大男が太い声音で応じる。

「うむ。彼らの装備は精々が一世代前の代物だ。七日間は容易に持ちこたえられる」

 部屋の中央、巨大な光学モニターに映し出される、各戦線における戦闘の光景。

 大きく分けて四つに分かれている戦線では、防衛隊が果敢に銃器を撃ち放ち、施設の対人ドローン、防衛機構を用いて、阻害している様子が見て取れた。

「よし。J地区には第十二部隊を応援に回せ。ドローンは二十三番から三十四番まで待機。奇襲に使え。そして――」

 この施設始まって以来の体外的な緊急事態。

 それにも関わらず、祇園は冷静だった。初動こそ遅れたものの、突破を許したのは第三階層まで。自律式の防衛機構がうまく働いている。かつてSATなど軍事や専門部隊を相手にした実践テストでは、最大で8階層までしか突破されなかった。

そのときを考えれば、賊は奮戦している方だが――際立った戦果は報告されていない。

 賊の中には二人だけ、明らかに他より隔絶した者が二人いる。猛者だ。だが現状ではこのまま凌ぎ切ることは難しくない。そう祇園司令は判断していた。

「観測班から新たな報告! 賊はK地点に移動。現在は防衛機構にて対応中ですが――」

「よろしい。そのまま足を止めろ。防衛隊が到着次第、制圧する」

 テロリスト風情にしては、それなりに有能。だが全てを突破するには到底至らない。

 初動の嵌り具合で油断したか? 何にせよこのままいけば対処は容易いと思いかける司令の思考は自然だ。

「……む」

 祇園司令は思考の中、ふと呟きを発した。

 ――いま、モニターの画面が、一瞬ブレなかったか? 気のせいか?

 おそらく、そうだろう。今モニター内では、精鋭たる防衛隊たちが、果敢に賊どもに対して銃撃を浴びせている。防衛機構も問題ない。事態が収拾するのは、時間の問題だ――。


「海底地下深くに開発されたVR施設。最新の技術を集めて完成させたここは、世界で一番安全な避難所とも言える」

 大牟田は立ち尽くしたまま、思考に没頭する。

「だがこうまで初動で上手くいった相手が、単純に攻めてくるだけだろうか? 侵入発見が遅れたということは、少なくともハッカーは多数参加しているはず。けれど報告では相手は第4階層で足止めをくらっている。――第4階層? 実践テストでは、8階層までは突破された。しかしこのレベルの相手が4階層というのは、何か、違和感が……」

「大牟田さん」

 医師はその声に気づかず思考を重ねる。

「だとすれば警備の穴をたまたま上手く突けただけ? いや防衛の画像を見た限りでは相手もそれなりの装備だ。背後に厄介な集団もいる。しかし4階層……私の考えすぎか? その程度の突破力なら、そもそもここまでの侵攻も偶然で――」

「大牟田さん!」

 海斗は大声で叫ぶと、彼はハッとして振り返った。先程から繋いだ大牟田の手が強く握り締められている。思わず海斗は強い口調になる。

「逃げないんですか? シェルターがあるんでしょう?」

「……え、ああ。うん、そうだね」

 大牟田は頭を下げ、すぐさま避難を再開した。途中、すれ違うスタッフに他の患者の避難状況などを確認しながら進む。相変わらずアラート音が忙しなく響いている。

「大牟田さん、何か気になることでも?」

「あ、いいや、何でもない」無理に笑顔を作って否定する。

「そうですか……あの、気になっていたんですけど、妹は……柚葉は大丈夫なんですか?」

 大牟田は思い出したように端末を操作し、内容を確認し始めた。

「ああ、大丈夫だ。確認は取れたよ。妹さんは別のスタッフに連れられてシェルターの方へ向かっている」

 端末の地図で、該当場所などを見せながら応える。

「良かった……」

「君のように記憶の混乱が残っていたので、覚醒剤を打ったみたいだね。少し具合が悪いようだが、それ以外は支障ないそうだ」

「そう、ですか……ひとまずは良かった」

 最大の懸念事項が払拭されて、思わず安堵の声が出る。

 何よりも大事なのは柚葉だ。彼女さえ無事ならひとまず目の前のことに集中できる。走りながらの問いかけのため疲れる。しかしそれもいくらか緩和された。

「良かったです。これで柚葉に何かあったら、気が気でないです」

「そうだね。その気持ちは分かるよ」

 大牟田は階段を見つけて、そこに向かって海斗を引っ張っていく。『第35→36階層』、そう書かれた長い階段には、すでに何人かのスタッフが患者を引き連れて登り、下っていくのが見えた。

「シェルターがある階層は、どこなんです?」

「第37階層だ。……すまない、防犯上の構造で、他の階層にはすぐには行けない構造になっている。まだ結構歩く必要がある。容赦してくれ」

「……大丈夫です。俺よりも柚葉です。体力がないので」

「ああ。……それにしても海斗くん、話は変わるが、夏祭りのことは残念だったね」

 今までが緊急の事態の連続で、精神の負担を考える余地もなかった。しかし多少の余裕は出てきたのか、不安を紛らわすためにも、雑談を大牟田が振ってくる。

「そう、ですね。久しぶりに柚葉と本格的な外出でしたし。……でも現実で行えたら、一番良いんでしょうけど」

「そのうち、出来るようになるさ」大牟田は微笑を浮かべた。「それに声だけなら、いつもスピーカー越しに届いていた。君が彼女に向けて言った言葉は本物だ」

 それを言われると恥ずかしい。海斗は思い出す。VR世界での出来事は、常に医師やVRのスタッフに観察されていたと聞いた。

 想定外の事態が起こったときに対処するためだが、柚葉とのやり取りはシスコンめいたものも多少あった。それを誰かに見られていたことだけは少し恥ずかしい。

「……その。俺ちょっと青臭いことも言っていましたよね。お恥ずかしい限りです」

「何を言っているんだ。ああいう積み重ねこそが大事なんだ。信頼できる妹さんとの大切なひととき。二人で夏祭りに出かけた体験は、きっと良い影響をもたらすよ」

 一瞬。

 何を言われたのか、聞き流しそうになった。

「はい。俺もそれを望んでます。――え?」

 ずっと引きこもっていた妹との、大切なやり取り。

 夏祭りという、およそ今までは諦めていた華やかな行事。そこに参加できたこと、願わくば礼愛とも一緒に出かけたいが――。

「えっと。……礼愛とも、今度は出かける必要あるかもしれません。あいつ、世話をしてくれたから」

 ひょっとして聞き間違えか? そう思いつつ海斗が振ると大牟田は不思議そうにする。

「誰だ? ……礼愛? それが誰かはわからないが、もし現実で柚葉さんと、平和に暮らせれば、幸せなことだ――」

 頷きかけて――海斗は硬直した。

いま。

 いま、なんと?

 大牟田は、なんと言った? 

 聞き間違えか? 違う。そんなはずはない。

 ――まさか。まさか。

「大牟田さん? 何言ってるんですか。礼愛ですよ。礼愛。あのハッカーの。夏祭りで騒いでいた……」

「……ごめん。何を言っているんだ君は。礼愛……ハッカー? 何のことだい」

 怖気がした。海斗は、大きく身を震わせた。

 大牟田は本気で困惑しているようだった。その目に不審なものを見るような視線が宿る。

「状況がわからないけど、ここに来るまでは知り合いだった娘かい? それとも」

「違います。礼愛とはVR世界で出会って……それから、家庭教師とか、色々あって……」

 その瞬間。海斗の言葉に、大牟田の顔が蒼白色になった。

「海斗くん」

 何か思い至ったのだろう。その顔つきは真っ青であり、恐怖すら帯びたものだった。


「――月島礼愛という娘は、VR世界にいない。少なくとも君と柚葉さんのそばには」


 驚愕が海斗の体を打ちのめした。――いない? あいつが? どういうことだ。

「あの世界は、治療用だ。同じ世界に他人は入れないはず。……確かに、月島礼愛という少女は、この施設内の治療対象ではある。……でも彼女は別のVR世界で、独自に治療を受けているはずだ。――なぜ、そんな彼女と、君たちが接点を持っている?」

 海斗の胸の中がざわついた。それは、在ったはずの光景。それがじつは在り得ざるものだったと、判明した戦慄の瞬間。

 嘘だ。嘘だ。そんな言葉が海斗の中に過ぎる。しかしそれは事実だ。月島礼愛は同じVR世界にいるはずがない。専属医師が言った、矛盾が頭の中である可能性を示した瞬間。

 ――上層で、爆発音が聞こえたような気がした。


†   †


 月島礼愛。十六歳。VRメンタル治療、第38人目の被験者。

 幼い頃よりネット技術に長け、四歳時には独自のプログラムを作成。両親に褒められる。

 しかし六歳のとき、交通事故により両親は他界。以後、親戚からはたらい回しにされ、施設行き。それ以後は、養父となってくれた男性との二人暮らしが主となる。

 養父は真面目な人間だった。しかしお人好しすぎるきらいがあった。そのため、場合によってはグレーな界隈にも手を出し、相手の頼み事によっては黒い界隈にまで手を出したこともある。

 善意による道の踏み外し。彼と愚かと断じるか、重度のお人好しと苦笑するかは、各人で分かれるだろう。


†   †


「忍び込むのは、じつに気分がいいですねぇ、リーパー」

「ああ。これで隣がうるさい男でなければ最高だ」

 メンタル治療施設。とある階層。いくつものドローンや防衛機構を破壊しながら、リーパーとクラウンは軽口を叩いていた。

 傍らには、倒れ伏している防衛隊。すでに戦意はなく、戦力としても力になれず、ただ崩れ落ちているのみ。

 銃撃戦の果てに敗れた彼らの前を、リーパーとクラウンは悠々と進んでいく。

「ここはメンタル治療の研究の階層か。すでに大体、逃げ終わった後だが」

「ここは確保しないといかん場所でしょうなぁ。VR機器がわんさかあります。部隊のいくつかを常留させ、確保しなければ」

 リーパーは装甲服の踵を鳴らし、研究室の一つを覗き込む。

「データは吸い出しておけ。膨大な時間が掛かるだろうが、それは最優先だ」

「あいな。――お前らぁ、準備していたブツを用意しろ」

 クラウンの合図により、後ろについていた十七名の部下が背嚢から機具を取り出す。一抱えほどの金属質のタイヤのようなそれは、メイヴTP5をコピーするための大型機具だ。

「……完全に吸い出すには三時間は必要ですね。一応、プロテクトもありますし、場合によってはもっと掛かりますな」

「時間が惜しい。ネットは遮断したが、非常手段で応援を呼ばれると面倒だ」

リーパーは銃器を軽く叩き、ふと考えた後、通信機具を手にする。

「私だ。そちらからハッキングは出来るか? 今から言う研究室のプロテクトを、お前が解除しろ」

 ――通信の相手は、不機嫌そうに文句を言い募った後、溜息と共に質問に応じた。

「なるほど。同行している医師は始末出来るか?」

 不可能、との返答が来る。別の医師や患者と合流した。自分は動けないとの結論。

「わかった。では仕方ない。こちらで対応する――礼愛」

 リーパーは通信を切った。すぐにクラウンが話を振ってくる。

「――礼愛のこと、始末しないので?」

「幹部の指示だ。――可憐だからな。ファンもいる。礼愛を殺せば俺たちの身が危ない」

「……はあ。結局は顔が良い奴が、生き残る世界ですかい」

「言うな。それに、腕が良ければ生き残ることも忘れているぞ。我らのようにな。顔と腕、両方とも優秀なあいつは、これからも幹部どもの飼い犬だ」

「違いないですな」

 クラウンは笑いを上げた。そうなると違う手段を講じる必要がある。さてどうすれば良いか。それを考えながら、彼らは礼愛の――仲間の少女のことを頭から一端忘れた。


†   †


「――月島礼愛は、ハッカーとして有名な少女だ」

 大牟田は呆然と立ち尽くした後、蒼白色の顔のまま端末を操作しつつ言った。

「彼女は幼少期から才覚を発揮し、養父に救われた後は恩を返すため、お金を得ようとしていた。そのハッキング技術の高さは同年代では群を抜いている、ホワイトハッカーだ。しかし――」

 大牟田は言った。はっきりと。海斗の目の前で。

「君と柚葉さんのVR世界とは、共有していなかった。――彼女の話になるが、月島礼愛の養父は、現実では行方不明でね。だから養父を救出する世界を体験していたんだ。その危ういメンタルを治療するため、独自のVR世界にいるはずだったが――」

 大牟田の中に、疑念やそれに類するものが一斉に広がっていた。

「つまり、俺や柚葉と出会った礼愛は……何かの間違いだったんですか? 装置の誤作動とか?」

「……本来、VR世界に潜る被験者は、例外を除いて一緒の世界に入れない。予測困難な影響を避けるためだ。君と柚葉さんは例外だったんだよ。現実で密接な関係があるからね。VR世界の共有が許可された希少な例だった」

「じゃあ、俺たちが出会った礼愛は、あいつは何だったんですか?」

「――最も考えられるのは、襲撃犯の『共犯者』だ」

 大牟田は憎々しげに告げる。その手に持つ端末がわずかに軋みを上げた。

「月島礼愛は、ERUDENの一員なのだろう。彼女が、我々の施設を混乱に導いた」


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