第五章 家庭教師のハッカー
VR世界。礼愛との一軒が終わって翌日。ようやく兄妹楽しく朝食が出来る、と思って家族団らんで朝食を取っていたとき。賑やかな声がドア越しに聞こえてきた。
「海斗さーん、わたしですよー、予告通り、カワイイ家庭教師ですよーっ」
思わず海斗は鼻白んで辟易する。聞こえなかった顔をするが妹はそうもいかないらしい。
「……あの、兄さん? 今、何か玄関の方から声がしたけれど」
「さて、なんだろうな。隣の家にセールスでも来たんじゃないか。俺たちには関係ない」
「え? でも――」
ピンポンピンポン、ピンポーンッ――と、音がすごい勢いで連打される。
「お届け物の家庭教師ですよー。海斗さん開けてください、でないと泣きますよー」
柚葉が半笑いを浮かべ始めた。これはさずがに無視出来ない。
「あの。兄さん。今のは明らかに……」
海斗は面倒臭そうに席を立つと、インターホンの電源を切った。するとドンドンドン! としっかりリビングにまで聞こえてくるほどの大声とドアを叩く音が響く。
「はぁ」
海斗は面倒そうな溜息を一度つくと、仕方なく玄関口に向かい、ドアを解放した。
「あ、どーも海斗さん。早速来てしまいました。えへへ」
「……礼愛。いま何時だか分かってるか?」
礼愛は携帯の画面を確認しながら、海斗はむすっと尋ねる。
少女はにっこりとした笑みを浮かべると、しなを作った。
「朝の七時ですね。お寝坊さんはまだ夢の中です」
「そう、七時なんだ。つまり柚葉との温かい朝食の時間なんだよ。たまの日曜日のな。――兄妹水入らずだったところに、やかましい女が来たらどう思うか。分かるな?」
礼愛は笑顔が固まったまま訴えた。
「いや、違うんですよ。せっかく昨日はイロイロあったじゃないですか。だから一秒でも早くですね。海斗さんのもとへ一秒でも早く来たかったわけです。えへへ」
「兄さん? そのひと誰?」
玄関で振り返ると、柚葉がびっくりしたような目で口に手を当てていた。その目が驚きと絶望に染まりかけている。
「あ、その。こいつは……その、柚葉。えっと」
海斗はとっさのことで言い訳が出来なかった。礼愛は朗らかな笑みで会釈をし、とても優雅に応じる。
「どーも! 海斗さんと約束をした月島礼愛と申します! 今日から柚葉さんの家庭教師のため、訪問させていただくことになりました!」
「え? えっ?」
柚葉はひどく困惑していた。無理もない、日曜の朝に兄妹で楽しく会話していたら、突然の訪問客。それも家庭教師で、おまけに綺麗な少女ときた。海斗でも面食らう。
「……わたしの、家庭教師?」
「そうでーす!」
もう流れに任すしかない。海斗が首で促すと、礼愛をは楽しそうに歯を見せた。
「はじめまして! わたし、月島礼愛と言います。訳あって、今日から柚葉さんの家庭教師をすることになりました」
「……兄さん?」
海斗が頷く。「本当だよ、言い忘れていたけど、事実だ」
柚葉は、はじめは恐々としていたが、やがておずおずといったように、全身を出してお辞儀した。礼愛の邪気の欠片もない笑顔に疑うこともほぼなかったのだろう。
「……はじめ、まして。兄がお世話になっております。――えっと。兄さん。その、わたしの家庭教師って……?」
海斗は少しだけ天井を見て、苦笑を浮かべてから説明を施した。
「ごめん。昨日は色々あって説明し忘れてたから。こいつとはバイト先で知り合ってな。それでまあ、トラブルで借りを作って。お礼に家庭教師をしてくれるようになった」
「え。そうなの?」
柚葉は予想外すぎる目で大きく目を見開いている。そんな仕草だけでも非常に絵になるのだが、わずかに警戒心が拭いきれていないのは仕方ない。
「……すごい、可愛い人だね」
礼愛が苦笑いして手を振った。
「いやいや、柚葉さんの方が二倍くらい可愛いですよ! 写真で見たことありましたけど本物はオーラが違うと言いますか! あはは、これは海斗さんもシスコンになりますね」
「シスコンじゃないから」
嫌そうに海斗は告げる。けれどまんざらでもない顔になってしまう。妹が褒められて嫌な兄はいない。
「……そう、なんだ。……あの、礼愛さん。よろしくお願いします」
「はーい! よろしくでーす! それで、海斗さん。わたし上がってもいいですか?」
「出来れば事前連絡してほしかったけど……まあこっちにも恩がある。いいよ、上がって」
それを柚葉一瞬だけ残念そうに見つめながら、すぐに笑顔を浮かべてきた。
「これからよろしくお願いします、礼愛さん」
「――それでですね。ここがこういう式を当てはめて、そうしてここがこうなるわけです」
「わ。わぁ。え、すごい。わかりやすい、それにすごく丁寧」
家の中が五倍くらい姦しくなった。言うまでもなく礼愛のせいで、いつもなら日中は静かな楠木家が、今日は賑やかな有様となっている。
リビングのテーブルには、いくつもの教科書。
それに参考書。加えて礼愛の手作りと思われるプリントがいくつも広げられている。
始まって三時間。礼愛は国語、数学、英語と立て続けに柚葉に講釈を垂れていった。それから簡単な小テストで柚葉の理解度の把握に努めていく。
「ふああ、疲れた。こんなに勉強したの初めて……」
「柚葉さん、地頭は悪くないので覚えは良いですね。わたしとしては大助かりです」
礼愛が採点をしながらのこりと唇を緩める。海斗はその様子を、リビング端の椅子で眺めていた。――思っていたより要領が良い。というより、教え慣れているといった感じだ。
礼愛は、教える速さや話す速度はそれなりに速い。けれど説明はシンプルかつわかりやすい上に、声も明瞭で聞き取りやすかった。適度にジョークを織り交ぜて柚葉の笑いも取っているために、ストレスも極力感じないように配慮されている。
これは天性のものもあるかもしれないが、多くは経験から来る慣れなのだろう。
礼愛がただのハッカーではないことぐらいは海斗にもわかった。
「見て兄さん。すごい、礼愛さん。こんなに教えてくれたよ」
国語、数学、英語。柚葉が比較的苦手としていたものの問題集を持ち、採点の結果を見せてきた。決して優秀な成績ではないが、不登校の生徒としては上出来な光景だった。
「驚いた。礼愛って、家庭教師、バイトをしたことあるのか? 柚葉と同学年だよな」
「そうですよ。近所に不良ちゃんがいたので、小遣い稼ぎに家庭教師してました。成績悪いと勘当とか親に脅されたみたいで。わたしに泣きついて教えているうちに、上手くなりました」
「誰ともすぐ仲良くなれるのな」
ウインクして礼愛はあざといポーズを取った。
「そうなのです! ちなみに一時間で四〇〇〇円の授業料でした」
「高えよっ! それプロ並みの値段じゃないのか?」
「に、兄さん……っ、どうしよう。わたし、そんなにお金、余裕ない……っ」
「違う。嘘だよ。明らかにからかわれてるぞ」
柚葉のリアクションが気に入ったのか、大きな声を上げて礼愛が笑った。
「あはは! いい反応ですね柚葉さん! あれは不良ちゃんのお財布事情を見て、これくらいなら適正かなー、って思っただけですよ。今回は海斗さんへのお礼なので、タダです」
海斗が苦笑を浮かべていると、テーブルの上の食べ終わった後を見渡す。
「そろそろいい時間じゃないか? 礼愛、玄関まで送ろう」
「そこは駅まで送って、と言いたいところですけど、兄妹水入らずを邪魔してはいけませんね、それでは、また明日」
海斗は小さく腕を振った。柚葉が、少しだけ弾んだ声音で、手を上げた。
「また明日。――ありがとう、礼愛さん!」
彼女はにこりと笑ってお辞儀して帰っていった。
それは、別れ際の挨拶と日常の、一瞬の間。柚葉の心境。
「(――自然な口調だけど、分かっちゃう。兄さんに予兆なんてなかった。何か言えない事情が、わたしにはあるんだね……)」
それは誰のもとにも届くことなく、呟かれた。
礼愛が家路に向かって、海斗がリビングに戻る一瞬の間。柚葉の独り言は、彼女の中に小骨のように、ささやかだが確実に、心の中に刺さっていた。
† †
――礼愛が家庭教師を務め、何回にも渡って繰り返された。
それからというもの、礼愛は何度も海斗の家に来ては、柚葉に勉強を教えていったのだ。
物理、科学、保健体育、道徳から情報まで。およそ高校一年に必要な科目は一通り教えてくれた。
中には保健体育で、礼愛がセクハラじみた質問を投げて柚葉が困るという光景があったが、それを除けば素晴らしいくらいに勉学は進んでいったと言える。
柚葉は除々に学力を向上していき、問題集の問いにも大抵は応えられるように至った。運動だけはどうしても不足しがちだが、化学や家庭科に至っても柚葉は大きく上達した。
「それにして柚葉さん、すごいですね。もうわたし、いらないくらい向上しましたよ」
そろそろ季節も巡り、夏に入っていた。袖なしのキャミソールという衣装で扇風機にあたりながら礼愛が称賛する。
「そんなこと。……わたし、まだまだ新しいことになると覚えきれなくて。礼愛さんがいるとすごく捗ります」
「それは嬉しいですね。おまけにほっぺにチューでどうでしょう?」
「もう。セクハラはやめてください」
冗談でそんなことをするのが日常の一つになっていた。
出会って二ヶ月。この頃になると柚葉もだいぶ礼愛に気を許してきており、冗談の一つや二つで慌てることは少なくなっている。
それは傍から見ている海斗にとっても、姉妹か仲の良い友人のように見える光景だった。
「さて。俺はそろそろバイトに行くけど。……礼愛はどうする?」
彼女は軽く携帯を確認して聞いた。
「今日、シフト被ってませんよね。わたし、もう少し柚葉さんに教えたら帰ります」
「ん。今日もありがとうな。明日は――九時からか。朝飯は食べてから来いよ」
「はいです。……あ、たまには海斗さんの手料理も食べてみたいなぁ、なんて」
海斗はバイト用の鞄を持ちながら、首を傾げた。
「え? 何か言った?」
「そこで難聴主人公みたいなリアクションはひどいっ。たまには誰かの作った料理食べたいって思う乙女心、わかれー」
「乙女関係ないな。それじゃあ柚葉、行ってくる。家庭教師が危ないことをしたら、遠慮なく警察を頼っていいからな」
「うん」
「扱いが酷っ! 二ヶ月も家庭教師続けた相手に対する反応じゃないっ」
礼愛は叫びつつも、これも冗談とわかっているので目は笑っている。海斗は微苦笑を浮かべると玄関に向かい、ドアを開けてバイトに向かった。
部屋には柚葉と礼愛だけが残された。
しばらくは、二人だけで今日の分の勉学に励んでいったのだが。
「……あの、一つ聞きたいんですけど、礼愛さん」
柚葉が、問題集の問題を解き終わったときだった。声音は真面目なトーン。自然と礼愛も真面目な顔つきになる。
「はい、なんでしょう。答えられることなら答えますよー」
「礼愛さん、兄さんと同じバイト先っていうの、嘘ですよね?」
瞬間。
礼愛は何度か目を瞬かせて、一瞬だけ思考し、不思議そうな顔を浮かべた。
「嘘? どうしてです? 同じバイトですよー」
「だって。兄さんと礼愛さん、同じ職場の匂いを感じなかったから」
「ん。ん?」
礼愛は、渡された問題集の答えを眺めつつも、少し思案しながら応じる。
「嘘ではないですよ。同じバイト先って言っても、担当が違いますし。たまに被るときもありますけど、基本は同じですね」
「そうですね。今は、同じバイトだと思います。でも『最初』は、違うバイトでしたよね?」
礼愛は数秒だけ考えるふりをした。
「……どうしてそういう結論に?」
「それくらいわかります。兄さんをずっと見てきましたし。会って長い人か、そうでない人か。兄さんの反応でわかります」
柚葉は、感情の読めない声音で応えた。
「なるほど。さすがですね」
礼愛は別に隠すこともなく笑って、自らの偽りを認めていく。
「まあ、お察しの通り、最初は嘘でした。……すみません。色々ありまして」
柚葉の顔に、やや警戒心が強まった。
「……なぜ、兄さんと一緒に嘘を?」
「んー、それはあんまり気乗りしないといいますか。わたしのプライベート、いや、海斗さんの不名誉なことに関わる話なので。わたしからは言えないです。すみません」
礼愛はここだけは柚葉と目を合わせて、そう言い切る。わずかに柚葉がたじろいだ。
「わたしも、出来れば隠し事はしたくないですけど、これはちょっと……繊細な話なので」
柚葉は、言いづらそうな表情を浮かべて言った。
「もしかして、お二人は付き合ってるとか、そういう……?」
「いやいや! それはないですよ。それに海斗さん、柚葉さんラブなので異性には興味ないですし」
「そう、ですか。(……でも、礼愛さんにはだいぶ態度が、優しくなったような)」
「ん、なんです?」
礼愛は首を傾げると、柚葉は慌てて手を振る。
「え。あ、なんでもないです。でも……兄さん、言えないことが出来たんだ。……それは」
少し、寂しいなと、柚葉は呟いた。一端言葉をと切らせて、対面の礼愛にすらほぼ聞こえない声量。
「……柚葉さん」
礼愛が、真面目な口調を作り、名前を呼ぶ。柚葉も姿勢を正した。
「……はい」
「海斗さんはすごく頑張っています。たぶん人生の八割は柚葉さんのために。……でも、頑張ってるからこそ、言えないこともあるんじゃないですか?」
「頑張っているからこそ……?」
柚葉は何か言いかけて、迷って、結局は何も言えずに言葉を閉ざす。
「言えるようなときになれば、海斗さんから言ってくれると思います。それに妹だから言えないことってあると思いますし。タイミングとかもあるでしょう」
「……それって、わたしを重荷に感じてる、とか……?」
即座に、礼愛は素早く手を振って否定を示す。
「ないです。それだけはないです。これだけ愛情を向けられて、それだけはありません」
「……でも、兄さんは自分を犠牲にするところ、あるんです。妹だからわかります。兄さん、ここ数ヶ月、無理をしているんです」
礼愛は言葉を選びつつ言い募った。
「はい、まあそれは。……周りの人は知りませんけど。でも海斗さん、柚葉さんを凄く大切に思ってますよ。日々の様子で分かるじゃないですか? 何気ない仕草とか、態度とか。わたしよりずっと長く一緒ですよね? 重荷だなんて、それだけはないはずです」
それだけはきっぱりと。否定しようもないほど強く言い切る。
柚葉は兄には見せないが、拭い難い罪悪感を抱いていて、それを話す機会などない。礼愛だからこそ言える言葉だ。
思ったより深刻な話だと思ったのか、礼愛は困ったような表情を浮かべる。
「まあ、ずっと一緒にいると、余計に見えなくなるものもありますか」
「……」
礼愛は部屋のカレンダーを眺めると、携帯のスケジュールを確認した。
そしていくつか独り言を呟いた後、ぽん、と大きく手を合わせる。
「そうですね……なら今度、三人で出かけませんか? 二週間後、近くで夏祭りがあります。そこで本音を語り合うのはどうでしょう」
「え? ……夏祭りで?」
「はい。日常とは違った場所で、お互いに語り合うんです。ああいった場所では本人の素直な感情が出るもの。海斗さんの本音を引き出すチャンスですよ」
「でも。そういう……ものでしょうか?」
予想外の提案に柚葉は何度も驚き、目を瞬かせた。けれど拒否するほどの理由も覚悟もない。何より兄の真意を知りたくて、柚葉最後には、首を縦にして頷いた。
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