第7話

 【シュカ 視点】



 シュカは、初めてに意識を取り戻した。


 (なに、この匂い………すごく……)


 嗅いだだけで身体の芯が凍りつくような、おぞましいを感じる匂い。


 まるで神様にでも出くわしたかのようだ。


 意識は戻っても、その恐怖で目がひらけない。


「てめぇ、何やった?」


 フェルドの威嚇いかくするような声が、すぐ近くから聞こえる。


 (えっ、いったい何が起きてるの……)


 状況が分からず、戸惑うシュカ。


 少しでも現状を把握しようと薄目をひらきかけたとき、


 (ち、ちかづいてきてるっ!)


 ぞわりと、鳥肌がたった。


 恐怖の匂いが、だんだんと濃くなる。


 恐ろしく強い何者かが、少しずつ近づいているのだ。


 フェルドの口から歯ぎしりが漏れる。


 刹那せつな、発火の匂いが鼻を抜けて、シュカは内心で激しく動揺した。


 (えっ……もしかして、《シンの天恵》を解放してるのっ!?)


 頻繁ひんばんに伝わる、肌を焼くような熱風。


 間違いない。フェルドは今、《天恵》の炎を連発している。


 シュカからすれば、にわかには信じられないことだった。


 門外不出であるはずの《シンの天恵》を、フェルドが当然のように使っていることも。


 それだけ《シンの天恵》を多用してなお、フェルドが相手を仕留められていないことも……


 (おにいさん、無事だといいけど……)


 フェルドというバケモノと、それを凌駕りょうがしうるバケモノの戦い。


 何がどうなってこうなったのか、シュカには分からない。


 恐怖で目をつぶっているから、今なにが起きているかも正確には分からない。


 シュカにできるのは、戦う力のないが巻き込まれていないことを願うのみだ。


 どうか運良く逃げていてほしい――と祈っていると、フェルドが何やら毒づき、シュカを地面に転がした。


 (あっ、相手を殴り殺すつもりだ……)


 シュカは知っている。フェルドがその拳一発で鋼鉄に穴を空けられることを。


 それでも、シュカはフェルドの敗北を予見した。


 見なくてもわかる。この匂いの主は、強さの格が違う。


 すぐ近くにまで迫った恐ろしい匂いにシュカが怯えるなか、「くたばれや」とフェルドの叫び声が響き、一瞬の間に何かが起きてーー


 (予想通りだ……フェルドの命が消えていく……)


 フェルドの動きが途絶え、彼のが薄くなり、やがて完全に消え去った。


 フェルドが負けて、死んだ。


 (《狩人》の上位が、こんな簡単に殺されるなんて……)


 彼の死を予想していたとはいえ、シュカは驚きを隠せなかった。


 ヨナト国の精鋭である《狩人》の、それも位階八位の《決闘狂い》フェルドが瞬殺された。


 相手が異常に強いことは、ヨモリ族ならば誰にでも分かる。


 (次は、アタシが狙われるのかな……)


 逃げなきゃ、と思っても身体が動かない。


 死んだふりでごまかせるような相手とも思えない。


 とてつもない恐怖のなか、シュカはどうにかやり過ごそうと身体を硬直させて――


「思ったより、あっけない終わりだったな」


 よく知った声に、思わず目を見開いた。


 見慣れたひげ面に、薄汚れた着流し。


 血濡れた剣を片手に独り言を漏らしているのは、まぎれもなくだった。


 (えっ……でも……なんで? おにいさんは戦えないはず。それに、匂いがぜんぜんちがうし……)


 見たことのない冷徹な表情で剣をぬぐう彼の姿は、シュカが知るの姿にまったく重ならない。


 そもそもさっきまでは、こんな暴力的な匂いなんてまとっていなかった。


 (外見は同じなのに、別人になっちゃったみたい)


 彼はシュカの目覚めに気づくことなく、こちらに背を向けて歩き出し、燃え盛る炎の前で立ち止まる。


 シュカが見守るなか、彼はわずかに剣を引いて構え、すぅっと静かに振り抜いた。


 そして、炎が切れた。


 (えっ、火を斬ったっ!?)


 驚くもなく、彼はするりするりと立ち位置を変え、淡々と炎を斬っていく。


 まるで、当たり前のことをしているかのように……


 シュカは、その太刀筋に見とれていた。


 (きれい……)


 極限まで無駄ムダが削られた、まさに実戦の剣。


 無骨なれど、美しい。


 シュカは困惑と恐怖と感嘆が入り混じった不思議な感情を抱きながら、彼の剣技に釘付けになっていた。


 その剣が振るわれるたび、炎が存在を失い、部屋が暗くなる。


 最初は部屋の半分を覆う勢いだった火の海が、あっという間に鎮火されていき、残すはあと少しとなったーーところで。


 彼の身体が、急に固まった。


 (えっ、どうしたんだろ?)


 剣を振り上げた姿勢で動かなくなった彼に、シュカは首をひねる。


 時を同じくして――


 (あれっ、匂わなくなった!?)


 彼から届いていた殺気まがいの匂いが、急にまったく届かなくなった。


 そして、シュカがこの家まで辿ってきたの匂いが戻ってくる。


 (どこか安心する匂い……よかった)


 身体をこわばらせていた緊張感がほぐれる。


 シュカはその人畜無害じんちくむがいそうな匂いに安堵あんどしたあと、しかし目の前の光景に気を動転させた。


 「おにいさん、火がっ!」


 なぜか火の近くで立ち止まり、思案にくれる彼に、当然のごとく襲いくる炎。


 シュカはあわてて辺りを見渡し、水甕みずがめを見つけて立ち上がる。


 具体的な解決策は、何一つ浮かんでいない。


 彼女はただ一心不乱に、ふらつく体を投げうって水甕みずがめに走り寄ると、


 (重いっ……けど、おにいさんを助けなきゃ!)


 それを必死に抱え上げ、ふらふらと火のもとへ運び、


「よけてっ!」


「うおっ」


 最後は、水甕みずがめもろとも倒れこむように水をぶちまけた。




―――――――――――――――――――


 【グレン視点】



「良い知らせと、悪い知らせと、悪い知らせがある。どれから聞きたい?」


「数が多いし、悪い知らせから……かな」


 シュカが訪ねてきて、フェルドと戦い、火を斬って――色々あったすえ、シュカの水かけで命を救われたあと。


 フェルドの死体をひとまずからになった水甕に突っ込んでから、俺とシュカは再び向かい合って座った。


 生活用水のための水甕みずがめが使えなくなってしまったが、何も問題はない。


 もはや、この家には住めないのだから。


「悪い知らせの一つは、この家が焼け焦げたことだ。見れば分かるだろうが、あいつの迷惑な炎のせいで壁に穴が空き、大事な柱も炭になった。この家はもう廃墟はいきょも同然だ」


 燃やされた木壁には大穴が空いて吹きさらしと化し、ひんやりとした外気が流れ込んでくる。


 家の支柱に至っては、ほとんどが炭化したせいで柱の意味をなしていない。


 ただでさえ貧民街の家という時点で、耐久性に難があるのだ。


 今回の被害に目をつむって住み続けたとしても、数日後には家ごと潰れてしまいかねない。


 くわえて、


「悪い知らせの二つ目は、俺の食料調達が絶たれたことだ。俺は平民街に入れないから、今までは《契約》で他の人に調達を頼んでたんだけどな。によれば、俺はその伝手を失ったらしい」


 つまり、俺は貧民街での住む場所と食べ物――衣食住のうち二つを失ったわけだ。


 二つの悪い知らせを伝え終えると、話の方向を掴めないという表情をしたシュカが、


「悪い知らせ……って言ってたけどさ。どっちもおにいさんの話じゃない?」


「あぁ、そうだ。完全に俺個人の話で、シュカに関係はない。ここまではな」


 俺は返答に含みを持たせる。


 大事なのは、ここからの話だ。


「シュカにも実演したとおり、俺は五年前にかけられた《呪い》のせいで剣を振ることができない――はずだった」


「でも、さっきまで……」


「ああ。俺は一時的にだが、五年前までの剣を取り戻した。それが良い知らせだ。そして考えるに、俺が剣を取り戻せた理由は――その酒だ」


 対面の座る少女に背負われた、を指差す。


「アタシの、お酒?」


「そう考えるのが自然だろう。剣を使えるようになる直前、俺はその酒を飲んでいた。他に心当たりもないしな」


 シュカの酒を飲んだことで《呪い》が弱まり、剣を使えるようになった。


 因果関係は不明だが、感覚的にはこの考察が一番しっくりくる。


「シュカの酒は、たぶん普通の酒じゃない……よな? なにか秘密があるんじゃないか?」


 たずねると、シュカは視線をさまよわせた。


「……うん、秘密はあるよ。おにいさんの《呪い》と関係しているかは、わからないけど……」


 酒の秘密について話すべきか――ひどく迷っている様子のシュカを、俺は手で制する。


「無理に言わなくてもいい。シュカの酒には秘密があって、それを飲めば俺は剣を振れる。それさえ分かれば十分だ」


 シュカの酒があれば、俺は剣士になれる。剣士として働ける。


 その事実だけで、先に告げた二つの悪い知らせも、そこまで悪いものではなくなる。


「俺は家も食い物も失って、貧民街で生きていくのは難しくなった。だからシュカと同じように、この街を出ていかなきゃいけない」


 現状を一つ一つ整理するように、俺は丁寧に説明し始めた。


 その真意に早くも気づいたシュカが、目を輝かせて口を開く。


「アタシは護衛を探していて、おにいさんは『戦えないから』と断ったけど……」


「シュカの酒があれば、俺は剣士になれる。実力は、少なくとも追っ手の一人を倒せるくらいか。護衛として、不足はないはずだ」


「……でも、おにいさんはそれで良いの?」


 ほとんど決まった結論に向かって話が進むなかで、シュカの表情が曇る。


「アタシ、まさか上位の《狩人》に追われてるとは思ってなかったの。アタシが思ってたよりずっと、おにいさんの負担が大きくなっちゃうかもしれない……」


 確かに、フェルドの《天恵》とやらは異常だった。


 俺の勝利は、彼の未熟さに助けられた面もある。もっと練達れんたつの《狩人》が相手ならば、苦闘になるのは明らかだ。


 それでも――


「それでも、俺はシュカの依頼を受けるつもりだ。いや――」


 俺は一度、彼女の依頼を断っている。


 だから今度は、俺が契約を頼む側だ。


「俺を、護衛として雇ってくれ」


「……わかった。報酬は、お酒でいい?」


「シュカの酒を好きなだけ飲めるんだろ。最高の報酬だよ。さっそくもらえるか?」


 そう言って徳利を手渡した俺に、シュカはきょとんとしたあと、毒気の抜けた顔で笑った。


「おにいさんは、ほんとにお酒が好きだね」



―――――――――――――――――――




「もうすぐ貧民街を出る。王都の夜警に気づかれないようにな」


「わかった」


 あと数刻で夜が明ける。そんな時分に、俺たちは貧民街の暗く狭い道を足早に歩いていた。


 フェルドを倒したとはいえ、できるだけ早く貧民街を出たい――というシュカの意見に、俺は全面的に従った。


 さいわい俺の荷物はほとんどなく、出発準備はすぐに終わった。


 腰に吊るした剣。左手につかんだ徳利とっくり。そして、懐に忍ばせた少しの小銭と四枚の金貨。


 一枚は家に置いてきた。大家のおっさんへの詫び代だ。


 シュカの持ち物も、衣類を入れた小包と酒樽のみ。俺たちはすぐに用意を済ませ、夜闇に溶け込むようにボロ家を後にした。


 道中どうちゅう、暗闇のなかでシュカの瞳が赤く輝く。


 暗い道の先を、固い表情で見据みすえている――その眼光の奥には、大きな不安が透けて見えた。


 見知らぬ新天地への旅。いつ攻めてくるか分からない追っ手。


 まだとしもいかない少女に課された、あまりにも重い試練。


 その重みをやわらげるように、俺は彼女の頭を軽く叩いた。


「安心できるかは分からないが、俺がついてる。道を阻むものは全部斬ってやるよ」


「……ありがと」


 照れてうつむいた彼女に、俺は口角をあげる。


 彼女がなぜ追われているのか、その事情は分からない。知る必要もない。


 俺はただ、彼女の未来をひらくだけだ。


 一寸先の暗闇をにらみながら、最高に重い徳利とっくりをひとでして、俺はさらに口角を吊り上げた。


 かかってこい。かたぱしから斬ってやる。


 すべては、美味い酒を飲み続けるために――


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る