第3章

第11話 ずっと言いたかった


 背中からぐるりと腕を廻し天野を抱き支えるような体勢で下敷きになっている俺。


 一方の天野もすぐに体勢を立て直そうとはせず、二人の心臓の音がドクッドクッと五月蠅うるさく重なり合う。

 

 頬の触れ合うような距離だ。うつ伏せで俺に覆い被さる彼女の生温かな吐息がベッド上で跳ね返り俺の耳をくすぐってきた。


 そして今、俺の視界は半分以上が天野で埋め尽くされていて、どうしたって身体の至る部位から彼女の柔らかな感触を敏感に感じ取ってしまうわけで……。


 五感の内、視嗅触の三感を支配された俺の脳はもはや完全に機能麻痺を起こし、耳鳴りのように鳴り響く心音がどちらのものかすら分からなくなっていた。


「ほんとに……思い出してくれたの?」


 表情が見えない中、耳許みみもとで囁くように訊ねられ、今顔を寝かせれば俺の唇は自然と彼女の頬や耳に触れるだろう、そんな距離感の中で俺は身動きが取れずただ首を縦に動かして応える。


「ああ。天野は……あすかちゃん、なんだろ」 


 俺がそう言うと、それまで野放しになっていた彼女の両腕がするりと俺の肩越しから巻き付くように絡みつき、次いでぎゅっと抱きしめられていた。


 強過ぎず弱過ぎもしないそれはきっと恋愛的なものじゃなくて。長らく天野が俺にいだいていたであろう想いが籠められているのだと思った。


 その瞬間、俺の中で天野だった彼女が明香あすかちゃんへと変わる。


 それは今まで心のどこかで掛けていたブレーキが解除されたことを意味し、同時に病に伏せていた彼女が今こうやって元気な姿を見せてくれていることに感動すら覚えていた。


 ただ、抱き合うなんて冷静に考えればただの幼馴染が再会を祝してするような行為じゃない。


 だけど、何よりもこの時ばかりは嬉しさがまさったんだと思う。

 彼女同様、俺も背中に廻していた両腕に少しだけ力を込めると、同時に互いの胸が更に密着し、普段なら感じちゃいけないはずの柔らかなものが押しつぶされるような感触を感じた。


 なのにさっきまでバクバクと五月蠅うるさく音を立てていたはずの心音がトクトクと落ち着いたものに変わっていることに気付く――。


 一体いつまでそうしていたんだろう。


 ふと俺を抱きしめていた明香あすかちゃんの力が少し弱まり、次いで彼女が上半身を起こそうと腕に力を込めたのを感じた俺は彼女を持ち上げるように身体をゆっくりと起こした。


 すると寝ころんでいた時、俺のお腹辺りに乗っていた彼女のお尻が俺の太ももへとするりと落ち、そして今目の前には明香あすかちゃんの小さな顔が目線より少し上にある。


 窓から差し込む朝陽が彼女を照らし、晒されたそのとんでもない美貌にトクンと心臓が跳ねた。

 

 俺は彼女が後ろに倒れないようにと、腰に廻しっぱなしだった両腕を触れることなく宙に待機させ、逆に明香あすかちゃんは前重心で俺の肩に両手をそっと置く。


 なんだかさっきよりも更にエッチな体勢になってしまった気がしないでもないが……。まあ少なくとも今は置いておくべきか。


「おめでとう、でいいんだよな?」


「うん……。全部、悠流はるくんのおかげだよ」


「いや、俺は何もしてねえし。手術を頑張ったのは明香、ちゃん……だろ」


 面と向かって明香あすかちゃんと呼ぶのが妙に恥ずくてボソってしまう。

 そんな俺に彼女は優し気な表情かおでふるふると首を横に振った。


「もしあのタイミングで手術をしなかったら完治してなかったかもって、先生がそう言ってたの。だからあの時、わたしに勇気をくれた悠流はるくんのおかげ」


 そう言われてしまえば、もう何も言えない。

 ただ誰がどうとか関係無く、俺はただ彼女が元気になってくれた事実が何よりも嬉しかった。


悠流はるくん……、本当にありがとう。わたしずっと、ずっと会ってお礼を言いたかったの」


 彼女の蒼い瞳が真っすぐに俺を捉え、同時に部室での演技シーン出来事を思い出す。


 あの時に感じた違和感の正体はこれだったのか。

 彼女が台詞を言った時、俺に言っているはずのにまるで俺には言っていないような……不思議な感覚を覚えたのだ。つまりあれは俺の中にいる俺に向けたものだったわけだ。


 そして今、彼女の言葉は確実に俺に向けられたもので。

 それほどまでに俺との再会を喜んでもらえたことが嬉しい反面、彼女にこんな顔を向けられてドキドキしない男がいるのだろうか。とも思えた。


「中学の時……気付かなくてごめんね」

「そんなのお互い様だろ。それこそ八年か振りで、お互い声も姿も変わってたし、っつうかそもそも俺が引っ越した先でまさか再会するなんて思ってなかっただろうし」


 そう、うちは明香あすかちゃんの手術の後に引っ越していたのだ。って、昨日まで気付いてなかった俺が言うことじゃないかもだけど……。


 と、話自体は尽きない中ではあるものの、大切な部分を消化した俺たち。


 そこで少しのが生まれ、きっと再会補正も解けたのだろう。


 明香あすかちゃんはちいさく首を左右に振ると、自分がとんでもない体勢で俺に馬乗りになっていることに気付いたのか、顔をかぁと赤く染める。

 俺もその羞恥にまみれた表情を見ていられずふいと顔を背けた。


「ご、ごめん。重たかったよねっ。すぐに退くから」


「いやっ、全然、重たくはないけど……。まあ、そうしたほうがいいとは……思う」


 突然始まる余りにもたどたどしいやり取り。

 それもそうだろう、病気の完治を喜び合うという点を除けば、俺たちは世間一般で言われる幼馴染よりも過ごした年月も少なく、ましてや恋人でもなんでもないわけで。


 そもそもこんな状況をもし彼女の親御さんやうちの母さんに見られたらなんて言われるか、想像するだけで恐ろしい。


 明香あすかちゃんは恥ずかしそうに俯いたまま、俺に跨がせていた脚をゆっくり動かすと一旦ベッド脇に腰掛け、つま先からフローリングに降り立った。

 そしてちらっと顔だけをこちらに向けてくる。


「は、悠流はるくんも早く着替えてリビングに来てね。陽子さんがパン買ってくれてるの。飲み物はコーヒーでいい?」


「あ、ありがとう。すぐ行くよ」


 と、そのまま出て行くのかと思ったのだが、部屋の入口近くで立ち止まると明香あすかちゃんはこちらへ振り返る。


 そして、


「学校……もちろん一緒に行く、よね?」


 ちろと窺うよな目を向けられ、咄嗟に「え? あ、あぁ……うん」と答える俺。

 すると明香あすかちゃんはニコッと微笑み、今度こそ部屋を出て行った。


 一方の俺はトタトタとリビングへ向け小さくなってゆく足音を聞きながら、


 少しの間放心していた。



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