第六話【死にたくない】

 あの人、弘人さんから告白を受けた時、私は即座に断った。まあこれだけ聞いても分からないだろう。詳しく言えば弘人さんのことを知ったのはこの日だった。

 弘人さん曰く一目惚れだったらしい。だけど、さすがに初対面で、いきなり告白されても付き合う気にはなれない。

 これまでに数回告白を経験されたことがあったけど、その全てが友人関係だったり、少しばかり関わりのあった人たちだった。

 私はその人たちとは気まずくなって互いに気遣い過ごすのが嫌で、告白されてから関わらないようにしていた。しかし、弘人さんはそれから毎日、諦めず私にアプローチを続けた。最初の方は軽く流していたけど、途中からは話すことすら面倒になって無視をしてしまっていた。でもある日、いつも通り告白を無視した時、弘人さんが小さく呟いた。

『実は僕、もしかしたら転学するかもしれないんです』

 別にどうでもよかった。頭の中ではそんなことを考えていたけど、私の心のどこかで引っ掛かった。当時の私は気のせいだと自分の心に嘘を吐いた。

 ————この判断が私の人生の中で最大の汚点になる事なんて知らずに。

 自分の心に嘘を吐いた日から数日、それからも弘人さんはめげずにアプローチを続けていたのだけど、ある日姿を見せなくなった。初めはやっと面倒ごとから解放されたと久しぶりの日常を満喫していたのに、あの日から日に日に心の引っ掛かりが増しているような気がして、胸のざわめきがうるさい程に大きくなって耳障りに感じるようになる。

 そして弘人さんが姿を消して一週間経った日、吐いていた嘘というストッパーが完璧に壊れてしまい、自分の感情が分からなくなった。嬉しいのか悲しいのか、色んな感情がごちゃ混ぜになって居ても立っても居られなくなった。

 私は直ぐに大学内の生徒や教授に話を伺い、彼がどこへ姿を消したのかを突き止めた。

 彼の居場所は私が通う大学から幾つもの県を跨いだ先にある専門学校だった。大分遠く、大学を休まなければならなかったが、彼の事を……いや私の彼に対する思いを確かめたいという一心でそこへ向かった。

 その専門学校はITやプログラミングを主にする学校で、校舎に関して、見た目は大分綺麗だった。私が専攻している科目の教授の中にこの専門学校につてがある人が居て、何とか学校見学という形で校舎内に入ることができた。本当にその教授には感謝しかない。

 校舎内には私服で和気藹々と過ごしている様子が目に入り、私は専門学校の教授の話を無視して彼がいないかを探していた。

 もうすぐで日が暮れ、見学時間が終了に近づいていた時、見覚えのある背中を私の目が捉えた。その人は間違いなく彼で、友人らしき人物と楽しそうに会話をしている姿が私の心臓を跳ねさせる。どう声を掛けるべきなのか悩んでいたものの、結局答えが見つからなかった。だけどこんな風に考え建てたって物事が進まないと思ったその時。

「あ、あのっ!」

 頭で意思決定をする前に体が動いて、その見覚えのある後ろ姿に向かって声を掛けていた。

「はい? ……って、三奈さんじゃないですか! なんです、態々僕に会いに来てくれたんですか? ……さすがに自意識過剰ですよね……」

 何故か頬をポリポリと掻く彼の姿は、視界に入れた時より魅力的に見えて、胸がときめくような感覚に陥って、上手く頭が回らなかった。だけど、心の底から伝えたかった言葉が、葛藤する私の脳を裏切って、少しずつ言葉となって彼に届く。

「……今まで、ごめんね、今、君の姿を見て、思った。——大好き、だって」

 そんな、言葉を小さく頷きながら聞いてくれた彼は、一度感極まったような表情を露にしてからすぐに笑みを浮かべて。

「僕も、だよ……!」


「とまあ、こんなことがあって、数年付き合ってから結婚したって訳。今改めて思い出してみると、結構ロマンチックだったね……」

 嬉しそうに語る母の声には、どこか小さく儚い気持ちが込められているような気がした。だけど、それに触れることはせず、母の過去話に感想を付ける。

「母さん、なんで父さんのこと好きになったんだ? 別にそれで好きになる要素なんてなくないか?」

 俺の言葉に母は苦笑をして、自嘲するかのように説明を始める。

「私自身でも分からないの、だけど、心の内からこの人じゃないといけないって言うのかな? なんというか……所謂『運命の人』? って感じがしたの」

「運命の人って……そんなのいる訳ないだろ。何かしら理由があるはずだろ? 例えば、カッコよかったとか」

「自分の夫に言うのもなんだけど、一般的にイケメンとか、カッコイイとかは」

 ではなぜ母は父に対して恋愛感情を抱いたのか、そもそもとして運命の人なんて存在する訳がない。何故か、それは人間、もっと言えば生物は自分の意思を持ち、それで行動するから。生まれた時から人生が決まるなんてことあるわけがない。

 しかし、これはただの個人的な考えにしか過ぎず、運命がないという証拠も、根拠もない。そのため否定するのは理にかなっていないのだが、どうしても考えの違う人間に反抗してしまう。これが思春期ならではなのか、それとも人間としての本能なのか、俺には分からなかった。

 ここで話が脱線していることに気付き、俺は即座に思考を戻す。だが、どこまで考えても結局これという結論は出ない。

 俺は顎に当てていた手を離して母の方を向く。そこには苦しそうに転落防止用の柵にしがみ付いている。なんでそうなっているのか全く分からない。だが、このまま放っておいたら駄目だと、自分の本能がそう言っているため、考えるよりも先に大声を出す。

「誰か! 誰か来てください!」

 上手く血が巡っていないからなのか、視界が端から黒に染まっていく。だが誰かが来るまで叫び続けなければ、母が死んでしまう。

「誰か——!」

「どうしたの? って、大丈夫⁉」

 部屋の前で待っていてくれたのか、入間や恵茉、仁志田が病室内に姿を現す。入間は柵にしがみ付く母を見るや否や直ぐに駆け寄る。そして、腕を母の背中に回して状態を確認し始める。

 さすがは医者といったところ。応急手当に随分と手慣れているようで、数分も立たない内に母の容体は良くなった。そして近くにあった丸椅子に座らせると、入間は問いただすように母へ質問を飛ばす。

「ねえ、何かあるの? 何か病気を患っているの?」

「…………」

 黙り込む。それは何かやましい事があったり、話すことができない話題だからではない。心から敬愛する友人に、愛する家族に言えないような事情だから、そう俺は感じた。

 しかし、入間は答えない母に不安を感じ、苛立ったのか、声を荒げながら言葉を乱暴に投げつけるように発する。

「つい最近も同じようなことがあったでしょ⁉ あの時も三奈は何も言ってくれなかったじゃん! 私、心配なのよ? 三奈の身に何かがあったらって、あの時から全然顔を見せてくれなかったし、それに今日は急に来て、急に自分の子供の為に命を差し出すって言うんだから。……私は、三奈にもっと自分の体を大切にして欲しい。弘人さんの事とか、今の、この状態になってる原因とか話したくないことかもしれないけどさ、少しは話してくれてもいいじゃない、私たち小さい頃からの付き合いでしょ……?」

 入間は途中から徐々に冷静になり、諭すように母へ問いかける。母は葛藤しているようで、瞼を閉じ、険しい表情を露にしている。

 母はパニック障害に似たものを患っているとしか母の担当医から聞いていないため、母が何を患っているのか、正直な所本当の事は分からない。

 だから、母が何を隠しているのか、俺は興味半分、不安半分な気分となり、訝しるように母の横顔を見つめる。数分悩み込んだ末、母は意を決したように表情を固めて、すぐ横に居た入間の顔と俺の顔に視線をやってから重々しく言葉を発し始める。

「このことは私とかかりつけ医しか知らないの。それに話してもいいのかなって思って、入間は大事な大事な親友だし、隆太は大好きな息子だから、心配掛けたくなかった。だから話そうにも話せなかったの。だけど、もう話せる時間は少ないって思ったらやっぱ話しておいた方が良いよねって思って」

 母の言葉を静かに頷きながら見守る。入間はゴクリという風にカッチカチの顔をして親友の顔を見ている。後の二人は気まずそうにしているが、当事者意識があるからなのか、真剣に話を聞いているようだった。

「私……肺に、癌があるの」

「癌……」

「……その癌って、どこまで進んでるの?」

「この前……三か月前の診断だと、ステージ4って……」

 ステージ4。それは治療することが難しい程に進行しているということで、生死の狭間にいるのと同様でもあるのだ。しかし、最近だと治療もできるらしいのだが、そんな話母から全くと言っていい程聞いていなかった。

「母さん、その肺癌っていつ見つけたの?」

「六年前のこれぐらいの時期だったと思う」

「でも——」

「六年前って、それから今の間に手術とか治療とか、何とかで来たでしょ!」

 俺が母さんに言葉を掛けようとしたところで入間が遮り、興奮している様子で母の肩に両手を置いて、正論を放つ。その正論に「確かにそうだけど」と分かった上で反論をする。

「自分の子供を、家に一人にすることなんでできないよ……」

「じゃあ、再婚相手に任せたらよかったじゃない!」

「万葉さんは……それでも、隆太に迷惑を掛けたくなかったから!」

 目の前で火蓋が切られた口論に本来なら俺が仲裁に入るべきなのだろうが、俺は注目することができず、次第に激しくなっていく口論に遠くで様子を見ていた二人が仲裁に入ることになった。

(なんで、気付かなかったんだ? もし、気付いていたら、治療させることができたはずだろ、ああクソ)

 俺は目の前で繰り広げられている口論より、母の口から飛び出てきた言葉が俺の思考に引っ掛かり、頭の中で自問自答を繰り返し、自責の念に駆られる。

(俺なら気づけただろ、毎日母さんの様子を見てたんだから、些細な変化でも分かるって思っていたのに、俺が気付けなかった所為で……いや、俺が母さんから生まれてきたのが悪かったのか? そもそもとして生まれてこなかったら母さんは手術を受けていた訳だろ?)

 どうすべきだったのか、どうすれば母が手術を受け、元気に慣れたのか、頭をフル回転させ、思考を巡らせた結果。『生まれてこなければ』という結論に至った。

 だが、その結論に至ってすぐにこんなことを口にすれば母はどんな風に思うか、どんなことを言うか、どんな感情になるかと考えるとあまりにも言葉にできず、それどころかこんなことを考えていることが嫌になって思考を切り替える。

 手術を受けさせるためにはどうするべきなのか、今から手術させたら間に合うだろうか、なんてそんなことを考えていると、目の前で起きている口論が収まって来たらしく、落ち着いた二人は小さな声で謝り合っていた。

 その姿はまるで幼稚園児同士が仲直りをするときのようだった。いつ母に提案をするべきか、悩んでいると、右肩にトントンと軽く叩かれる。俺は叩かれた方へ無意識に視線を飛ばすと、そこには困り顔をした恵茉の姿があった。

「あの状態から全く進展しないんだけど、どうしたらいい?」

「……どうしろって言われてもなあ、俺も分かんねぇよ」

 大人二人の様子にどうしたらいいか分からなくなったらしく、俺に質問紙に来るが、正直俺にもどうやって元の状態に戻すかなんて分からない。なので恵茉にもそう伝える。

 ここで、ある事が頭をよぎる。いやしかし、と頭の中で〝それ〟を実行する派と実行しない派で言い争い、葛藤する。その結果——。

「なあ、母さん。俺の事はまだ生きれるかもだしさ、俺には母さんに生きていて欲しい。だから、癌の手術を受けてくれない?」

 そんな俺の言葉に一瞬で形相を変えて、静かに怒りを込めた言葉を俺に向かって飛ばす。

「ねえ隆太。母さんはね隆太に生きて貰ったら嬉しいの、でもそれ以上にね、これまで血の繋がったお父さんがいない育ってすごく迷惑を掛けたって私は思ってるし、いつもよくしてくれている恩返しがしたいの。もちろん私だって死にたくない。だけど隆太の方がまだ人生を楽しむ時間がたっぷりあるでしょ、こんな年の食ったおばさんの世話なんかじゃなくって、好きな子とか、恵茉ちゃんとか伊月くん、色んなお友達の為にもっと時間を使って欲しい。だから癌治療はしないで隆太に心臓移植をする。運よく癌を患ってるってこと以外健康状態は良好だしね」

 母の言うことはすべて理にかなってる。若い人間を生かすというのは確かにいいことなのかもしれないが、それでも、俺は母に生きていて欲しい。

 そんなことを思っていたら、何かが込み上げて来る感覚に続いて目頭が熱くなり、頬に何かが伝っていく感覚がする。それが何なのか分からず、そっと指先で頬を撫でる。

 指先に液体のようなものが付着する感触と、ほんのりと暖かいものだということに気付く。頭の中ではそれが何なのか分かっているのだが、理解が追いつかなかった。

「隆太、泣いてる……?」

「は? い、いや、え?」

 恵茉にそう言われてやっと何が起きているのか理解できた。だが、自分自身でも何故涙を流しているのか分からず、戸惑ったように目元を手首で拭う。

 少しして、病室にいる全員が俺に視線を集める中、涙が止まったかと思うとふと服の袖部分に目をやる。そこには、涙で滲み、変色した水色の患者服があり、大分泣いたらしい。

 涙が止まるにつれ、もっと泣きたい気持ちや、心の奥深くから叩き上げて来る言葉にはできない感情が収まってきて、落ち着きを取り戻す。

「ごめん、なんか、自分でもよく分からなくて」

「大丈夫、こういう時こそ自分の母親に話してみたらいいのに」

「いや、それは流石に、泣いてる姿を見られて、しかもなんで泣いてたのか分からないから質問するって結構恥ずかしいし」

「まあそういうと思ったけど、っと~ななちゃん、いつ移植手術するの? 私の体がいつ急変するか分からないし今月の間にはしたいんだけど」

「それなら大丈夫。さっき同僚に確認を取ったんだけど今週中、遅くても来週中にはできるって事みたいだから」

「そう、なんか色々とありがとうね、隆太の事も、私の事も」

「そんな、医者として、親友として当ったり前のことをしただけよ!」

 用意周到で、今すぐにも手術ができるというのは入間が同僚から信頼されている証なのだろう。そして微笑みながら当たり前だと告げる。その言葉に何かから救われたような、そんな気持ちになる。


 それからは毎日、母や恵茉が面会に来るようになり、朝になると入間さんが体の状態をチェックしてくれるようになった。しかし、頭の中である疑問が浮上してくる。

 ——なんでいつまで経っても、伊月は来ないんだ? と。

 特生退で俺が倒れてから一度も俺の視界に伊月が映ったことはなかった。あともう少しで手術だというのに親友の姿が見られないというのは寂しいという気持ちもあるが、それに以上に不安という気持ちの方が大きい。

 何か伊月の身にあったのか、俺の事が嫌いになってしまったのかなどと邪推を立ててしまう。だが、最終的には忙しいのだろうと決める。そしてメッセージを送ってなかったことに気が付き、伊月へ病室番号や病院の名前などを分かりやすくまとめて送信する。

「まあ、そうだよな、なんの連絡もなかったら来ていいのか分からねぇよな」

 メッセージを送ったところで見てくれるのかさせも分からない。だが何もしないよりかはマシだろうと思う。来なくてもいい。だけど今の俺の状況を知ってもらいたかった。

 その欲求が何故出てきたのか分からないが、メッセージを送信してから少し心が軽くなったような、そんな気分になった。

 また日が経ち、手術予定日の前日になった。いよいよ明日が手術ということでソワソワし始め、不安に駆られる。母は少し前に違う病室に入院し、明日の為に色々と準備しているとのこと。明日に手術を控えた今でも本当にこれで良かったのかと思うことがある。

 本当に母の心臓を俺に託されても、母の人生を肩代わりしても良かったのかと、もっと他にどちらもが生きることができる分岐があったのではないのか、そう考えてしまう。

 だけど、これは母が、そして俺が選んだ道で後から帰る事なんてできない。母の願いを受け入れるのが息子である俺ができる最大限のことだから、もうこんなことを考えるなんてやめる。これが最善の選択であったと、未来の自分が思えるように生きることにする。

 すると、ベッドの脇にあるテレビなどが接地されている棚に置いていたスマホがブブ—ブブ—と振動して、通知が来たことを知らせる。

 腕だけを伸ばして手探りでスマホを見つけ出し、スマホの端と端を掴んで身のある方へ引き寄せる。探し出すことに少し梃子摺ったせいか自動的に電源が落とされていて、俺は側面にあった電源ボタンを親指の腹で押し込む。

 するとどこかの情景を写した背景にメッセージアプリのアイコンと共に『伊月:明日そっちに行く』という文面だけが表示されていた。

 それを目にした瞬間ビクッと肩を跳ねさせる。急に来た連絡に驚きを隠せないでいると、追撃するようにまた伊月からメッセージがやって来る。俺は通知を見る前にメッセージアプリを起動して、伊月とのメッセージ画面を開く。

 先ほどのメッセージに続いて新しいメッセージが送られている。

『ついでに小敷先輩来るから』

 意味が分かるが分からないことを伝えて来る伊月。その文を見て理解できないのと同時に不思議に思う。

 小敷先輩がこの俺になんの用があるのか、確かに後輩だからという理由で来るのは分かるが、あの人と話してみてそんなことを思うような人ではないと、そう感じた。なので俺に会いに来る道理がない。

 しかし、別に会いに来てはならないということではないので、取り敢えず『分かった』と返信する。

「そういや二人はいつ来るんだ? 十一時くらいには始めるって聞いてるけど」

 会いに来るとは言っていたもののいつ来るのかは言っていない。午前中なら会うことができる。だが午後となると手術後なので俺が起きていない可能性が高い。

 そう考えるが、まあ別に問題はないか、となかったことにする。どうせいまた会えるのだから。楽観的に見てから俺はベッドに身を任せて脱力する。

 最近何かとあり疲れが溜まってるからなのか、数秒経つと睡魔によって意識が朦朧となる。だがもうすぐで夕食の時間なので何とか持ち堪える。

 入間さんたちから今朝色々と説明を受けたが、正直今一覚えていない。色々とされたが、余計なことをしないよう全て入間さんや看護師に任せたのでほとんど何もしていない。

 今日一日あったことを思い出しているとコンコン、と病室内にノックの音が響く。

「失礼します~、夕食です~」

「ありがとうございます」

「いえいえい~、明日手術だね、頑張ってね?」

「はい、お気遣いありがとうございます。入間さんたちを信用してるんで大丈夫だと思いますけど」

「そんなこと言ってくれるなんて嬉しいじゃない」

「入間さん⁉」

 夕食を運んできた看護師に付いて来たのか、俺のいる場所から視覚になっていたところから姿を現した入間。本人に聞かれては少し気恥ずかしい内容だったが、本当に信用しているのは間違いないので否定することはない。

 入間は看護師に「もう大丈夫だよ」と言ってから俺の隣にある丸椅子に腰を下ろす。そして看護師が病室の扉を閉めた音がすると、閉じていた口を開ける。

「隆太君、怖い?」

「それは、手術についてですか?」

「勿論、そう。そうだけど、お母さんがいなくなるって怖くないかなって」

「そりゃあどっちも怖いですよ、もし失敗したら死ぬんですから。でもさっきも言った通り入間さんや手術に関わる人たちの腕を信用してるんで、大丈夫だと思ってます」

「母さんの事は、いなくなるのは怖いですし、嫌です。だけど、それが母さんの思いで、母さんが伝えた願い、それを叶えてあげるのが今、最後にできる親孝行だと思うので。それに手術が成功したら俺の胸の中で生きてるじゃないですか」

 人生経験の浅い、こんな若造が言えることなのかと内心生意気行ったことを反省するが、入間は「そっか」とそんな一言を溜めてから放つ。そして膝に両手を置きながら立ち上がると頼りがいのある、意を決したような笑みを俺に向けて、両手を白衣のポケットに突っ込む。

「ありがとう。明日は任せて! 絶対に成功させるから!」

「ええ、お願いします」

 俺はそう端的に答える。それから入間は片手をひらひら振りながら病室から出て行く。

 ベッドに付属している折り畳み式の机の上に並べられた夕食はほんのり暖かく、今すぐにでも食べてしまわないと冷めてしまいそうだった。

「……てか、この食べた後の皿どうするんだ?」

 病室には誰もいない。なのでこの食べ終わった後の皿だけが机の上に残り、放置される。こんなことでナースコールをするのは迷惑だろうし、困惑を顔に出しながら俺は唖然とするのだった。

 あの後、食器の数が足りないことに気付いた看護師が駆けつけて食器を片付けてくれたため何とかはなった。その後は明日手術がある事、睡眠欲が異様に高くなっていることから、俺は消灯時間より少し早めに意識を夢の世界へ飛ばした。


 翌朝。小鳥の囀りと共に俺は目を開き、体を起こす。視線の先には朝日が差し込み、昨晩の暗さが嘘かのように明るくなっている。そんな病室で俺は一度大きく伸びをしてからスマホを手に取り、電源を付ける。

 すると、いつもでは通知があっても公式メッセージか、一、二件ほどなのだが、今日に限っては五、六件ほどあった。例えば母からであったり、恵茉や伊月、仁志田に小敷、、そして最後に義父である万葉からも来ていた。

『頑張れ』や『大丈夫』などと応援メッセージだった。そして万葉からは『辛いだろうけど頑張って』と案外普通な応援だった。

 そんな言葉を沢山貰ったら無意識にも口角上へ上がる。……いや待て、万葉はどうやってこの情報を受け取ったんだ? そんな疑問が生まれてくるが、少し頭を働かせば分かることで、一応義父であるためそのような情報は病院側から伝わっているのだろうと。

 暫くすると病室に看護師を連れた入間や恵茉。それから万葉が姿を現した。

「隆太君、あともう少しで手術だけど、何かおかしい所とかない?」

「いや、特には……それより、なんで万葉さんが居るんです?」

「それはねー、君の家族だからさ、手術するには家族の付き添いが必要だろう?」

「そうですか」

「私はね、少し縁起の悪いことだけど、もしかしたら隆太の顔を見るのが最後になっちゃうかもしれないから」

「本当に縁起わりぃな……ってそういや伊月って見たか?」

「伊月? 見てないけど」

 やはり朝には来ないのだろうか、俺は少し寂しさを覚えつつも時間に余り余裕がないということで早速入間から説明を受ける。

 しかし、何を言っているのか全く分からず、俺は終始ポカンとしていて全く頭に情報が入っていなかった。だがまあ、なにかあったときは入間さんたちがどうにかしてくれるだろうと、また勝手な希望を抱く。

 俺とは違って真剣に話を聞いていた恵茉は「大丈夫だよきっと」と俺に言葉を掛ける。

 思ったのだが、今朝のメッセージと言い、恵茉のこの言葉と言い、俺に死亡フラグめちゃくちゃ刺さっているような気がするんだが……。しかし、こんな事考えていてもしょうがいないと、違うことを考える。

 万葉が何故急に姿を現したのか、あれから一切姿を現していなかったのにこういう時のみ父親面をする。なんだかそう考えると怒りが込み上げてくるが、一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。それからこの手術を受けることができているのは万葉が手術代を出してくれているおかげでもある、と考えることで怒りを抑える。

 しかしまあ、もうすぐで生死の狭間に立つ手術をするのだと考えると怖いという感情が沸く。もしかしたら死んでしまうのではないか、母の命を無駄にしてしまうのかと思ってしまい、不安にも思う。

 こんな感情、手術を受ける人なら絶対になるのだろうが、こんなにも胸が締め付けられるぐらい苦しいことだったのかと楽観視していた過去の自分が嫌になる。

 そんなことを思っていても時間とは無情にも進み、もう少しで手術が始まる時間になる。

 今は麻酔を打つ準備をしているらしく恵茉が俺の手を握り、自分の額に付けていた。

 万葉は入間と会話を交わしているようだった。

「恵茉、そろそろ離れよう? 俺はきっと、絶対に大丈夫だからさ」

「そうだけど、心配じゃん」

 返す言葉がない。好意を抱いている人が手術をするとなれば大体の人はこうなるだろう。俺もこうなる自信しかない。それでもされる側は嬉しい気持ちが大きいが、恥ずかしいという気持ちがあるのも当然で、どうすればいいのか分からなかった。ある言葉が頭の中をよぎる。

 ——『もうこの世界に母は……』

 最後まで見てしまうとまたもや泣いてしまう気がして、何とか直前に目の前の恵茉に視線を飛ばすことで遮る。

「じゃあ、麻酔打ちますよ」

「また会うのは手術が終わった後だね、こっからは私たちに任せて」

「お願いします」

「頑張って、ね」

「ああ、ありがとう」

「僕が言えたことがじゃないだろうけど、諦めないことだよ」

「はい、分かってます」

 互いに顔を見ながら別れの言葉を交わしてから、俺は麻酔を腕から注入され、意識を暗闇へと落とすのだった。

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