一二章 四女と勉強

 ――た、助かった……。

 暴発寸前で天使の声に救われて、育美いくみは心の底からそう思った。

 自分を信用し、受け入れてくれた四葉よつば姉妹。その四葉よつば姉妹を裏切るような真似をしたら自分を殺しても飽き足らない。そうなる前に救われて、このときの育美いくみには、大袈裟ではなく多幸たゆが光をまとって天上から降りてきた救いの御子に見えていた。

 さしもの希見のぞみも妹に『宿題』を盾にされてはとめるわけにもいかず、育美いくみが無駄毛処理の途中で出て行くのを認めた。多幸たゆに手を引かれて希見のぞみの部屋を出た育美いくみは、

 「はああ~」

 と、大きく安堵の息をついた。

 「ごめんなさい。希見のぞみちゃんや志信しのぶちゃんはそう言うことには鈍いし、心愛ここあちゃんは面白がっちゃう質だから」

 「えっ?」

 「男の人の生理に関しては学校の性教育で知ってるから。大変だったでしょ? 女の人三人と同じ部屋なんて」

 ――いまどきの小学校は、女子にそこまで教えるのか。

 しかし、考えてみれば女子にこそ男の生理は知らせておかなければならないこと。将来、まちがいを犯させないためにも教えておくのは確かに必要なことだろう。

 そして、多幸たゆはすべてを承知の上で助けに来てくれたのだ。

 ――わざわざ来てくれたんだ。多幸たゆちゃん、マジ天使。

 そう思い、思わず多幸たゆの前にひざまづき、全力で拝みたくなった育美いくみであった。

 「じゃあ、あたしの部屋に来て」

 「君の部屋⁉」

 ――いいのか、女子小学生の部屋になんて入って⁉

 常識的、良識的に考えてさすがにそれはまずいだろう。希見のぞみは成人だからまだいいが、女子小学生の部屋でふたりきりというのは……。

 育美いくみはそう思ったが、多幸たゆは気にしている素振りもなかった。

 「でないと、まずいでしょ。『宿題見て』って、連れ出したんだから。実際に宿題、見てもらわないと嘘ついたことになっちゃう」

 そう言って、育美いくみの腕をつかみ、自分の部屋に引っ張っていく。このあたりの強引さは希見のぞみそっくり。

 さすが、姉妹。

 そう思わせる態度だった。

 しかし、自分の手をつかむ多幸たゆの手の感触。少女特有の柔らかさと肌の張り、体温の暖かさ。そして、そのか細さ、弱々しさ。そんな手を振り払うことのできる男がどこにいよう?

 いるわけがない!

 育美いくみも思わず心にそう断言してしまう感触。振り払うことなどもちろんできず、操り人形のように多幸たゆに引っ張られていくしかなかった。

 そして、招き入れられた多幸たゆの部屋。

 さすがに、末っ子だからか、希見のぞみの部屋に比べれば幾分せまい。けれど、女子小学生らしいファンシーな色合いに統一されたかわいらしい部屋。淡いピンク色のハートマークがいっぱいにプリントされたベッドの上には、多幸たゆの体の半分ぐらいはある大きなクマのぬいぐるみ。やはり、淡いピンクのカーテンに、白桃色の学習机。その上に乗せられた赤いランドセル。他にもいくつものぬいぐるみやかわいい置物があって女子小学生らしさ全開。香水などとはちがう天然の甘い香りが漂っているようで、嗅いでいると頭の芯がクラクラしてきそう。

 育美いくみは決して、断じて、ロリコン幼女好きではないし、ましてペドファイル少児性愛者ではない――と、自分では思っている。今のいままで、一三歳以下の女の子に対して性的な関心をもったことや、夢想したことなどただの一度もないのだ。

 しかし、そうではないからこそ『女子小学生の部屋に入る』ということに背徳感を感じてしまい『イケナイ感』倍増。罪の意識が興奮へとかわり、無性にドキドキしてしまう。

 ――おちつけ、おちつけ。私は女、私は女。頼まれて宿題を見てあげるだけ。変なことはなにもない。

 必死に、自分にそう言い聞かせる。

 多幸たゆの方はそんな育美いくみの気も知らずにさっさと机の椅子に座り、ランドセルから教科書とノートを取り出した。

 「この算数なんだけど……」

 「……あ、ああ、どれどれ」

 育美いくみはそそくさと多幸たゆに近づいた。正直、国語や社会はまったく自信がない。なにしろ、子どものころからから技術畑一筋だったもので。小学校から高校までずっと、

 「あれだけ、教科によって成績に差があるやつもめずらしい」

 と、教師から言われてきたのだ。

 しかし、算数ならばまさに専門分野。それなら、自信をもって教えることができる。そしてなにより――。

 ――変な気分にならないためには、勉強に没頭するのが一番だからな。

 そう思い、多幸たゆに近づき、教科書をのぞき込む。が、

 そこで感じるものは立ちのぼる暖かい体温とミルクのような甘い香り。そして、真っ白な太股。なにしろ、多幸たゆ自身、Tシャツにミニスカートというラフな格好。おまけに、小学生特有の無防備さで生足を堂々と出している。教科書を見ようと視線を下に落とすとどうしても白い生足が目に入るわけで……。

 ――目に毒ってレベルじゃないだろ!

 思わずそう心に叫ぶ育美いくみであった。

 しかも、この多幸たゆ、いまだ小学生のくせに長女の希見のぞみに似てスタイル抜群。実は、胸のふくらみはスリムボディの志信しのぶ心愛ここあよりも豊かなのだ。側に立って、下に視線を落とせば、Tシャツの隙間から胸が覗いて見える格好になってしまう。

 ロリコンでも、ペドファイルでもないからこその罪悪感と背徳感。

 育美いくみは思わず目をそらしたが、そんな育美いくみ多幸たゆは不思議そうに見上げた。

 「どうかした?」

 「い、いや、なんでもない……」

 「そう? じゃあ、早く」

 「あ、ああ……」

 ――なんで、男の生理について教えられているはずなのに、こう言うところは鈍いんだ

 育美いくみはそう思ったが、『子どもの自分に感じるがはずない』とか思っているのだろう。さすがに、小学校の性教育で『小児性愛障害とは……』とまで教えているとは思えない。せいぜい、

 「怪しい人についていっちゃいけません!」

 ぐらいのものだろう。

 実際には、怪しい人に怪しい行為ができるわけがないのだが。

 ――絶対、ヤバいやつほど表面は普通にふるまうよな。でないと、目立ちすぎてなにもできるわけがない。

 そう思ったが、いまのこの状況、自分がその『普通の振りをしているヤバいやつ』にならないためには、それこそ勉強に集中するしかない。育美いくみはありったけの集中力を発揮して教科書だけに目を釘付けにして、教えはじめた。

 そうすると、さすがに技術畑の人間。得意分野の授業とあってすぐに没頭し、煩悩からも解きはなたれた。多幸たゆも素直で理解力の高い優秀な生徒だったので、授業がスイスイ進んだのも一因だろう。

 何事もなく一時間ばかりの臨時家庭教師の役割を全うし、安堵の息をつく育美いくみであった。

 「そう言えば……」

 多幸たゆが教科書とノートをしまいながら、育美いくみに尋ねた。

 「心愛ここあちゃんから、希見のぞみちゃんと志信しのぶちゃんのどっちがいいか聞かれたんでしょ?」

 「知ってるのか?」

 意外な気がして育美いくみは目をしぱたたかせた。実際にはそのあと『それとも、わ・た・し?』とも聞かれたのだが、さすがにそんなことは言えない。

 「うん。ふたりのどっちかと結婚するの?」

 「それは……」

 と、育美いくみは真顔に戻った。相手が成人女性なら、罪悪感や背徳感を感じなくてすむので却って冷静になれる。

 「心愛ここあちゃんからは、ふたりのうちどちらかと結婚すれば堂々とこの家にいられると言われた。でも、そんな理由で結婚しようなんて失礼すぎる。ただ、ふたりとも魅力的な女性なのは確かだ。美人だし、性格もいい。なにより、懸命に人生を生きている。結婚相手としては申し分ない。だから、もし、これから一緒に暮らしていく上でおれのことを気に入ってくれるなら……そのときは、本気で考える」

 「ふうん。まじめなんだ」

 「最低限の礼儀だ」

 育美いくみが言うと、多幸たゆはニッコリ微笑んだ。立ちあがった。体を伸ばし、顔を近づけた。指先でチョン、と、育美いくみの鼻をつついた。

 「育美いくみちゃんのくせに生意気」

 とにかく、授業が終わったので、育美いくみ多幸たゆの部屋から去ることになった。育美いくみが部屋を出ると、多幸たゆはドアから顔を覗かせて言った。

 「希見のぞみちゃんや志信しのぶちゃんがダメだったら、あたしが大きくなってから結婚してあげるよ」

 その一言を残し――。

 ドアは静かに閉められた。

 育美いくみはしばしの間、その場に帆おっとして立ち尽くしていたが、ふいに我に返った。壁に額を押しつけた。

 「これは……一番の強敵かも知れない」

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