第6話 さくらの思惑

 小説の中で、三人の人間が、画策しているという感じの描き方をしているのだが、本当は作者である、さくらとしては、本当は恋愛物語を書きたいのだった。三人の人間模様は、一種の三角関係であり、恋愛といっても、

「愛欲」

 に近い形である。

 ただ、ドロドロとした部分を描きたいわけではない。そのため、少しSFチックなことを描いて、

「ドロドロした部分を少しでも打ち消したい」

 ということを考えたのだ。

 それが、さくらの考え方であり、

「その通りに書けたかな?」

 という不安がありながらも、とりあえず、書き切ることに終始したのだった。

 この話は小説を書き始めてから、まだ、2年目くらいに書いた作品だった。それまでに、十数作品を書いてきたが、自分としては、

「まだまだこれから」

 という思いはあった。

 一つは、

「まだまだ若いんだし、成長もしている。経験値はこれからどんどん増してくる」

 という思いがあったのだ。

 さらに、自分が、

「今はまだ成長期」

 という感情が強かった。

「思春期を少し通り過ぎたくらいで、まだまだ成長期だ」

 と思っているのも、間違いではないだろう。

「成長していくためのステップアップが、小説執筆だ」

 と思っていた時期だった。

 まさか、就職に、

「保険の外交員」

 という職業を選ぶなどと思っていなかった時期だったので、就職ということもほとんど考えたことのなかった時期だった。

 小説を書いていて、その頃は、まだプロットもまともに書けない時期だったような気がする。

 ちょっと思いついただけで、書き始めて、書いていきながら、話を膨らませる。

 ただ、そういう書き方をしていると、最後でまとめることが難しくなってしまう。その頃はまだ、そんな時期だったのではないだろうか?

「小説は、気に入る気に入らないを別にして、最後まで書き切る」

 ということは、ハウツー本であったり、ネットにおける、

「小説の書き方」

 など検索にて出てきた記事を読んでいると、たいてい、それは書いている。

「書き始めなければ、何も始まらないのと同じで、書き切ることが、最初緒ステップアップになるのだ」

 というものだ。

 ハウツー本や、ネットでの検索記事にしても、さくらは、

「どうも胡散臭い」

 と思っていた。

 というのも、

「言っていることに間違いはないのだが、あまりにも当たり前のことすぎるというのと、人それぞれで微妙に違う」

 ということを分かっているのだから、どうにも、見ていて、

「無難にまとめられている」

 ということで、結局は、

「自分に必要な部分だけを取り入れればいい」

 と思うようになった。

 ただ、それも、ある程度の経験をしてではないと、

「何が必要なのか?」

 ということが分かるわけではない。

 それを思うと考えさせられるところは大きいというものだ。

 元々、小説を書けるようになったのは、

「最後まで書き切る」

 というステップを乗り切ることができたからだと思っている。

 二十歳になった今でも、仕事の時間以外では、できるだけ小説を書こうと思っているが、それができない時は、どうしても存在する。

 そんな時、言い知れぬ、不安や苛立ちを覚えることがあるのだが、実際に、どのような苛立ちなのかということが分かっていなかったので、

「私はまだまだ未熟なのかな?」

 と思っていた。

 ただ、それは、小説を書き始めた頃の気持ちとは、違ったものであって、最初に小説を書き始めた頃は、自分なりに、切磋琢磨しているつもりだったが、試行錯誤が空回りしているのも感じていたのだった。

 やはり、ハウツー本などに書いていた通り、一番の難関は、

「書き上げる」

 ことだったのだ。

 書きたいという意欲は、結構あったと思う。

 そうでなければ、すぐに諦めてしまっていたことだろう。

 小説を書けない理由に、

「書き切ることができない」

 という思いがあるのだが、なぜ、そう思うのかということを自分なりに考えてみたが、後から思えば、

「こんな当たり前のこと」

 と思えるくらいだったのだが、その時は、そこまで気づくのに、思ったよりも時間が掛かったのだ。

 なぜ、

「こんな当たり前のこと」

 と感じたのかというと、小説を書けない時期に、自分でもウスウス感じていることだったからで、その思いが自分をいかに、

「感じないかのようにしていた」

 のかということに気付かなかったのだ。

 何に気付かなかったのかというと、

「自分のような素人に小説など書けるわけがない」

 という思いだった。

 この思いは、心の奥深いところにあったのだろう。

 思いとしては、それほど大きなものではなかったのだが、自分の中で、

「中途半端」

 に感じたのだ。

 それが、思ったよりも深いところにあって、直接感じているわけではないということを失念していたからだろう。

 分かっていたつもりでも、あくまでも、感じることが、自分にとって、いかに厳しいことなのかということを感じさせるものだったのだ。

 ただ、厳しいということが分かっているくせに、実際には、どこまで厳しいと言えばいいのかということが分かっていない。分かろうにも、深すぎて遠い感覚なのだ。

「小説というものが、どれほど自分にとって、遠い存在だったということか?」

 ということを考える。

 これは、小説だけに限ったことではなく、芸術的なものすべてにいえることだった。

 音楽にしても、図画工作にしても、小学生の頃で挫折していた。

「こんなの、勉強でも何でもないんだから、できなくたっていいんだ」

 という気持ちが、あきらめの境地だったに違いない。

 音楽に関しては、楽器を演奏するという以前に、楽譜というものに対して、何か拒絶反応のようなものがあった。

 中学に入った時に感じた、

「英語に対しての、拒絶反応」

 と似たものがあったのだ。

 そのくせ、小学生の頃から、算数は好きだった。

 ただ、中学に入って数学になると、急に興味が失せたのも、事実であり、小学生の頃の算数というものが、

「設問に対して答えがあるわけだが、答えというよりも、その答えを導き出すための、プロセスが大切だ」

 ということが、算数を好きだったという理由だと思っていた。

 それを感じることができたのは、数学を習うようになってからのことで、

「数学というものは、問題に対して、公式というものに当てはめることで、導き出された答えが大切だ」

 というものである。

 つまりは、

「いかに公式を正しく使って答えを導き出すか?」

 ということであった。

 小学生の頃の算数は、

「どんな解き方でもいいから、答えを導くためのプロセスが、間違っていなければいい」

 というものだった。

 実際に、算数の問題に対しての答えには、いくつかの解き方が存在していた。しかし、それを数学の、代数というジャンルに当てはめると、どんな解き方でも、結局は途中から一緒になるわけで、算数の問題を解く時の、

「一種の醍醐味」

 というものを味わうことはできなかったのであろう。

 そんな時期が数学を習い始めてからはあったので、

「下手をすれば、数学が嫌いになっていたかも知れない」

 と思っていたところに出てきたのが、

「中学時代の数学のヤマ場」

 と言ってもいいくらいの、

「因数分解」

 というものが面白かったことで、また数学への興味を持続することができたのだった。

 だが、

「因数分解というものの、何が面白いのか?」

 ということを聞かれたとしても、それが何なのかということを、ハッキリと言い切ることはできなかった。

 言いきれたとしても、その答えがどこにあるのかということは、自分でもよく分かっていない。

 因数分解のおかげで、数学に興味を失わなかったということもあって、ちょうど、中学時代の頃に、友達が話題にしていた本の中で、

「数学を題材にした、ミステリー小説」

 というものを書いている人がいて、友達の勧めもあって読んでみると、

「結構面白い」

 という内容だった。

「数学とミステリー」

 というものは、パッと見で、どこに接点があるのか分からないが、そもそも、ミステリーというのは、トリック自体が、数学でいうところの、

「公式」

 のようなものではないか?

 たとえば、昔からよくあるトリックの中で、

「死体損壊トリック」

 いわゆる、

「顔のない死体のトリック」

 と言われるものに、公式が存在すると言われている。

 その公式というのは、

「被害者と加害者が入れ替わる」

 というものであった。

 そのために、

「被害者の身元を分からなくすることで、被害者が誰か特定できない」

 であろう。

 ただ、

「被害者と加害者のどちらかであるという場合も、えてしてあるようで、その場合は、どっちがどっちなのかということを、警察に判断させるという意図がある」

 というものだ。

 それによって、加害者と被害者を間違えれば、加害者が被害者ということになり、指名手配をしたりして、犯人捜しをしたとしても、見つかるわけはない。なぜなら、すでに、この世の人ではないからだ。

 警察というところは、

「加害者、いわゆる容疑者しか探そうとしない。死んだと思われている人間が生きていたとしても、意識することはない」

 と言えるだろう。

 もっとも、一時期だけ隠れていれば、すぐに事件は迷宮入りということになり、

「意識が、記憶の大容量の中に埋もれてしまい、もし犯人が、大手を振って歩いていても、誰も気にする人はいない」

 というわけだ。

 それが、

「ほとぼりが冷めた」

 ということなのだろう。

 もし、誰かが意識をしたとしても、

「ただ、似ている」

 というだけでは警察は動かないだろう。

 何かの事件があって、そのあたりの指紋を調べた時、

「偶然、指紋が一致したのが、被害者と思われていた人物だ」

 ということになれば、警察も放っておくようなことはしないだろうが、そんなものは、よほどの低い確率だといえるのではないだろうか。

 今の時代は、

「時効というものは、殺人などの凶悪犯罪においては、撤廃された」

 ということなので、犯人側からすれば、

「逃げ隠れするにも、限界がある」

 ということで、今の時代ではうまくいかない犯罪の一つだろう。

 そもそも、科学技術が発展していることで、

「死体損壊トリック」

 というもの自体、成立しなくなっている。

 下手をすれば、

「白骨になっていたとしても、被害者の身元が分かるかも知れない」

 というレベルなのだろう。

 それを思うと、事件というものが成立しないという犯罪トリックも結構ありそうで、

「ミステリーを書くというのも、難しい時代になってきた」

 と言えるだろう。

 特にトリックなるものは、ほとんど出尽くしていて、

「後はバリエーションの問題だ」

 と言われているので、それも致し方ないだろう。

 中には、

「探偵小説くらいでしか、そんな犯罪は不可能だ」

 と言われる、犯罪の種類もあるくらいで、

「理論的に」

 あるいは、

「実質的に」

 とそれぞれで、今は不可能と言われる犯罪の種類もあることだろう。

 ただ、それを解決してくれるものがあるとすれば、それが、

「数学」

 という考え方なのではないだろうか?

「数学を使ったミステリー」

 というものが流行っていると思い、実際に見た時、

「ああ、確かにそうだな」

 と感じたものだった。

 最初は、ドラマで見て、原作本を読んでみたくなった。

 もうこの時代になると、

「原作が小説」

 というのは、なかなかなく、

「脚本家のオリジナル」

 であったり、

「マンガが原作」

 というものが、ほとんどの時代になっていた。

 前述の、

「ライトノベル」

 という発想が、唯一、原作があってのドラマということになるのだろうが、それも、途中にアニメやゲームを挟むことになるだろう。

 しかし、この数学物は、原作がダイレクトに小説で、逆に、このような、

「理論的ミステリー」

 のようなジャンルのものは、マンガにしてしまうと面白くない。

 要するに、マンガに向いていない作品だといってもいいだろう。

 そんなことを考えてみると、

「小説が原作のドラマは面白い」

 と改めて感じさせられた。

 ドラマを見てから小説を読んでみようと思ったのは、逆をすると、

「ドラマを見た時、失望することだろう」

 と思ったからだ。

「先に映像作品をみて、小説を読むのであれば、そこに、想像力というものが湧いてきて、小説がさらに楽しく読める」

 と言えるだろう。

 しかし、最初に原作を読んでいると自分の中で勝手なイメージができてしまい、それが映像化作品とかけ離れたものであれば、それだけ、

「陳腐な作品だ」

 と感じるようになることだろう。

 それを思うと、

「映像があるのであれば、先に映像を見ておく」

 というようにしているのだった。

 だから、一度読んだ作品が原作となって、映像化された場合、よほど興味のある作品以外は見ようとは思わない。

 興味のある作品でも、

「いかに、イメージから遠いのか?」

 ということを最初から考えておかなければ、面白くはないだろうと思うのだ。

 そんなことを考えていると、

「原作がいかに素晴らしいかということを、再認識できれば最高だよな」

 と思うのだった。

「いずれ、小説家になったあかつきには、原作を元に、映像化させたい」

 と思っている。

「どこまで、自分の作品に忠実に、スタッフがやってくれるか?」

 ということに興味があるといっても、過言ではない。

 だが、結局小説家になることはなかったので、それこそ、

「机上の空論」

 となった。

 ただ、今後の将来において、

「小説家になる」

 ということを断念したわけではない。

 今でも、小説は書き続けていて、プロになることを、完全に諦めたわけではない。

 そういう意味でも、

「まだまだこれから」

 ということであり、時々、昔書いた小説を読み返してみることも多かった。

 その中でも、自分で群を抜いて、

「すごい作品を書いていたんだ」

 と思わせたのが、この、

「五分前」

 というのをモチーフにした小説だった。

 二十歳になっても、まだ色褪せずに見えるこの小説を、再度加筆してみようということも考えていた。

 と言って、大幅に書き直すというつもりはない。

 どちらかというと、

「短い小説を、長編くらいに引き延ばしてみたいな」

 という思いからだった。

 すでに、

「高校生の途中くらいから、長編小説というものを書けるようになってきた」

 と感じてきたのだったが、それが、例の小説を書いてから少ししてからだったということを、さくら本人も覚えていないようだった。

 それを考えると、

「意外と過去の記憶も、ハッキリと覚えているものと、曖昧なものが違って感じられるもののようだ」

 と感じたのだが、それが、

「時系列の曖昧さ」

 から来るということを、後になって感じたのだった。


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