第三章 覚醒
白い――空間が見えた。
雪のような――白く――どこまでも広い空間。
見渡す限りの白、白、白だ。無限に広がる牛乳を、適当にぶちまけたかのような不自然で不可思議な空間。どこへ行けばいいのだろう。手を伸ばそうとしても、決して掴むものはなく、視界には何もいない。虫一匹、影の一つも見えはしなかった。
無だ。それを現すとするなら、それが相応しい。この世のあらゆるものを削ぎ落としてなくしてしまったかのような絶無の世界。ひたすらに真っ白な空間だけが、海斗の目の前に広がっている。
ふと、それが唐突に形を成していった。
白く、広く、大きく――どこまでも広がっている通路。あまりに巨大すぎるため、何のか海斗はじめわからなかった。とてつもない宇宙のような雄大さ。
だがあるとき、ふと気づく。――トンネルだ。
それはある場所とある場所を繋ぐためのもの。近道として、複雑な地形を無視して通ることの出来る通路。――海斗は悟る。これに入ることが出来れば、戻ることが出来る。そして海斗は、自然とその中に引き込まれていった。
「――はあ……っ! はあ……っ! はあ……っ!」
狂おしいまでに胸を刺激する疼きと焦燥を感じて、海斗は目を覚ました。
肺の中に酸素を取り込もうとする。何度もむせた。荒い息を何度もつき、上半身を何度も揺らして、海斗は喘息のように喘ぐように息をした。呻きと共に身をよじらせる、体が震えている。
熱い。寒い。汗が止まらない。自分の体の機能がおかしくなったのではないか――そんなことすら思ってしまうほど、激しい痛みや呼吸の困難に陥っていた。
「どうやら、意識が戻ったようだね。海斗くん」
優しげな声が聞こえた。彼を心配するような声音。おっとりとしたバリトンのボイス。
「私の指を見てごらん。そう、ゆっくり数を数えて。それから深呼吸をしなさい」
海斗は、言われた意味の半分もわからなかったが、目の前に三本の指が差し出されて、反射的に数を数えた。
「一、二、三……」と荒々しい吐息のまま呟くと、相手は、にこりとした笑みが見せる。
続いて目を閉じ、口から肺いっぱいになるように海斗は息を吸い込んだ。それを繰り返していると、除々にではあるが、意識が鮮明になっていく。
「ここ……は?」
呆然とした声音が海斗から漏れた。目の前にいる男性は、白衣を着ている。――彼は手元の端末を眺めると、いくつかの項目を確認した。
そうして背後にいる人影たちに向かって振り返る。
「覚醒レベル、四に上昇。バイタルはBに至りつつある。記憶にいくつかの不具合あり。――総合して判定。フィジカルB、メンタルD、バイタルC、メモリーC。一応、安定期に入るだろうが、各自、引き続き不測の事態に備えるように」
白衣の男性の指示に従い、何人もの人影が頷いていった。海斗は気づく。ここは自分の家では――ない? もちろん学校やバイト先でもない。おそらくは見たことのない場所だ。
誘拐か? 幻か? それとも夢……? そんな単語がいくつも脳裏に飛び交って、考えるが分からない。
「久しぶり、と言うべきかな、海斗くん」
白衣の男性が落ち着いた頃合いを見計らって、海斗の顔を覗き込みながら言った。
「……えっと。あなたは?」
白衣の男性は少し困ったように頬を緩めると、慣れた様子で説明した。
「その様子だとこう言うべきだろうね。――はじめまして。大牟田義之(おおむた よしゆき)と言います」
「……誰?」
まず思ったのはそれだった。知らない名だ。見たことのない顔立ち。外見はやや若く、おそらく三十代前半か後半に差し掛かった程度だろう。体つきは細いが、スポーツを経験していたような仕草があり、動作はきびきびしているのが分かる。
お洒落な眼鏡をかけている。髪型は清潔に整えられ、それなりの格好をすれば、街で女性の半数くらいは振り返るのでは。そう思う程度には整った男性だった。
「あなたのこと、覚えていません。すみません」
「いいよ。やはり記憶に不具合が認められるね」
彼は優しい口調でそう言った。
「いいかい、落ち着いて聞いてほしい。これから、大事なことを告げる」
大牟田と名乗った白衣の男性は、数秒置いた後、海斗の意識が自分に完全に向かっているのを確認する。そしていくつか手元の端末を操作した後に、こう続けた。
「私は、君の『主治医』だ。君は、これまで現実に極めて近い空間で暮らしていたのだよ」
「……は?」
とっさには、まともな言葉は出てこなかった。現実に近い? 暮らしていた? 予想もしていなかった数々の単語に、面食らうどころではない。思考が空白になり、何も口に出来なかった。――大牟田医師は予想していたかのように一つ頷く。
「そうだね、無理もない。覚醒は初めてではないが、『メイヴTP5』から起きた後はそんなものだろう。けれど心配はいらない。君は現在、心身に大きな支障は見られない。バイタルも正常へ近づいている。安心していい」
海斗は何か言いかけて、何を尋ねれば良いのか分からなかった。周囲を咄嗟に見渡して、自分が医療用の衣服を来ていること、白亜の広間にいること、それだけを確認する。
「主治医? ……それより、柚葉は? 妹は無事なんですか?」
重ねて質問する。白衣の男性は、その焦った問いかけに、数秒だけ目をつぶった。浅く呼吸をし、そして海斗の目に合わせて落ち着いた口調で、ゆっくりと語りかけてくる。
「君にとっては、それが一番大切なものだよね。……わかった。順を追って説明し直そう」
彼はそう言って、視線を合わせてくれた。
「まず妹の柚葉さんだが、無事だよ。今は別室で眠っている」
「そう、ですか。良かった……」
大切な妹が無事でいる。それだけで自分の中に大きな安堵が湧き出たことを実感する。
「……え。でも、眠っている? どういうことですか?」
大牟田は一拍だけ間を開けて、安心させるように肩を叩いてくれた。
「全てを話す前に。大前提として。――柚葉さんの、命や体の危機には遭っていない。いかなる悪意も、君たちを脅かそうとしていないことを言っておこう」
「でも。ファンクラブは? 二時間以内に、金を振り込まないと柚葉の画像が……」
ファンクラブ。同好会。振り込まなければ暴露する。そこまで思い出して、海斗は血の気が引いた。――急いで柚葉の今日を取り除かないと!
しかし大牟田は、青ざめる海斗の目を、よく見て視線を固定すると、ゆっくりとした口調で告げていく。
「海斗くん、その心配はいらない。そんな問題は起こっていない」
思わず海斗が質問を投げようとして――大牟田は、それより早く真実を告げる。
「なぜなら、君が今までいたのは、『仮想世界』だ。あの出来事は現実には起こっていない」
「――――な」
それは。
それは、なんと言えばいいのだろう。全ての土台が崩れたような。大事な地面が音を立てて崩れたような。壮大で、甚大な被害を思わせる音が脳内で響いていく。
海斗は呆然と周りを見渡した。
改めて見ても、白い、広い空間だ。埃の一つもないような真っ白な床と壁と天井。壁にはいくつもの機器が取り付けられ、機械へと繋がっている。
広さはテニスコートくらいだろうか。人が走ってもそれなりには広く感じる空間の中心に海斗はいる。
ふと気づく。自分の背後には、大きな楕円形の機械。まるで冷凍睡眠(コールドスリープ)にでも使うような、架空の世界でしか見たことのない代物が、存在感溢れるように鎮座しているのが見えた。
「仮想……世界……? え。どういう」
「無理もない反応だ。けれど本当だよ。Virtual Reality――いわゆる『VR世界』だね。君はここ数ヶ月、そこで妹さんと一緒に生活していたんだ」
「そんな……ばかな」
脳内に様々な光景が過ぎ去った。学校。バイト。暴力。涙。二人だけの夕食。慟哭。自販機。ニュース。一〇〇円玉。始末。
あの光景が? あの日々が? 全て仮想(バーチャル)だった? とても信じられない。
「あれが仮想? そんな、嘘だ……柚葉も、宗吾も、笹原さんも……え、現実では……ない?」
「いや、違う。……まだ記憶に混乱があるようだね」
大牟田は応援に駆けつけようとした他のスタッフたちを、手で制して止めさせた。
そして海斗の目をもう一度自分と合わせ、ゆっくりと噛み含めるように続ける。
「『VR世界』。精巧に創られた、現実に極めて近い世界。最新のAIで管理され、極限まで現実を模倣した世界。そこで君は意識ごとダイブし、妹さんと暮らしていたんだ」
「……では、柚葉はいるんですか? 妄想とかではなく?」
大牟田医師は頷いた。ドクッドクッと鳴っていた海斗の心臓が、少しだけ大人しくなる。
「そうだ。宗吾や笹原さんも実在はしている。――君が体験した立場とは、違ったものになっているけどね」
困惑が再び頂点に達する。そもそもの背景が分からない。自分はどういう経緯で、いまここにいるのだろう?
「その……説明してほしいんですが。今はいつですか? 俺はどうしてこんな所に……」
「今は西暦2044年だ。君は『治療』のため我々の施設にいる」
海斗は驚愕で固まった。脳内でカレンダーを思い出す。西暦……西暦……確かに、そんな数字が目に入っていたことを思い出した。でも仮想空間は2024年だったような。
「治療……ですか? じゃあ俺はどこか悪いところがあって……?」
「そうだね、そこを重点的に説明しよう」
大牟田は大きく頷きを返し、端末で八十センチ四方の立体映像を見せた。それは海斗が見ていた、自分たちがいた街の俯瞰図だ。
「まず前提として。君は最新の仮想世界構築装置、『メイヴTP5』に意識を潜らせ、しばらくの間、妹の柚葉さんと暮らしていたんだ」
愕然とする海斗に、講師のような口調で大牟田は続けていく。
「そこで起こったこと、経験したこと、全てが『仮想世界』でのことなんだよ。バイト先の相原宗悟を始末したことも。コンビニ強盗の相澤宗十郎を殺したことも。全ては仮想世界でのことだ。《柚葉たんエンジェル同好会》なるストーカー組織も存在しない。君は、現実にはない世界で生活していたんだ」
「そ……」
思わず、膝から床に海斗は崩れた。気が抜けて、激情や焦燥感、様々な感情が流れ去っていく。後には、放心にも似た心境だけが残る。
「あれが……全部……仮想?」
「そうだ。まあ体感的には、夢のようなものかな? 精巧に創られた再現世界。そこで、君は精神の治療を受けていた」
「精神の、治療……」
そう呟いた後、「周囲をよく見てごらん」と言われ、海斗が改めて周囲を眺めてみる。
病院のように白い空間の端では、ガラス越しに何名かの人たちが作業をしている。多くは手元や卓上の端末やモニターを見ていた。時折、海斗の方を見て仲間と相談している。
全員が白衣を着て、何らかの医療従事に携わっていることは明らかだった。
「ここは……どこかの病院ですか?」
「少し違う。某所にある地下研究所さ。そこで君は最新の治療を受けていた」
大牟田は穏やかな口調でそう言った。彼は詳しい場所は言わなかった。主義義務だよ、と彼は伝えてくれた。
「……床に液体がありますけど、これは?」
海斗は床を指差した。先程から、半透明の液体の上に自分がいたことに気づいていた。
それは粘り気が少しだけあり、踏んでいた足をどかすと、わずかに粘性を発揮して海斗の裸足の裏からゆっくりと落ちていく。
「それはね、『LCD』と言う。簡単に言えば、仮想世界に潜るための、補助人工水だね。仮想世界に入るにあたって、様々な機能を発揮してくれる」
「人工の、水?」
触ると少し温かい。感触は油のようでいて、力加減で緩くなったり強くなったりした。
「この人工水によって、仮想世界構築装置――『メイヴTP5』で君が自在に動き回れる」
大牟田が海斗の背後にある楕、円形の大きな白い機械を指差した。
「これが、メイヴTP5だ。内部には多数の穴が空いているだろう? そこから先程のLCDと呼ばれる、半透明の液体が君を満たしてくれる。呼吸、運動、排泄、栄養補充……全てはLCDが自動で行ってくれる。意識ごと仮想世界に潜るためにね。特に健康面を維持するためにも必要だった」
大牟田は手元の携帯端末を見せて、簡単な図解を見せてくれる。
「メイヴTP5に満たされたLCDの中では、君は立ったり走ったりすることが可能だ。仮想世界の中で、君が動けば実際の手足も連動して動き、LCDは粘性があるため君をその場で押し留まらせつつ、現実と同じ挙動を可能にしてくれる。……まあ、食べたり、お手洗いするときは、脳内のイメージが使われるけれど。それ以外はほとんど、実際に君は動いていたよ」
半年間、ずっと眠っていたわりには健康だろう? と大牟田は海斗の体を指し示す。
確かに、以前に写真か画像で見た栄養失調の人物みたいな体型ではない。
「……事情はわかりました。では、その……治療というのも、詳しく教えてください」
海斗の要望に、大牟田は端末の画面を切り替えた。
とある画像を映し出して、今より前に撮ったと思われる彼の全身図だ。
「――事の発端は、『現実の』相原宗悟による暴力だ」
大牟田は、やや硬質な声音で説明を開始してくれた。
「君は現実においても、バイト先で、相原宗悟から度重なる暴力を振るわれていた。恫喝も交えた刃傷沙汰。それに対し、君は精神的に疲弊。精神医である私を必要とするまでに追い詰められた。――そしてこの施設を紹介された」
「……そんな、事態が」
「うん。相原宗悟という上司は、今も現実で生活している。残念ながら横暴な人間としてね。君は彼からの暴力に対し、『殺害願望』を抱いていた。日頃から『宗吾を殺したい』『始末したい』――そんな思いに囚われてしまったんだ。そこで、妹の柚葉さんの勧めもあって、君はいくつかの病院を転々とした後、私と出会った。ここまでは、良いかい?」
「……はい。驚きは、多いですが」
いくつかの記憶が断片的に蘇る。宗吾の暴力。周囲の悲鳴。笹原の励まし。あの光景は仮想空間でもあったが、部分的には、現実にも起こったことなのだ。
海斗は、深く記憶を思い起こすように、虚空を見た後、頷きを促す。
「ぼんやりとですが、思い出してきました。すみません、続きを」
「わかった。それで私のもとへ来た当初、君はかなり危険な状態だったんだよ。何せ言葉ははっきりしているが、殺害衝動が激しく、暴れがちだった。いくつか対症療法薬を試してみたが、効果は薄かった。何より副作用により、不具合が起きることもあった」
「副作用……?」
「不眠症や神経症だね」
眠れない。些細なことで不安が増幅する。そして――殺人衝動。それらがあっては、通常の方法では埒が明かなかったのだろう。改めて海斗は自分が特殊な状況にいたことを実感する。
「それで……俺はここに運ばれた?」
大牟田は頷き、持っていたカルテを一度だけ振って続けた。
「そこで私は君に提案した。近年、精神的ストレスによる患者は、爆発的に増加傾向にある。このままでは人も物資も足りなくなる。その中で画期的とも言える治療法が完成間近にあったんだ」
「それが――俺のいた『VR世界』ですか?」
大牟田は微笑して大きく頷いた。
「そう。――約二十年前から、政府や医療学会は、人間のメンタル治療の改善を模索していた。大きな改革が必要だったんだ。そこで注目されたのがVR技術。今から二十年前、2020年代には、すでに娯楽の中では活用されていたが、医療への導入は本格的にはされていなかった。そこで有識者たちは『VR世界によるメンタル治療』を推進したんだ」
海斗は身を乗り出して、話に聞き入る態勢に入った。これからが本題だと理解する。
「そんなことが。……どんな内容なんですか?」
「VR世界は、じつに多様な世界を生むことが出来る。中でも君に施したのは、『殺人によるメンタル治療』――つまり『VR世界の中で、殺人を実体験する』。要は『殺人をして衝動を緩和させる』というものだ」
「え……」
驚きに海斗は目を見張った。あまりに突飛な発想。普通ならあり得ない方法だ。
「そんなこと、実際に可能なんですか?」
「可能だ。――廃棄寸前の家財を、鉄パイプで破壊する動画などを見たことはない? ――根底はそれと一緒。『破壊することで精神を安定させる』――医学的には歴史は浅いが、効果があることが20年代後半から分かり、注目を集めていた分野だ」
目を見張ったままの海斗に、大牟田は新たな動画を見せた。
それは古くなった家で鉄パイプを手に、椅子や机、壁などを破壊する人々の姿だ。彼らが爽快な顔つきで汗を拭っている姿が印象的だった。
「破壊によるストレス緩和。それが可能ならば、『殺人によるメンタル治療』も可能では? 突飛だが、学会でそんな議論が持ち上がった。――もちろん、現実でそんなことは行えない。死刑囚を使うにしても障害がありすぎる。――そこで『VR世界』だ」
大牟田は画面を切り替え、立体的な街の想像図を見せてくれた。
「精巧に創られた仮想世界なら、いくらでも殺人は行える。その他、過激と思われる処方、手段のほとんどがね。――様々な論争はあったが、最終的には試験的に、実行は行われた。その一つがこの施設さ」
彼は自分の立つ床や白い天井などを指差す。
「すでに君の前に、数十人――同様のケースで殺人衝動者を治療、あるいは改善させた人たちがいる。まだ経過観察などは必要だが、今のところ順調に事は進められている」
驚きのままの海斗に大牟田は小さく微笑を向ける。「そうだよね、そういう顔になるよね」と言いつつ、彼は手元の端末を動かした。
何人かの患者らしき名前が映し出される。ドイツ語なので海斗にはわからないが、それがメンタル治療を受けている人たちの名簿なのだろう。
「……すごい、技術です。でも反対運動はあったんですよね?」
「そうだね。革新的だが奇抜なアイデアでもあるVR治療は、当初から反対する者は多かった。何度も抗議活動は行われ――けれど2020年代、世界は様々な災害や紛争に見舞われていてね、そのケアは必須だった」
大牟田は少し遠い目をして天井を仰ぐ。
「人災、天災、人々は困窮していた。世界的にメンタル治療の、新たな手段の構築と向上は必須だった。あの時代、青春を謳歌出来なかった者は数多く、企業などの幹部世代も大いに困窮した。人心は荒れに荒れ、自ら命を断つケース、あるいは他者を傷つける事例、大国が暴走する出来事など、被害は爆発的に増加した」
「あ、前に教科書で読みました。……それで、VR世界での治療に?」
「そうだ」大牟田は頷き、机状のディスプレイを起動させた。いくつか画像が表示される。
「最も有用性の高いものは、仮想世界を利用したものだった。2020年代から議論は始まり、様々な経緯を経て2030年に突入。対策はしたが、それでも事件数も多くなってね。犯罪抑制にもさらなる力を注ぐ必要があった。――結果、議論を交わし続け、教育や啓発では限界があるとの結論が出た。そして2035年、試作型VR世界構築機器、『メイヴTP1』が完成した」
ディスプレイには、多数の機器の開発やその製造過程の人々の画像が映し出されていく。
「元々は、別のプロジェクトで活用していたものを流用したから、実用は早かったけどね」と補足してくれた。それは歴代の研究のあらすじや研究結果をまとめた資料。技術の極み。
「メイヴTP1は、意識を完全に潜らせることで、完全な仮想世界の体験を可能とした。肌、質感、空気、匂い、音、果ては感情に至るまで。全てを内部で再現することが出来る」
「俺が体験した、あの世界は、そんな凄かったんですか……」
まさに世紀の大発明だ。大牟田が続けてディスプレイに触れ、複数の画像に切り替える。
「けれど課題もあった。『相性』が大きく関与するんだ。人によっては『VR酔い』を起こし、また没入の途中で意識が戻ってしまう、『突発覚醒』も頻発してね。安定してVR世界に留まることは難しかった」
一枚の大きな動画が表示される。それは実際の患者が目覚めてしまった映像だ。現実と仮想のギャップに絶えきれず、暴れまわる患者を、医者が取り押さえる映像だった。
「そこで、改良型の『メイヴTP2』が開発された。これは抑制剤の投与により、VR酔いを緩和させることに成功。さらに突発覚醒も大きく緩和された。しかし今度はコストが掛かりすぎ、医療目的で使うにはより改良が必要だった」
何枚もの画像が現れては、海斗の目前に映し出される。それは大発明の完成までの道。
「そして『メイヴTP3』、『メイヴTP4』と次々に後継機が開発され、やがて現行では最新の、『メイヴTP5』が七ヶ月前に完成した。これが君に使用している装置だよ」
その長い指が最新鋭の機器へと向けられる。その声音には誇らしさが含まれていた。
「そういう、ことだったんですか」
「ああ。――長い、本当に長い道のりだった。僕ら医師や技術者は、ノーベル賞の一つや二つでは足りない。過酷な道だった。後世に誇れるほどの、人類にとって画期的な発明だと自負しているよ」
大牟田が茶目っ気ある微笑を浮かべる。ディプレイの電源を落とす。そして大牟田は海斗の方を見つめて話題を変えてきた。
「さて、君の話に戻そうか。『メイヴTP5』も、分類すれば試作型の機器だ。当然、細かな不具合もある。――覚醒直後に記憶の混乱が生じてしまう記憶障害。どうしても現実と仮想の記憶がスムーズに移行はしないんだ」
短く嘆息をする。先程の海斗の様子が、まさにそれだ。
「また、仮想世界では、現実のことは一度忘却されるから、被験者は『VR世界にいることを認識出来ない』。――まあ、これはセーフティの意味では必要だ。現実と仮想の記憶は、混合してはならないからね。……君の記憶に関しては、時間が経てば戻っていく。『一回目』や『二回目』の覚醒のときなど、いつもそうだった」
海斗は思わず目を大きく見開いた。
「え……? 一回目と二回目? では、俺は何度か潜ったんですか?」
「そうだよ。――じつはこの説明をするのは九回目なんだ。……一度目と二度目のときは特に大変だった。すごく暴れてね。妹さんへの心配が強くてね。今回は、比較的安定でほっとしている」
「……それは、その。なんだかすみません」
「いいさ」
これが仕事だから、と大牟田は快活に言って笑った。
「さて。話も一段落したし、現在の状況を確認しておこう。殺人自販機に関することだね」
海斗は気を引き締めた。拳をぎゅっと握りしめる。
「はい、お願いします」
「まず、現在までに、君はVR世界の中で――三十四回の殺人を行っている。その多くは相原宗悟やそれに関係したものだが、治療としては良好だ。通常では許されない行為である殺人だが、VR世界では大きな成果と言える」
「……それは、俺の治療が、今まで上手くいっているということですか?」
「そうだね。度重なる体験により、精神的には回復に向かっている」
海斗は思わず身を乗り出した。
「良かったです……」
「うん。擬似的な体験を経験したおかげだね。被験者の中でも、君はかなり良い傾向だ。殺人方法が自動販売機なのは……まあ、ちょっとユニークだけど。これは君の中で、殺人欲求と葛藤が生み出された結果だろう」
海斗は戸惑いに目を瞬かせた。
「それは……どういう……?」
「包丁や銃ではなく、殺人には手順が必要だと、君は理性的に判断したわけだ。――君の中で、『殺人はいけないこと』という常識と、『人を始末したい』という衝動がせめぎ合った結果、折衷案として生み出されたのが『自動販売機』なのだろう。お金を入れて、ボタンを押す。――作業自体は簡単なものだが、思考や選択の余地が生まれる。妹のために戦う強さと優しさを持つ、君ならではの事象だと思うよ」
大牟田は優しい声音でそう評してくれた。そう言われると助かる。
「VR世界では、基本的に被験者の意思が重視されるんだ。基本は管理AIが現実を模した世界を構築してくれるが、被験者が細かな部分を調整出来る。――これを『被験創造物』と言い、君の場合は、『殺人自販機』がそうだ。別の患者では、また別の創造物が出現する」
「えっと。治療のため、その人によって様々な物が創造されていく、ということですか?」
「そう。理解が早くて助かるよ」
大牟田は朗らか笑みを見せ、また携帯端末を操作した。
他の被験者の映像を、ざっくりとだが見せてくれる。包丁を生み出す者、銃を生み出す者、中には、長剣などを生み出す者もいた。
「本当に、様々ですね……」
「被験者は殺人衝動以外にもいるから、殺傷道具ばかりではないけどね。『人に愛されたい』、『人を助けたい』、『人と一緒にいたい』――そういった願望のもとに生み出される創造物もある。多様なものだよ。『人』が創られる場合もある」
「それは……」
まさに千差万別。同じ殺人衝動を保つ被験者がいれば、包丁や銃を用いる患者もいる。自販機で人を始末するというのはかなりレアらしい。海斗は気恥ずかしく思った。
「ともあれ、君の好調は喜ばしい。あと数回潜れば、大きな改善も見込める」
「本当ですかっ」
「あくまで、可能性の話だけどね。あまり強い期待はしないでくれよ?」
大牟田は冗談めかしてそう言った。それだけで海斗は心の底から嬉しさがにじみ出てくる。これまでの苦労は無駄ではなかった。あの日々は、宗吾に虐げられた日常も、終わりに近づいているのだ。
「――あの。それでその……柚葉は、どうしていますか?」
ふと、その問いを聞いた途端、大牟田の表情が神妙なものに変わった。数秒、間を空いて説明を行っていく。
「柚葉さんは、君に続く46番目の被験者として、別のメイヴTP5の中で眠っているよ」
「柚葉も?」
どこかでそれを予期していた。自分もそうなら、彼女もそうである可能性は高い。
「君が殺人衝動に晒されたように、妹さんもVR治療が必要だった。『自傷衝動』――それが柚葉さんの症状だ」
海斗の中に、剃刀などと自分の腕に当てる自分の妹の映像が浮かぶ。
「リストカットが主だが、その頻度は多かった。危険だったよ。おそらく容姿が優れているために嫉妬や盗撮、いじめを受けた弊害だ。『自分はいない方がいい』『消えてなくなりたい』『兄の足枷になりたくない』……そういった負の感情が膨れ上がった結果だろう」
「そんな……俺は、何も出来なくて」
思い出してきた。いつも、いつも柚葉は泣いていた。海斗の前では決して見せなかったが、夜、遅い時間帯、声を押し殺して嗚咽しているのを何度も聞いたこともある。
そばで抱いてあげることも出来たが、それは根本的な解決にならないことも理解していた。自分では、柚葉は救えない――それもあって、殺人衝動も強くなった。
「柚葉は、学校でのいじめによってこもりがちでした。そんなとき、俺は家計の助けにするためバイトを続けて、相原宗悟に暴力を受けました。その影響もあるのでしょうか?」
「だろうね。柚葉さんは、自分の不甲斐なさに耐えかねて、『自傷衝動』に駆られた。これはVR世界では君は認知させていなかったけれどね。安定のために。……彼女も重症だった。どちらかと言えば、妹さんの方が重いかもしれない」
「柚葉……」
海斗の頭の中に蘇る、叫ぶ柚葉。止めようとする海斗。二人きりの生活において柚葉は時折、自分を罰するため、自らを傷つけることがあったことを思い出す。
「心配なら、見に行くかい?」
顔色を伺うような目で、大牟田は提案した。海斗は静かに首を横に振った。
「……いいえ。映像だけ、お願いできますか?」
大牟田は無言で頷くと、いくつかディスプレイの操作をする。すると、『楠木柚葉 治療室』という文字をタップした。直後、鮮明な画像の中に、白い大きな機器が映し出される。
人工水の中で眠る妹の姿は、儚げでどこか苦しそうに思えた。
紛れもない、海斗の唯一の肉親。その現実の姿。
「……柚葉っ!」
「柚葉さんの意識は、現在も仮想世界にある。君が一時離脱していることで、意識を一端抑制しているけどね」
「意識を……抑制?」
大牟田は手元の端末を操作し、いくつかの資料を見せた。
「メイヴTP5の創るVR世界では、被験者は同じ世界へ住むことも出来るんだ。例えるならMMOが近いかな。同じサーバー内に、複数の人間がアクセスするのと同じ。君と妹さんは、同じVR世界に潜り、一緒の空間で生活していた」
「……柚葉。柚葉……でも、良かった。少なくとも、ずっと一緒にはいたんだ……」
それだけが心配だった。これだけが心に巣食っていた。自分が傷つけられようと、我慢は出来る。けれどもし、現実の彼女が救えないほどの重症だったなら。
「俺の声は、柚葉にも届いていたんですか?」
「そうだね。LCDとスピーカーを通じて、声だけは実際のものを届けていた。それもあるのかな……君たち兄妹は日増しに、体調が良くなっていた」
海斗の中に安堵が生まれる。無駄ではなかった。例え仮想の世界でも、二人で足掻いて、必至に今を生きた日々。それは確実に、二人を良好へ戻しつつあった。
――けれど。
海斗の中で、新たな疑問が膨れ上がる。では何故、自分はいまここで起きている?
「……俺がいま、起きてしまっているのは何故なんですか。機器の故障ですか?」
「精神の急激な負荷だね。メイヴTP5の欠点として、重度のストレスを抱いた場合、被験者が覚醒してしまうことがある。君の場合、ストーカー集団に苛まれた妹さんを見て、覚醒してしまったんだろう」
「覚醒……」
海斗は言い寄った。大牟田の目を見て必至に訴える。
「先程も言ったが、メイヴTP5は試作機なんだ。一応、契約で君たちからそれを含めて受諾はもらっているけれど……ごめん、現状ではそれが限界なんだ」
「いえ……事情は、わかります」
そもそもVRで治療をすることが破格の技術なのだ。それが簡単に、完璧に行えるとは思っていない。全体としては症状が良くなっていることも事実なのだ。そのことは海斗にとって大した問題ではないが、彼には別の懸念があった。
「柚葉を狙う……あのストーカー集団を消すことは、出来ないんですか?」
「難しいね。仮想世界への外部からの干渉は禁止されている。これはあくまで『治療』。その過程で生み出されたものは、下手に消してしまうと、被験者に意識障害を生じさせる」
「……そんな」
海斗が悲痛に声を上げた。
「『殺人』が君にとって必要なように、『自傷』もある程度は柚葉さんには必要なんだ。――本来、それでもストレス過多は防ぐべきだが、そのコントロールはまだメイヴTP5ですら完全ではない。――すまない」
「いえ。では今すぐ、仮想世界に戻ることは出来るんですか?」
大牟田は難しい顔を浮かべたが、やがて応えてくれた。
「可能だが……すぐに潜るというのは、安全上、おすすめはしないな」
すかさず海斗は頭を下げた。手段を選んでいられない
「お願いします。――俺のことはいいです。でも柚葉は! ……柚葉は、俺にとって大切な家族なんです。なんでもしてあげたい。いま、あいつは俺がいなくなって、不安に思っているはず。俺がそばにいないと! だから、兄として、お願いします!」
大牟田は、腕を組み、一分ほど迷っていたようだった。躊躇い、リスクの計算、様々なものが彼の頭で巡っているのだろう。やがて小さく吐息をつくと。
「……わかった。君の意志は可能な限り尊重すると決めている。――それに、先程の検査では問題もなかった。危険は低いだろう。VR世界の管理AIも自動ラーニングが進み、今後はストレス緩和を最適化に近づけるはずだ。――同じことで覚醒は起こさないよ」
「はいっ」
改めて技術の凄さを海斗は再認識する。管理AIによって、安全策は強化される。
「けれど気をつけてくれ。君が『殺人自販機』を創造したように、妹さんは『ストーカー集団』を創り出せる。あれは、兄である君に何も出来ない自分を罰する――妹さんの『自傷衝動』なんだ。君は何度も似た困難に見舞われるだろう」
「――それは、覚悟の上です」
たくさん、たくさん後悔した。自分にもっと力があれば。頭脳や能力に卓越したものがあればどれほど良かっただろう。
けれどもそれは夢で、願望で、実際には一緒に暮らす以上のことは出来ない。
しかし仮想世界なら。どれほど柚葉が自分を苛まれても、救うことが出来る。
「もう、嫌なんです。柚葉が苦しむのは。――親も、学校も、友人も、誰もあいつを救えなかった。だからもう、俺しかいない。――柚葉は、幸せになるべきです。VR世界でも。現実でも。そのためなら、俺はどんなことでも行います」
「分かった。そこまで言うなら私が止めるのは野暮だね。君が妹さんを解放してあげて。兄妹が揃って幸せになる。そうすることが出来れば、君たちは本当の日常に戻れる」
「はい」海斗は強く頷いた。
「救ってみせます、柚葉を。妹が楽しいと思える、世界(げんじつ)にするために」
大牟田は頷き、海斗を促した。海斗はすぐさま、メイヴTP5の方へと戻った。大牟田が、他のスタッフと会話を交わし、十度目のダイブに向けての準備に取り掛かる。いくつもの装置音が稼働し、メイヴTP5が細かく振動した。アナウンスが流れる。――『安全装置起動。LCD投入準備。各位、所定の準備に――』
その他、様々なシークエンスを開始するための準備が始まる。
〈――海斗くん、聞こえるかい〉
メイヴ内に入った後、スピーカー越しに大牟田の声が響いてくる。
「はい。聞こえます」
〈君はVR世界で力が使える――『被験創造物』のことだ。殺人自販機。それを用いて、柚葉さんを狙う障害を排除していくんだ。妹さんは、様々な存在を『自傷衝動』によって創り上げてしまう。それを片っ端から消去し、彼女の心の不安を取り除く。――殺す方が速いか、生み出す方が速いか。これは君たちの自責の、想いの強さの戦いでもある。――負けないで。きっと兄妹揃って帰ってくることを信じているよ〉
「はい、最善を尽くします!」
待っていて、柚葉。俺たちは幸せになれる。だから、クソッタレな現実に立ち向かおう。相原宗吾みたいな奴に、ストーカーに、人生を破壊されるなんて冗談じゃない。
人を始末して幸福になる? 結構。なんとも乱暴で、荒唐無稽な手段でも成し遂げる。
所詮は虚構の世界だ。妹の創り出した幻影と、兄の殺人衝動との戦い。今はそれを乗り越える。仮想世界で、妹は――柚葉は待っている。兄と幸せになれる瞬間を。
柚葉と一緒にいる――そのために乗り越える。今度こそ、現実で生きられる強さを。
〈――最終調整、完了。全シークエンス完了。では海斗くん、健闘を祈ってる〉
LCDが流入してくる。海斗の体がそれに満たされていく。その大牟田の、励ましの言葉を受けて――海斗は意識を、再び仮想世界の内部へと投じていった。
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