第5話 必要悪

 しかし、その必要悪である性風俗というものも、最近では、それほど性に対して積極的な男が減ってきたせいで、それほど流行らなくなってきたというのもあるのかも知れない。

「必要悪」

 と言葉では言ったが。

 本当に、

「悪」

 という言葉を使わなければいけないほどのものなのだろうか?

 そんなことを考えると、今の時代、

「草食系男子」

 と言われる人間の方が、下手をすれば、社会という観点で見ると、

「悪」

 なのかも知れないと思う。

 それは、今まで、風俗を含んだうえで、

「性」

 というものに、必要以上に過敏に反応して、それこそ、

「悪だ」

 と言われるようになったことが、そもそもの悪なのではないだろうか?

「過ぎたるは、及ばざるがごとし」

 というようなものである。

 そんな悪というものがどういうものなのか、正直、

「悪の定義」

 というのが分からなくなっている。

 実際に、

「必要悪」

 なるものも存在しているわけなので、逆にいえば、

「必要なものでも、その中には、悪だと認識されるものが、確実に存在している」

 ということになるのだ。

 必要悪というものをどう判断するか? 問題は、

「何が必要かということの審議は終わっていて、その次の段階である、必要なものが、悪なのかどうなのか?」

 という定義づけがあってこそ、

「必要悪だ」

 として、必要悪が証明される。

 しいていえば、必要悪は、一つでもあれば、その存在は証明されているといってもいいだろう。

 実際の必要悪というものは、調べてみると、

「あるわあるわ。出てくる出てくる」

 というものである。

「パチンコ店」

「やくざなどのいわゆる暴力団」

「麻薬」

 など、犯罪に直結しそうなものも、中には含まれている。

 だから、下手をすれば、法律で規制はされているが、実際には、

「警察のような、杓子定規のような集団に、取り締まりなどできるわけはない」

 ということになる。

「本当の悪」

 でさえも、まともに裁くことができない警察に、必要悪のような、曖昧なものが、扱えるわけないというものだ。

 ある意味、

「必要悪のような曖昧なものほど扱いにくい」

 ということになるのだ。

 何と言っても、警察は、

「事件が起こらなければ動かない」

 というのが定説になっているではないか。

 まるで常識のようになっていることだってたくさんあって、

 例えば、

「行方不明者に対しての捜索願などもそうである」

 確かに、捜索願の受理くらいまでは、してくれるだろう。

 しかし、受理したからと言って、警察が動いてくれるわけではない。それどころか、

「事件性がない限り動かない」

 というのが、警察内部の取り決めのようになっているようだ。

「毎日のように上がってくる捜索願を一から捜査していれば、そりゃあ、人が何人いても足りないだろうが、事件性がないものは、捜索しないというのが、基本になっているということをどれだけの人が知っているということになるのか」

 考えてみれば、これほど恐ろしいことはないともいえるだろう。

「実際に、行方不明者の中には、自殺するかも知れない人もいるわけで、そんな人も捜査しないのである」

 そもそも、警察は、

「事件が起こったから動く」

 という集団なのだろうか?

「事件を未然に防ぐ」

 という考えは警察にあないということなのか。

 考えてみれば、

「そんな考えだから、犯罪がなくならず、結局、起こった犯罪を捜査することになると、結局キャパオーバーなのか、それとも、自分たちが無能なのか分からないが、結局、自分で自分の首を絞める」

 ということに気づかないのだ。

 これも、一種の、

「因果応報」

 と言えるのではないだろうか?

 そんなことを考えてみると、警察が、

「事件が起こらないと動かない」

 というのは、治安を悪くするということに気づかないのだろうか。

 つまりは、

「犯罪計画を練っている時点では、警察は何もできない」

 ということになる。

 いや、何もできないのではなく、

「何もしようとはしない」

 ということだ。

 できなかったにしろ、何とかしようという気持ちさえあれば、相手に警戒心や、疑心暗鬼を抱かせ、

「少し計画を待ってみようか?」

 であったり、

「これは危ないので、中止しよう」

 ということで、

「事件を未然に防ぐ」

 ということに繋がるのではないだろうか?

 検挙率ばかりを追いかけているからこういうことになるのであって、いくら警察と言っても、後手後手に回ってしまえば、せっかくの権力も無駄なものになってしまうのではないだろうか?

 それだけ、国家権力の無駄遣いであり、何といっても、

「国民の税金である、血税」

 から組織されているのだから、国民が、今のような警察の体制に黙っているというのは、国民自身、警察のそういう体質を知らないのだ。

 実際に、ストーカー事件であったり、行方不明関係の事件で、

「警察が役に立たなかった」

 ということを身に染みて感じた人でなければ、警察という組織に対して、

「お花畑的な発想」

 になっているに違いないのだ。

 そんな必要悪の蔓延る世の中で、警察は本当に何もしてくれない。

 結局は、

「お金を払って、弁護士であったり、探偵を雇ってでも、自分の身を守るということになあるのだが、では、何のために警察があって、警察のために、自分たちの税金を使うということなのか?」

 ということである。

 結局、警察は、起こった事件に対して、犯人を見つけて、裁判へと引き渡すところまでを請け負っていて、それ以外はといえば、何をしているというのか?

 それが、

「市民を平和を守る」

 ということになるのだろうか?

 下手をすれば、

「警察組織自体が、必要悪なのではないか?」

 ということになる。

「そんな本末転倒なこと、あるわけないじゃん」

 という人もいるかも知れないが、世の中には、想像以上の理不尽さが蔓延っているのだ。

 たとえば、病院などがそうであるが、

「昔の病院。いわゆる昭和の病院というと、待合室には、老人で溢れていた」

 と言われている。

 笑い話にもあるが、ある老人が、

「今日は、○○爺さんが来ておらんね」

 というと、もう一人の老人が、

「いや、○○老人は、体調を崩しているから、来れんのじゃよ」

 ということであった。

 その場の老人たちは皆その話を聴いて納得するだろうが、まわりの他の人たちは、

「違和感満載」

 という状態になっていることだろう。

 考えてみれば、病院というところは、

「体調が悪いからくるところであって、体調を崩したのなら、来なければいけないだろう。体調を崩したから来ないというのは、本末転倒もいいところだ」

 ということになるのである。

 そのことを、老人たちは誰も分からないが、他の患者は分かって入りので、違和感に包まれた不穏な空間に、老人たちだけ、別の世界を形成しているといっても過言ではないだろう。

 そんなことを考えていると、

「このような老人たちこそ、必要悪の逆ではないか?」

 と思うのだ。

 要するに、

「悪ではないが、必要のないもの」

 というそんな存在もあるのだ。

 警察は、確かにその存在がなければ、世の中が無法地帯となってしまうだろうから、必要であるということに変わりはないが、

「では、正義なのか?」

 ということになれば、

「正義どころか、悪である」

 と言ってもいい。

 本当に必要な時、事件であれば、

「なくてはならない存在であるが、

 事件でなければ、動こうとしないのだから、最初から、国民に、

「警察は、何もなければ動きません」

 と言っておけば、人情としては、まだ許せるところもあるが、必死の思いで行方不明者を探そうとしていて、

「警察に相談したから、安心だ」

 と思っている人から見て、もしその人が自殺、他殺関係なく、死体で発見されたとすれば、

「警察に捜索願いを出しているのに」

 ということで、警察への恨みもひとしおだろう。

 しかし、それはあくまでも、警察というものの考え方であり、まさか、国民を無視して自分たちだけで、いかにも、

「やった感」

 を出すというだけのことであれば、誰が警察など信用しようというものか。

「それが警察であり、民主国家というものだ」

 と言えるのではないだろうか?

 そもそも、民主主義というものは、基本が、

「多数決ということから考えても、実に穴ぼこの多い組織だ」

 と言えるだろう。

 多数決というのは、本当に、国民にとっていいことなのかどうなのか。難しいところである。

 明らかに、少数派というのは、

「無視される」

 ということであり、どんなに少数派が正しいということであったとしても、決まってしまうと、その通りに動かなければいけないのも、民主国家なのだ。

 そんな不安定な国の警察という組織、こちらも、さらに不安定なので、

「民主警察」

 などという言葉が、本当にいいことなのかということは分かるはずもないということであろう。

 そんな社会において、

「一体どれだけたくさんの必要悪があるというのだろうか?」

 と考えると、少し怖くなってくる。

「悪」

 と呼ばれるもの、そのほとんどが、

「必要悪なのだ」

 ということになれば、民主国家というものが、どれほどひどい体制なのかということになるのだろう。

 民主国家の弱点というのは、前述の、

「多数決によることで、少数派は、切り捨てられる」

 ということである。

 そして、もう一つは、経済などにおいては、基本的に、

「自由主義」

 ということなので、

「貧富の差が激しくなる」

 ということである。

 さらに、民主主義というのは、自由主義という隠れ蓑に乗って、

「賄賂などが、蔓延る世界になる」

 ということも言えるだろう。

 自由競争として、

「独占禁止法」

 であったり、わいろなどに対しては、

「政治資金規正法であったり、刑法などの、収賄罪などというもの」

 が問題になったりする。

 要するに、法律としては出来上がっているわけだ。

 しかし、それでも、法律違反ということが蔓延っている。

 特に、政治家などに、そういうことが多かったりする。

 政府の要人が、企業からの賄賂によって、口利きをしたり、便宜を図ったりということは今に始まったことではない。

 そういえば、この間、暗殺されたソーリも、いくつも疑惑があったではないか。

 しかも、

「それらの問題を、私が解決する」

 と宣言して、次期総裁、つまり、今のソーリになった男も、結局、その

「元ソーリの犬」

 に成り下がり、

「悪事を暴く」

 どころか、自分のソーリとしての力を使って、さらにもみ消そうとしているのだから、これこそ、

「国民を裏切った」

 ということで、とんでもないことであった。

 そういう意味では、

「すべての人」

 とは言わないが、ほとんどの政治家というのは、

「必要悪」

 ではないだろうか。

 最近では、霊感商法で、あこぎなことをしていた、

「悪徳宗教団体」

 から金を貰っていた人がほとんどだったという体たらくである。

 社会問題になっている連中から、選挙に勝ちたいという理由で、政治家が金を貰っていたというのは、それこそ、

「確信犯」

 であり、やはり、

「必要悪」

 ということになるのではないだろうか?

 それを考えると、

「政治家というような、国民から選ばれた連中があこぎなことをしているのだから、元々、そいつらを選んだのは、国民だ」

 ということで、そうなれば、

「多数決で決める」

 という民主主義の基本自体が悪いということになる、

 そう思えば、民主主義の基本である、

「多数決」

 あるいは、

「自由競争」

 というものこそが、必要悪なのではないかと言えるのではないだろうか?

 いや、必要悪というよりも、

「本当の悪」

 だと言っても過言ではないだろう。

 そんな世の中において、

「五分後のオンナ」にとって、「五分前のオンナ」というのは、どういう存在なのだろうか?

 もちろん、

「逆もしかり」

 であり、リアルな意味での、

「必要悪だ」

 と思っているかも知れない。

 きっと、お互いに、会うことができない存在であるため、それぞれに、気に病んでいるところがあるかも知れない。

「私の知らないところで、自分のイメージを崩しているのではないか?」

 ということである。

 しかし、逆に相手のことをまったく分からない存在だということが分かっているので、今度は、

「相手に対して、慎重に見てしまう」

 ということかも知れない。

「自分でありながら自分ではない」

「似て非なる者」

 という存在は、これほど恐ろしく感じるものではないだろう。

 それを思うと、

「ひょっとすると、これこそが必要悪なのではないか?」

 と感じるのだった。

 自分が、相手を怖がっている。

 しかも、自分でありながら、得体の知れないものである。だから、

「彼女の身に何かあれば、私に影響しないだろうか?」

 ということを考えてしまうかも知れない。

 実際にドッペルゲンガーというものは、

「見たら、近い将来に死ぬ」

 というではないか。

 それを思うと、ドッペルゲンガーのような、しかも、人の証言で、明らかにいるということが分かっている、

「もう一人の自分」

 である。

 その存在は、自分にとっての必要不可欠な人間だとすれば、少なくとも、

「必要悪の中の必要」

 という部分になるのではないか?

 ただ、自分にとって、今のところ、

「悪」

 という存在でしかない。

 五分を隔てたオンナは、そういう意味でも、

「必要悪」

 ということに

「一番近い」

 といってもいいのではないだろうか?

 そう思っていると、

「ひょっとすると、男の方も、何か、私たち二人のことを、同じように、必要悪だと思っているのかも知れない」

 と感じる。

 そういえば、男は、二人を同じ感覚で見ているのかどうか? そのことが本当は一番きになっているはずなのに、気付かなかったように感じるのは、

「敢えて、考えないようにしている」

 ということであろうか?

 そんなことを考えていると、小説を書いていて。

「一体誰が主人公なんだろうか?」

 と感じるようになるのだ。

 今のところ、確かに誰が主人公なのか、分からないといってもいいだろう。

 この小説の主人公というか、登場人物は、基本的に3人だけである。

「五分前の女性」

「五分後の女性」

「主人公と思しき男性」

 の3人である。

 この3人がいれば、小説は完成するのだ。

 主人公としての、3人で考えられることとして、

「まず、それぞれのオンナは、それぞれ相手の存在を知っている」

 ということ、さらに、

「ただし、タイムパラドックスの影響なのか、実際に逢ったことはない。会うということは、その条件に合わないわけで、ドッペルゲンガーの影響かも知れないとも、考えられるのだ」

 ということである。

 もう一つ気になるのは、もしこれがドッペルゲンガーだということになれば、

「どちらのオンナが、本人なんだ?」

 ということになるのだろう。

 ドッペルゲンガーの場合は、明らかに本物がいて、もう一人は隠れていて、

「影のような存在」

 ではないかと考えるのだ。

 それを思うと、

「どうも、この物語の二人の女性は、ドッペルゲンガーではないようだ」

 と言えるのではないだろうか?

「しかし、どちらかを主人公にすれば、どちらかが影である」

 ということを考えると、

「もう一人の自分というのは、相手の男が決めるということになるのだろうか?」

 と考える。

 もし、男が、

「どちらか一人を選ぶと、もう一人が邪魔になるので、消したいと思ったとすればどうだろうか?」

 そんなことを考える男ではないとは思うが、男には嫉妬というものがあり、オンナにもある。

「その嫉妬心が歪んでくると、二人とも、もう一人のオンナの存在が、真剣じゃまだと思うのではないか?」

 と感じるのだった。

 嫉妬を感じるというのは、この三人の関係においては、少々おかしな感じがする。

 仲間外れにされた女が嫉妬を感じるというのであれば、分からなくもないのだが、そうではないのだ。

 嫉妬というのは、自分にとって、ひょっとすると、

「生きるための糧」

 と言えるのかも知れない。

 嫉妬が、生きがいになるということは、ある意味、それだけ辛いということなのかも知れないし、

「自分のことを分かっているつもりで分かっていなかったということを感じ、改めて、自分のことを考えると、嫉妬心というものを持った。いわゆる普通の男性、あるいは、女性なのではないか?」

 と感じるということであろう。

 嫉妬というのは、自分を顧みるということへの、一つの表現なのかも知れないとも思うのだ。

 そんな女性の間に男が入った。その男は、唯一、二人の存在を知っている。

 ここでは敢えて、他の人間を登場させないが、他の人が、二人のことを知っているかどうかというのを、わざとぼかして書いている。

 最後まで、

「三人だけ」

 というのを貫こうと思っているのだが、それが、さくらの作法だといってもいいだろう。

 小説の長さがどれほどになるのか、今ではまだ想像もできないが、登場人物から考えると、短編、よくても中編がいいところであろう。

 長編になると、少し、ストーリーがだらけてしまう気がする。

 もっとも、この話にだらけたところは必要ないということは、一番作者が分かっていて、「だらけてしまうと、話が続かない」

 ということは、分かっているのだった。

 だから、話としては、

「短編にしては長いが、中編としては短い」

 というくらいの話にしようと思っている。

 そこで問題になってくるのが、主人公であった。

「三人三様の主人公」

 というのもありではないかと思った。

 要するに、

「それぞれの章で、主人公を変える」

 というものである。

 それぞれの視点から見るドラマは、まるで、

「箱庭を見ているような感覚ではないか」

 というものであった。

 表から箱庭を見ている目線と、そして、箱庭自体が一つの大きな世界であるのだが、山間から、大きな顔が覗いているというような雰囲気である。

 そんな不可思議な様子を考えてみると、

「最後に主人公に持ってくるのは、男性であろう」

 と思った。

 そして、最初が、

「五分前のオンナ」

 であり、そして次に、

「五分後のオンナ」

 ということである。

 なぜ、このような感じにするのかというと、

「五分前」

 のオンナは、次に現れるオンナと鉢合わせにならないように、いつも、五分以内で引き上げるということになるからだった。

 慌ただしく引き上げていく姿を、物語の最初の掴みとして持ってくるのが、いいのではないかと思うのだ。

 そして、

「五分後のオンナ」

 に対しては、そのオンナが本当に、

「五分前のオンナと同じオンナなのか?」

 ということを考えさせられる章であった。

 それぞれに比較して、捉えるのだ。

 この二人のオンナの感覚が、まるで、箱庭の表から見ている自分と、箱庭の中にいる自分との比較であった。

 実際に、描くというわけではなく、そのイメージを捉えて、それを文章として整える。それが、執筆のテクニックだと感じるのだった。

 五分後のオンナと、五分前のオンナとであれば、どちらがどちらか見分けがつかないということであるが、

「これが、箱庭を通して見ると、その違いがハッキリと分かるのだ」

 というような設定にするというのも、少し曖昧ではあるが、まったく同じものを見分ける方法としての、

「怪奇性」

 ということで、そのような発想は、十分にありえるのではないだろうか?

 そんなことを考えると、最後の男性の場合だけ、まったく違ったシチュエーションとなる。

 そこに、

「転」

 を持ってくるか、いきなり、

「結」

 として結んでしまうか?

 ということが問題となってくるだろう。

 そのあたりは、実際に描きながら、プロットの段階で見れればいいが、今までの経験から、プロット作成の段階で、そこまで行き着くということはない。

 逆にプロットをうまく作り上げてしまうと、本文で言葉が出てこなくなってしまうだろう。

 そういう意味で、小説における、

「パワーバランス」

 をうまく働かせるのが、大切だということである。


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