第2話 趣味の小説
時間というものが、いつも本当に規則的に動いているのかどうか、誰にも分からない。「そう、思わされているだけだ」
ということなのかも知れないが、信憑性という意味でいえば、どちらもハッキリとしていないだけに、あながち、
「間違いだ]
と言えないだろう。
ただ、それが、ほとんどはいつも定期的であって、たまにそうではない時というのがあるのかという感覚と、絶えず、不規則であり、
「時間の感覚というのは、その時に感じたことがすべてなのだ」
ということであれば、
「すべてが正しい」
ともいえるし、逆に、
「すべてが錯覚だ」
ともいえるだろう。
これは、決して、
「間違い」
だとは言えないということだけは、言えると思うのだった。
ただ、確かに時間の感覚は、精神状態によって、大いに違いを感じる。過去の記憶を紐解く時でも、
「思い出した時系列が、明らかに違う」
と感じることも、往々にしてあるようだった。
それを思うと、一口に時間といっても、
「その時に感じているリアルな時間帯」
と、
「過去の時系列」
を考えた時の時間とが、絡み合った時、時間の感覚に不可思議な思いを感じるのだった。
そんな五分間というのが、どれだけのものか、
「辛い時には長く感じられ、楽しい時にはあっという間だ」
とよく言われるが、果たしてそうなのだろうか?
というのも、その感覚は、
「後から思い出して考えた時」
に思うことである。
つまり、
「過去の時系列」
に近いものなのだ。
どういうことなのかというと、
「楽しいことも、辛いことも、今からどれくらいの過去にあったことなのか?」
ということを比較対象として考えているわけではない。
どちらかというと、
「時系列で、どれだけ遠い過去なのか?」
ということの方が多いような気がする。
つまりは、過去を考えるうえで、一つ考えることとして。
「自分がその過去に戻った時、今である現在を見ると、どうなるだろう?」
ということを、さくらは考えるようにしている。
「こんな発想をする人なんて、そうはいないだろう」
とさくらは考えたのだ。
そもそも、さくらは性格的に、
「ついつい、人と自分とを比較してみてしまうところがある」
という考え方をしていた。
それは、今まで付き合ってきた人には、あまり見られない性格で、しかも、こんな性格を、
「自分の短所だ」
とさくらは自覚しているので、
「まわりからは、嫌な目で見られていたのではないか?」
と考えるのだった。
「楽しいと思うことは、無数にあったような気がする。しかし、辛いことは、そんなにあったわけではないが、その分、結構重たかったようなんだよな」
と、さくらは感じたのだ。
楽しいことが多かったのは、
「いろいろなシチュエーションでも、立場上でも、その時々で楽しいことは必須であったように思うので、それは、恵まれているような気がする」
というものであった。
しかし、逆に、
「辛かったことというと、ある一定のことに限られているような気がするんだよな」
ということであった。
辛かったことというのは、中学の頃から書き始めた小説のことであった。
小説を書き始めた頃は、まわりでも結構書いている人が多かった。世間でも、
「小説を書くという趣味はトレンドだ」
と言われていた。
「ひょっとすると、小説家になるには、一番絶好の機会だったのかも知れない」
という時期だったのだ。
確かに、
「猫も杓子も小説家を目指す」
という人が多かった。
なぜかというと、
「書籍化するチャンスがあった」
という時代だった。
と言っても、別にプロになれるわけではない。
しかも、本を出すといっても、半分は、自分の手出しだったのだ。
一種の、
「自費出版」
であるが、そのかわり、出版社が、認めた作品には、
「協力出版という形で、費用の半分を持つ」
ということだったのだ。
「企画出版」
という、
「出版社全額負担」
と呼ばれるものもあるが、それこそ、
「宝くじに当たるようなものだ」
ということは自覚していた。
だから、全額負担など、最初から求めてはいない。
「とにかく、どんな形でも本にして、何とか本屋に置いてもらえれば、著名な人の目に触れることもあるだろう」
という、ある意味、
「他力本願」
というところであろう。
そんなことを考えていると、
「小説を出版するということで、作家への近道になるのであれば、それならば、お金ももったいなくない」
と考える人もいるだろう。
ただ、中には、
「借金をしてでも」
という人も少なくない。
ひどい出版社になると、素人作家が悩んでいる時に、背中を押す形なのか、
「借金をしてでも、本を出す人が多い」
ということを言って、悩んでいる相手に爆弾を投じる輩もいるだろう。
だが、少しでも、常識をわきまえている人は、そんな口車には乗らない。
「最初から、借金ありきで話をしてくる相手は、こちらのことを一切考えていないことの表れだ」
と感じ、そんなやつには、すぐに見切りをつけることだろう。
確かに、借金をしてでも、本を出せば、若干の一縷の望みを得ることができるだろう。
しかし、それを客の前で口にするということは、
「最初から、発行した本を売ろうという意識がない」
ということの現れではないだろうか。
「著名人の目に触れるかも知れない。何もしなければ、何も生まれない」
ということを前提として話をしているはずなのに、途中から、そのことを一切言わずに、金の算段だけを始めるというのは、
「胡散臭い」
と言っても過言ではないだろう。
一度そう思うと、それまで熱があっただけに、冷め方も急激である。冷めてしまうと、もう元には戻らない。
それでも、相手に礼儀を示していると、相手が今度は露骨になってくる。
「いやぁ、もう少し企画出版に対して、頑張ってみようと思います」
と社交辞令的にいう。
その時にはすでに、相手の下心も分かっているので、何を言われても、心が動くわけなどないと思うと、
「それは残念ですね」
と言いながら、次作の時にも、やはりお約束のように、
「協力出版」
という見積りだった。
「今度は何を言い出すんだろう?」
ち思って見ていると、
「今までは、私の推薦があることで、あなたの作品を優先的に、出版会議に掛けて、協力出版という形に持っていくようにしていたんですが、それも今回は最後です」
と言い出した。
こっちからすれば、
「ほら来た」
と思う。
相手はきっと、こちらが、ビビッて、
「そんなこと言わないでください」
と言って困ってくるのをいいことに、もっと、
「押してこよう」
と思うだろう。
しかし、ここまでくると、相手はもう、
「見切りをつけている」
と言ってもいいかも知れない。
なぜなら、
「これでダメなら、他の客を攻める方が効率的だ」
と思うからだろう。
つまり、名実ともに、
「見切りをつける」
ということである。
しかも、この言い方はさすが、最後通牒で、
「ダメならダメで仕方がない」
と思っているからであろうか。言い方が強気である。
しかし、この言い方は、割り切って聴いた人には、
「何とも茶番な」
と感じることだろう。
「私の力で出版会議に」
と言っているということは、裏を返せば何を言っているのかというと、
「あなたの作品は、本当は、どうでもいい作品なんだけど、私の力があるから、出版会議にも掛けられるんだ。だから、出版するなら今しかない」
と言いたいのだろう。
作者としては、これほど屈辱的なことはない。相手に対して、
「あなたの作品は、優秀だから」
と言っておいて、かたや、
「私の力で出版会議に推挙することで、虚力出版を勝ち取った」
と言っているわけだから、
「お前の作品は、橋にも棒にもかからない」
と言っているのと同じである。
これほどの屈辱があるものだろうか。
そんなことを言われれば、誰だって、
「誰がお前のいうことなんか聞くか」
と思うのだ。
さくらは、中学生でありながら、何度か、そんな出版社に応募して、いつも、
「協力出版」
であった。
どんなことを言われるかということも分かっていたつもりであり、実際に、、想像していたようなことを言われると、
「ああ、どうせそうなんだ」
と割り切ってしまった。
それでも、どこに応募しても、合否の判定だけで、作品に対しての評価をしてくれるところはないが、この出版社だけは、
「批評をしてくれる」
というわけだ。
その批評にしても、
「いいことだけではなく悪いことも書いてある。しかも、最初に悪いことを書いて、ちょっと気分を害しておいて、そこから、褒めちぎるのだから、なかなか巧者だと言ってもいいだろう」
それを考えると、
「胡散臭いとは思ってるが、せっかく批評してくれるのであれば、利用しない手はない」
と思うようになった。
そのおかげで、騙されることもなく、悩んだり苦しむこともなかった。
だから、さくらにとって、その出版社は、
「どうでもいいところ」
であり、
「どうせなら、騙されたふりをして、こっちが利用してやろう」
と思っていただけに、相手の理不尽な言い分にも、
「そら来た」
と思うのだった。
おかげで、
「こんなのが大人になれば、蔓延っていて、大の大人が、こんな子供だましの手口にやすやすと引っかかるんだ」
と考えるようになったのだ。
まるで詐欺手口のような出版社も、すぐに潰れていった。
「2年前は、出版数日本一を誇ったのに」
という自費出版会社が、2年もしないうちに、破綻し、多額の借金と、多数の裁判沙汰となっている事案を片付けなければいけなくなっていた。
それでも、民事再生を適用すると、
「債権者にとって、不利になる」
ということが横行するので、問題は、そう簡単に収まることはなく、大きな社会問題を巻き起こすことになるのだった。
その社会問題が解決すると、
「小説家になりたい」
という人は、ネットの方に走っていった。
もちろん、書籍化をしたいと思っている人は、去っていたであろうし、
「こんなひどい目に遭うのであれば、もう何もしない」
と思っている人も、これを教訓にして、
「危うきに近寄らず」
と考えることであろう。
それを思うと、
「今の時代のネットというのが、どういうものなのか?」
と思えてならなかった。
一時期、
「ケイタイ小説」
というのが流行った。
「ネット用語なる言葉を使ったの話のような、話ではないような作品」
で、
「これの何がいいのだろうか?」
と思った人も多いことだろう。
「直木賞」
のような著名な文学賞にまで関わってくるようになるのだから、
「世も末だ」
と思っている人も少なくないかも知れない。
そんな中で、
「ケイタイ小説」
とは違うのだが、
「ライトノベル」
という作品が生まれてきた。
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