一.終わりの日

 世界が言う。自分の名前よりも、役目と身分とが先行して名前になってしまう。それが生きづらさでもあり、生きるということなのだ。

「……兄さん、苦しいよ」

 半分開けた扉から聞こえた尚の声。煙草の煙が雨雲を連れて来たように暗く重くなる空。嵐の起こる前の静けさのように、静かにそれは忍び寄っていた。雨から身を守るのは屋根。屋根は降ってくるものから身を守ってやれる。だからそれになろうとした。相棒で後輩だったアイツが最期まで気にしていた心残り。紆余曲折し、結局独りになってしまった妹である尚を守ってやるために。気ままに逃避していたい人生の穴だが辞めようとはしたことはない。しかし近いうちに破られてしまうだろう。屋根は永遠では無い。永遠では無いからこそ、守ってやれる今は守ってやりたい。

「尚、大丈夫か?」

「……あははっ。何、信一しんいちさん」

 尚は乱雑に袖で目を擦ると顔を上げた。その顔は笑っているが、目は充血していた。心配が顔に出ていたのか、尚が慌てたように言葉を継いだ。

「ごめんなさい、逃げて。世界は非情に進んでいく。だから泣いてる暇なんて無いんだよね。」

「謝るな。お前の兄さんの時にも言ったが、時には立ち止まって泣くことも大事だよ。お前の兄さんみたいに何があっても守ってやる、なんてかっこいい事は言えないが……お前は独りじゃねぇよ、安心しな。お前の友人たちが、政界の古狸どもが、速水伯代理、速水伯と呼ぼうとも俺だけは尚と呼ぶ。……何で目を剥いてんだ?俺にしてはかっこよすぎたか?」

「いや……そうじゃない。そうじゃないよ。私は未だに兄さんや遠方の地に居る肉親のことを思い出して切なくなる。私は弱い。だけど、うん。ありがとう。信一さんが隣に居てくれて良かった。また頑張る」

「そうね。だけど、人間は弱い生き物だ。弱くていいんだよ。弱いから支え合うんだ。お前は気負い過ぎ。頑張らないくらいが丁度良い。気楽に、楽観視してな。……はい、人生相談はここまで。雨降りそうだったからお嬢様とお坊ちゃんたちは帰したよ。それと、色々あったけど今日も通常通り営業する。人生相談の続きは営業終わりに。今日もよろしくね、尚」

 ——人間は終わりを予見していても、終わることは夢のように思ってしまうのです。通常通りが通常ではなくなる。無常が常。それが世の理。

 数日後、東京府大学文学部。

 ——「特権階級出身の若者たちが通う學修院の大学」から「何者でも無い東京府大学」への転学者、そして「エリートの英文学科」から「堕落者の文学部」への転科者のため遠目にされております。また教員陣からも「触らぬ神に祟り無し」にされております。東京府大学文学部国文学科三年の同士である不破と速水。二人は元からの仲もあり、行動を共にすることが多いのであります。周囲から距離を置かれており、講義の席でも不自然なほどに周りには人が居りません。

 親父とは相容れない場面が多くて衝突は日常茶飯事。どう足掻いてもその状況が変わる事は無く、俺はいつしか吹っ切れて自由に生きるようになっていた。学校も例外ではない。學修院という特権階級出身の若者たちが通う学校に嫡男でも無い俺がどうして通うのか、と疑問に思っていた。そんな数年前のある日、事件が起きた。府の都市部が地獄絵図と化した、都市部暴動事件。日が経つにつれて明らかになった速水伯爵家の顛末。嫡男が亡くなり、速水伯爵と伯爵夫人が病み府を離れ、独り残った娘が嫡子と速水伯代理となった。その後、友人である速水尚と再会。そこには華族然の見る陰もない、落魄を振る舞う速水が居た。速水が「転学する」と言ったのを契機に、「弱くなった速水に付け入る隙を作る」を口実に許可が下りる前に速水と共に転学した。本音は、「學修院に通いたくない」だが。

 そんなこともありつつ時は流れ現在。適当に講義を聞き流し、講義中は隣の席で机に伏して眠りこける速水の面倒を見る。そんな大学生活に慣れていた。だが、不思議なことに講義中であるのにも関わらず速水が起きていて、驚きの表情が隠せていないことが自分でも分かる。そんな今日。教員の声に紛れながら、小声で話しかける。

「おい、速水。どうした、寝なくて良いのか?」

「……本当は寝たい」

 速水は呆然と窓外を見たまま、ただ淡々と答える。

「それなのに寝ないのか」

「うん。色々と……気が張って。どうしてだろうね?」

 速水の目がこっちを向いて、目が合った。話に本腰を入れると、講義の声は更に遠くなった。

「聞くなよ、分かんねぇし。分かってたら聞いてねぇよ。だから教えろ」

「確かにそうだね。良いよ、教える。最近、政府の重要機関に爆破予告届いたり、実際に政府御用達の工場とかが爆破する事件が起きてるでしょ。それが気掛かりなんだ。信一さんとも不穏だね、って話してる」

「あぁ、それか。俺のお偉い父親もあれこれ言ってたな。やっぱお前は……速水伯代理としてか?」

「それだね。没落華族だからって知らないフリして、それで最悪な状況になったら手詰めになって何も出来なくなる」

「最悪な状況って?」

「それは最悪な状況だよ。その状況ってやつは分からないから、神のみぞ知るってね」

 速水が薄らと笑みを浮かべた。これ以上を聞かせる気はない、らしい。だから身を引く。

「……そうか。まぁ無理すんなよ。お前が倒れたら元も子もねぇから。何かあったら言えよ、やれることは少ないだろうが」

「ははっ、ありがとう。覚えとく」

 速水のこれは建前。そんなことは分かりきっている。覚えていたとしても、俺は名前と身分だけしか持たない。何も出来ない、二番目の子。だけど、同い年であるのに重役を背負うコイツの前でヘタレにはなれないから。

「おー、覚えとけ。不破って言う家じゃなくて、太志って言う俺個人をな」

 空元気に言うしかなかった。片桐の立場だったら、もう少し何かが違ったのかもしれない。これは数年前の事件から何度も思っていること。そんな空虚な思考は消えることを知らないようだった。

 同日、學修院大学文学部。

 ——特権階級出身の若者たちが通う教育機関「學修院」。一流の設備と教員らが揃う、お金持ちのための学舎であります。ここに集う者は皆、特権階級という身分に忠実。そして、品行方正という言葉が似合う者たちばかりであります。

 私は言わば「レール上の人生」という奴なのでしょう。周囲とは大差無い、いや周囲よりも裕福な家で育っています。その上、二人の兄と一人の姉が居る末っ子。使用人が何でもやってくれて何不自由無く育ってきました。そんなこともあり、家に役立つことがしたくて、家のために動いています。私は家の政略に微力ながら重要な務めを御父様任されています。その任務こそが、「政治的にも利用価値のある速水家を身内に引き入れるために弱みを握ること」です。ただ、速水家の伯爵代理である尚ちゃんは大親友。だから、心苦しく思っている部分もあるのが事実です。しかし、身内にしてしまえば関係ない、とも思うのです。

 現在、私は文学部棟に居るはずの片桐を探しています。家同士のこともあり、片桐は私を快くは思っていないでしょう。ですが、そんなこと言っていられる状況ではないので致し方ありません。片桐は仏国留学していたこともあり留年し、周囲から年長者であることを理由に一線を引かれています。そのため片桐と同学年の誰に聞いても所在は掴めませんでした。だから探し回っていたのですが、見つかりません。そうして諦め掛けて覗いたひっそりとした資料室で、片桐がたくさんの本と睨めっこして筆を動かしていました。私は少し緊張しながら、静かに側に寄って話し掛ける。

「か、片桐。少しいいですか?」

 片桐はゆっくりと顔を上げて、不思議そうな顔で私を見ると声を出した。

「大丈夫ですよ。どうしました?」

「あ、えっと……その……」

 片桐を前にすると、途端に緊張してきて、診察を受けているような感覚になる。私は頭が真っ白になりかけて、言葉に詰まる。

「勘解さん、座ってください。立ち話だと話しにくいですから」

 そう優しくて言って、自身の隣の椅子を引いてくれた。この人は私を快く思っていないのか、そうでないのか、たまに良く分からなくなる。いや、今はそんなことどうでもいい。私は示された椅子に素直に座る。

「ありがとうございます。あの、えっと……」

「最近多発している爆破事件について、ですか?」

「……!そ、そうです。あの、どうして?」

「あなたが私に話しに来る場合の大半は、大きな何かでしょう。私ではあの二人のように話の合わない場合も多いですからね。更に言えば、速水さんが心配なのでは?」

「お、お見通し、じゃないですか……。流石ですね。あの、家のことは関係なくて。ただ、先の都市部暴動事件と結びつけられて、尚ちゃんがこれ以上に尚ちゃんじゃなくなったりしないかな、って。……あ、あの日本語が下手ですけど」

「良いですよ、伝わっています。責任不善などの責任を問われたりはしていないようですが、先の事件で特務部隊の在り方や速水家が変わってしまったのは間違いないです。その上、速水家は政治的利用価値がありますから、何処かの家のように、政略しようとする動きが見られてもおかしくはありませんよね」

「……えぇっと、しかし、詳細ですね」

「あなたと同じく、私も他人事には出来ないのです。家のことは置いて、友人として心配しています。今日もまた、同じ場所で会うでしょう?その際に、さりげなく聞いてみては?」

 同日夕刻、東京駅。

 學修院から東京駅までの送迎バスを降りると、いつものように不破君と速水さんが自転車に跨りそこに居る。礼儀正しく挨拶をする子女たちの合間を抜けて、

「お帰りなさい。不破君、速水さん」

と、変わらぬ挨拶をする。

「お、ただいま。そしてお疲れ、片桐!」

「お疲れ様です、晶さん」

 不破君は相変わらず元気に挨拶をした。だが、いつもぐったりとしている速水さんは、不可解にはっきりとした意識を持って、軽く頭を下げた。それをこの目で見た時、何かが壊れた音がした気がした。帰路の当たり前の光景に変わってほしいと思ったことはない。だが、初めて終わりを予期した。

「……り、片桐!」

「あ、はい……」

 気が付けば不破君に名を呼ばれていた。私は呆然としていたようで、速水さんも不破君に釣られたようでこちらを見ていた。私はその状況に慌てて、

「すみません、少しぼんやりとしていたみたいで」

「片桐も無理すんなよ。特にアンタは身体が弱いんだから」

「そうですね。心配を掛けぬようしっかり休みます」

「そうしてよ。そんな状況じゃねぇと思うけど」

 そう、本当にそんな状況ではない。不破君に注意を受けるさなか気が付いたが、學修院生の大半が散っているのに勘解さんがここに来ていない。

「勘解は迎えの車で帰りました。最近不穏だから、と家が迎えを寄越したそうです。晶さんの意識が無い時に言伝が来ました」

「そうですか。ありがとうございます、教えてくれて」

 大学で勘解さんに言った、速水さんの安否確認は私がする以外の手段は潰えた。家の言伝を通して、言える内容では無いことは察して分かる。それを聞くために、言葉を継ぐ。

「速水さん。大丈夫ですか、家や貴女は」

「……あぁ、まぁ気掛かりです。穴だらけで、常に付け入る隙を与えているようなものですから。ですが、何とかして見せます。そうじゃなきゃ、速水伯爵代理なんて名乗れません」

「そう……頑張って。」

 嘘と嘘、その上塗りを繰り返す。上辺だけの、政界と同じ。家のせいで、結局言いたいことは皆言えない。「頑張って」ではなくて「何かある前に言って」と、そう言えれば、何かが違うはずなのに。この会話を聞いていた不破君も口が縫い合わされてしまったようで、ただ眉に皺を寄せていた。沈黙に落ちた場を、上擦った速水さんの声が響く。

「晶さん、不破。送るから、帰ろう。二人に何かあったら、今度こそ……いや、何も。護衛するから、帰ろう。私は大丈夫。何とかする」

 今度こそ……なんだろうか。恐らく、「速水という家が終わる」だろうな。「護衛する」と言えるならば、まだ武官家系というのが潰えていない。没落してもずっと、修練を続けているのだろう。そんなことを考えながら、三人で帰路に就いた。

 ——世界というものは非常に非情で、彼彼女らの不安を現実へと化したのでありました。翌日、早朝。腰に下げるサーベルと、一寸の狂いもなく着こなされた軍服。重役やその他下位が揃う荘厳な会議室。そこには、この場に似合わない下下のなりをした速水伯爵代理の速水尚と谷崎信一が居り、帝国陸軍人たちから注目の的にされておりました。これは軍務省が行う最重要の審問であります。

 口にしたことは現実になる、とは言うものだと独り思う。これまでの不安を隠しきれていなかった我が身を蔑みつつ。今朝、私と信一さんの眼前へ「任意出頭要請」という名の「強制出頭命令」を出してきた帝国陸軍人たちを見回す。妙に統率と言う名の制御があるこの場に、ただ独りだったら動揺に緊張をするだろう。だが、隣に呆れた表情で慣れた様子の信一さんが居るからだろうか。それとも、ただの虎の威を借りる狐なのか。分からないが、不思議と緊張や不安などは無く、ただ平然とした心持ちで私はここに立っていた。まもなくして、帝国陸軍の人間が口を開いて、面倒な身分を振る舞う審問が始まった。

「それでは、速水伯爵代理。さっそくではありますが吐いていただきましょう」

「吐く、ですか?出せるものなどありませんよ、何も入っておりません故」

「白を切るおつもりですか?」

「白を切るも何も、何のお話ですか?話せという前に審問の概要を述べてください」

「ふむ……。最近多発し、現在も首謀者らの身柄確保が出来ていない爆破事件のことです。その事件の犯人への審問です。答えてください、速水伯爵代理」

「例の事件は承知しております。ですが私も、谷崎さんも関わっておりません。お言葉ですが、何故疑われたのかお聞きしても?」

「我々の調べにより判明したことがあります。それは、爆破事件の全てにおいて指揮系統が整っており、武芸に優れている。また、政界の御用達や重要機関ばかりが狙われている。つまり、敵は政界に恨みがある。故に、政界に恨みを持ち、優れた指揮や武芸が熟せるもの。それは政界により没落した武官華族、速水と黒崎という結論に至ったのです」

「……」

 そんなことだろうとは予想していた。予想は合っていたようで、私は信一さんの様子を伺うようにチラッと横目で見る。信一さんは感情の読み取りが困難な無表情を顔に貼っていた。

黒崎くろさき、貴殿はどうですか?」

「そうですね。最初に言いたいのは、私は黒崎ではなく谷崎です。黒崎姓は随分と前に捨てていますので。それでは本題に入ります。私も速水伯爵代理に同意します。その上で、言いたい。確かにあなた方が言うように、政界に言いたいことは非常にたくさんあります。私の生家である黒崎と速水伯爵家は政界に没落させられ、肉親を失ったようなものでしょう」

 政界に恨みがある、という発言で当然ながら様々な声が上がった。しかし躊躇いなく信一さんは、「お黙りになってください、上官の皆様」と強烈な一言で黙らせて注目を自分に戻した。経験の差が歴然として、私自身が恥ずかしくも思えたが、その差は当然のものだろう。流石だな、と思う。鎮まりに戻った頃に「続けます」と冷静に言い放ち、発言を続ける。

「そのため政界を恨んでいると言われても完全に否定は出来ません。いえ、否定する気などありません。ですが、私たちが恨みを晴らすような行いを今に至るまでしてきたでしょうか。答えは否、しておりません。私たちはただ、一般社会に溶け込み、ただただ息をして生きづらさの中で生きているのです。自分の穏やかな、生きる目的のために」

 信一さんが言い放ち、静寂。私は帝国陸軍の、この審問の中核に迫った質問を投げかける。誰にも変わってもらえない、大事な内容。

「審問するにあたり、当然のこと、私が所属する大学や信一さんのお店の調査は済んでいるのですよね?私たちがその爆破事件に関与しているという証拠があるのなら、審問などではなく即逮捕ですよね。それならば……この審問、何が目的ですか」

 質疑応答を担当する帝国陸軍人は笑みを浮かべ声を発した。

「速水伯爵代理は良き方のようですね。黒さ、谷崎は相変わらず性格が悪い。それでは……。」

 ——審問から数日後の夕刻、「シーシャラウンジsasameyuki」。営業していないにも関わらず、来店した二人のお客さんにより騒然としておりました。

「おい、信ちゃん!どうなってんだよ!」

 不破君が窶れ気味の店主さんを問い質している……というより、追い詰めている。私は巻き込まれないように、気配を消して見守っている。私としても気になっている事柄であるため、不破君のことを一切止める気がない。

「話せよ!どうして速水は居ないんだ!」

 速水さんの行方が知れないのだ。数日前から大学にも来ていないようで、当然のこと帰路のあの光景も無くなっていた。速水さんの行方不明の現状に、何の情報も与えられないことに痺れを切らした不破君が店主さんの元へ乗り込んでいる状況。不破君の無我夢中に戸惑いながらも店主さんは焦りの表情を浮かべつつも冷静さを欠かない声を出した。

「分かったから、落ち着け。俺は君たちに伝えることを失念していた。これに関しては謝るよ。まず尚は現在、府を離れている。それは速水伯爵代理としてだから詳細は話せない。だからこそ言えるのは、今までの生活は無くなってしまうかもしれない、ということだけだ」

 ——長野県安曇野。人里離れた場所の山中にゆらりと明かりが灯っております。その山荘は好奇心で歩む人の足を止めてしまう畏怖を纏っております。この別荘の持ち主は華族速水伯爵家のもので、数年前に府で起きた都市部暴動事件の後に建てられました。そこで現速水伯爵と伯爵夫人は使用人も何も持たない、静かな生活を送っております。そこへ娘である尚が、速水伯爵代理として娘として訪れておりました。

 父さんと母さんと対面するのはいつぶりだろうか。再会を喜びたいし、現状の苦しさに泣きつきたくもある。だけど、そんなことしている場合ではない。私は両親に安息して過ごしてもらうという目的のために、私にやれることを矜持を持ってやるだけ。それを改めて自覚して、両親に向き合っていた。だけど、親として当然なのだろうか。母さんは私に心配をし過ぎなほどしてくれる。

「尚。貴女には酷い環境しか与えられていないのです。本当は無理しているのでは?」

「自分を蔑むようなこと言わないで、母さん。私は自分のことを惨めだとは思ったことは無い。救いようのない堕落者だとは思ってるけど。……テロ行為の都市部暴動事件で兄さんが死んで、母さんと父さんが府を去った。だけど、それはそれ、これはこれ。私が家のことは何とかする。それは私が決めたこと。それに、私は独りじゃないから大丈夫」

 大丈夫、大丈夫。辛くて苦しいけど、嫌で今の場所に居る訳じゃ無い。母さんの眼差しが優し過ぎて泣いてしまいそうになるけど、何とか話の腰を折るために言葉を継ぐ。

「府で起きた出来事は話した通り。それで出された条件が、予想は付いてるだろうけど、速水の地位。そして、黒崎の爵位と地位を戻す。それ故に、持つ権力や武力を国に捧げろ、と」

 今まで話に静かに耳を傾けてくれていた父さんが口を開いて、私は口を閉ざした。

「……日本陸軍少将、特務部隊玉響の部隊長に戻す、ということか。そして前任の、今は解体されて跡形の無い伯爵黒崎家の復活」

「はい。父さんが戻られないようなら、私が爵位を継ぎ日本陸軍の色々な面を考慮して軍曹、特務部隊玉響配属になるとのこと。黒崎家の生き残り、信一さんが言うにはどちらかが戻らなければ今回の爆破事件の犯人として逮捕されるだろう。また速水、谷崎もとい黒崎は破壊の限りを尽くされる。そして状況を鑑みるに、没落したのが最近で知名度があり、且つ古狸どもが満足するのは軍務卿を凌ぐ功績を作り出してきた速水だろう、と。……父さん、速水伯爵。どうしますか、と聞かずとも、やはり爵位返上を望みますか」

「そうだな。何も尽くしてやれる気にはならん。そして、病に臥せてしまっている状態では何も出来ない。……尚、悪いことは言わない。こちらに来なさい。権力も矜持も、何も関係ない。」

「……そうですね、父さん。私も爵位返上には同意します。それに、私も兄さんを失った場所に自ら進みたくはない。父さんと母さんと、共に暮らしたいと思っています。……ですが、政界は許さないでしょう。今後も変わらず爵位返上の方向で話を進めますが、万が一の場合は条件を飲みます。その後は、私が責任を持って速水伯爵として、速水家を動かします」

 私は躊躇いもなく、ただ自分の思ったままを言った。私にしては珍しく、他人のことを考えない独り善がりな発言。やはりと言うべきか、母さんは眉に皺を寄せ今にも食いついてきそう。父さんは何か言いたげな顔をしている。そうだよね……と独り。

「尚!そんな、私たちの盾になるような……」

「速水は官僚家系の武官だ。このような状態で言えたことではないが、やっていけるのか?」

「大丈夫。母さんと父さんが大事だから、私は好き好んでやるんだ。どうせ今後もあの場所では理解出来ないことが続いて行く。だからこそ憔悴してしまっている人間を盾にしたところで、それは諸刃の剣。そんなことをする余裕があるなら、私が鉄壁にも未来を切り拓く剣にもなる。盾にも剣にもなって見せる。……だから、私のことを思ってくれるなら、表舞台で踊り狂う私の影に隠れながら、私を助けてください」

 私は感情任せに言い放ったことに、言葉を言い切った後に気がついた。母さんは涙目で、父さんは目を伏せていた。失望させてしまったように感じて、雰囲気がピリピリと棘を帯びる苦手な様子になっていくように感じた。どうして……。

「……あ、あの、ごめんなさい」

 咄嗟に出た謝罪の言葉は震えて、涙が溢れ出して、自分のことなのに自分が分からない。

「……いや、少し待っていてくれ」

 父さんは立ち上がったのと同時に私の頭を優しい手つきで撫でて、部屋を出て行った。優しい手の感覚が頭に残って、胸の当たりでは温かい何かを感じた。それでまた涙が溢れそうになったが流さないように我慢した。

 涙が収まってきた頃、父さんが一本の剣を持って戻ってきた。

「これは、瞬の遺剣、『ソル』だ。尚、お前に持たせている剣、『ルナ』とは対となる。お前は両手剣技に長けていたと記憶するが、今も変わらないか?」

「か、変わりません。えぇっと?」

「ならば良い。瞬がこの剣をどうしたいのか分からないが、アイツなら可愛い妹のためにとでも言うだろう。亡き者の言葉を語る口を借りるようで癪だが、上手に使いなさい」

 ——あれから数日後。東京府渋谷区道玄坂のステラビル二階、営業していない「シーシャラウンジsasameyuki」。安曇野から戻った速水は谷崎とカウンター席に並んで座り、軽食と飲み物を囲んで話し合いをしておりました。

「……なるほどね。やっぱ速水伯爵はそう言うよな。こんな感じになるとは思った」

「それを踏まえた上で、どうするか話しましょう。私は恐らく、速水伯爵そして帝国陸軍人になる。それは避けられないと思います。信一さんが教えてくれたように、政界が睨んでくるから。……だから、それを前提にします。不本意ではありますが」

「そうね。……俺も不本意ではあるが、黒崎に戻ることを考えた。表立って尚の力になってやれると考えたからだ。だが、家を再興するとなると、公務だとか色々とやらなきゃならないことばかりで、今のように助けにはなってやれない。本末転倒の結果を引き起こしかねない。だから家を再興、もとい黒崎に戻る話は無しだ。じゃあどうするかと考えた時に、審問を思い出した。審問では、俺は尚の影のような感じだったろ、側近みたいな。主人のために動く。家も何も関係なく。それが一番、俺のやりたいことが叶うと思った。どう思う?」

「信一さんは、本当に私を助けたいと思ってくれているんですね」

「ただ単に再興から離れたいという気持ちも強くあるんだけど。……それは置いておいても、助けたいと思うでしょ。今もこれからも変わらないよ。速水も黒崎も栄華の在った時代、俺が華族軍人共に現役だった時代、そんな長い付き合いだし。瞬の面倒も見ていたし、今は尚の保護者だし。今更放り投げる、そんな悪徳な趣味は生憎と持ち合わせてない。だからこれからもお世話する。そしてお世話になるよ、どんな形になってもね」

 信一さんは曇りのない笑みを浮かべた。この人は自分の信じる相手に対しては人情が厚いな、と改めて思った。そしてもう一つの話をするために、傍に置いておいた一本の剣を出す。

「これ、分かりますか?」

 信一さんはその剣を見てから、少し動揺していた。

「そ、それって、瞬の『ソル』……だよね?御守りとして預かったの?」

「兄さんなら可愛い妹のために、って言うだろう。私が両手剣技に長けるから。上手に使いなさい、と託されました」

「そう……速水伯爵は尚のことも瞬のことも分かっているね。さすが、二人のお父さんだね。尚の『ルナ』と一緒に持てるように装備を新たに作ってあげよう。怯んだ、弱き者から淘汰される。だから、心を支えるものとして、『ルナ』と一緒に持っておくと良い。その方が『ソル』の片割れ、『ルナ』も喜ぶだろう。それに、両手剣としても使っていいしね」

「うん……分かった」

 私は父さんが兄さんの遺剣である『ソル』を持たせた意味がやっと分かった気がした。私を見てくれている人は居る。だから、独りじゃない。そんなことを思っていたら、信一さんがキッチンに入っていく。何だろうと思っていたら棚の奥が仕掛け扉になっていて、そこから一梃の銃剣が出てきた。仕掛け扉があること自体、この店で働いていたのに知らなかった。それに、慣れた手つきでそれを取り出した信一さんにも驚いた。

「これは俺の銃剣『白虎』だよ。破壊しないで、大事に保管しておいて良かったな……」

 ——数日後の夕刻。速水除く三人は速水と会えなくなったことに心配し、住居兼お店であるステラビルに訪れておりました。ですが、「シーシャラウンジsasameyuki」が突然の閉店に対するお知らせとお詫びを知らせる張り紙があったこと、そして無人であったため近くの喫茶店に入っておりました。皆して深刻な顔で、ちくちくと肌を刺す雰囲気に包み込まれておりました。

 事の重大さから何かに対して泣きそうになっている勘解、普段とは様子が一変してあからさまに不機嫌が目に見えて分かる片桐。二人を和ませるために少し話を振ってみることにした。

「……な、なぁ。閉店って驚きだな」

「そ、それもありますけど……。あの、そこではなくて、尚ちゃんの事です」

 勘解がか細い声で何とか意思疎通をしてくれて良かった。今や速水は速水自身も危惧していた、速水伯爵を継承。そして日本陸軍軍曹、特務部隊玉響の部隊参謀長に就任していた。

「店主さん……谷崎信一さんの真実にも驚きました。速水家の前例で、速水家以上に手厳しく政界に潰された伯爵、黒崎家の生き残りだったということにも」

「それもあるな。あの人は、だから速水を匿ってた。その理由が明らかになった訳だが……こんな形で色々と知りたくは無かった。谷崎さんは、元帝国陸軍人であったことも踏まえて、階級を一つ下げた中尉として特務部隊玉響部隊指揮官長。そして黒崎家再興はせず、速水の側近になった。だから、あの二人は変わらずに居るんだろうとは思う……俺がそう思いたいだけなのかもしれないけど」

「谷崎さんが再興から逃げた、とも言えなくはないですが。そうではないと、側近として示してくれればいいとは思います。……私たちは、速水さんの無事を祈るくらいしか出来ませんね。もう立場違い過ぎますから」

「噂程度に聞いた話。審問の時の質疑応答を担当していた人が谷崎さんと同期で、特務部隊玉響の部隊長だそうだ。だから、せめて居場所があればとは思う」

 片桐と今まであったことを整理して話す中、勘解が鬱々としてきていた。片桐は何故不機嫌なのか分からないが、谷崎さんへの意見を聞く限り、片桐も速水のことが心配なのだろう。後は、次期片桐伯爵家当主として家のことで思うことがあるんだろう。俺はそう思う。そしてせめてこの場所を仮初であっても平穏を取り留めることしか出来ない。それに歯痒さを覚えていた。

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