大人気アイドルの引退

 自宅に戻った俺は2階の自分の部屋へと上がる。そして学生鞄を置いて制服を脱ぎ、部屋着に着替えるとベッドに横になった。


 窓からは春のポカポカとした陽気が差し込んで非常に心地が良い。


 春は眠たくなる季節だ。冬の厳しい寒さが過ぎ去って暖かくなり、人が生活するのにちょうど良い気温になったせいだろう。


 俺は6限目の授業中も寝ていたにもかかわらず、またもや夢の世界へと旅立って行った。



○○〇



「んん? もう夜か?」


 再び目覚めると窓の外は暗くなっていた。俺は目をこすりながら壁に掛けてある時計を見る。時計の針は19時ちょうどを指していた。


 下の階からは「ジュージュー」という何かを焼く音と香ばしい香りが漂って来ている。ウチの家ではそろそろ夕食の時間だ。俺はカーテンを閉めると夕飯を食べるべく下の階に降りて行った。


 1階のリビングに降りると妹が大音量でTVを見ていた。あまりにTVの音がうるさかったので、俺は彼女に音量を下げるように注意した。


「ちょっと待ってアニキ、今陽菜ひなちゃんの引退会見やってんの!」


「引退かなんか知らんがうるさい。もうちょっと音量下げてもいいだろ…」


 俺はテーブルの上に置いてあったチャンネルを掴むとTVの音量を下げる。


「ああー! このクソアニキ! 声が小さくて聞こえないじゃない! あの陽菜ちゃんの引退会見なんだよ!」


「知らんがな…」


 無理やり音量を下げた俺にふてくされた表情で文句を言ってくるのは妹である長岡小夜ながおかさよ。俺とは4歳差で今年中学2年生になる。


 このように反抗期真っ盛りで俺の言う事など全然聞かない。…昔は「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」って俺の後にくっついて来て可愛かったのにな。


「アニキは陰キャだから流行の物とか全然興味ないもんね。だからそんな平然としていられるんだよ! これは世間を揺るがすビックニュースだよ! 話題性で言うなら総理大臣が『俺、今日で総理辞めっから!』って言うのと同じくらいの話題度だよ!」


「何その微妙な例え…」


 確かに俺は陰キャ故に流行の物はあまり知らない。世間で流行っている歌や芸能人、Youtuberとかも知らない。知っている物と言えばアニメやゲームぐらいだ。


 それにしても時事問題に興味のない妹がここまで大騒ぎするとは珍しい。今TVで流れているのはそれほどまでに重要なニュースなのだろうか? 


 誰かが引退するとか言っていたな。


 少し興味をそそられた俺はTVの画面を見る。するとそこには画面の下に大きな文字で「緊急記者会見 『煌めき小町』のセンター・京町陽菜きょうまちひな 引退」と書かれていた。


 京町陽菜? 誰だ…?


 俺が誰だか分からないというような顔をしていると、妹が呆れた顔をして話しかけてきた。


「アニキやっぱり知らないんだ…。『煌めき小町』の陽菜ちゃん」


「なんだそのきらめきなんちゃらってのは?」


「『煌めき小町』! 今巷で大人気のアイドルユニットだよ! CDを出せば数十万枚売れるのは当たり前! Youtubeで最新曲のPV再生数は1億再生を越え、ドームでライブすればあっという間に客席が埋まる。そんなスーパーアイドルユニットだよ! アニキも『太陽の初恋』ぐらいは聞いた事があるでしょ?」


 『太陽の初恋』? うーん…名前はなんか聞いた覚えがあるような?


 俺が思い出そうとしていると妹が曲のメロディを口ずさんだ。


 あぁ! 思い出した。その曲は俺も聞き覚えがある。ドラマかなんかの主題歌で使われた曲で去年日本で1番売れた曲らしい。


「で、そのアイドルユニットの子が引退するのか?」


「陽菜ちゃん! 『煌めき小町』のセンターで圧倒的1番人気の娘だよ! ちなみに去年の日本アイドル大賞・最優秀賞。アイドル活動だけじゃなくてドラマにも結構出てて、これからを有望視されていた娘だったのに…いきなり引退しちゃったんだよ! 私も陽菜ちゃんのファッションとか凄く参考にしてたのに…」


「ふーん…」


 TVで記者の質問に答えている娘を見ると、なるほどアイドルをしているだけあって可愛い容姿をしていた。


 腰まで伸ばした茶髪ロング、頭のてっぺんにはぴょこんと1本の長いアホ毛が生えている。目はパッチリと二重で大きく、その曇りのない黒い瞳は意思の強さを感じさせた。


 背は160ないぐらいだろうか? 女性の平均程度と言った身長である。スタイルの方は芸能人らしくかなりのプロポーションをしているようで、TVの前からでもそのスタイルの良さを確認できるぐらいには素晴らかった。


 しばらくの間俺は妹と一緒にそのアイドルの記者会見を眺めていたのだが…彼女がユニットで1番人気という妹の言葉を理解できた。


 なんというか…愛嬌が半端ないのだ。天然なのか計算されたモノなのかは知らないが、そのキュートな声、チャーミングな仕草、可愛らしい言葉の使い方。どこをとっても見る者に愛くるしさを感じさせるのである。


 通常であれば…人はあまりにも綺麗なものにはある種の近寄りがたさを感じてしまうものだが、彼女は持ち前の愛嬌によってそれを補っているのだ。


 可愛くて親しみやすい。こんな娘が人気が出ないはずがないであろう。


 …でもこの娘の顔、前にどっかで見たような? うーん…思い出せない。


 まぁいいか。芸能人なんだから多分CMか何かで見たんだろう。


 しかし芸能活動が順調だったのに突然引退か。何かあったのかな?


 俺と妹はリビングのソファに座りながら引き続きその記者会見を見る。


『陽菜さんは今回芸能界を引退なさるという事で…引退なさるからには相応の理由があると思うのですが、その理由は何でしょうか?』


 隣に座る妹は記者の質問にソファから身を乗り出してTVの画面を見つめる。


 そこが1番気になる所だよな。


 記者に質問された京町陽菜は数秒の沈黙の後、少し頬を赤らめて答えた。


『はい! 幼い頃にした約束を果たしに行きます!』


「「???」」


 俺と妹はその答えを聞いて揃って首を傾げた。どういう意味だろうか?


 記者陣も同じ事を思ったようで怪訝な顔をしていた。記者陣が更に京町陽菜に質問をしようと追い打ちをかけるが、彼女のマネージャーらしき人物が出て来て強引に記者会見を終わらせた。


「2人共ー! 御飯よー?」


 そこで俺たちを呼ぶ母親の声が聞こえた。晩御飯ができたのだろう。俺はそれ以上TVに興味はなかったので食堂の方に移動した。



◇◇◇



おそらく予想している方もいると思いますが「京町陽菜」は芸名です。本名は…

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