17話 安穏(1)
法国歴一〇〇〇年、砂地の交易都市リットゥ。
かつて東の小国は戦争で焦土と化したが、現在は人々の重要な交易拠点として栄えている。馬車や旅商団同士でもすれ違うことの出来る大通りは、両端を露店がびっしりと並び、商いの中心となっていた。
露店に並ぶ八百屋の前で、客の女性が店主と軽快なやり取りをしていて、甲高い声が響いている。
「おばちゃん、ひとつオマケしてくんない?」
「ロミネ! そんな毎日ただで物をやれるかっての! 大人しく支払いな!」
「うー、ばれてた! 仕方ないな~」
「毎度! 次もちゃんと払うんだよ!」
「はぁーい!」
店主と親し気にやり取りを交わしていた女性は、店主に手を振りながら帰路に向かった。梅鼠色の長い髪を三つ編みにして、走る後姿にぽんぽんと跳ねていた。
「よっしょっと、よっしょ……」
梅鼠髪の女性は、リットゥの商店街から出て、住宅地の階段を不器用に降りて行く。両腕で抱える茶色の紙袋のなかで、野菜や果物が転がって、紙袋ががさがさと鳴った。
「あ、ロミネだ! 落ちないように気をつけろよ~!」
「落ちない! 今日は落ちないよ!」
通りすがりの住人にも応援されてしまって、梅鼠髪の女性は苦笑いしながら答える。ロミネ、という名のこの女性、リットゥの住人達にはすっかり名の知れている有名人でもある。おもに、『心配で目が離せない』という意味合いでだが。
軽快に走って行くロミネは、やがて住宅地も通り過ぎて、路地に入っていく。狭い通路を器用に走り抜け、建物裏の影になっている、やや薄暗い空間にこつぜんと扉が現れる。
人目から隠れるようにして存在する部屋。その扉を開いてすぐに、地下へと続く階段がある。ロミネは足を滑らせないよう、慎重に降りて行く。
「た、だ、い、ま~、おお、今日も熱心だね~」
階段がのこり数段になったところで視界が開けて、住居空間が広がる。秘密基地のようになっている地下室の中心で、会議用かにも見える巨大な机に羊皮紙を広げ、黒髪の女性が立っていた。
「……あ、ロミネ。おかえり」
今しがたまで眉間に皺を寄せていた女性は、声をかけられて顔を上げ、ロミネに対し薄く笑う。
「どう? 何かわかった?」
どさり、と紙袋を調理場に置きながら問いかけると、黒髪の女性はふたたび険しい顔になる。
「そうね。ユリアス自体は何も動きがないけど、〝
「えっ? 〝氷喰〟っていうと、《首喰い》の頭領だよね? 表向き王子で、裏では賞金稼ぎ集団を率いてる……」
「そう。目的は分からないけど」
すす、と黒髪の女性の人差し指が羊皮紙のうえを辿る。羊皮紙に描かれているのは、大陸の地図だった。机を覆うほど巨大な地図の紙となると、とても高価なものになる。使い込まれているのだろう、書き込まれた小さな文字や、何かを置いたような跡などですっかり色褪せていた。
「情報元は北部ミスティルテから下ってきた旅商団。最低でも6月は経過してると見て……この町にも入ってるか」
ぶつぶつと喋ってから、黒髪の女性はふたたび顔をあげて、ロミネに向かって声を張り上げた。
「ねえ、ロミネ。明日から外に出る時はできるだけ身を隠して。アンタ有名人だから」
「えーっ? テミスより全然、雑兵なのに? もう覚えてないでしょ!」
返事をしてから、ロミネは女性が立つほうへと向かって歩き出す。
「いや。〝氷喰〟は連合政府の一軍を担っていた男なの。身内には甘いけど敵には情けがない、そのうえ絶対に逃さないと言われていた男だから……油断はできないよ」
真剣な口調で答えた後、黒髪の女性──テミスは、机から身体を離した。ロミネのことを待ち侘びるように、じっと此方へ近づいてくるさまを見つめている。
「そっかあ……分かった。気を付けるね」
ロミネは、テミスの身体に蛇のように腕を這わせて、抱き締めた。テミスの身体から、きい、と軋む音が鳴る。彼女の身体は
テミスは、かつてのノアで妹ルネアと別れたあと、両親の所属していた反政府組織に入団した。やがて頭角を現し、組織すべてを統括するリーダーとして立った。ユリアスが支配する統合政府の実行部隊、つまりは軍勢力と彼女たちは敵対し、熾烈な争いを繰り広げていたのだ。
黒い
反政府組織『アナンシの炎』のリーダーたるテミスを知る者なら、その姿を見ればすぐに彼女と判別できるであろう。
テミスは、ノア人たちが
テミスとロミネのほかにも『アナンシの炎』の仲間たちは眠っているが、数十年単位の長期間を活動できるリウを蓄えられているのは二人だけで、他の仲間はコルヴァに呼応して
テミスは、ユリアスが──妹ルネアの恋人が、自身に敵対する者を捕らえて、強制的に人体強制睡眠保管させて、地表に棄てている。そのうえ眠っている人間の魂までもを【塔】の維持やレ・ユエ・ユアンの隧道生成に使用して、遺体もそのまま放っている──ような、非道で冷徹な人間であることは、両親から知らされていた。
しかし、政治的には敵対組織に甘い対応が出来ないことも理解できたし、妹の幸せな顔を見ていて事実を告げる気にはならなかった。そうして永遠に別れることになった結果、ルネアが苦しんだことをひどく後悔している。だから今度は必ず、ユリアスを止めなければならないと心に誓っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます