第3話 五分前のオンナ

 以前、

「ノベライズ」

 と呼ばれたものがあったが、それは、平成初期くらいに流行ったものとして、

「トレンディドラマ」

 というものがあった。

 それらの多くは、

「原作があって、それを脚本家が、ドラマとして書き上げるという形ではなく、

「オリジナルの脚本を、放送局のディレクターが、有名脚本家に依頼する」

 という形が主流だった。

 それらの脚本から、作家が、今度は小説として再稿するという形で、

「従来の形」

 とは違った形での、小説が生まれ、書籍化されて、本屋に並ぶということが流行った時期があった。

 その、

「出版される小説」

 を、

「ノベライズ」

 というのであった。

 時代は進んで、今は少し傾向が違う。

 ほとんど、ドラマには原作が存在し、その原作というのは、

「マンガ」

 というパターンが多い。

 もちろん、小説もあるが、新作ドラマが公開される時期、十数本のドラマが製作されるが、小説のドラマ化など、ほとんどないし、オリジナルも、あまり見られない。

 ほとんどが、

「マンガ」

 というものの、

「実写垢」

 というものである。

 昔もマンガの、

「実写化」

 というものがあったが、それは、ロボットものであったり、ヒーローものというものが多かった。要するに、子供向けである。

 そもそも、その頃、マンガというと、

「子供が見るもの」

 というのが当たり前だったので、それも当然と言えば当然のことであろう。

 それを考えると、昔と今とでは、同じ、

「実写化」

 と言っても、まったく違う形のものだ。

 と言えるだろう。

 今のマンガのドラマ化というと、

「青春、恋愛もの」

 に少しSFなどの着色があったりするのが、定番だと言ってもいいだろう。

 そんなマンガが、映画化されることもあり、昔とは、様相を呈してきた。

 そこで産まれてきたのが、

「ライトノベル」

 なる形態である。

 これは、ジャンルというよりも、

「ジャンルを超越した形」

 のものだといってもいいだろう。

 要するに、

「まずは、小説があって、そこから、マンガが生まれる。そして、それを原作として、ドラマになる」

 という、

「ノベライズ」

 というものと少し形は違うが、似たようなものだと言ってもいいかも知れない。

 最近は、ゲームからでも、アニメができたり、マンガになったりする。

 つまりは、小説、マンガ、アニメ、ゲーム、ドラマと、前は一線を画していたものが、一緒の形態になって、そこからでも、進出できるという感覚である。

 その中でも、

「まず小説があって、そこから、ゲームやマンガになりそうなものを探してくる」

 という形であったが、

「ライトノベル」

 というのは、最初から、

「マンガやアニメにするために書かれた」

 いわゆる、原作であったり、原案というものである。

 昔もマンガにも分かれているものがあったではないか、

「作画と、原作」

 という形で、連名で発刊されるマンガもあったはずだ。

 そういう意味で、原案を小説として作家が作りあげ、それをマンガ家がマンガにし、そしてゲーム制作者がゲームにしていく。それが、ドラマ化やアニメになるのだから、考えてみれば、すべての原点となるものが、この、

「ライトノベルだ」

 と言っても過言ではないだろう。

 そういう意味で、ライトノベルという形態は、今でも結構発売されている。

 ある意味、今の時代の小説と言ってもいいだろう。

 だから、ネット小説家の中には、

「ラノベのプロとして、作家デビューしたい:」

 と思っている人も多いだろう。

 しかし、昭和のことのような作品ばかりを見てきた人間には、とても、

「ラノベ」

 という世界は分からない。

 今までであれば、聴いたことはあるがあまりなじみのない、

「ファンタジー小説のようなもの」

 がそうであろう。

「ファンタジー小説」

 というものには、

「異世界」

「異次元」

「異時代」

 というような、

「異」

 というものがついているものが多い。

 世界が違うのと時代が違うのは、ある意味似たところがあるといってもいいだろうが、時代が違うものは、まったく違った展開を要するのであり、この中では、一番、ノンフィクション足り得るとすれば、

「異時代」

 となるだろう。

 ただ、異時代というのは、あくまでも、時代考証を考慮しなければいけないというもので、歴史小説のように難しかったりする。

 ちなみに。

「時代小説」

 と

「歴史小説」

 というものがあるが、歴史小説が、時代考証をしっかりとしたノンフィクションであるのに対し、時代小説は、もっと、エンターテイメント性が重要で、架空の話を、時代考証をあまり考えずとも、楽しめる作品を目指すということが、その使命となるのだ。

 つまり、勧善懲悪であったり、読者が読んでいて、スッキリする形のものが要求される。そういう意味では、時代小説と言っても、読者は、ある程度の歴史的知識を持っている方が、絶対に楽しめるというものだ。

 だが、

「歴史の知識がない人が見ても、同じように楽しめる」

 という作品でなければいけない。

 それが、時代小説と、歴史小説というものの違いであった。

 ラノベはファンタジーなので、少なくとも、エンターテイメント性がなければダメだ。何といっても、マンガやゲームの原作だということが、最初から分かっているからである。

 ファンタジー小説の中では、

「異」

 のつくジャンルとは別に、また、

「転生モノ」

 というものがあるようだ。

 正直、難しいことは分らないが、

「輪廻転生」

 のようなものだということであろうか?

 ただ、それらファンタジー諸説と言われるものも、昔からのジャンルとして存在している、

「SF小説」

 であったり、

「オカルト小説」

 さらには、

「ホラー・怪奇小説」

 などというものに密接に結びついてくるというものだ。

 さすがに、さくらには、そんな

「ファンタジー小説」

 のようなものは書けないが、

「SF」

 あるいは、

「オカルト」

 などと言った小説は、書けるのではないかと思うようになっていた。

 特に、気になったのが、

「時間を使う」

 ということと、

「夢に出てくるような発想」

 というものであった。

 夢に出てくる発想として、一つ思ったものとして、一つ考えたのは、

「夢というのが、毎回覚えているわけではない」

 ということであったが、そんな中、

「覚えていないだけで、見ていないだけではないのではないか?」

 と思ったことだった。

 そこで考えたのが、

「いつも一定の夢だけを覚えているのではないか?」

 という考えで、それが、

「もう一人の自分を見ている」

 という発想であった。

「もう一人の自分」

 という発想は、さくらの中では、

「一番怖いことだ」

 と印象があった。

 というのも、

「誰から睨まれても、臆することのない人であっても、そういう人ほど、自分から睨まれることを、恐ろしいと感じるのではないか?」

 ということであった。

 しかも、

「もう一人の自分など存在しない」

 という当たり前のことを思っている時に、ドッペルゲンガーというものの話を聴かされたことで、正直ビビッてしまった。

 まるで、自分の心の中を見透かされているかのように感じたさくらは、

「一番怖いのは、もう一人の自分を感じた時だ」

 と無意識に思うようになったのか、

「夢を見ている時、一番怖い夢は何か?」

 と聞かれると、

「もう一人の自分が現れた時」

 と答えるに違いないと思っているのだった。

 実際に、何度ももう一人の自分が出る夢を見ている。そして、そんな時に限って、夢の内容を、ほとんど覚えているのだった。

 それを思うと、

「夢というものは、潜在意識が見せるものだ」

 と言われるが、まさにその通りなのだといえるだろう。

「ドッペルゲンガー」

 と呼ばれるものは、

「もう一人の自分」

 と言い換えることができる。

 これは、

「世の中には似た人間が、3人はいる」

 と言われているが、そんな、3人のうちの1人ではない。

 正真正銘の、

「もう一人の自分」

 であり、

「似て非なる者」

 というわけではない。

 ただ、ドッペルゲンガーの存在は、証明されているものではなく、

「著名人などが見たといっていて、実際に謂れ通りになった」

 ということから、その信憑性が騒がれているのである。

 その謂れというのは、

「ドッペルゲンガーというものを見ると、近い将来、死んでしまう」

 ということであった。

 いろいろな理由付けが存在する。

「元々、神経に疾患があることで見る幻なので、そのために、命を落とす」

 ということであったり。

「同一の人間が、同一次元の同一の時間に存在していて、それを見るという形で、接触したことで、タイムパラドックスに抵触したのだ」

 という理由付けもある。

 そのどれもに、一長一短の理由があり、

「俄かには信じられないが、無視もできない」

 ということなのであろう。

 実際、昔からいわれ続けていることであり、実際に照明もされていないことなので、それだけどこか、

「神かかっている」

 ということになるといってもいいだろう。

 ドッペルゲンガーというものは、本当にどういうことなのかということを突き詰めていくと、

「危険な領域に足を突っ込んでしまうことになるかも知れない」

 という思いもあり、実際の伝説や、研究内容を踏まえででないと、中途半端に沼ってしまうと、本当に、

「底なし沼に嵌りこんで、抜けられなくなるかも知れない」

 と思える。

 そういう意味で、本当にドッペルゲンガーによって、

「消された」

 と認識される人は、

「軽い気持ちで踏み入れてはいけない場所に足を踏み入れた」

 という、まるで、戒めのようなものなのではないか?

 と言われることもある。

 もちろん、どこまでが本当のことなのか、誰にも分かるはずがない。言い伝えというものが、いかに甘いものではないのかということを、実践しているのではないだろうか?

 それこそ、宗教かかった考え方であり、変な新興宗教は、絶対に忌み嫌われ、世間から敵対視されてしまうであろう。

 確かに、昭和から平成に掛けての、変な新興宗教はひどいのが多かった。

「家族を捨ててでも入信する人」

 が続出したり、

「テロ行為で殺人まで至る」

 というところがあったり、

「お布施と称して貢がせ、俗世をメチャクチャにして、その子孫にまで借金や不幸を背負わせる」

 というところもあったりした。

 それは、俗世の政治家と絡んだりする宗教団体があるのだから、

「法律なんか、あってないようなものだ」

 といって、見直しが迫られる事態に何となく陥っているのが、今の世界ではないだろうか?

 そんなドッペルゲンガーを意識しての小説なのか、さくらは、小説の中で、

「五分前のオンナ」

 というものを意識させるような内容にしようと思っていたようだ。

 主人公の女性が、

「五分後と、五分前にそれぞれ存在している」

 ということから考えたようだ。

 だから、

「彼女は必ず5分経てば、移動する」

 ということになり、

「五分前のオンナがどこかに行くと、五分後にまたオンナが現れる」

 ということになる。

 つまりは、

「前のオンナは、タイムリミットが5分しかないので、何もできない。後から現れたオンナも、前のオンナを追いかけているだけなので、結局、五分後には、どこかに移動していることになる」

 というわけなので、本当であれば、何かの行為はおろか、

「話もまともにできないのではないか?」

 と思われるわけで、果たして、どうなのだろうか?

 しかし、ここで、一人の男が現れるのだが、その男だけは、このオンナ二人と、ちゃんと交流ができているのだ。

 ただ、この二人というか、元は一人なのかも知れないが、主人公のオンナの存在を知っているのは、この男だけであった。

 もし、

「2人いる」

 ということが分からなくても、5分未満で急にどこかに行ってしまう女がいれば、

「それはおかしい」

 ということで、皆が怪しんで、ウワサになってしかるべきだ。

 実際に逢うことはなくとも、ウワサくらいは聞こえてくると、変なウワサが立っていることで、気持ち悪く感じるに違いない。

 そのウワサを聴くことはないということは、そんな女がいることを知っているのは、もう一人の主人公である、その男性だけであった。

 この小説は実に面白い形式を取っていて、

「全員が主人公なのだ」

 つまりは、登場人物は3人で、二人の主人公のオンナと、彼女たちを知っているこの男ということになる。(ただ、本当に登場人物が3人だけかということになると、そこは分からない。ラストのネタバレのところで、実際には違うのかも知れない)

 そういう意味で、最初から、一種異様な雰囲気を醸し出しているのだった。

 さらに、この小説の特徴は、

「男の方が、女性がもう一人いて、それぞれに自分に対して好意を持ってくれて、しかも、数分だけしか一緒にいないということであっても、文句ひとつも言わないことだった」

 と言える。

 5分前のオンナが、どういう行動をしたのかということを、彼女は男に聴くのだが、男は何も言わない。女は苛立ちが次第に大きくなり、男と別れなければいけない時間になると、その苛立ちは最高潮になるのだが、その時やっと我に返り、いつものように、

「ああ、あの女を意識してしまったことで、彼の気持ちを限られた時間で、征服することもできないんだ」

 と思い、自分でも、どうすることもできないことに、また苛立つのであった。

 しかし、オンナも運命からは逃れられないようで、結局、何も言えずに、その場から立ち去るしかない。

 だが、身体には、

「男の痕跡」

 というものをしっかりと感じている。

 たった5分未満なのに、男を感じることができるというのはどういうことであろうか?

 いくら、何でも、5分では何もできるはずもない。

 それを思うと、五分後のオンナは、不可思議な気分になるのだった。

 こう書けば、5分後のオンナだけが、激しい憤りを感じているように思えるのだが、実際には、どうなのだろうか?

 男にとって、確かに5分前のオンナと、5分後のオンナは、同じオンナなのだが、それは容姿が似ているだけの、

「別のオンナ」

 という意識があった。

 もちろん、頭の中では、同じオンナだという意識があるし、

「それ以外には考えられない」

 という思いもある。

 しかし、そう考えると、頭がおかしくなってしまうと思うのだ。男にだって、

「同一次元、同一時間に、同じ人間が存在しえるわけはない」

 というのを分かっている。

 そして、

「だから、同じ視界に入ってくることはない」

 と思うのだった。

 相手がお互いに意識し合って、会わないようにしているのか、それとも、自然の摂理のようなものが、会わないように、辻褄を合せているのか、どちらにしても、出会わないことで、世の中が壊れないとすれば、

「事なきを得ている」

 と言ってもいいだろう。

 男の方も、次第に、二人のオンナが、ちょうど、5分の違いで現れているということに気づいたようだ。

 だから、前のオンナは必然的に、5分未満しか、自分の前に姿を現すことはできない。

 男は、そう考え、二人のオンナが同一人物だと理解すると、

「同じ行動をするのではないか?」

 と最初は思っていた。

 実際に、最初の頃は、まるで、

「デジャブ」

 でも見ているかのように、実に同じ時間が繰り返されることに、気持ち悪さを感じたが、それも慣れてくると、

「次は、どんな感じに感じるだろうか?」

 と思うようになってきた。

 それを思うと、

「やはり、5分後のオンナも俺の前にいるのは、5分未満なんだろうか?」

 と思えてならなかったが、

「いや、そんなこともないか」

 と感じるようになった。

 その理由は、

「次第に、それぞれのオンナが自分を主張するようになると、その雰囲気に次第に、ギャップが生じるようになってきた」

 という感覚からであった。

 最初に違和感を持ったのは、

「5分前のオンナだった」

 彼女は、自分の前に5分しかいられないことを、ことのほかつらい思いとして感じていた。

 だから、

「あなたが、私を選んでくれるわけはないわね」

 と諦めの境地でそういうと、男の方も、

「ああ、彼女の言う通りなんだ」

 と、その言葉に暗示にかかったかのように、逆らえない気分になっていた。

 もちろん、暗示にかかっているということも分かっていた。それは、男が自分のことをよくわかっていたからである。

 だから、5分前のオンナに、そういわれると、

「信じられないようなことでも、何でも信じさせられる気がしたのだ」

 そうなると、オンナというものなのに、

「同性と相対しているような気がする」

 と思うと、

「もし、リアルで会っていたら、親友になれたかも知れない」

 と感じた。

 そもそも、この男は、

「男女間の親友」

 などという考えは、あり得るわけはないと思っているのだ。

 今でも、その思いは変わっていないが、それなのに、5分前のオンナにそう感じたということは、その女を、

「同性だ」

 と思っているということだろうか?

 いや、見た目にオンナであれば、オンナなのだ。もし、何かの力が働いていて、

「中の人が男だ」

 ということが分かったとしても、それでも、見た目が女だったら、オンナとしか思えないと感じることだろう。

 だからと言って、結婚や、セックスなどは考えられない。

「もし、結婚やセックスをしろ」

 と言われれば、秒で断るに違いない。

「心と身体は別なんだ」

 と思っているが、実際には、そんなことはないだろう。

 ということは、もし、相手が彼女でなければ、存在すら認めたくはなく、相手をするようなことはしないだろう。

 だが、毎日のように、

「5分前のオンナ」

 として現れ、自分に影響を与えるオンナ、紛れもなく、感情移入はしているのであった。


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