第8話
風が吹き、さらさらと木の葉が揺れる。
集中して五感を研ぎ澄ませれば、葉の一枚一枚にまで《核》が見える。
「あとは、そこに剣を当てるだけ」
剣を振り、不規則に揺れる葉を一枚ずつ斬っていく。
余計な力を入れず、ゆっくりと丁寧に――
実際、力を入れすぎた俺の剣が、何度か空を切った。
「五年ぶりで
思わず苦笑が浮かぶ。
《木の葉斬り》――五年前まで、毎朝欠かさず行なっていた日課だ。
小さく不安定な的を狙い、
それを久しぶりに試しているのは、今の実力をはかるためでもあり――
「そろそろ限界か……」
しばらく剣を振り続けるうち、剣を持つ両腕が重くなり、ついにはまったく動かなくなった。
俺は驚くことなく、だらりと両腕を下ろして構えを解く。
「ふむ……飲んでから
《木の葉斬り》をした二つ目の理由。それは、シュカの酒の効果時間をはかるためだ。
フェルドと戦った際、俺は偶然シュカの酒を飲んだおかげで《呪い》から解き放たれ、自由に剣を使えるようになった。
問題は、その効果が一時的に過ぎないことだ。
どのくらい効果が続くのか。それを知りたくなった俺は、《木の葉斬り》ではかることにした。
はかった結果が、約五分。時計などという高価なモノは持っていないため、あくまで俺の体感だが、効果時間の目安と考えて良いだろう。
つまり、俺は一度の飲酒につき約五分間、剣士でいられるというわけだ――
「というか、酒が切れたらすぐ飲めば良いじゃねぇか」
そんな簡単なことになぜ気づかなかったのかと思いながら、俺は手早く徳利を手に取り、ぐびっと
あまりの美味しさに数秒で酔いがまわり、俺は高揚した気分で剣を構えた――が、しかし。
待てど暮らせど、一向に剣を振れる気配がない。
結局、ひと振りもできないまま酔いが覚めてしまった。
「……そううまくはいかないか。剣を一度振ったあとは、ある程度の時間を空けないといけないみたいだな」
思ったよりも大きな制限に眉根を寄せる。
敵と戦った五分後に別の敵に襲われたら、俺は
「まあ、そんときは
第一に考えるべきはシュカの安全で、俺の命は二の次でいい。
現状を整理し、ひとまずの方針をまとめた俺は、剣を布でくるんで左手に持ち、酒を仕込むシュカのもとへと足を向けた。
――――――――――――――――――
「今のところ、順調だね」
「あぁ、だが気を抜くなよ」
王都アルテナから少し南下したあたりに広がる、小規模の樹林。
俺とシュカが今歩いているのは、その小さな森のなかだ。
貧民街を出たあと、夜闇に紛れて黙々と歩き続けた俺たちは、夜が明けた頃に森へと入り、仮眠をとった。
そして仮眠から目覚めたあと、《木の葉斬り》や酒の仕込みなどを経て、俺たちはふたたび歩き始めた。
幸い、ここまでは誰にも出くわすことなく順調に来ている。
しかし、まだ道は果てしなく長い。なにせ――
「目的地は、アドレア公国でいいんだよな?」
「そうだよ。しっかり決めてるわけじゃないけどね」
アドレア公国。広大な《大樹海》のなかに存在するという
確かに、正確な場所すら知られていないアドレア公国ならば、身を隠すには絶好の場所と言える。
だがそこまで辿り着くには、王国を抜け、帝国を縦断して《大樹海》に入り、そのなかで公国を見つけ出さなければならない。
目的地は遥か
今はただ、目の前の課題を一つずつ解決していくしかない。
「何よりもまず、食料を確保しないとな」
俺は、記憶に残っている王国の地図を思い浮かべる。
「このまま行った先、森を抜けてすぐのところに《カタリ村》という村があったはずだ。そこに立ち寄って食料を買い込むつもりだが、それで良いか?」
「うん、良いよ。おにいさんの食料でしょ?」
「あぁ……いや、俺たち二人分のだ」
すると、シュカはきょとんとした顔で言う。
「あれ? 《天恵》を知ってたから、てっきり知ってると思ってたけど……」
「ん、なにをだ?」
「あのね――ヨモリ族は、食事をしないんだよ」
「……は?」
俺は思わず立ち止まった。
「食事をしない? そんなバカな……」
「ほんとだよ。神様の加護のおかげでね、アタシたちは空腹にならないの」
言葉を失う俺の前で、少女は当たり前のように語る。
「それに食事はね、神様の加護に背く《禁忌》だと考えられてるから、ヨモリ族が何かを食べることなんてありえないんだ」
だから、アタシの分の食料は必要ないよ――と言うシュカの赤い瞳から、俺は目をそらした。
俺はヨモリ族に対して、他の王国民のような偏見や嫌悪感を抱いていない。むしろ、互いに友好的になるべきだと考えている。
しかし。
『神の壁』の向こう側から現れ、神から与えられた超常の力を操るというヨモリ族が、さらには食事を一切とらずに生きている――と知って。
ふと思った。思ってしまった。
妖魔と呼ばれるのも、無理はないのかもしれないな……と。
―――――――――――――――――――
それから一時間ほど歩いて、俺たちは森を抜けた。
と同時に、視界の向こうに粗末な
「あれが、カタリ村……良い村だね」
「そうだな」
のどかな風景だ。村の周りには畑や果樹園が広がっていて、ぽつりぽつりと人影も見える。
「食べ物が手に入ると良いけど……」
「俺の記憶が正しければ、カタリ村は干し肉作りで有名な村だ。干し肉が手に入れば上々だろ」
「へぇ、そうなんだ。おにいさん、色々詳しいね」
「まあ、ある程度はな」
王国内の地理は、だいたい頭に入っている。五年前までの職務に深く関わっているからだ。
隣を歩くシュカは、なにか聞きたそうな顔をしつつも黙っていた。俺の過去に触れないように気をつけているのだろう。
俺が五年前まで何をしていたのか――別に話してもいいのだが、聞かれてもないのに話すような内容ではない。
それに俺は、たがいに過去を
雑草だらけの静かな道を、シュカの小さな歩幅にあわせてゆっくりと歩く。
村の入り口に近づいてきたところで、俺はシュカに耳打ちした。
「ローブを深くかぶって、なるべく下を向いとけ。顔が見えないようにな」
「うん、わかった」
ヨモリ族が農村でどんな扱いを受けるかは分からない。ただ、用心するに越したことはないだろう。
俺の指示通りに顔を隠したシュカを連れて、村に入る。
できるだけ早く食料を調達して、さっさと出発するつもりだ。
干し肉を扱う露店かなにかが見つかるといいが……
「あんたたち、見ない顔だね。うちの村に何の用だい?」
周囲を見回していると、一人の村民から声をかけられた。
よく日焼けした、がたいのいい妙齢の女だ。
いぶかしげに見てくる彼女に、俺は手元の剣を掲げた。
「俺は傭兵をやってる者だ。職を探すために子供を連れて王都を出たんだが、食料を買うのを失念してな。この村に寄らせてもらった」
あらかじめ考えてあった嘘のいきさつを話すと、
「ほへぇ、傭兵さんだったのかい。子連れじゃあ苦労するだろうねぇ」
彼女はすぐに信じた様子で、哀れむような目を向けてきた。
「まあ苦労はするが、そのぶん働きがいもあるさ。こいつは俺の子にしては出来た子だしな。人見知りで、こんな風に顔を隠したがるんだが、今も俺の酒樽を持ってくれてる」
自分の子どもに見えるようにシュカの頭を撫でると、村民の女はにっこりと笑った。
「あんた、良い父親だねぇ。そんで、食料が欲しいんだっけか。よしっ、このジェイラに任せな。あたしゃ干し肉の加工をやってるからね。新鮮なの持ってきてやるよ。欲しいのは何日分だい?」
ずいぶんと親切な村民だ。俺は内心驚きながら、
「これで買えるだけほしいんだが……」
「銀貨一枚……一週間分くらいだね。わかった。、今すぐに持ってきてやるよ」
そう言って、ジェイラは自分の家に入っていく。その大きな後ろ姿を見送りながら、俺は思わぬ幸運に感謝した。
最初に出会ったのが、彼女で助かった。
期待していた干し肉を、きちんと適正価格で売ってくれるとは。
しかも彼女は、顔を隠しているシュカを疑いもしていなかった。
正直、うまく行きすぎて怖いくらいだ。
「はいはい、持ってきたよ。兎肉と猪肉の干したやつ、ちゃんと一週間分ね」
家から布袋を担いで現れたジェイラに、銀貨を渡し、袋を受けとる。
なかを一応確認したが、確かに一週間分くらいの美味そうな肉が入っていた。酒によく合いそうだ。
「ありがとう、助かった」
「いいんだよ、困ったときはお互い様さ」
相変わらず気の良い笑顔を浮かべる彼女。最初に嘘をついたのが申し訳なくなってくる。
「これからどこに向かうんだい?」
「《メンリダル》を目指すつもりだ」
これは本当のことだ。
王国の中央付近に位置する、
住んでいたから分かるが、貧民街は一時的に身を隠すのに格好の場所だ。
そんな俺の内情を知らないジェイラは、やっぱりねと笑った。
「そうだと思ったよ。あそこは交易も盛んだし、傭兵の働き口も多いだろうからね」
「お見通しだったか」
「まあね。そんじゃあ、あんたが職を見つけられるように祈っとくよ」
結局、彼女は最後まで親切だった。
また来ておくれ――と手を振る彼女に頭を下げて、背を向ける。
荷物は増えたが、足は軽くなった気分だ。
少しでも親子に見えるように、ひょこひょこと歩くシュカの小さな手を引いて、俺はカタリ村をあとにした。
カタリ村の入り口で。
小さくなっていく二人の影を見送ってから、ジェイラはニヤリと唇を歪めた。
「さぁて、さっさと騎士団に通報するかね」
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