遅れてきたオンナ
森本 晃次
第1話 外交員の女
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年3月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。今回は少し、かつてのドラマや特撮などに似たような話があり、それをディスったような形になっていますが、あくまでも、時代が違ってきたということと、いろいろな意見があるということで、寛大な目で、ご覧ください。あくまでも、フィクションです。
五分という時間を過ごしていると、長いと思う時と、短いと思う時がある。しかし、この時間を感じた時、最後には、
「ちょうどいい」
と感じるのは、何かの気のせいであろうか。
五分経ってから、五分前を思い出す時と、五分前から、五分後というのを思った時とでは、
「どうも、ちょうどいいくらいに感じる」
ということが分かるくらいであった。
つまり、そこから少しでも長かったり短かったりすると、起点から先を見た時、先から、起点を見た時、それぞれに、微妙な違いが感じられるというものであった。
それも、1分の違いからであれば、気のせいと思えるほど一瞬のはずなのに、実際に感じると、微妙どころではなく感じるのは、
「前を見た時と、後ろを振り返った時の違いなのに違いない」
といってもいいだろう。
それは、
「人間というのが、前を向いて歩いているのが基本であり、逆に、後ろを振り向いた時に、首筋が攣ったような感覚になることで、視線の遠近感が取れなくなり、微妙な立体感が、おかしくなるからではないだろうか?」
と感じるのであった。
それは、時間というものにも言えることである。
いや、時間というものが、規則的なリズムでコントロールされているだけに、余計に感じることだった。
規則的な流れは、自動で動いている感覚といってもいいだろう。
それを思うと、後ろを振り向いた感覚は、
「それまで進んできた道を、自分で違う感覚に歪めようとする、見えない力のような気がして、前を向いているのは、まだ未踏の場所だということが分かっているから、余計にハッキリと見えるように、コントロールされているのかも知れない」
そんなことを感じていると、ふと思い出す言葉が、
「百里の道を行くのに、九十九里を持って半ばとす」
という言葉である。
そういえば、昔、
「西遊記」
のドラマで、天竺までの道のほとんどを来たと思っていたので、
「目の前に広がった天竺の街を、まったくの疑いを持たずにやってきた」
というシーンがあった
そこは、引き連れている、師匠である三蔵法師ですら、分からなかったくらいで、この世界は、お釈迦様が作りあげた、
「幻影の世界」
だったのだ。
本来であれば、
「だいぶ来たことで浮かれたメンバーを気を引き締める」
というのもあっただろうが、問題は、
「どれだけの距離があるかもわからないのに、どれだけの距離を来たということなど分かるわけもない」
ということだ。
「分かっているつもりになっていることが油断を生む」
という戒めのようなものだった。
この話は、
「距離」
というものを見据えた話であったが、
「時間」
あるいは、
「時系列」
というものの話だって、あってもいいのではないだろうか?
この小説はそういう時間というものを考えるお話であり、その時間というのが、前述のように、
「前を見た時、後ろを振り返った時に、ちょうど同じに感じられる」
という、
「五分間」
という時間が、テーマになったお話なのです。
そのことを考えてもらえればいいと思うのだが、いかがだろうか?
この5分という時間の幅を、いかに考えるかということを、ちょうど、一人(?)のオンナと、それにまつわる、幾人かの男のお話だと思っていただければ、幸いなことであった。
五分という時間が、本当にどういう時間なのかということと、ここで出てくる男が、一体何人いて、この物語に影響してくるか、そして、
「果たしてオンナの正体と、人数が幾人なのか?」
ということも関わってくる。
果たして、時間や、時系列を使った物語というものが、いかに、シュールなものなのかということも含めて、考えていこうと思っているわけである。
登場する男も様々で、その男たちが、一体、どういう流れになっているのか、そのことも理解できるかどうか、難しいところである。
まずは、時間というものが、どういうものなのか?
人によって、その捉え方も微妙に違っているというところが、難しいところではないだろうか?
ここに一人のオンナがいるのだが、雰囲気は、
「オンナ」
というよりも、
「女の子」
という雰囲気がたっぷりだった。
年齢はいくつか分からないが、見た目は、20歳前後に見えるが、角度によって、女子中学生くらいに見えるところがあり、その角度を知ることが、彼女にとっての、友達としての、バロメータというところであった。
彼女は、名前を、
「篠山さくら」
と言った。
短大を卒業して、最近、保険会社のセールスとして就職した。
正直、そのあどけなさから、
「保険の外交員は、似合わない」
と思われるほどで、まるで、箱入り娘の雰囲気に、独り立ちして最初は、保険の入会者が、結構いるのだった。
彼女も、それが、自分の実力ではなく、
「新人という新鮮さと、自分でいうのも何だが、かわいらしさではないか」
と思っていたのだったが、それでも、さすがに、人から好かれるということはいいことだと割り切り、しかも、自分の成績も上がるのだから、まさに、
「願ったり叶ったり」
だったのだ。
ただ、それでも、彼女と面と向かった人が、それぞれに、まったく違った印象を持っていることを、最初は誰も知らなかったが、
「彼女が、どこか二重人格ではないか?」
と思われていたのも事実だが、まさか彼女の人当たりが、そのすべてで違うということは誰も気づかなかった。
というのも、
「こんな百面相のようなことを知っている人は、普通いるはずもない」
ということであった。
昔聴いた、逸話の中で、
「聖徳太子という人物は、一度に十人の話を聴くことができる」
というのがあった。
それは、あくまでも逸話であり、
「そんなことができるわけはない」
と言えるのだろうが、そこまでのことができても、いいくらいの人物だったということであろう。
まず、長い歴史の中でも、そんな悪魔的なことができるのは、
「聖徳太子以外にはいない」
といって。良くも悪くも、
「特殊能力を持った人間」
ということで、崇められるだけの人物だったのだろう。
そういう意味で、
「まわりの人、それぞれで違う態度が取れる」
ということは、聖徳太子に匹敵するくらいの能力だ。
つまりは、
「毎回、同じ人には同じ対応で貫ける」
ということだろうから、すべての人物に対しての対応を覚えているということだ。
これこそ、
「十人の話が聴ける」
という聖徳太子の能力に匹敵するものではないだろうか?
それは、聖徳太子に対しての逸話と同じで、
「どこまで、皆同じだといえるだろうか?」
ということである。
聖徳太子の場合は、信じる人もいるだろうが、誰でもない、一般の女性である彼女にそんな力が備わっているなどということを、誰が信じるというのだろうか?
それを考えると、
「人のウワサというのは、いい加減なものだ」
と言われても仕方のないことではないだろうか?
表情によって、性格が変わるというよりも、その時の心境によって、表情が変わってくるというのが真相であろう。
もっとも、それは彼女に限ったことではなく、他の人もほとんどがそうであろう。
彼女の場合は、
「それだけ表情が豊かになるほど、顔の筋肉が柔らかいのかも知れない」
ということと、
「表情が、人よりも多種多様であり、百面相といわず、百五十面相くらいのものを持っているのかも知れない」
と言われるほどであった。
「じゃあ、彼女の性格というのは、どういうものなのか?」
と聞かれると、
「豊かな表情に沿っただけの、喜怒哀楽が激しい」
という人もいれば、
「冷静沈着で、起こったところを見たことがない」
という人もいる。
ということは、彼女の場合は、
「性格も表情のように様々なのだろうが、それを表す相手も、選んでいる」
ということになるのだろう。
その場合は、自分の意思によるものなのか、それとも、無意識の行動なのだろうか?
さすがに、そんなことを本人に聴けるはずもなく、ただ、ほとんどの人は、
「無意識なんじゃないかな?」
といっているようだった。
もっとも、これを自分の意思でコントロールできるようなら、大変な才能である。まわりの人の心境としては、
「それを認めることはしたくない」
という思いに繋がるのではないだろうか?
それを考えると、さくらという女性は、
「掴みどころがないように見えるが、冷静沈着なところが表に出ていて、実に分かりやすい性格をしているのではないだろうか?」
と思っている人が多いようだ。
ただ、人によって、同じように、
「冷静沈着に見える」
といっている人でも、勘違いをしている人もいるようだった。
彼女の場合は、冷静沈着に見えるのを、
「いつも何かに怒っている」
と感じている人もいるようで、それが、
「他人を寄せ付けない」
というような雰囲気を醸し出しているようであった。
それを初めて感じたのは、いつの誰だっただろうか?
ただ、今のような保険の外交員としては、意外と似合っているようで、契約もそこそこ取ってくる。
かわいらしさというのを、あざとさから武器にしている外交員もいるが、彼女の場合はそんなことはない。
しかも、人によっては、
「いつも怒っているように見える」
と思っている人でも、契約に持ち込めるくらいなのだ。
きっと、他の人にはない、何かを持っていることであろう。
それを考えると、
「私は、意外と、外交員として向いているかも知れない」
と思っていた。
ただ、
「ずっとできる仕事でもない」
とも思っていて、ある程度の時期まで勤め上げて、その後、どうしようかというのは、まだ青写真もできていないようだ。
「何をやりたい」
というわけではないが、要するに、一つところにとどまって、ずっと仕事をするというタイプではないということで、ひょっとすると、
「保険の外交員は続けるが、別の会社に移籍をしよう」
というくらいのことは思っているかも知れない。
ただ、今の時点では、それ以上のことは、何も考えていないといってもいいだろう。
保険の外交員を続けていれば、どうしても、相手の若い男性と、かかわりを持つことになる女性も少なくないだろう。
彼女も、いろいろ目標を持っていながらも、
「一人の健康的な若い女性」
であることに変わりはない。
そのことを自分でも分かっているし、まわりの若い男性も、そういう目で見ていたようだ。
保険外交員もさまざま、自分から、肉食を表に出して、オーラを醸し出している女性もいるだろう。
または、あたかもそういうことはタブーだということで、自らにそういうことを戒律溶化して、言い寄ってくれば、外交員であっても、許さないという毅然とした態度に出る人もいる、
それは、当然成績に跳ね返ってくることであって、そういう女性が成績を延ばすということはなかった。
さくらの場合は、そのどちらというような態度ではない。しかし、普通にしていても、醸し出されるオーラというのはあるもので、その彼女の態度は、内側からのオーラで、イメージとしては、
「静かに燃えている」
という感じであった。
どこか、奇怪なオーラであり、下手をすれば、
「人を遠ざけるのではないか?」
と思えるようなものだった。
それを、彼女は分かっておらず、自分を避けるようにしている男性が、どうしてそういう態度を取るのか分からなかった。
もっとも、
「嫌われたのかしら?」
と、単純に感じ、
「去る者は追わず」
ということで、他に食指を延ばすようにしていたのは、フットワークの軽さという意味ではよかったのかも知れない。
そういう意味ではサッパリとした性格も持っていて、そこが、却って男性の目を引いているようだった。
さくらにも、彼氏と呼ばれるような男性ができた。
学生時代にも彼氏がいなかったわけではないが、なぜか、いつも自然消滅していた。最初は、中学生の頃、相手に告白されて、付き合い始めた。思春期だったこともあって。普通に告白されれば、当然嬉しいというもので、彼女とすれば、憧れていた、男性との付き合いであり、甘んじて受け入れたのだった。
最初の2カ月くらいまでは、
「中学生らしい、純粋な交際」
をしていたのだが、なぜか、彼が次第に連絡をしてこなくなった。
気にはなったが、それを確かめるだけの勇気が、さくらにはなかったのだ。
「ウブだった」
といってもいいだろう。
確かに、
「本当に好きなのか?」
と言われると、正直分からない。
しいて言えば、
「好きになってくれたから、好きになった」
というのが本音だっただろう。
だから、相手にその気が薄れていったのであれば、
「こっちが追いかけてもしょうがないのではないか?」
という思いがあったのも事実で、自然消滅ということであるなら、致し方ないと思っていたに違いない。
また、次に交際したのは、高校生の頃だっただろうか。その人からも交際を申し込まれ、断る理由もなかったことから、付き合い始めた。
しかし、その男は、完全に、
「独占欲が強い。自己中心的な男」
だったのだ。
途中から、さくらを縛り始めた。行動に対しても、あれこれ、口を挟むようになり、そのくせ、自分のことを話そうとしない。
さくらは言いなりであり、まるで奴隷扱いに変わっていった。
最初はそこまでプライドも高くないこともあり、さらに、
「グイグイ引っ張っていってくれている」
と思うと、
「楽できる」
という思いがあったからなのか、
「それでもいい」
と思うようになったのだ。
そんなプライドのないさくらであったが、さすがに、それがずっと続くとたまらないという思いになってきた。
これがプライドなのかどうなのか分からないが、
「男って、こんなものなのか?」
とその男に対して、怒りがこみあげてきた。
「一度も逆らわないので、図に乗っている」
と思ったので、ちょっと逆らってみると、相手は、明らかに動揺している。
言っていることの理屈も明らかにおかしい。
「なるほど、この男は、相手が言いなりでなければ、自分の本性が分かってしまうので、メッキで身を包んでいるんだ。しかも、そのメッキは、めちゃくちゃはがれやすいんだ」
と感じたのだ。
そう思うと、急にさくらは、気が楽になった。
今まで、気が張っていたということに気づかなかったことが信じられないほどに、身体が重たくなっていたようで、それでも、相手がもう少ししっかりしていればよかったのに、あの狼狽ぶりは、さくらにとっても、
「アウト」
だった。
もちろん、他の女性誰もが、アウトだと思うに違いない。そんな男を振るのは、これほど簡単なことだとは思わなかった。しかも、まったく罪悪感を感じなかったのだ。今までに、
「男性を振るということは、罪悪感の塊になりそうで、怖い」
と思っていたのが、まるでウソのように感じさせるものだった。
さくらにフラれた相手の男は、意気消沈して、それまで見せたこともない態度をあからさまに見せるようになり、見ていて、気の毒になるほどであったが、それも、本人の自業自得、さくらが悪いわけではない。
さくらは、そんな風に考えたのだった。
その次にさくらが付き合った男性は、さくらの方から告白した。相手はビックリしていたようだが、その態度を可愛らしいと思ったほどだった。
「タイプだったの?」
と聞かれると、
「いいえ、そんなことはないわ」
と答えるだろう。
人が、タイプだったのか聞いてくるというくらいに、その人は、これといっての特徴がなかったのだ。
しかし、第六感とでもいえばいいのか、さくらには、
「どこか、ピンとくるものがあった」
としか言えないところがあったのだ。
その人は、誰もが、特徴がないと思えるほど、平凡を絵に描いたようなタイプの男性だった。
だから、さくらが興味を持ったということが、まわりには、不思議だったようだ。
というのも、今までのさくらは、
「好きになれらたから好きになる」
というパターンだったのだが、それは、ある意味逆だったのだ。
「さくらは、それだけ、自分を分かっていなかった」
ということになるのではないだろうか?
他の人が興味を持つことに対して、その思いを冷めた目で見ていたのだ。
「どうして、あんな人が騒がれるのかしら?」
と、男性アイドル養成プロダクションに所属している男性アイドルは、さすがに、
「イケメンぞろい」
思春期の女の子から、結婚適齢期と言われるくらいまでの女性は、少なからず一度は、男性アイドルに夢中になる時期があったことだろう。
そういえば、最近では、結婚適齢期という言葉も、色褪せた言葉になってきている。
「昔だったら、20代がそういわれていたかしらね。30代が近づいてくれば、皆焦りを覚えたものよ」
と、母親世代はそう言っていた。
母親は、そろそろ50歳が近いくらいではないだろうか。30前の子供だったので、決して早くに生まれた子供ではない。むしろ、
「高齢出産に近いくらい」
であった。
ただ、30代でも、普通に子供を産む人が産むので、そこまで心配はしていないと言ってはいたが、やはり最初の子供は怖かったようだ。
ちゃんと生まれて、普通に育ったから、今では笑い話になったようなもので、その時は真剣に、心配をしていたという。
そんな母親の心配性なとことが、さくらにもあり、普段はそれほど表に出すことのない性格であるが、たまに、行き過ぎと思うくらいにその性格が表に出てくることがあった。
「たまにそういう性格が出てくるというのも、あまりいいことではないのかな?」
と感じるようになっていたのだ。
母親からは何も言われないのは、母親が天真爛漫な性格で、あまり、人のことを気にする性格ではなかったからであろうか?
さくらも、そういう性格だった。
というよりも、
「他人を意識しすぎると、相手にも悪いし、自分がブレる」
と思ったからだ。
「自分をブレさせたくないという思いは正解であったが、相手に悪いという思いは、少し考えすぎだった」
という気がするのだ。
さくらは、母親に感謝の気持ちを持ちながら、
「どこか似たところがある」
とは思っていたので、それがどこかを考えるようになった。
すると、一つ思いついたのが、
「一本筋が通っている」
ということであった。
いい意味なのか悪い意味なのか分からないが、確かに一本筋が通っている。ただ。それは、
「融通が利かない」
ということでもあり、それは一般的にあまりいい意味ではないということが分かっていたので、それ以上、聴くことができなかった。
融通というものは。誰に対しての融通なのだろう?
その他大勢に対しての融通など、とてもじゃないが、利かせられるものではない。それをしようとすると、いろいろなところでの忖度が必要になってくる。
「融通なのだから、忖度も必要なのは当たり前じゃないか」
という人もいるだろう。
しかし、さくらには、そうはおもえなかった。
「融通を利かせる」
というのは、
「自分でも理解していることを、変えることなく、もちろん、忖度もなく、人にぶつけることだ」
と思っていた。
それで、相手が納得してくれれば、
「融通を利かせた」
ということになるわけで、それだけ、制約も大きく、うまくいけば、達成感に溢れることであろう。
しかし、一般に言われている、
「融通を利かせる」
ということは、そこまで厳しいものではない。
大前提である。
「自分を変えない」
というところから、すでに揺らいでいるのだ。
だから、誰にでもできることであり、できないとすれば、
「自分には、融通を利かせるなどということはできない」
と思い込んでいる人なのではないだろうか。
「人に合せるために、自分を変える」
ということは、
「自分に妥協する」
ということであり、それを容認できる人とできない人の間では、
「大きな開きがあるのではないか?」
と、さくらは考えていた。
というのは、さくらにとって、
「人を好きになる」
というのは、
「自分にとっての妥協のようなものだ」
と思っていた。
というよりも、
「好きになられたから好きになる」
ということでしか、恋愛経験をしたことがなかっただけに、
「人を本当に好きになれることがあるのかしら?」
と考えるようになったのだ。
確かに、本当に好きになった相手というのが、いたのかどうか、自分でも分からない。
付き合った人の中には、少なくともいなかった。いたら、別れる時に、もう少しつらい気持ちになるだろうからである。
別れる時、あんなにアッサリしていたのは、拍子抜けでもあったが、人から聞く、
「失恋」
というものと、明らかな隔たりがあるということを、どう考えれば、よかったのだろうか?
そんなことを考えていると、
「好きになる人って、私にとって、どういう人だったのかしらね?」
と思えてならなかった。
そういう意味で、
「告白したい」
と感じた男性に告白する時は、怖いという思いももちろんあったが、それを含めても、自分にとっての初体験にワクワクした気持ちになったというのも、正直な気持ちだったに違いない。
告白すると、相手は少し驚いたようだったが、しばらくしてから彼が、
「俺もあの時、いずれ告白したいなって思ってたんだよ。君からしてくれて嬉しいな」
と言っていた。
「じゃあ、もし、私が告白しなかったら、あなたは、私への告白を諦めたと思う」
と聞くと、
「それは絶対にない。最初に感じていた告白とシチュエーションは、変わったかも知れないけど、どこかで必ず告白をするつもりだったからね。でも、その時のタイミングによって、雰囲気も喋る言葉も変わっていたに違いないと思うのさ」
と彼が言った。
「そうなの? 私嬉しいわ」
と言って、さくらは、正直嬉しく感じたのだった。
「ああ、こういうのを、恋愛というのかしら?」
とさくらは思った。
自分の気持ちをハッキリと口に出して言えるというのが、これほど爽快なものだとは思わなかった。
「相手と本音で話ができる」
ということを感じたことのなかったさくらだったので、それが、同性であっても異性であっても嬉しかったのだが、相手が、
「好きになった人だ」
ということであれば、これほど感無量なことはない。
「人を好きになるって、こんなにも素晴らしいことなんだ」
とさくらは感じたのだ。
「そんな幸せな時期が、永遠に続いてほしい」
と思っていた。
しかし、そんなことがないのが、人生だということなのだろうか?
何がうまくいかなくなる原因だったのか分からないが、急に喧嘩が増えてきた。そして、同時に今まで見えなかった相手の悪いところが、どんどん見えてくる。
「ああ、音を立てて崩れていく」
という思いが、さくらの中にあった。
そして、そんな崩れを感じてくると、必ずどこかに、
「もう修復できないところまで来たんだ」
と思う時が必ずあるようだった。
しかし、それは、自分が感じた時であり、その時はすでに遅く、場合によっては、少しでも変調を感じた時には、もうすでに、取り返しがつかないというところまで来ているということも、往々にしてあったりするものだった。
別れる時に、厄介な別れ方をすることはなかった。それはお互いに性格を分かっていたことで、避けることができた原因でもあるだろう。
それを感じていると、さくらにとって、恋愛は、勉強のように思えてきた。
他の人のように、どっぷりとのめり込むという意識がなかった。
「最初から、逃げ腰なのではないか?」
と感じていたが、どうもそうではないようだった。
「逃げ腰だったら、最初から、絡んでいかない」
と、そもそも、男性を男性として意識しないだろうと思っていた。
自分は、それができると思っていたのだが、思い過ごしだったのだろうか?
毎年毎年、
「自分は成長しているんだ」
という思いを持ち、
その気持ちに対して。
「信じて疑わない」
という自分を、いじらしく思っていた。
それが思春期における、さくらの
「プライドのようなものだ」
と言ってもいいのではないだろうか。
「思春期がいつからいつまでだったのか?」
と聞かれれば、正直曖昧な気がした。
それは、自分に限らずのことであろうが、ただ、さくらは、分かっている方ではなかっただろうか?
だから、恋愛においても、最初から、そこまで盛り上がっていなかったこともあって、別れても、そこまで尾を引くこともない。人が見れば、
「本当に冷めた性格だわ」
と思われるかも知れないが、
「熱くなることが、そんなにいいことなのかしら?」
と、さすが、冷静沈着と言われるだけの性格だと思えたのだった。
さくらにとって、
「人を好きになるということは、苦しいことだ」
という認識はあった。
「それが、嫉妬によるものなのか?」
あるいは、
「自分の中で相手に対して、心変わりをしないという結界を非常線のように引いてしまったことで、それが足枷のようになってしまっているのではないか?」
と考えるのだが、さくらの中では、
「嫉妬」
であったり、
「心変わりへの恐怖」
というものが、それほどあるとは思えなかった。
だから、逆にいえば、
「熱くなることを知らない」
と言えるのであろう。
熱くなることがないのは、意識の中で、
「熱くなってはいけない」
という思いが忠実に実行されているからなのか、それとも、
「熱くなる」
ということがないわけではなく、
「冷静沈着な性格が、熱さを覆い隠しているからではないか?」
と感じるのであった。
それを思うと、さくらにとって、後者の、
「見かけの、冷静沈着さ」
というものが、どれくらいのものなのかということが、大いに興味を寄せられる気がしたのだった。
さくらは、それだけ、
「自分を知りたい」
と思っているということだった。
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