第六章  夏祭り、ターニング・ポイント

 近隣の久川大通り公園では、毎年大規模な夏祭りが行われている。

 古くは奈良時代からあったという触れ込みだが、現代ではその名残はほぼないに等しい。

 いくつか断片的に、当時の歴史に由来する遺物や絵画が展示されている程度。とはいえ祭り自体は盛況で、盆地での公園なので交通の便も良く、ベッドタウンから近いこともあり家族連れも多かった。市が予算を潤沢に用意し、さらにはこの街出身の著名人が訪れることもあって、毎年それなりの賑やかさを誇っている。

「で。なんでこんな場所に。三人で」

 海斗はいつもなら家で団欒を過ごしているのを連れ出されてぼやいていた。

 半分は柚葉との時間を取られた不満。もう半分は太鼓や出店、賑わう客の足など非日常に感情を揺れ動かされる不安。

「それはもう、ちょっとしたご褒美です! 何せここ二ヶ月半で、柚葉さん、だいぶ頑張りましたからね。せっかくなのでお祭りデート! 悪くないでしょう?」

「デートて。兄妹でそういうことは言わない」

「いえいえ。わたしと海斗さんのデートです。柚葉さんはお一人さまで」

 海斗が眉をひそめたので、礼愛は「こほん」、と気を取り直して指を立てる。

「冗談です。――真面目な話、息抜きも必要ですよ、柚葉さん、基本は家ですよね? でも季節イベントもたまにはいいじゃないですか。賑やかですし、食べ物もいっぱいです」

 柚葉が不安そうに周りを見る。手は兄の袖を握っていた。

「でも、いいのかな。兄さんの時間を潰して。せっかくの日曜なのに」

「勉強のお疲れ様会ということでいいんじゃないか? 夏祭りは久しぶりだろ?」

まだ柚葉が不登校ではなかった頃、小学生までは二人して遊びに来たこともあった。

 その頃は柚葉はやんちゃだったが、気まぐれで優しいときもあった。

 そのことを思い出したのだろう、少しだけはにかみつつ柚葉は頷いた。

「うん……兄さんがいいなら」

「……なーんか。カップルでもないのに手を繋いでいて。恋人感すごいのですが。何気に二人とも割と美形ですし。これは茂みとか気をつけないといけませんね」

 家庭教師の少女が何やら馬鹿なことを真面目な顔で言っていた。海斗と柚葉は、二人して顔を合わせ、苦笑をして公園の入り口から、ゆっくりと入っていった。


 笹の原公園と名付けられているこの公園は、東京ドーム一個分の広さがあった。と言っても東京の都心に住んでいるわけではないため、海斗たちにはそう喧伝された看板があってもよくわからない。公園の歴史の看板もほどほどに、一同は中に入り辺りを見渡した。

「うわあ、広い。すごいね」

 柚葉が思わず歓声を上げるくらいに公園は人気も大勢あった。

 カップル、高校生と思しき集団。まだ年若い家族。長年寄り添った老夫婦。学校の写真部や、浴衣を着たお姉さん、暇つぶしと思しき学生。近隣に住んでいる中年男性。芸能人並みのルックスの女性に、カメラ小僧。様々な人達が足を運んでいる。

 公園に並ぶのは多様な露天だ。射的、金魚すくい、綿あめ、お面売りなど。定番なものから、クイズ大会、ビンゴ大会、ゲーム機を餌に客を寄せる出店などもある。

 水風船やポップコーンを手にする客が歩き回り、くじの景品で悲喜こもごも。大学生の集団が前を横切り、公園の中央、入り口からでは櫓の一部しか見えない。いくつかの木々越しに、太鼓を叩いている青年の姿が見える。

 祭り囃子の奏でる独特の雰囲気の中、ドンドン、わあわあ、きゃあきゃあと、射的や金魚すくいで一喜一憂する声が聴こえる。華やかで、賑やかな声が耳朶を叩いていく。

「兄さん、どこから向かおうか」

 色とりどりの光景の最中、柚葉の問いかけに、海斗は小さく口端を緩めた。

「腹ごなしかな。焼きそばとか綿あめとか。焼きトウモロコシもあるみたいだな」

「あ、綿あめは食べたい」

「お二人共とも! 金魚すくいはどうですかーっ」

 周りの客が多いため、一足早く奥まで向かっていた礼愛が大声で叫んでくる。海斗は携帯を取り出し、メッセージを送った。

『じゃあ礼愛は金魚を確保して。俺たちは綿あめでも食べるから』

 即座に礼愛から返事が届いた。

『わたしは金魚を食べて腹ごなしですね! ――ってなんで別行動!? というかメッセージ!? 肉声くださいよ! 声が届く距離ですよっ!』

 ノリツッコミをこなし、さらにはスタンプも豊富である。礼愛は社交性が高い。

「冗談だよ」と言っている間に走って礼愛が戻ってくる、

「というかですよ! 入り口付近で腕組み兄妹は目立つので移動してくださいよ。奥行きましょう、奥」

 ぶつぶつ文句言いつつも口調はどこか優しい。

「そうだな。まずは何をしようか。色々あって、目移りする」

 海斗は周囲を見渡して吟味した。久しぶりの祭りとあって高揚感も湧いてくる。

「ではまずは射的と行きましょう! ――くく、わたしのハッキングで無双を称えるのです。あらゆる景品を総取り!」

「いや、射的でハッキング出来ねえだろ。というか全部、無理だから」

 礼愛がびしりと固まった。

「え、あ。……というかハッキング出来ない物ばかりじゃないですか。うわー、今どきアナログ地獄なのマジか!」

 ネタかと思いきや、本気で礼愛が焦っている。色々と言っていたが、結局はいいところを見せたかっただけなのかもしれない。思ったより欲望に忠実な娘だ。

「……え? 礼愛さん、ハッキングなんて出来るんですか?」

「え? あ、はい」

 柚葉が驚いたように目を丸くしていると、礼愛は目を泳がした。

「ええと、出来るかどうかと言われれば……出来ますね。いえ、やっぱり無理なよーな?」

「普通に無理と言えよ。隠すならきちんと隠せ」

 やれやれと海斗は頭を振る。柚葉が呆然としていた。

「うそ……礼愛さん、本当にハッキングなんて出来るの? お巡りさん呼んだ方がいい?」

「ちょ! 待ってください! 柚葉さんそれは待って! お願いですから!」

「だって……ハッキングって犯罪ですよね?」

 柚葉が少し引いているような目つきを向けると、礼愛は少し傷ついたような顔をする。

「んーっ、間違ってはいないですけど! ホワイトハッカーですよ! 政府に許可もらってる人! ライセンスだってあるんですから」

 そう言って名刺っぽいものを見せてくる礼愛。

「え、お前そんなのあったのか。てっきり違法だと……」

 海斗が驚愕の目で見つめていると、礼愛が頭を抱える。

「いやいや海斗さん、あなた見ていたでしょ。わたしの腕前知ってるはず! その反応、わたしちょっと泣きそうなのですが」

 何やら目の端にちらりと涙っぽいものまで、光らせている。柚葉が驚いたような目つきを向けた。

「……え。じゃあ、本当に?」

「ま、まあ? わたしにかかれば大抵のセキュリティは突破できますけど。自慢じゃないですが、ハッカー集団の集会でスコア一位取ったこともありますね」

「自慢じゃねえか」

「……でも、射的とかでは、無力だって……」

「ぐ!?」

 視えない槍にでも刺されたような表情を礼愛が浮かべる。

「それにアナログ地獄だって言って。礼愛さんにはとってここは、アウェーなのでは?」

「ぐうう!?」

 さらに追い打ちをかける柚葉。以外と容赦ない。

「間違ってはいませんけど、釈然としない……」

 声音に覇気がなくなっている。本気で活躍したかったらしい。無理もない。自分が誇れる一番のスキルなのだから。

「まあとにかく。適当に色々見て回ろう」

 海斗は苦笑いを浮かべて、二人の少女へ告げ、場をまとめた。

「それぞれ愉しめばいいんだ。礼愛もだ、無双は出来ないが頑張れ。お前の発案だからな」

「ううう、まさかの励まし……優しいですけど悔しい……」

 予想以上に良いところを見せたかったのもしれない。礼愛は本気でしょげていた。おそらくは柚葉のために。そういうところは素直に素敵だ。

 柚葉は、そんな彼女を見て、困ったような、小さな微笑みを浮かべていた。


 ――三〇分後。

「というわけで射的です。千円分使いました!」

 コルクの弾を撃ち尽くした礼愛がヤケクソ気味に言う。その射線上には、当たった痕跡すら見受けられない。

「礼愛の戦績は、0勝10敗か。……お前、下手すぎ。かすりもしないってすごいな」

「実物は初めてなんですよ! ……くっそー。ゲームなら百発百中なのに……」

千円札をお店の人に渡して、「10連射で景品も総なめですよ」と粋がっていた少女は、言い訳しかしていない。

「俺はそこそこ当たったぞ。四等を当てたから。少なくとも礼愛よりはマシだな」

「ぐうう! そっちだってお菓子じゃないですか。ちっぽけな景品です」

「負け犬の遠吠えだな。10連敗のお嬢さん」

「うぐぐぐ……っ」

 本気で悔しがっている。祭りどうこうではなく、単純に全敗だったことが悔しいらしい。何事も負けず嫌いが上達の近道だ。

「次は金魚すくい! 金魚すくいをしましょう! 負けませんよ!」

「なんで勝負なんだよ。……まあいいか。柚葉、楽しみにしておけ」

「うん、兄さんの勝つ方に千円ね」

「対応の差!」


 十分後。礼愛は出店の人に猛抗議していた。

「あの! おじさんこれ網、細工してません!? してますよね? 三千円使ってゼロ匹とかあり得ないんですけど!?」

「いやあ……お嬢さんの腕前に、おじさんがびっくりだよ」

 金魚すくいのおじさんが戸惑っている。想像以上に下手な礼愛に困惑していた。

 礼愛の使った網はどれもこれが無残な有様で、可愛そうなくらいロクな状態ではなかった。礼愛が打ち震えているのを横に海斗は破顔する。

「おっ、これで四匹目だ。おじさん、これも持ち帰り用にお願いします」

「あいよ。兄ちゃん、上手いね」

「ねえ海斗さん! そっちの網と交換しましょう! これ詐欺られてますって! ほんと、わたしのだけハードモード!」

「さっき同じことして破れてただろ……純粋にお前が下手なだけだ」

「うぐぐっ、下手って言わないで!」

 出店のおじさんも、見ていた小学生らしき子供たちも、「うわあ」と気の毒そうな目で礼愛を見ている。途中、おじさんが「……良かったら一匹、おまけであげようか?」と礼愛に提案したが、彼女は断った。なにやらハッカーとして譲れない何かがあったのだろう、割と切実な声音だった。

「く、ハッキング出来れば、こんなの、100匹でも、1000匹でも取れるのに!」

「そんなに取ってどうするんだ。唐揚げにでもするのか?」

「モノのたとえですよ! 全力出せばこれくらい楽勝と言いたいんです!」

「他のお客さんの邪魔になるから、そろそろ出てくれる?」

「あ、はい……」

 出店のおじさんに言われてすごすごと礼愛は引き下がった。

 さすがに少し可愛そうと思う海斗と柚葉だった。


 輪投げにダーツ。水ヨーヨーにくじ引き。歓声と悲鳴。そして崩れ落ちるハッカー少女。

「全滅ですよちくしょー! 絶対イカサマ使ってますって! 乱数いじられてます!」

「アナログ遊びでそんな高度な真似は出来ないだろ。単にお前が下手なだけだよ」

「せめて優しいコメント欲しかった!」

 視界に映る大抵の店は試してみたのだが、どうにも礼愛は良い戦果を出せなかった。

 やがて片っ端から挑戦しようとする彼女を見て、そろそろ金額が危険なことになりつつある。なので強制的に海斗が止めさせて、今はイカ焼きを食べている。

「はあ……イカは美味いですよね。他の遊戯も、全部イカにすればいいのに」

「意味不明なこと言ってるなよ。全部実力だろ。礼愛はハッキング以外ポンコツなんだな」

「ポンコツは言いすぎです。ああ悔しい。どれも取れないなんて! 挑戦しても残念賞とかそんなのですよ。出店のおじさん、苦笑いばかりでわたし落ち込みます」

「めんどくさいな……綿あめでも食ってろ」

近くの出店の人に頼んで大きな綿あめを作ってもらった。それを礼愛の口に放り込み、黙らせる。

 電子戦ならともかく、礼愛はアナログ系がほぼ駄目なようだ。大人しく綿あめを食べて、「おいしーですね。綿あめと以下サイコー」などとイカ焼きも頬張る姿は可愛らしくて絵になる。そのうち柚葉にまで話題を振りまく。

「柚葉さんもそう思いませんか? ――柚葉さん?」

しかし勢いで隣を見た礼愛は、柚葉の顔を見て怪訝に思う。

「どうしました?」

「あ。ううん……何か、すごく生き生きしてるなって。海斗さんも礼愛さんも、ずっと楽しそうで」

「いやいや。どこがですか。わたし、悲鳴しか上げてないと思いますけど」

「……俺も? 生き生き……してるか?」

 思わぬ声に、海斗は目を見張る。以外な評価に、素直な声音が出る。

「うん。何か……礼愛さんが挑戦するたびに、すごく楽しそうに口元を緩めてる。そういう兄さん、見たことなかったから。ずっと。……だから」

羨ましくて。

 そんな言葉が、祭りの音にかき消されて、きちんとは届いてはくれなかった。けれど口の動きと、わずかな音の揺れ。そうしたもので察した海斗と礼愛は、何も言えなくなる。

「……柚葉」

 海斗は一瞬だけ目を閉じ、口を開いて視線を合わせる。

「別にこれくらい、普通だと思うぞ。祭りで文句を言ったり、騒いだりするなんて。特におかしくない」

「うん。……でもわたし、そういう顔も、最近は兄さんにしてあげられなかったんだって」

 海斗は黙り込んだ。それは柚葉なりの後悔だった。ずっと溜め込んでいた本音。膨れ上がった思い。言葉に含まれた罪悪感や寂寥感を嗅ぎ取り、海斗はしばらくの間、硬直する。

「柚葉……」

「だってこれが『普通』なんだよね? お祭りに行って、お話して、ゲームをして笑う。文句を言ったり成果に喜んだり。……そういう、当たり前の『普通』を、わたしは兄さんから奪った。だから……すごく後悔してる」

「柚葉。それは違う」

 強い語気の海斗に、妹は首を横に振った。

「ううん。わたしがいると、兄さんは不自由になる。『普通』から離れていく」

 柚葉の言葉は止まらない。

「……ずっと思ってた。わたしが不登校になって、兄さんは学校とバイト先ばかりで、『普通』が出来てない。だから『普通』の青春も失った。恋愛も、友達も。――だから、『普通』を送れている今が、どれほど尊いか……わかったの」

「違う、柚葉。それは」

 柚葉は手で兄の言葉を静止させる。秘められていた本音に、彼女はたまらずこんこんと気持ちを溢れさせる。

「俺は別に、お前を重荷に思ったことは」

「わたしは、足枷だった。兄さんの楽しさも嬉しさも邪魔してきた。邪魔でしかなかった。それを改めて思ってしまったの。兄さんは、本当は礼愛さんみたいな人と、一緒にいたほうが良い――」

「それは違う」

 思わず柚葉がびくっとなり。海斗は思わず柚葉の体を抱き締めた。優しく、ゆっくりと。それでいて、大切なものを包むかのように。

「兄さん……?」

 戸惑いの声が柚葉の小さな口からもれる。

 祭り囃子の響きが、遠く、彼らの耳朶に届いてくる。騒ぐ子供たちの声も、はしゃぐカップルの声も、遥か彼方の背景に成り果てる。

「違う。違うんだ、柚葉」

 優しく声をかける。柔らかく体を包み込む。不安を抱かせないように。安心を届けられるように。出来る限り、そっと。大切なものを扱うために。

「確かに俺は、他人から見れば不自由な人間かもしれない」

 耳元でささやく。

「毎日、不登校の柚葉とだけ会話して。学校でもバイト先でも最低限の会話ばかり。友達と遊んだり、ましてや恋人とデートしたりした経験は全然ない」

「うん……」

 周りの光景を見渡す。そこには、家族連れ、学生同士の集まり、恋人の連れ添い、様々な幸せの光景がある。海斗や柚葉には到底手に入らない、当たり前で尊い光景。

「でも別に、それを不幸だと思ってない。だって親とは死に別れてしまったし、叔父さんも多忙だ。普通は、それで不幸だと言うのかもしれない。――でも」

 海斗は力を込める。ややあって、唯一の肉親である、妹の濡れた瞳を見つめる。

「柚葉、お前がいたから頑張ってこれたんだ。――今の生活で我慢できていたのも、全部お前がいたからだ。柚葉がいるから、普通ではないんじゃない。『柚葉がいたから』、俺はまっとうに、日常を送れているんだ……それだけは、わかってほしい」

「兄さん……」

 柚葉の目尻から、ひとしずくの涙がこぼれた。それは一秒ごとに、数が増していく。

「でも……でも。わたしがいなかったら、友達も、恋人も、出来たんじゃない?」

「別に、そんなのどうでもいいだろ」

 海斗の口から乾いた笑みがこぼれた。

「友人がいても、恋人がいても、上手くやれてるとは限らないだろ。それに、そこそこネットでは話し相手くらいはいるぞ? お前に言わなかっただけで」

「え、そうなの……?」

「あまりそういう話題をすると、柚葉が嫌がると思ったから、避けていた。……ごめんな」

 急いで柚葉は首を横に大きく振った。

「ううん。わたし、兄さんは学校でもわたしのことで重荷に思ってるのかと思ってた。でも違うんだね。兄さんは兄さんなりに、青春を謳歌していた……」

「まあ……そりゃ授業もあるし、宿題だってあるから理想とは言えない。だからって、不幸だとは思っていない。柚葉がいる。自分を不幸なんて思ったことはない」

 おずおずと、柚葉は言いづらそうに尋ねてきた。

「じゃあ……恋人が出来ないのは……?」

「別に欲しいとは思わないから。だって柚葉以上に魅力的な女の子、見たことないし」

「ああうう……」

 傍らで見ていた礼愛がすかさず突っ込みを入れてきた。

「それはさすがにシスコンですよ。公共の場で言うことじゃないですからね?」

 ごほんと、海斗が仕切り直しに乾咳をした。

「んん。祭りとかも、単純に興味がなかっただけだ。だって子供の頃ならともかく、こういう場所が好きかは個人差あるだろ? 家で過ごすのが好きな人もいれば、外が好きな人もいる。それだけだ」

「じゃあ……じゃあ……っ」

 海斗はぎゅっと、また力を込めて抱き寄せる。

「別に『普通』って、色々な形があると思うぞ。友人もお祭りも、デートとかしていくだけが普通じゃない。それ以外にも楽しい瞬間はある。ゲームや漫画、ラノベにPC。楽しみ方は人それぞれ。『普通』なんて、人の数だけある」

 言って、なおも柚葉の瞳を覗き込む。

「何なら今、お祭りには来ているじゃないか。それでいいだろ? 礼愛が仮に友人だとしたら、友人とのお出かけも達成してるから」

「……あの。わたしが仮に友人っていうのはちょっとアレな表現ですけど」

 礼愛の言葉に少しだけ笑う。柚葉の目尻の涙をハンカチで拭いてから、海斗は続ける。

「何も、柚葉が思い悩むことじゃない。俺は普通から外れてはいないし、ずっと我慢しているわけでもない。それだけは本当だ」

「兄さん……」

「重荷だと思っているなら勘違いだ。俺は柚葉と一緒にいられて幸せなんだ。それだけは変わらない。だからそんなに泣くな。俺は大丈夫だから」

「ご……ごめんなさい……」

 そこで改めて、周囲がお祭りで、人の目が思いっきりあることを思い出したらしい。柚葉は途端に頬を紅潮させる。

「あの、わたし……」

「いいよ。……だからな、あまり思いつめるな。これからは普通にお祭りに行けばいい。もっと出かけよう。俺たちには時間がある。十七歳と十六歳。まだまだこれからだよ。色々な景色が見られるんだ」

「そうだね。……うん、そうだね」

 すべては自分の思い過ごしで。幸せはずっと近くにある。柚葉の目尻から何度も温かいものがこぼれ落ちる。それは後悔や罪悪感を含んだ涙の粒。それがようやく、罪の意識と共に少しずつ……ゆっくりとこぼれ落ちていく。

「まだまだ俺たちは幸せになれるさ。次はおみくじでも引こうか。大吉でも出ればハッピーになれるかも。そう思わないか?」

「うん。……うん」

 柚葉は、兄の胸の中で思いっきり泣いた。しばらく、二人はそうして自分たちの体温を交換し合っていた。


「はい、おみくじ引きます! 天才ハッカー、月島礼愛さんの運勢! それは――」

 礼愛が大凶を引いて文句を言い出した。神社の巫女さんにぎゃーぎゃー文句垂れる姿はどうにかしてもらいたい。仕方なく海斗は襟首を引っ張って引きずり出すと、彼女は海斗に食って掛かった。

「おかしいと思いません? 海斗さん、わたしこのお祭りでアンラッキーばかりですよ」

「俺と柚葉と一緒なんだからそれだけで幸せだろ。贅沢言うな」

「すごい台詞! 冗談なのか本気かいまいちわからないっ」

 その後も礼愛は水風船やくじ引きに挑戦していった。よせばいいのに運任せやテクニックが必要な出店ばかり行くものだから、残金がどんどん減っていく。

「礼愛、優しいな」

 そんな少女を見て、海斗は静かに隣の妹に向ける。

「うん。たぶん、わざとやってる、よね?」

 重かった空気を和らげるため。二人に笑顔を取り戻してほしいため。半分はマジ泣きだろうが、もう半分は演技で騒いでいることは、なんとなく判った。

「あとで礼愛さんにお団子でもプレゼントしたい」

 おみくじを再びひこうとしている礼愛を見て兄妹は和やかに笑う。

「ぎゃーっ! まだ大凶だ――っ!」

 と叫ぶ礼愛を見て、海斗も柚葉も口端を緩めて、いつまでも笑っていた。


「すっかり長居してしまったな」

 お祭りの空気もどこか弛緩して、夜も九時過ぎ。客の足もまばらで、場合によっては店を締め始めている時間帯。

「最後にもう一つ、出店に行くか? それとも帰るか?」

 一通り周囲を見渡して海斗が言うと、柚葉が困ったように笑った。

「あ……礼愛さんのお財布が心配だから、帰ろうと思う」

 礼愛は疲れた顔をしてぼそりと言った。

「はい。その選択は正しいと思います。わたしの万札、いくつもあったはずなのにめっちゃ減ってます」

 何なら涙すら流している礼愛の運の無さ。微妙なゲームの腕前に哀愁さえ感じる。

海斗は、思わず吹き出しながらも、さて帰ったらどうしようかと、苦笑いと共に出口の方に振り向きかけた。

 ――ふと。

 異質な空気をまとっている二人組に、海斗は気を取られた。夜風と祭りの食べ物の匂いの中、不自然に、唐突に、それは視界に現れた。

「? なんだろう、あの子たち」

 それは。

 白い衣装をまとい、白い髪を持ち、白い肌をした神秘的な少女だった。

 それが二人。顔つきは淡麗だ。年齢はおそらく十五歳前後。

あまりにそっくりな顔立ちだ。おそらくは双子だろう。どちらもあどけなさを持ちつつも、不可侵な雰囲気をまとう二人には、大きな特徴が存在した。

 ――翼だ。

 それは白く、真っ白な――まるで神話や聖書の中のような、天使のごとき翼が双子の少女たちの背中にはあった。

「綺麗……」

「なんかのコスプレですかね?」

 柚葉と礼愛が思わず感想をもらす。それは綺麗なものを見た当たり前の反応だ。

 けれど海斗は感じる。直感で感じる。――あれは危険だ。あれは異端だ。近づいてはならない。出会ってはならない。本能的な警戒心を抱かせるもの。

 束の間、海斗が逃げようか逡巡していたとき。

 不意に。

白い双子の目が。

 赤い宝石のような美麗な瞳が、まっすぐ海斗たちに向けられた。

「……っ」

 咄嗟に海斗が柚葉の手を引っ張って逃げようとしたとき。


「もうすぐ災厄が訪れる。理想の破壊が訪れる」

「気をつけて、あなたたちの世界は壊れる。鉛色を撒き散らす者だから」


「――!?」

 ぞわりとした。くすくすと。無表情なのに、なぜかそんな忍び笑いをもらすその二人。

 風のざわめきが聞こえる。太鼓の音が止んでいた。人々の雑踏が消えている。周囲にあったはずの人の影が消え失せている。祭り囃子がない。焼きそばのソースの匂いがない。金魚すくいの喧騒が、おみくじの巫女が、射的の商品も店も、丸ごと消え失せていた。

 あるはずのものがなく、現実離れした白い双子だけが世界に残っている。

「なんだ……これは……」

 本能から警戒心を剥き出しにする海斗。しかし白い双子の少女はなにもしない。いや、ひたすらにそらんじている。「災厄が」「破壊が」「理想の終わり」「鉛色の暴力」、そんな言葉を羅列している。

 海斗が、柚葉が、礼愛が――揃って、その異変に思わず身を引きかけたとき。


 ――ALERT発令! ALERT発令! ALERT発令! ALERT発令!


 真っ赤な、おびただしいほどの英文が視界中にはびこった。地面も空も何もかも。至るところで血のように赤いALERTの文字。赤、赤、赤。まるで出来損ないのペンキをぶちまけたようなおぞましい光景。

『危険』を意味する、無数の英単語が乱舞する異常な視界。

「な、なんだ!? いったい何が起こって――」

 海斗が反射的に柚葉をかばった。礼愛が、二人の手を引っ張って草むらの中へ移動させる。そして険しい顔つきで携帯を取り出し、辺りを警戒し始めた、そのとき――。

 意識が。

 海斗たちの、意識がまるで鈍器にでも殴られたかのように、強い衝撃を受けた。急激に、全身を撹乱されたかのような強い振動。視界が、世界が、周囲の景色ごと揺さぶられる。

「ぐ、う……っ!?」

 景色が揺らぐ。感覚が狂っていく。視界の隅々で赤が踊っている。アラート音は止まらない。揺らぐ海斗たちの視界の激動。聴覚に、大異変を知らせるアナウンスが突如として響いた。

〈――緊急事態発生。メイヴTP5を強制停止。繰り返します。緊急事態発生、メイヴTP5を強制停止――〉

 ブヅン、と。甲高いアナウンスが――途中で打ち消された。

 不測の事態を知らせるシステムが消された。途中で終わる彼らの世界。異常の中の異常。海斗は――寒気が走ると共に、妹を抱き締め、意識が急速に浮上するのを感じていた。


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