第一章  ブラックな上司と、謎の自販機

「あのさぁ海斗くーん、困るんだよねぇ。いつもいつも、端末の手順間違えちゃってさぁ」

 アルバイト先、大手配送業種の大きな建物の一角で、海斗は上司から叱責を受けていた。

 都心から離れた、広大な敷地の施設内だ。百人を超える作業員がそれぞれの仕事に従事し、定められた時間まで目の前に集中している。

 周囲には積み上げられた無数の荷物。運送業者と呼ぶに相応しい光景の中で、海斗は上司の苦言に思わず唇を噛み締めていた。

「俺は何度も何度も言ったのさぁ。この端末は、3のボタンを先に押すの。その後に5を押して7を押して確定させんだよ。簡単な操作だよ、どうしてミスるの?」

「すみません、申し訳ないです」

 どうやら上司はその言葉が気に入らなかったようで、目前ではあああ、と長い溜息をかけてきた。煙草の強い臭いがした。

 上司はまるでカマキリのような顔の男である。年齢は三十四歳。体は細長く、甲高い声が特徴的だ。人を見下したような目つきは、大体いつも海斗だけ強く向けられる。

 端的に言って、ブラック上司だ。現場では皆が知っていた。けれど大事にはされない。彼は上司にはおべっかを使い、適当な美辞麗句を並び立てているのだ。

 女性バイトにもセクハラを行って、気に入らないバイトの高校生に拳を上げることすらある。けれどやめさせられる気配は一向にない、厄介な上司だった。

 そのブラック上司――相原宗悟(あいはら そうご)は、大げさな身振りで、さも自分が正しいかのようにまくし立てる。

「大体さ、君、態度なってないんじゃないの? 俯いて話を聞いてる場合? もっとしゃきっとしないと。動作も鈍いしさ」

 海斗は嘆息を内心でした。彼の動作は遅いのではなく、宗悟が無理難題を押し付けてくるためなのだ。そして手順も間違った操作法を教えるからで、何度も同じことが繰り返されていた。

 おそらく何かの憂さ晴らしなのだろう、家庭環境かこれまでの経験か。それはわからない。はあ、とまた内心で海斗は溜息をついて、今日も残業かもしれないと思った。

「まったく、君のせいで俺のスケジュールが狂っちゃうよ。今日はさ、十万個の荷物運ぶ予定なのに。君のせいで狂っちゃった、ねえどう責任取るのかな?」

「すみません。次からはしっかりします」

 宗吾は小さく笑って、見下ろした。

「頼むよ本当に。君、従順くらいしか取り柄がないんだからさ。あ、もう二十二時だ。海斗くん、二時間残業できる?」

「え。今日は……ちょっと」

 高校生は労働基準法で二十二時以降は仕事をしていけない、という決まりすら守る気は宗吾にはないらしい。彼は一瞬で顔つきを強張らせた。

「ん? 作業遅れてるって言ったろ? 減給するぞ?」

「……すみません。何とかやってみます」

「そうそう! 若者は元気でなくっちゃ! じゃあね、そこからあっちまでの全部荷物、君の担当だから! よろしく!」

 そう言って、ばんばんと海斗の頭を強く叩き、宗悟は離れていった。

 宗吾は基本、あんな調子だ。去り際、女子高生のバイトの少女に「リサくん、今日も可愛いねぇ」となどと尻を触って、笑って歩いていくのもゲスだ。

 さらなる上司がいない事をいいことに、やりたい放題である。そのくせ上司が来ると、詐術師のように上手く口を回し、苦情を見事に丸め込んでしまうのだ。

「――大丈夫? 海斗くん」

 思わず海斗が嘆息したとき、優しい声がかけられた。

 女子大生で同じバイト仲間。笠原霞(ささはら かすみ)だ。いつも髪を頭の後ろでまとめている美人。清潔感のある雰囲気をまとっている、職場の花のような人だ。

「笹原さん……いえ、平気です」

「そう? あの人、いつもあんな感じだし。辛いと思ったら課長に言った方がいいよ」

「まあ。そうですけど。でもそれをやると、丸め込むんですよ。あの人、口は上手いから」

「あー、たしかにねぇ。宗吾さん、自己保身には長けているわよね」

 似た光景を何度か見てきた。ぞれで解雇させられたバイトも見ている。笹原が同情の視線を向けると、海斗は小さな溜息を漏らした。

「……これ、終わるかな」

 先程までは二人で行っていたが、相方が上がってしまったので、海斗一人で行なければならなかった。目の前に積まれた多くの荷物の山を見て、思わず気が遠くなってしまう。

「……どうしても辛い時は、私に言って。苦情伝えるから」

「はい、ありがとうございます」

 笠原は腕をまくって快活に笑った。職場では笠原にはずいぶんと助けられている。長身で人当たりの良い美人の女子大生。彼女がいるからまだ頑張れる。


 ――残業は三時間に及んだ。本来なら二十二時で終わるところを宗吾は海斗のタイムカードを押した。その上で海斗を無償で働かせている。上司にバレても「海斗くんが自分からやりますって聞かなくって……」と海斗の責任にして有耶無耶にしてしまうのだ。

 まったくろくでなしもいいところだが、職場は広大で、バイトの数も百人以上と多い。海斗一人くらいの誤魔化しはやろうと思えば出来てしまう。その日、海斗はくたくたになって最後は欠伸をしながら、職場を出ていった。


「――お帰りなさい、兄さん」

 家に帰宅すると、玄関で待っていてくれたのは妹の柚葉(ゆずば)だ。

楠木柚葉(くすのき ゆずは)。手入れの行き届いた黒髪に乳白色の肌。長い髪はいつもさらさらとして光沢が見事で、滑らかな肢体だ。顔は非常に整っており、街を出歩けば「タレントかな?」と何度も声をかけられたこともある。

 一つ下の妹。十六歳の可憐で大事な家族だ。

「柚葉、大人しく寝てろって言っただろ? またこんな時間に無茶して」

「兄さん、わたし子供じゃないよ。自分の体調くらい自分でわかるよ」

 ふくれっ面をする妹はじつに可愛い。愛嬌があって大抵の男はそれで落ちるだろう。甘いような感覚を抱きつつ、海斗は苦笑を浮かべた。

「そうか? この前は自分のお腹が空いてるの忘れて、会話中に『ぐ~』ってお腹が鳴ってたよな」

「もう、そんなことばかり言って! 空腹は仕方ないもの。兄さんの意地悪っ」

 リスのように少し頬を膨らませ、唇を尖らせる柚葉。

 海斗にとって、柚葉との会話だけが安心出来る時間だ。ブラック上司にこきつかわれ、暴力を振るわれても、この時だけは忘れられる。

「兄さんは時々意地悪だよね、それじゃあ女の子にモテないよ?」

「別にいいよ。お前さえいれば。俺は柚葉より可愛い娘を知らないし」

 柚葉が一瞬だけ口ごもり、呆れた顔をして頬を膨らませる。

「……あー。そんなことを言う。もう、冗談言ってるとほんとに困るよ?」

「本当、お前がいてくれるだけで良いよ」

 笑いながらも海斗はどこかに寂しさを覚えていた。この時間がずっと続けばいい。

 思わずそう思ってしまうが、楽しい時間ほど早く過ぎてしまうものだ。時計を見ると日付はとうに変わり、今日の終わりを示していた。

「それにしても夜更しは控えてくれ、今日はもう二時半だ」

「判ってるよ。それで兄さん、ご飯にする? お風呂にする? それとも……」

「おい。それだと、まるで新婚みたいなやり取りじゃないか。よせよ」

「もお~! 真面目に聞いてるのに~!」

「あはは! まったく可愛いなぁ柚葉は」

 海斗は笑った。本当に、柚葉だけが海斗にとっての宝物だ。

 柚葉は不登校の学生である。高校では『可愛くてムカつく』との理由で他女子からイジメを受けていた。毎日、髪の毛を引っ張られたり、上履きを隠されたり、一番ひどいのは上着を脱がされ写真を撮られたことだった。その影響もあって、この半年の間は不登校だ。

 イジメを行った女子グループに対し、海斗は当初、担任教師に抗議した。

 けれど教師は、「ウチの学校に問題児はいない」と一点張り。どうやら問題児がいると不祥事と騒がれるため、認知しないらしい。

 それが学校側の答えだと知ったとき、海斗は失望した。以降、柚葉とせめて優しい時間を凄そうと励んでいる。

 狭いアパートだ。二人だと少々窮屈で、自分も部屋もないのでカーテンで仕切って部屋代わりにしている。時々、寝言で寂しそうに学校の友達の名前を呼ぶ妹の声。それを聞くと、海斗は胸を締め付けられる。

 夕食の雑談ついでに、海斗はふと尋ねた。

「柚葉。今度、デパートに行ったら何が食べたい?」

「うーん、美味しいケーキとかかなぁ。あ、シュークリームもいいかも」

 柚葉はほがらかな笑顔を向けて箸を動かす。

「お饅頭とかも捨てがたいよね、あ、それと前にテレビでやってた、タピオカも飲んでみたいかも」

「古いな……お前、情報が大分前で止まってないか?」

「だって、あんまりネットとか見ないし。テレビもないし。……変な人に絡まれるから、兄さんと一緒じゃないと、外も行かないから」

「そうだな。でもまあ、柚葉は可愛いからな。お前を毎日見られて俺は幸せだ」

「もう。すぐそうからかって。兄さんは仕方ないなぁ」

 頬を赤らめて唇を尖らせる妹。

 本当なら、もう少し改善させてあげたい。けれど両親は交通事故に遭って、叔父の家に住まわせてもらっている学生の身分では大したことは出来ない。

 叔父も裕福ではないので、海斗の稼ぎは必須だ。早く十八歳になり、柚葉に苦労のない生活をさせてあげられるよう、良い大学に入ろうと思っている。あと一年かそこらの辛抱だと海斗は思っていた。

「じゃあ柚葉、そろそろ寝ようか」

「あ、もう二時半だね。兄さん、子守唄歌ってあげようか?」

「……お前の歌はオンチ……いやなんでもない」

「もう! またそうやって茶化す!」

 夜中二時過ぎに二人だけの夕食。眠そうにしつつも、妹がいつも待ってくれている。それがささやかな海斗の幸せだった。


 ブラック上司がいるバイト。高校生活。そして妹との日々。

 辛いこともあるがなんとか続いている風景だ。

 しかし、初夏に入りかけのある日。とある不思議なものを見かけたことで、海斗の日常は変わっていくことになる。


「なんだあれ?」

 その日、海斗は道端の『自販機』に意識が向いた。いつもの通学路の途中。駐車場の横に、赤色の自販機が立っている。

味気ない、一見するとどこにでもあるような普通の自販機だ。いくつか端に錆がついて、経年を思わせる汚れがついている。メニューにはいくつかのボタンが存在し、カラフルな光が綺麗だった。

 しかし不自然な点があった。どの商品も値段が100円なのだ。

 今どき全てが100円の自販機? 珍しいなと思いつつも海斗は近づいていく。

少し思案した後、海斗はその自販機の前に立った。黄昏に染まる夕暮れの空の下、その自販機を見上げると、それは何かを待つかのように佇んでいる。

海斗はジュースでもないかと思って商品名を探してみたが、またおかしな点を見つけた。

「……あれ? 商品名が……ない?」

 不思議なことに、コーヒーどころかジュースも栄養ドリンク一本も売っていなかったのだ。

 普通は見本の飲み物が置いてあるものだ。どこにもそれらしきものがなかった。代わりに商品名が書いてあるはずの箇所には、きっちりとした字体で、こう書かれていた。


『相原宗悟』


「……幻覚か?」

 バイト先の上司の名前だ。海斗は戸惑って何度か見直した。睡眠不足で変なものでも見たのもしれない。それかかなり疲れている? 疑念のもと海斗は何度か見直した。

『相原宗悟』

 しかし、何度見ても自販機の商品名は変わらなかった。バイト先のブラック上司の名があるだけだ。そう――人の名前だ。

いくらなんでもそれはあり得ないだろう。商品欄に人名がある自販機など聞いたことがない。あるとしても悪趣味だ。よりによってバイト先の上司の名前なのだ。たまたま見つけた自販機に、知り合いの名前と同じ名前だなんて、冗談にも程がある。

「神様の悪戯かな? まさかね」

 試しに柚葉にメールで、『こんな自販機見つけたよ』と海斗は写真付きで送ってみた。

 すると『もう、兄さん。ただの自販機でしょ? 悪戯してないで、早く帰って来て』と、心底呆れられてしまった。

「……え?」

 海斗は硬直した。まさか、視えないのか? 柚葉には。この自販機が普通の物に視えている?

 よくよく確認してみれば、眼の前の自販機は異様だった。いくつものボタンが存在しているが、名称欄にかかれているのはたった一つだけ。『相原宗悟』の欄にしかない。

 他はどれも『    』となっていて、故障中の文字すらない。

極めつけは、お金の投入口だ。投入口の近く、硬質な字で説明書きが記されている。


【殺人自販機】

一、硬貨を投入してボタンを押し、その人間を消すことが出来ます。

二、消せるのは頭に思い浮かべた人物のみです。他の同姓同名には無効となります。

三、消す手段は頭で浮かべても構いません。口に出して言っても良いです。

四、実行は、ボタンが押されてから最短で0・1秒後に実行されます。

 殺人設定時間は、最大で72時間先まで指定が可能です。

五、時間をランダムに設定させる事も可能となっています。

六、名前を知らない人を始末する場合、顔を浮かべてください。

 もしくは、特徴や声、愛称などを指定しても構いません。

七、まだ生まれていない人間を始末する場合、予約入力を行う事も可能です。

 胎内に存在してから六ヶ月までを非人間、それ以降を人間と見なします。

八、始末する相手の場所に制限はありません。僻地だろうと未開だろうと可能です。

九、実行手段を詳細に決めたい場合、お金の投入口にメモを入れてください。もしくは、脳内で思い浮かべてください。

十、一日に行える回数は、最初は、一人までです。

十一、利用者にデメリットはありません】


「うわあ……ひどい。子供の悪戯書きかよ」

 思わず、そんな呻きとも呆れともつかない言葉がもれていた。

 いくらなんでもこれはひどいだろう。普通に器物破損レベルだ。誰が書いたのだろう、中学生か小学生の仕業だろうか。

 落書きするにしても、もっとマシなものは出来なかったのだろうか。よりによって殺人だ。幼稚である。きっとストレスを抱えた、陰気な人間が思いついたのだろう。

 そう言えば昔、ノートの端っこに似たようなものを書いたなぁ、と海斗は思い出した。小学生の頃、常識が薄いから、酷い言葉も簡単に使えた。大抵の子供は通る道なのだろう。

「……あ。やばい、学校行かないと」

 くだらない自販機の落書きにこれ以上かまっていられない。今日も海斗は忙しい。 高校に行って、またバイトに向かい、家では妹と楽しい会話をする。それだけが日常なのだ。こんな自販機に気を取られる暇なんてない。

 そう、それだけの――はずだった。


「まだあるのかよ、アレ」

 五日後。電車に至る通学路で海斗は呆れていた。変わらずそのままある。

 それなりに目立つだろうに、落書きが消された形跡はない。完全に以前のままで存在している。自治体は何をしているのだろうか。

「なんだかな。知っている名前を見ると複雑だ」

『相原宗悟』というボタンも当然のように残っていた。あまりに目立つように。

「そもそも、こんな所に自販機あったかな」

 確かなかったはずだけど。いつの間にか追加されたのだろう。それにしては年月が入っているような気もする。少し錆や日焼けの跡が見える。不思議に思いつつも、海斗は自販機から離れて、通学を再開した。――一回だけ、自販機の方を振り返って。


 ――九日後。バイト先で。

「なんで、まだあるんだよ……」

 通学路の前で、海斗は例の自販機を見て思わず呟いた。呆れと少しの怖さに身震いし、そっと遠目から見つめる。

「誰か消せばいいのに。悪戯書きくらい、簡単だろ。まったくもう、誰が責任者なんだ?」

 毎朝通る道で、こういうものがあるのは目障りに思ってしまう。嫌でも宗吾の事を思い出すし、嫌な感覚を募らせる。まるで、そう――誰かに何かを促されているような。

「こういうの、どこに言えば対処してもらえるんだろう。後で柚葉に聞こうかな」

 一瞬だけ、海斗は『相原宗悟』の名前を見た。そして嘆息しつつ振り返った。

 三回ほど、立ち止まり、自販機を見た後に。


 ――十二日後。

「海斗くーん」

 嫌な予感がした。そういうときは決まって宗吾が何かするときだ。

 案の定、ブラック上司――宗吾は薄ら笑いをして立っていた。かまきりのような顔が真っ赤に染まっている。

「何度言えば判るのかなぁ。君バカなの? 何度も何度も同じミスして。今すぐ詫びてくれない? 恥を知ってほしいよ」

 唾を吐かれた。頬に宗吾の唾液が引っ付く。顔をしかめながら海斗がハンカチを取り出すと、宗吾は可笑しそうに笑った。

「アハハ! 楽しい、ウケる! 海斗くん、ナイス迷惑顔!」

 こいつほんとクズだな。海斗は内心で煮えたぎる憤激を抱いた。アハハ、ウケる。そんな声が何度か聞こえた。ろくでもない上司だ。これも反抗すればそれ以上の仕返しが待っている。だから耐えることが最善だ。

 唇を噛み締め、海斗の脳内で――何故か、あの自販機のことが浮かんだ。


 翌日。十三日後。

「――昨日さ、笠原さんが辞めたんだ」

 海斗は、通学路の自販機の前で呟いていた。

「バイト先でさ、親切にしてくれた女の先輩で。大学三年生だった。今年から就活があるからあまりバイト出来ないって言っていた。優しい先輩だった」

 脳裏には、彼女とのやり取りが思い起こされていた。あまりに急な出来事だった。

『やめてください! 触らないで!』

『いいだろ? 美人なんだから触らせてもいいじゃん。この俺に触ってもらってるんだぞ?』

 残業で海斗が笠原と一緒に、荷物の仕分け作業を行っている最中のときだ。宗吾がいきなり笠原に抱きつき、体をまさぐったのだ

 そして笹原を物陰に連れ込もうとした。反射的に笠原が突き飛ばすと、宗吾は転倒して激怒した。

『暴力だ! バイトの女が! 笹原が暴力を振るったぞ!』

 宗吾が顔を真っ赤にし、上司を呼んで大ごとにした。喚き叫んだその末に、結果として彼女を辞めさせてしまった。

「自分になびかないからってさ。辞めさせるとか最悪すぎるだろ」

 その後で知ったことだが、宗吾は笠原にたびたびセクハラを続けていたらしい。

そのストレスが笹原の中で爆発したのかもしれない。普段の笹原から考えられないくらい、見た事のない顔だった。

 詳しくは海斗も知らない。ただ判るのは、笠原が反射で手を出したこと。それを理由に、理不尽に辞めさせられたということだけだ。

 宗吾曰く、『全然やらせてもらえないから、もういいや』との事らしい。海斗は一瞬――手が自販機の硬貨投入口に向きかけ、自嘲を浮かべた。

「やべ。俺は何をやってるんだ。出来るわけないだろ。常識的に」

 それが『何に』対しての常識だったのか、海斗自身にも判らない。海斗は曇天の空を見上げ嘆息した。大切な味方が一人いなくなってしまったことに、寂しさを抱きながら。


 そしてその日の夜――それは起こった。

「海斗くんさぁ」

 いくつもの職場。運送に関連する機器が騒々しく動いている最中。軽薄な笑みを浮かべて、宗吾はいつものように、海斗の頭を叩いてから切り出してきた。

「海斗くんにさ、かなり可愛い『妹』がいるんだってね」

 ひとまず、海斗は本当の感情を表に出さないよう、ゆっくりと目を瞬かせた。

「……え? それが何ですか。別に普通ですよ?」

 大きな荷物を運ぶ最中である。落とすと危ないため、幾分そっけなく海斗は返答する。

 宗吾はニタニタと、面白い玩具でも見つけたかのようにささやく。

「そうなの? でもさぁ、結構有名らしいじゃん? 楠木柚葉って言えば、静丘高校じゃ、かなり名の知れた女生徒らしいね。学校の裏アカにも書かれていたよ。それはもう、学校一番の美少女だって」

「……」

 海斗はその言葉を受けても、しばらく無言を貫き通した。けれど内心、かなり焦りを覚えていた。

「何か言ったら? ねえ」

「……ウチの学校の裏アカ、知ってるんですか? ずいぶん熱心ですね」

「まあ、そうだね。可愛い女の子は大事だからね」

 海斗の通う静丘高等学校――略して静学は、美人が多いことでそれなりに有名である。宗吾がその生徒から裏アカウント――そのSNS内の、『色々な』噂を知っている事までは知らなかった。

 宗吾は悪い魔法使いのように爛々と瞳を輝かせる。

「俺さぁ、前々から妹さんのこと気になっていたんだよね。海斗くん、ちょっと中性的じゃん? だからその『妹』ならどれだけ可愛いんだろうな。って思ってたわけ」

「それは……初耳ですね。で、それが?」

 海斗は、最大級に危険な予感を覚えつつ、努めて感情を抑えて対応した。それしか彼には出来なかった。

「海斗くんさぁ、一度でいいからさぁ、妹さんと会わせてよ。俺と二人きりで」

「……っ」

 拳を握り、海斗は自制心を保つことに、ひどく苦労した。

「すみません、妹は体調が悪いんです。またにしてもらえますか?」

 宗吾の笑みが少し変わった。空気に圧が入り始める。

「ねえ。意味を分かって言ってる? 俺はさ、妹さんに『会いたい』って言ってんだよ。だったらさぁ、つべこべ言わず会わせろ! それが筋だろ? ん?」

 声が荒くなる。海斗は面食らった。怒りの形相に対応出来ない。宗吾が肩を強く叩いてきた。けれど引くわけにはいかない。海斗も声を荒げ、強く睨み返す。

「妹は不登校なんです。先生にも無理するなと言われているんです。先生に逆らえって言うんですか?」

「バレなければいいんだよ。――なあ。っていうか海斗くんさぁ、俺が誰か、判ってる? 君の『上司』だよ? ――これ、なーんだ?」

 その瞬間、海斗は血の気が引いた。

 宗吾の取り出したソレは、この場にあってはならないものだった。手のひらサイズの、生活必需品。

「俺の……携帯!」

 鈍色のスマホカバーに包まれた、海斗の個人情報が詰まった私物だった。それを宗吾はおかしそうに見せつけてくる。

「そう! ビンゴぉ!」

 宗吾は軽薄にパンパンと手を叩いてはしゃぎ始める。

「俺、君の上司だからさ、荷物置き場のロッカーも開けられるわけ。そうしたらさ、君のスマホを取り出せるじゃん? 見てみるじゃん? はは、駄目だぜ海斗くん、パスワードが自分の誕生日とか。今どきそんなの駄目だって、テレビとかで言ってなかった?」

「返してください」

 名簿で誕生日は知ったのだろう。海斗が蒼白色の顔を浮かべて後悔する。

 対して宗吾は、にやにやと笑っていた。海斗の体が震える。唇が真っ青に染まっていく。悪寒が止まらない。

「それで、何を、する気ですか?」

「んん~~? それ聞く? 聞いちゃう? 決まってるじゃない。君の妹に電話して、呼ぼうと思ってるわけ。まあ何の準備もなしじゃアレだから、君に話はしておこうと思って」

「やめてください」

「何を? やだなぁ、一回会ってくるだけだよ。それ以降は会わないからさ」

「『何を』する気ですか? やめてください」

「ふふ、ふふふ」

 宗吾は口角を釣り上げた。それは、獲物を追い詰めた蛇のような眼だった。

「決まってるじゃん。三大欲求の一つだよ? 可愛い女の子とする事なんて、一つしかないだろう?」

「やめてください! それだけは!」

 海斗は宗吾の胸を強く押した。うめき声と共に、彼が揺らぐ。手からスマホが滑り、床へと転がった。宗吾が怒りの形相で睨みつける。構わずに海斗は叫ぶ。

「妹に手を出したら! ただではおかない!」

「なんだと? 君こそ誰に向かって手をあげている! ぶっ飛ばすぞ!」

「――っ、やめ、」

 宗吾が殴りかかってくる。海斗は咄嗟に前かがみで避けた。高速する思考の中でスマホだけは守るべきと思った。

 拾い上げた瞬間、宗吾が雄叫びを上げながら殴りかかってくる。拳が顔面すれすれを通り過ぎる。ぎらぎらとした宗吾の眼。怒りを通り越して殺意すら帯びている眼光。怖い。

「誰か! 助け――」

 海斗は必死で叫んだ。しかし、それに倍する声で、宗吾は大声を張り上げた。

「海斗くんが! 鏑木海斗くんが俺に殴りかかってきた! ああ、賃金の値上げを断っただけで! 殴りかかるとか酷すぎる!? 何を、あっ、やめてくれ!」

「違……っ、俺は!」

 酷い内容だが、宗吾の口調だけは真に迫ったものだった。間もなく他のバイトやスタッフたちが集まり、仕事場は騒然となった。海斗は周りの人間に囲まれる。

「――海斗くん、君、ちょっといいかな」

 海斗は現場の最高責任者のもとへ呼ばれた。説教をされ、減給と業務休止を命じられた。帰宅を許されたのは、夜中の三時半だった。


「あのやろうあのやろうあのやろう!」

 夜間バスで帰路についた海斗が盛大に怒鳴った。頭の中がどす黒い感情で一杯になっている。怒りや憎しみ、哀しみ、失望、あらゆる負の感情が渦巻いていた。

 その中でもとある感情が大半を占めている。宗吾を潰す。宗吾を潰す。宗吾を潰す。このままでは柚葉が危ない。宗吾は口八丁手八丁で海斗を悪人と決めつけ、そのうち海斗をクビにする気だろう。その後は柚葉へ手を出す気だろう。

 それだけは駄目だ。宗吾は、海斗の家も柚葉の名前も顔も知っている。すぐにスマホで連絡を取って、柚葉を脅す可能性もある。

「――っ、あった!」

 全身を酷使し、心臓が悲鳴を上げるほど全力で走った先にそれは佇んでいた。

 いつも道端に当然の如くある『ソレ』。どうしてここにあるのか判らなかった『ソレ』。

 謎の自販機。

 はじめは頼る気はなかった。どうせ誰かの悪戯だと思っていた。絶対何かの冗談で、本物ではないと心から思っていた。

 けれど、今はそれどころではなかった。柚葉が危ない。もう少しの猶予もなかった。海斗は急いで財布を取り出し、自販機に近づいていく。

 財布から硬貨を取り出すのがもどかしい。何でこういうときに限って上手く取れないんだ。早く! 頼む、早くしてくれ!

脂汗を垂らしながら、海斗は一〇〇円玉を取り出し、硬貨投入口にそれを入れかけ、


 ――待てよ。これ、本物じゃないよな?


 直前でそんな思考が駆け巡る。――仮に、これがもし本物で、一〇〇円を入れてボタンを押すとどうなる? 宗吾を罰せられた場合、自分は犯人になるのだろうか? 

 いや、現実的に考えてボタンを押して人を罰せられるはずはない。だから絶対にあり得ないはずだ。

 けれど、もし本物だとしたら? その手段は? 誰がどのように行うんだ?

 ――例えばこれが、じつは専門家に繋がっていて、ボタンを押せばそちらに連絡が届くとか?

 ――荒唐無稽だった。そんな話、聞いたこともないし、コストも安すぎる。裏サイトなど海斗は覗いたことはないが、専門家なら、超高額の金を要求するのだろう。

 それが硬貨一枚で、たった一〇〇円で人を始末できる? いくらなんでも安すぎる。

 人の命が100円だなんてことはない。絶対に。これは落書きだ。それ以外にはあり得ない。

 けれど、『相原宗悟』と名前があること。そして切迫した状態から、海斗は疑う余地を失っていた。絶対に本物じゃない。でも、でも、何もしないよりは……っ!

「はあ……はあ……はあ……っ」

 海斗の手が震えて、息が乱れる。目の焦点が定まらない。心臓が痛いように早鐘を打ち、過呼吸が止まらないまま。押したくない――でも押さなければ。でも、でも!

脳裏に柚葉の笑顔が過ぎった。『兄さん、いつもありがとう』『優しいね、兄さんは』『兄さんといると、楽しいの』

 妹の顔がよぎると――迷いが消えた。

 海斗は。

 海斗は。

 ――100円玉を、投入口に入れた。そして、自販機の――ボタンを――


†   †


「おっはよう兄さん! もう朝だよ!」

 三日後。カーテンから注ぐ柔らかな光の中、まどろみの世界に浸っていた海斗のもとへ、柚葉が来て楽しげに揺り起こしてくる。

「……おい柚葉、休日くらいゆっくり寝かせてくれ。疲れてるんだから」

「もう、そんなこと言って。あれからもう三日だよ? 謹慎も終わってバイトも学校もあるんでしょ? 寝ぼけてないでしっかりしてよ」

 未だ覚醒しきれていない海斗に向かい、頬を膨らませて柚葉が苦笑を浮かべた。その姿は天使のように愛らしい。

「面倒だな……今さらバイトとか、かったるい……」

「そんなこと言って。もう。早く起きてね、朝ご飯冷めちゃうから」

「はいはい……」

 海斗は寝癖のついている頭を、軽く手櫛で整え、起き上がった。

大きなあくびをして伸び。窓を開けて新鮮な空気を吸い込む。肺に心地よい空気が満たされていく。良い朝だ。


 ――三日前、海斗は謎の自販機のボタンを――『押した』。


 その後、彼は通告通り、三日間の謹慎となった。

 学校には通っていたが、バイトには行けず、そのまま帰路に着いた。何食わぬ顔で暇つぶしをし、柚葉の「お帰り」の言葉をもらい、いつも通りに飯を食べて就寝に入った。

 激情は残っていたが、疲労も溜まっていたのだろう、睡眠はしっかりと取れた。

 けれど一方で現実感が乏しかった。本当にボタンを押したのか、記憶は曖昧だった。

 朝起きて柚葉とのやり取りをして、いつもと変わらない光景。これは夢だろうか。それとも現実? 判然としないまま三日が過ぎ、やがてバイト再開の日が訪れた。


 職場へ行くと、すぐさまパートのおばさん達が声をかけてきた。

「あら海斗くん、三日ぶり。大変だったわねえ、あんなことがあって」

「ええ……まあ。いつもの事です。もう諦めてます」

「早めにこのバイト辞めた方がいいわ。またあんな事が起きる前に」

「まあ……そうですけど。宗吾さんがバイト辞めるなと脅してきたので……」


「――え? 宗吾さん、この三日間、来ていないわよ?」


「――」

 バイト仲間のおばさんは、困惑した顔つきでそう告げた。

 海斗は無言でその言葉を聞いていた。凪のように、静かな心で満ちている。

「あの日、海斗くんと乱闘になった後、一度も出勤していないの。職場ではそれで噂になっていてね」

 海斗は一度目を閉じ、小さく呼吸を繰り返した。そして今度は、少し離れた別のバイトグループを見てみる。

「宗吾さんが来ないなんて、珍しいわね」

「何かあったのかしら?」

「仕事には絶対に来るタイプなのに。おかしな話よね」

 どうやら宗吾は三日もの間、姿を見せず未だ出勤してないらしい。理由に心当たりがある海斗は、「……偶然だ」と思いつつも、平坦な口調で応じた。そうするしかない。

「そう……なんですか。何か、気まぐれでも起こしたんでしょうか?」

「うーん。判らないわ。専務の人も電話したらしいけど」

「……仕事の話ですけど、監督役って、代わりの人、誰かわかります?」

「ええ。今は須藤さんがやってくれるわ。この三日、ずっと監督役してくれたわよ」

「そう、ですか」

 海斗が感情のない声音で応じ、しばらく無言で佇む。それを少しだけ怪訝におばさんは見て、一つ頷いて小さく溜息を吐いた。

「はあ、まったく。宗吾さんも休むならそうと連絡すればいいのに」

 同じ想いは共通だったらしく、他のバイト仲間も同意した。

「ほんとね。人のことは完璧を求めるくせに自分は棚上げにして」

「そうそう! 駄目な人だわ」「本当ね!」

 皆に良くは思われていない。海斗も乱闘の当事者ではあるのだが、そこは立場や人柄のおかげで差が出ていた。おばさんたちにお礼を言って、海斗はバイトの作業に入る。

 宗吾は最後まで姿を現さなかった。スタッフの一人は、「宗吾のバカタレ、連絡も寄越さないで! 一体何やってんだ!」とぼやいていた。それがやけに海斗の頭に残っていた。


 翌日。

「宗吾さんと連絡がつかないらしいわ」

 バイトのおばさんが困惑顔で語っていた。次々と同じような声が寄せられる。

「須藤さんが電話しても出ないらしいの」

「専務の人も電話何度もかけたけど、駄目だったらしいわ」

「社長が念のため十一時まで待つみたい。それで駄目なら、明日、自宅に行ってみるって」

 四日連続で無断欠勤の宗吾。それを皆が不審がっていた。

 横暴だが、皆勤ではあった彼。その事実に全員が異変を感じている。居れば憤りを覚える存在だったが、居ないとそれはそれで不安にさせる。難儀な男だった。

 微妙な気持ちが同居した職場は、重めな雰囲気になりながらも、皆仕事だけは真面目に行い、その日の業務を終えた。――海斗は、その間、終始ほぼ無言だった。


 翌日。宗吾が自宅で、変死体で発見された。確認のため向かった社長が発見したのだ。

 運転手と宗吾宅のマンションに入った社長は、うつ伏せに倒れている宗吾を発見。すぐに救急車を呼んだが、間もなく助けられないと判断された。確定はしていないが、およそ事後四日は経っていたらしい。

 事件か? 病死か? それとも事故死か? 原因は判らないが、医師によると「特に体に異常はない」と主張。社長以下、スタッフもバイト全員も気味悪いと言い、中には「怖い」と震えている人もいた。

 海斗は、無表情でそれを聞いていた。――四日? 偶然だろ。偶然だよな? 常識的に、自販機のボタンを押したくらいで終わるわけがない。

 偶然だ。そうだ、これはただのまぐれなんだ。海斗はそう結論づけた。そうでなければ――たちの悪い、夢だろう。


 さらに時間は流れ――その翌日。

「警察が正式に、死亡と発表したらしいわ」

 バイト先のおばさんが皆に語っていた。周囲は戸惑いや困惑が広まっている。

「さっき社長に確認したけど、間違いない、五日前、宗吾さんは急死したんだって」

「原因は?」

「さあ……判らないらしいけど」

「酒かタバコ? それか病気にでも掛かっていたのかしら?」

 皆が推測を交わすが、結論なんて出るはずがない。この頃には、海斗は半ば確信を抱いていた。ボタンを押した日とぴったり合う。宗吾は酒飲みだとも聞いていた。『たまたま』五日前に体調を崩し、そのまま死亡した可能性もあるが――だがその可能性は低いと海斗は思っていた。

 直感めいたその予感。何にせよ一つだけ確定したことがある。

 宗吾が、終わった。悪人で、最悪で、人としてクズのあいつが。

 あの相原宗吾が――消えたのだ。


「(――はははははは! やったぁぁぁぁあ!)」


 海斗は内心で盛大に叫んだ。最高だ、ざまーみろ! 人を散々こき使い、陥れた罰が当たったんだ。偶然でも何でもいい! もう彼はいない。

 最高だ。清々した。体が軽い! まるで羽のようだ!

 海斗は微妙な雰囲気の職場の中、生き生きと仕事をしていた。周りの声など耳入らない。

 害虫を駆除した気分。まさしく天にも登るような気持ちだった。


 翌日。海斗は殺人自販機の所に向かって確認した。

 相原宗吾の名前は、消えていた。これまで『相原宗悟』と書かれていた場所には、空白があり、『   』と、元から何もなかったかのように変貌している。

 けれど安心は出来ない。これが本当に殺人自販機ならば、人を殺せる機械と言うことだ。海斗以外にも使える場合は厄介なことになる。

 たった一〇〇円で人を始末できる自販機。これまでは異常性や心の余裕の無さから深い考えは及ばなかったが、他の人にも使える場合は危険だ。

 宗吾のような悪人に使われたら止められない。詳しく調べる必要がある。

 海斗は無言で少し考え、その辺に歩いていたサラリーマンを呼び止めた。

「あの、すいません……この自販機、ちょっと誤字がありますよね?」

 サラリーマンの中年は、不思議そうに目を瞬かせた後、海斗の目を見て返答する。

「……? 特に、何もないけれど?」

 四十代前半と思しきサラリーマンは、そう言って首を傾げて不審そうに見返した。

「あ、そうですよね。見間違いです、すみませんでした」

 海斗が謝ると、サラリーマンは苦笑して立ち去っていった。「寝坊もほどほどにねー」

「はい! ……やはり、他の人には視えないのか?」

 海斗にしか視えない可能性はある。だがまだそう考えるのは早い。海斗は何回か同じことを繰り返した後、しばらく悩んだ後に、柚葉へ電話を試みた。

「柚葉、ちょっといいか?」

『どうしたの、兄さん。急に電話してきて』

「あのさ、柚葉のために本でも買おうかと思ってさ。ついでに飲み物を買おうと思ったんだ。ちょっと一緒に自販機へ行かないか?」

『え……今から? 急だね?』

 海斗は適当な理由をでっち上げた。声音を調整するのに少しだけ苦労した。

 柚葉は不思議そうに言いながらも、断りはしなかった。やがて十五分くらい過ぎて柚葉はやって来ると、小さく微笑む。よそ行きのパーカーとスカート姿だ。

「お待たせ、兄さん」

「うん、今日も可愛いね」

 くすぐったそうに柚葉は笑んだ。よそ行きの少し華やかな衣装は、それだけでちょっとした妖精に見える。ただ、表情には緊張が見て取れた。自宅から近くても、不登校の彼女には厳しいのだろう、少し海斗は反省する。

「この自販機の、どれを飲んでみたい? どれでも奢るよ」

 ひとまず自分の考えは置いておいて、海斗は促す。柚葉は細く白い指を唇の端に添えて、思案し始めた。

「うーん……そうだなぁ、じゃあ……リンゴジュース?」

「子供っぽいな。大体いつも、外ではそれを選ぶよな」

「もう、兄さんのいじわる」

 いつもの兄妹のやり取りに、海斗は微笑を浮かべた。うん、こういうのがいい。いくつになっても楽しい妹だ。安心できる。

「ごめん。じゃあ一〇〇円だな」

 ふと海斗は不可解な事に気づいた。柚葉はリンゴジュースと指差したが、海斗には『   』としか視えていない。値段だけは一〇〇円と書いてあるが、二人の間で視えているものが異なっている。

「――柚葉。これ、他にさ。どういう『商品名』が書いてある?」

「え? ……オレンジジュースと、ミックスジュースと……コーラ。あとは栄養ドリンクとかだけど。それがどうかしたの?」

「……いや。何でもない」

 海斗は小さく口端を緩めた。これで確定した。もう間違いないだろう。これは、この自販機は――。

 適当な雑談に興じながら、海斗は脳内で整理をしていく。

 ――一つ、殺人自販機は、海斗以外には普通の自販機に見える。

 ――一つ、海斗以外の人間には、自販機の説明書きも視えない。

 ――一つ、ジュースなどは普通に出てくる。中身も海斗が飲んだ限り、異常はない。

 あるいは何か危険な物かと思い、ジュースは躊躇したが、柚葉に先に飲ませるわけにもいかない。自分が先に一本飲んだが、問題はなかった。

 その後二本目を柚葉に飲ませたが、それも特に異常は見受けられなかった。

 海斗には普通には見えないが、通常の自販機として使うことも可能らしい。何にせよ、懸念は去ったわけだ。

 この自販機は――殺人機能は――『海斗にしか使えない』。


 開けた翌日。職場に赴くと、『相原宗吾』の死亡が社長から発表された。

 バイトを始め、動揺する者が大半だったが、多くは「嬉しさと困惑が半々」といったところだ。面と向かって皆言わないが、おそらく誰もが、「人格欠陥者」が消えて清々したと思っているのだろう。

 もちろん複雑な思いであるには変わらない。ただ腫れ物を扱うような存在にはなっていた。

 海斗はわずかに罪悪感を抱いた。クズとは言え、本当にあいつを始末して良かったのか?

 いや、実際はボタンを押しただけだ。別に自分が実行したわけではない。専門家がやったにせよ何にせよ、海斗が直接手を下した事実はないのだ。

 宗吾は下るべき罰を受け、消えた。それが事実だ。そう結論づけると、海斗は胸の内が清々しさに満ち、サアアと晴れ渡るのを感じた。その日は良い夢を見られた。


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