グッドバイ
私情小径
グッドバイ
卒業式の十七時は別れの匂いに満ちている。校舎で揺れる人影はいつもと同じくらい多いのに、いつもとは正反対に静かだった。それが不思議に面白くて、思わずクスリと笑ってしまって、目元を拭った。
火照った身体にブレザーは暑い。渡り廊下の窓を開ける。
肌を撫でる春風には未だ晩冬の残り香が混じっているようで、程よく心地よい。息を吐いて、なんでもないリズムを口遊んだ。
教室を出た理由は喉が渇いたからだったけれど、財布を忘れたことに気づいても取りには戻らなかった。
「ねえそこ、私の席」
「……そう言って、けっきょく俺の席だったじゃないか」
背後の呼びかけは、ひどく懐かしい。
今日とはまた違う、制服が特別になった日の初めての声が重なる。
「あらら、そうだっけ?」
「そうだよ、伊瀬。まさか忘れたのか?」
問いと共に振り返れば肩をすくめた伊瀬が笑う。
「恥ずかしい思い出だからね。いっそのこと忘れてしまいたいとは何度だって思ったかなあ」
「じゃあ、俺がいつまでも憶えておこう。忘れたころに言いふらす」
「うわあ。性格悪い」
とっとと忘れてよ、と伊瀬は口を尖らせる。
ややの言い合いの後、伊瀬は俺に問う。
「で、名取はそんなところで何してるのさ」
「お茶買いに来たんだよ。話し疲れてね」
「ふーん。その割には財布持ってかなかったみたいだけど」
「よく見てんなあ。恥ずかしいから忘れてくれよ」
「やーだね。お相子だよ」
「それなら仕方ない。手打ちにしようじゃないか──それはそれとして、伊瀬こそ何しに来たんだ」
俺の問いに、伊瀬は一瞬考え込むように身体を揺らす。
「ん~、私も喉が渇いたからさ──取り込み中なら買って戻るけど」
伊瀬には似合わない、遠慮を含んだ言い方だ。零れる笑みは苦笑いにも近い。どうやら卒業式というのはヒトの距離感すらも曖昧にしてしまうらしい。
「取り込んでるように見える?」
「見えない」
「じゃあそういうことさ」
そういうことだよ、そういうこと。小さく繰り返す。視線が絡んで、しばし沈黙が続いた。今更、無言を気にする仲でもないというのに、なんだか気まずい。
何を言うべきか、言わないべきか。心はうまく言葉にならない。大切なときに限って、声が出なくなる。それでも何か言わなくてはと、無意識の縁から言葉を放つ。
「髪」
「えっ?」
「ああ、いや、いつもと違うから。巻いてる、って言うのか」
「ハーフアップだよ」
「ああ、ハーフアップね。ハーフアップ。キレイでいいよな」
「……ふふ。何それ」
しどろもどろもいいところだ。顔が熱い。
「奢る。財布忘れたんでしょ」
伊瀬が言う。奇妙にこそばゆい流れを断ち切るように宣言して、自販機の方へと歩みを進めた。
「え、ああ。うん。悪い。後で返す」
「だから奢るって。何がいい?」
「……缶コーヒー。一番甘いヤツ。百二十円」
「はいはい、アレね」
優しい鼻歌が届く。電子音や、缶の落ちる音をも通り抜けて、耳朶が震える。
「はい」
「ありがとう。悪いな」
「いいよ。これだってお返しだから。ほら、校外学習だっけ、あのときの」
言われて、思い出す。一年生の夏だったか、秋だったか。確かにあのときは、俺が飲み物を奢った気がする。
「ほんと、よく憶えてるよな」
「ん、まあね。乾杯」
「乾杯」
突き出されたミルクティーのペットボトルに、缶コーヒーをぶつける。低くてやぼったい音だ。
「名取、何時まで残るの」
「さあ。日の入りには帰ろうと思ってたけど」
「あとちょっとじゃん。はやくない?」
「そうかな。こうやってのんびりするくらいの時間はあるよ」
甘ったるいコーヒーを煽る。二人で窓に寄りかかり、夕暮れを見上げる。
「色々あったね」
「色々あったな」
「修学旅行憶えてる?」
「海な」
「そう。海」
「そういやあのときはジュース奢ってくれたじゃないか」
「そうだっけ? でもそれなら、春のアレで」
「ああポップコーン……は、まあチュロスでトントンだろ」
「そこはほら、気持の問題だよ」
「それもそうか」
そうだよそうだよと、伊瀬は頷いて空を見る。
「綺麗だね」
「ああ」
「こんなに綺麗だなんて知らなかった」
「ああ」
「ねえ、今のやり取りって世界の終わりみたいで素敵じゃない?」
「まあ、卒業ってのも一種の世界の終わりみたいなもんだよな」
「おっ、良いこと言うじゃん。名取のクセに」
伊瀬が勢いづけてぶつかってきて、コーヒーが揺れる。手のひらのさざなみを消したくなくて、今度は俺から肩をぶつけた。
「こぼしたらどうするの」
「そっちからぶつかってきたじゃん」
「んー?」
「はいはい。何でもないです」
流し目に見える、文句あるのか、とでも言いたげな顔。髪が風に流れて揺れる。夕暮れを映し取った目が、綺麗だった。
綺麗だな、と。
それだけを思った。
「──ね、卒業しちゃうね」
「うん」
「今日ってさ、世界の終わりなわけじゃん」
「うん?」
「名取はさ、世界の終わりにさ、最後の最後にさ、何か言いたいことはある?」
「それは……何だ、つまり、伊瀬に?」
「ん~まあ今は私しかいないし」
「そうか、そうだなあ……」
考える。何だろう。何を言おう。今日という世界の終わりに、俺は何を伝えればいいのだろう。
夕陽を見つめる。夜が来るまであと少し。二十分もない。
まさか本当に、世界の終わりが来るだなんて。
ほの紅い斜陽が急かすように照る。
コーヒーを一口含んで、飲み下して、息を吐く。
空を見て、考える。世界の終わりに言うとしたなら。もし、なんかじゃなくて。最後の最後、納得できる言葉があるとすれば。
それは。
「グッドバイ、かな」
「──もう二度と会えないから?」
「いいや、違うよ」
「矛盾してない?」
「あはは。たしかに。また会うことを望むなら、違うかもだけど」
世界の終わりがやってきて、それでもなお、ありえない再会を望むなら、きっと、もっと適したセリフがあるのだろうけど。
「なら、どうして?」
そんなこと、決まってるじゃないか。
「また会えるって分かってるから。だからグッドバイでいいんだよ」
静かだなと、思った。
渡り廊下に響くのはお互いの息遣いだけで、だから伊瀬が息を吞む音も聞こえた。
「またね、じゃ、ダメなの」
「ニュアンスの違いかな」
「何それ」
肩をすくめる。衣擦れと共に、またコーヒーが揺れる。
「お別れしたっていいのさ。再び会えることを知っているから、わざわざ願わなくてもいい。確認しなくてもいい」
「名取は、たまにヘンなことを言うよね。私が想像するよりずーーっとヘンなことを」
「言語センス皆無ちゃんに教えてやると、そういうのはロマンティックって言うんだよ」
「ん~~?」
「痛いよ。悪かったから。革靴で蹴るな」
本当に痛いんだからそれ。
堪らず靴底で応戦する。足元の攻防は終わらず、諦めて蹴られることにした。
「だからそういうわけで、ちゃんとお別れするのは、怖いことじゃないんだ」
伊瀬を見る。目が合う。その深い目を、じっと見つめる。
「怖い、なんて」
「俺は思うよ。怖いって。誰かと別れるのはすごく怖い。でもさ、会えない日が続いたって、それで全部がなくなるわけじゃない。ゼロになんて、なりやしないのさ」
だから。
「だから、グッドバイ」
「そう、グッドバイ」
その言葉で、会えない日々が少しでも彩られるように。色々なコトを積み上げて、積み重ねて、いつかの再会を楽しめるように。
目を見開いて、堪えるように、伊瀬が笑う。楽しそうに、心の底から、見たこともないくらいに、大きく笑う。
不安はある。隣に居ない日々を思えば、きっと泣いてしまう。
けれど。
それでも。
「クサいセリフ! あっはっはっは!」
「笑うほどかあ?」
「うん! 笑っちゃうほど! だから私以外には言っちゃダメだよ」
「言わねーよ。恥ずかしいだろ」
「ならよし!」
そう言って伊瀬は笑う。どれくらい経ったか、ひとしきり笑いきったのを見計らって、俺は告げる。
「コーヒー代は返す」
「うん」
「でも今は……今日は財布を忘れたから」
「うん」
「だから、まあ、奢られたいものでも考えててくれ」
「……ん」
だからそれまでは、グッドバイなのだと。
声が重なって、再び空を見上げる。
夜が来るまで、俺たちはずっと黙っていた。
太陽の沈む音を聴こうとしていた。
グッドバイ 私情小径 @komichishijo
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