一九章 乳闘民族ウフト人

 育美いくみは部屋に戻り、眠ろうとした、したのだが……。

 妙に気分が高ぶって眠れない。体もなにか火照っているようだ。落ち着かない気分で布団のなかで何度もなんどもモゾモゾと寝返りを打った。どうしても眠れない。眠れないなかで時間だけが過ぎていく。

 「駄目だ! 眠れる気がしない」

 結局、育美いくみは起き出した。なんとなしに工場に向かった。すると、工場にはまだ灯がついていた。

 ――志信しのぶさん、まだつづけているのか?

 邪魔をしないようそっと様子をうかがう。すると、目に入ったのは工場の床でなにやら熱心に体操している志信しのぶの姿だった。

 あぐらをかいて座った姿勢で胸の前で両手を合わせて合掌していたかと思えば、今度は手を頭の後ろで組んで顔の前で肘をつける。それから、腕立て伏せとつづく。すぐそばの台には豆乳の一リットルパック。

 「……空手の練習か? こんな時間にも稽古なんて、全国大会常連と言うだけあってさすがに熱心だな」

 育美いくみがそう言ったそのときだ。地の底から轟いてくるような声がすぐ後ろでした。

 「み~た~な~」

 「わあっ!」

 思わず飛びあがった育美いくみの後ろ。そこには子豚のプリントがいっぱいついたかわいいパジャマを着た心愛ここあが立っていた。

 「こ、心愛ここあちゃん……⁉」

 叫ぶ育美いくみに、心愛ここあは口もとに指を当てて見せた。

 「……静かに。あなたは見てはいけないものを見てしまった。志信しのぶお姉ちゃんにバレたら口封じのために消されることになる」

 「け、消されるって……」

 「あれこそ、志信しのぶお姉ちゃんの欠かさぬ日課、貧乳女性の宿命、その名をバストアップ体操」

 「バ、バストアップ……?」

 「そう。希見のぞみお姉ちゃんと多幸たゆは父方の血が出て胸の育ちが良い。でも、志信しのぶお姉ちゃんとわたしは母親似。お母さんも胸のないのを気にして、いつもバストアップ体操していた。食事には常に豆腐と豆乳」

 「豆腐? 豆乳?」

 「豆腐は乳に効く。芸能界やAV業界では定説」

 「そ、そうなのか?」

 そう言えば、かつての仲間だった上条かみじょうゆいもよく豆腐を出していた。そして、そのゆいもまた胸の小ささを気にしていた。もうひとりの女性である今村いまむら聡美さとみがなかなかの巨乳だったのでよけい、気になったのだろう。

 ――ゆいは『豆腐は安くて栄養があるから貧乏所帯にピッタリ』って言ってたけど……実はそう言う意味だったのか?

 「あああっ⁉ それじゃ、志信しのぶさんに豆腐料理を出したとき、怒っていたのはそう言うことだったのか⁉」

 育美いくみが作って出したゆいゆずりの豆腐料理。それを一目見た瞬間、志信しのぶは怒って叫んだものである。

 「嫌味か⁉」と。

 豆腐料理にそう言う意味があったならそうとられても仕方がない。とんでもないことをしてしまった、と、頭を抱える育美いくみであった。

 心愛ここあはつづけた。

 「志信しのぶお姉ちゃんもまた、母からつづく呪いを断ち切るべく、努力は欠かさない。毎日のバストアップ体操、マッサージ、豆腐に豆乳。豊乳器具の数々。志信しのぶお姉ちゃんがお風呂に入るのが遅いのはそのため。本人が隠しているつもりなので、わたしたちも気付いていない振りをしている」

 「そ、そうなんだ……。大変だね」

 「そう。それこそが日々、己の貧乳と戦う乳闘民族ウフト人の姿。下級乳士であっても、必死の努力を重ねれば天才乳士を凌ぐこともある。いつか、超ウフト人に覚醒し、世のエリート乳士たちを打ち倒す」

 心愛ここあはグッと拳を握りしめ、静かに語る。無表情なクール顔と感情を感じさせない淡々とした声。そこから繰り出されるなんとも物騒な言葉の数々。それが却って、ものすごく怖い。

 「で、でも、ふたりともすごい美人じゃないか。志信しのぶさんはモデル級の美女だし、心愛ここあちゃんはクール系アイドル並だし。胸なんて小さくてもかまわないだろう」

 育美いくみが不用意に過ぎるその発言をした瞬間、心愛ここあの全身からどす黒い妖気が吹きあがり、育美いくみを包み込んだ。まるで、人を異界に引きずり込む触手のように。そのあまりに濃密な気配に育美いくみは一瞬、窒息しそうになった。

 「……男にはわからない。妹に胸囲で負ける屈辱は。揺れないバストと、できない谷間に、どれほど悩むかは。ブラと胸の隙間にパッドを詰め込むその悲しみは」

 ――そう言えば、おれが女装するために、よく都合よくパッドなんてあったと思ったけど……志信しのぶさんが使っていたものだったのか。

 妙に納得してしまう育美いくみであった。

 「だ、だけど、君はまだ中一だろう? まだまだこれからなんだから、そんなに気にしなくても……」

 「デカくなる女は思春期前からデカい。事実、多幸たゆはすでにかがむと谷間ができる。わたしにはできない」

 「あ、ああ、そう……」

 「見ているがいい。不本意ないまをかえるのは戦う覚悟。研ぎ澄まされたわたしの殺意が、いつかこの胸を巨乳にかえる」

 ――殺意……。誰に対する殺意なんだ?

 そう思い――。

 背筋の凍える思いのする育美いくみであった。

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