第五話【予想だにしない議論会】
周りから大きな声が飛び交い、響く室内。その声のほとんどが声援のようだったが、それは俺たちに向けられたものではなかった。逆に俺たちに浴びせられたのは「退学」やら「死ね」などの刺々しいただの暴言の数々だった。
まあ嫌われていても仕方がないだろう、なんせ俺たちは外部生。内部生からは家にコソコソと侵入してきたドブネズミと同等の存在なのだから。煙たがれ、嫌われるのは当然だろう。
それでも、俺たちはここに残るために戦う。それ以外の何物でもない。何故残るのか、そんなの知ったこっちゃない。
恵茉や伊月、この二人のために残るのかもしれない。そう俺は自分の心に言い聞かせて俺はこの舞台に立つ。どんなことを浴びたとしても屈さずに。
「さ~て、すっげぇこと言われて気がするけど、気にせずやるか」
「ま、仕方ないよ、僕たちはただの一般人で外部生なんだからさ」
「それもそうだねー、でもこれが終われば勝っても負けても言われなくなるんだしね」
「そんな負けるって言わないでよ、不吉でしょ?」
「へいへい、まあ全力でぶつからなきゃ私たちはここに残れないからね」
こんな状況なのに冗談を言い合う俺たち。こうでもしないと体中の緊張が解けないのだろう。だから無意識に面白くもない冗談を言い合う。
(今考えると人間って、面白いよな……)
そんな哲学的のようなことを考えながら俺たちが先輩と議論し合う本当の舞台へと足を踏み入れる。
つい先ほど採取ミーティングが終了したため作戦やどう言葉を飛ばすのかは頭に入っている。だけど本当に口にすることができるのか、他人からの視線がある中で言えるのか、そんな恐怖が頭を支配する。
しかし、しなければ、言えなければ今日この日のために動いてきた人たちの努力がすべて水の泡になる。そう考えると怖さなんてなくなった。
「えーじゃあ、今から特生退の議論会を始めます。司会は生徒会長の
仁志田の声がスピーカーによってステージに響く。それはこの議論会の始まりを知らせる鐘のような存在だった。
先制攻撃を仕掛けたのは
「早速ですが、貴方たち、どんな手を使ってここに入学してきたんです? 一般人なら到底入れないところですよ? それに水城君はあまり裕福ではないとお聞きですが」
よく調べてる。これが率直に思った感想だ。しかし、このままやられっぱなしはそもそもとして有り得ない。なのですぐに先輩に向かって反論を開始する。
「どんな手って、普通に受験を受けて受かったからここにいるんですよ。裕福じゃないってのは本当ですけど、別に学費が払えないとか不自由って訳じゃあないので別に問題ないのでは?」
一瞬苦虫をかみつぶしたような表情になった気がするが、まあ気にするだけ無駄だろう。こんなことで気を取られていたらこの後に繰り広げられる論争で気力が持たないだろう。
「まあこんなことで決められるとは思っていなかったから別にいいが……。じゃあこの議論会の議題は何か分かるか?」
「そりゃあ俺たちがこの八柳に要るか要らないか、についてでしょう?」
「それもそうだが、この議論会で一番重視されるのはお前たちがここに相応しいかどうかだ。この議論会の結果次第ではこの八柳学園の信頼は地に落ちてしまうかもしれない」
「ということはここの学園長はなるべく、いや絶対に極々普通の一般人なんか在籍させたくない。一般人でもここに残る方法はここで勝って、この八柳に相応しいかを学園長にアピールしなきゃいけないんだよ」
倉敷の言葉にステージ横でパイプ椅子に腰かけていた学園長の肩がビクッと反応する。
倉敷の言っていたことは間違いではないのだろう。確かにここまでしてこの特生退をやる意味がない。しかし倉敷の言うことが本当ならこの学園にとってはやるべきだろう。
だが、そんな大人の醜い見栄によって俺らみたいな一般人の入学や在籍が制限されるのは教育を提供する場としてあってはならないことだ。
なら今年入学することができた俺たちがここで勝利し、この制限を取っ払はなければ。そうでなくてはまたいつ機会が訪れるかなんて分からない。
誰かは偽善だなどとほざくだろう。だが偽善と言われようがなんと言われようがやらないよりかはマシだ。それに俺に付いて来た二人のためにも俺が勝手に思う善意でする。
「そんなこと言ってもどうせ学園長はどうにかこうにかして俺たちを落とそうとしてくるんでしょう? ならここで議論する意味って何なんです? こんなことをするんだったら受験の段階で落とせばいいんじゃないですか?」
「そんなことをすれば金で入学させたみたいになるからじゃないか? 後はまあせめてもの救済措置だろ、実際勝ち上がった生徒がいるんだからな」
そう言いながら仁志田の方へ視線を飛ばす。それに釣られるようにステージの観客も仁志田に視線を向ける。
そして倉敷は仁志田の事を見ながら話を進める。
「まあ、去年のあれにお前らが敵うとは思わないがな。それで、ここにいるほとんどの奴らがお前らをここから追い出したいと思っている訳だが、お前たちは何か文句あるか?」
「そりゃあるに決まってるじゃないですか、そんなはいはいと素直にここを去るつもりなんて毛頭ありませんから」
売り言葉に買い言葉。そんなのが似合いそうな状況で、俺たちは与えられた意見を主張する時間を活用する。
「まず、皆さん。私の目の前に立っている人が本当にここにいるべき存在だと思います?」
そんな問いかけに観客席から「当たり前だろ」や「お前らよりかはマシだ」などの言葉が飛び交う。そこで俺はニヤケながら手を挙げる。
すると、ステージの正面に掛けられた巨大なプロジェクタ―スクリーンにある一枚の写真が投影される。
その写真が投影されてから一~二秒後、会場がざわつき始め、倉敷もその写真を見て固まっていた。
「さて、こんな写真が全てを物語っている訳ではありませんが、こんなことをしている人物が本当にこの場に立ち、私たちを退学させようとする。さらには在学しているというのは些かおかしくありませんか?」
「特生退ではこの八柳学園に相応しくない、イメージダウンをさせる生徒を退学にさせるものなんですよね? なら私たちを退学させる前にこの写真に写っている生徒を退学にさせるべきなのではないでしょうか」
少しずつだが勝利の天秤がこちら側に傾いてきた気がする。まあなんせ倉敷の〝犯罪″と捉えられることをしている決定的写真が映し出されているのだから当たり前だろう。
「こんなのハッタリだ! どうせこんなの合成やらAIを使って作っただけなんだろ!」
「じゃあ、これを見てもまだそれを言えますかね? 次のよろしくお願いします」
合図をするとまた別の写真が投影される。そこには学校の最寄駅の風景と、そこに飾られている鯉のぼりの鯉。そして一個前の写真と同様の姿の倉敷が写り込んでいる写真だった。
「うっ…………」
「どうしたんです? この写真は事実って、合成でもAIでもないってこと分かっていただけました?」
「………………………」
「そうやって都合のいい時は威勢よく、相手を委縮させるのに都合が悪くなると何も言わなくなるのはこの場に立つ人間として不適切なのでは? それも、これは犯罪になるんですからね?」
今写し出されているのは、倉敷が物陰に隠れて何かを視線で追っているようで、その視線の先には同じ舞台に立っていた恵茉に向けられていた。
恵茉は八柳高校の中では美少女としてかなり有名人となっていたのだ。男子からは色気のある目で見られ、女子からは嫉妬の目や尊敬の眼差しを向けられるほどだ。
そんな美少女を物陰に隠れて追っているというのはまさに〝ストーカー″のようだった。
この写真は偶然撮られたものではなく、念密な計画の元撮られた写真だった。
実はあのバイト終わりに恵茉と食事をしたあの日、恵茉から相談を受けていた。『近頃付き纏われている気がする』と。
そこで俺は恵茉とメールなどで計画を立て、恵茉を餌にしてそれに釣られたストーカーを俺が写真に収める。そして後々警察に提出予定だった。
しかしあの後に特生退の参加を迫られ承諾してしまった。だが運よく迫ってきたのが恵茉のストーカーであった倉敷だった。それならこの写真を都合よく使わせて貰おうという結論に至ったのだ。
形成は逆転し、一気にこちら側が有利な状況になる。そんな状況でも変なプライド故なのか、それとも負けず嫌いなのか倉敷は言葉を詰まらせながら声を出す。
「これは……証拠を押さえるためにしたんだ……こいつらが相応しくないって……」
「相応しくないと思うなら今この場でその押さえた証拠を見せてくださいよ」
「それは…………」
俺は畳みかけるように、決して甘えさせることはせずに、自分の口から言わせるため声を張り上げる。
「証拠を見せられないんですか! それともそもそも証拠を押さえるためじゃなかったんですか? ハッキリしてくださいよ!」
倉敷はチッと小さく舌打ちをすると、口元を引き攣らせながら無理に不敵な笑みを浮かべて俺の質問に答えを返す。
「……ああそうだ、俺が神田を尾行していた。学校の三大美女は流石に高嶺の花すぎて手が出せないが、そこそこの顔の神田ならいけると思ったからな」
「だが、こうもあっさり嫌がられていたらさすがに無理にとは言わない。しかし、俺は金を持ってるんだ。神田、お前がこちら側、俺の彼女になれば金は幾らでもや——」
「そんなの、いいです。私は金に釣られて幼馴染を、親友を裏切るつもりはないですから」
倉敷の悪足掻きで出した言葉に恵茉はきっぱりと断って倉敷を孤立させる。実際、今のこの状況であれば俺らの勝利はほぼ間違いないだろう。倉敷の有効打となるものが無ければ。
誰からも見放されても尚、悪足掻きをしようとしている倉敷に一言。
「先輩はもう頑張らなくていいんですよ。そんな無理をしてこんなことをしなくていいんです」
できるだけ優しい口調で、目の前で葛藤している一人の人間を救うように、そしてもう気負いすることが無いように。
「…………ハッ、どうせお前はこれが終われば神田とイチャコラするんだろ。しっかしお前なんかが一人の女を扱い切れるとは思わんがな、女の気持ちを何一つ分かっていないお前なんだからな」
倉敷が膝から崩れ落ちれ、もう俺たちの勝利が確定しているのにも関わらず、倉敷は止まることの知らない口で言葉を紡いでいく。
その言葉は完全に俺たちを、特に俺と恵茉を侮辱する言葉だった。その瞬間、俺の中で何かがプツンと切れた。
「……あ? お前今なんて——いっ……」
後頭部から脊髄に掛けて激痛が走る。一瞬の痛みという訳ではなく、連続的に激痛が走り、体に力が入らなくなる。
立っていることが困難となり、思わずステージの床に倒れ込んでしまう。
いきなりのことだからなのか、観客席はどよめき出して、ステージ上では俺の名前を呼ぶ声などで会場全体が騒然とする。
朦朧とする意識の中でふと倉敷の方を見てみると、少し唖然とした表情をしている倉敷。俺の視線に気づいたのか、取り繕うように不敵な笑みを浮かべてこちらに近づいてくる。
「急にどうした? さっきまでの威勢のいい態度は何処に行ったんだ? ……あーあすっげぇ不格好だよ、今のお前。どうだ? 好きな女の前でこんな姿を晒して」
その口調はまるでこれまでの不満を八つ当たりするようで、俺が反論しないことをいいことに議論会と全く以て関係のない話までしだす。
倉敷は続いて「死ねよ、マジで」とドスの利いた声で吐き捨てるように零すと、ステージから姿を消す。
それに続いて俺の意識もシャットダウンするのだった。
★ ★ ★ ★ ★
目の前で、ついさっきまで元気に言葉を発していた隆太が倒れた。本当に一瞬の出来事だったのですぐに事態を理解することなんてできなかった。
会場全体がざわつき、ステージ上に隆太の様子を確認しに来た教師が私の肩を軽く叩いたことで何とか思考を働かせることができ、一応事態の把握ができた。
隆太の様子を伺った教師によると、呼吸をほとんどしておらず、僅かな呼吸もおかしいらしい。
私は教師に言われた通りにポケットに入れていたスマホで救急車を呼んだ。少しすると微かに特徴的なサイレンが聞こえてきて、救急車が来た、これで隆太が助かるのだと思い少し安堵する。
教師に変わって隆太の状態を確認した救急隊員は、あまり大きくない声で近くに居た私たちに「近くの病院に搬送します」と言い、隆太をストレッチャーに乗せる。
次に誰が救急車に同乗するのかという話になったが、さすがに高校生でまだ授業がある私たちが同乗できるわけがなく、担任の月無が同乗することになった。
その後は仁志田の判断で議論会&特生退が延期になる事、今回の出来事はなるべく部外秘にすることが伝えられて閉会した。
観客席にいた生徒たちは友人たちと何か会話をしながらゾロゾロと校舎の方へ戻っていく。私たちはというと教師に呼び止められていた。
「だから私たちは何もしてないって言ってるじゃないですか!」
「いや~でもね~、水城さんの近くにずっと居たから……」
「居たからなんだって言うんですか! 私たちと隆太は昔からの付き合いで、お互いを信頼しあってるんですよ? なのに私たちが原因を作ったっておかしいですよ!」
「ちょっと恵茉、落ち着いて」
「落ち着ける訳ないでしょ⁉ 私たちの幼馴染で、親友でもある隆太をあんなふうにしたのを私たちって言われて……」
伊月の言うことは正しい。一回落ち着いて無罪であると主張すればいいのだから。だけど私たちの友情をまるで偽りの友情だと言われているようで、反論せずにはいられなかった。
目の前の女性教師はあまり強く言うことができないのか「いや~」やら「でもね~」などと言葉を詰まらせていた。
ただ私たちがやったと、そういう罠に落とし込めれれば私たちを退学させることができるのに加えて、学園長に気に入られて昇進。というのを狙ってやったのだろうが、そんな見え透いた罠に嵌るほど馬鹿ではない。
興奮してしまった私は自分では止めることができず、伊月に引き剝がされるように校舎へと連れられる。
その間も私は文句をたらたらと零し続けていた。
「恵茉、いつまでも文句を言っててもどうこうできる問題じゃないんだから、そろそろ黙って」
「それでも——」
「おっけ分かった。黙るか無視されるかどっちがいいか選んで」
「ああ~~ごめんって、もう言わないから」
黙るか無視されるかという意外と優しい選択肢にしてくれるのは伊月らしい。……だけど、最近の伊月はどこか違うような、そんな雰囲気があった。
気になって、伊月のどこが変わったのか考えるも一切分からない。頭の中がモヤモヤとして晴れない。
そんなモヤモヤがもどかしくて、私は思い切って伊月に質問してみることにした。
「なんか最近あった?」
「え? 特に何もなかったけど」
本当に何もないかのように素っ惚ける伊月。昔から嘘が上手い伊月は今回も本当の事なのかどうか全く分からない。
表情一つ動かさない様子は一流のメンタリストを以てしても見抜くことができないと思えるほどだ。
本当に何もなかったのか、それとも嘘なのか全く分からないが、多分まだここで追及するべきじゃない気がする。
またいつか話してくれるだろうと淡い期待で追及を止め、ふと教室の前の方に視線を飛ばす。
特生退から帰って来たばかりでまだ人は少ないものの、集団で集まって話に花を咲かしているグループがちらほらいる。盗み聞きは良くないが、何を話しているのか耳を傾けてみると「ねーやばくなーい?」「まじやべぇよな」「うちもぅ、救急車のりたい~」など、今さっき起きたことを餌に話をしているらしかった。
普段ならそもそも聞くなんてしないけど、今回に関しては隆太が関わってくるので盗み聞きをしてみたのだが、隆太が大変な状況の中でこうも呑気なことを交わし合っている陽キャグループに腹が立ってしまう。
それが別の、まったく関係のない人であれば特に何も感じなかっただろう。
「……当事者にならないと分からないもんだね……」
「ん? どうしたの?」
「いや別に、それよりどうする?」
「どうするって何をするの?」
「放課後、隆太の見舞いに行くかどうかだよ」
「あ~……僕はまた後日行くことにするよ、今日は恵茉だけで行ってきて」
「ん、分かった」
プライベートの事なのであまり深くまで追及するつもりはないけど、隆太の事で後回しにするなんて事今までなかったので今回の伊月の行動に少し疑問が生まれるものの、どうしても外せない用事があるのだとして簡潔に返事をする。
見舞いに行くと言っても教師である月無が隆太の病院を教えてくれるのかが問題だけど、普段の私たちを見ていた月無なら教えてくれるだろうと希望的観測を抱く。
特生退でのハプニングによって学校全体の雰囲気がピリついていて、私たち二人に対する視線が一層強くなったようにも思えた一日だった。
そんな視線に耐えながら授業を受け抜き、放課後を迎えた私は教室から逃げるように退室し、月無がいるであろう職員室を訪れていた。
「月無先生いらっしゃいますか?」
職員室の中に響いて、部屋の中にいる教師が絶対に聞こえるほどの声で訪問理由を口にしたのだけど、一向に月無が来る気配がなく、教師たちも特段動く様子などなかった。
疑問が頭を埋め尽くしたものの、少し考えて当たり前か、と片付ける。
この学園の中で私たちの仲間なんて私の知る所あの二人と、生徒会の二人だけだ。
そこに教師は含まれない。なので、今ここで隆太の病院を知る手段は何もない。私は失礼しましたとだけ言い残して職員室の扉を閉める。
——本当に、隆太と伊月がいないとダメなんだなあ、私って
そう心の中で悟った瞬間。扉を閉める手が止まった。
私が自分の意思で止めている訳ではない。閉める方向へとは反対の方向に力が加えられて止まっているのだ。
思わず別の力が加わっているところを見てみると、そこには色白肌で、爪が綺麗に整えられている華奢な手が目に入った。
「私に用があるんだろ?」
「……先生? なんで……?」
「おいおい、さすがに一日中病院に居る訳にはいかんだろ、仕事があるんだし」
この場に月無が居ることが信じられず、目をぱちりと大きく動かして疑問を口にする。
疑問に対して当たり前だろと言わんばかりに眉をピクッと上に動かして正論を返す。
正論を言われ何も返せなくなってしまった私はどうすればいいのか分からず、ただ扉の前で、月無に背向け立ち尽くすだけ。
だけど、このままではダメというのは明らかだ。
「別に用がないんだったら、入ってもいいか? 提出物のチェックとかあるから」
「あ、あの……」
「ん? なんだ? 要件があるんだったら言ってくれよ」
「あ、いや、その…………」
「私は常日頃からお前らに言ってるんだがな、どんな偉人でも、どんな人間でも誰かの力は要るんだって、そして学生のお前らなんてさらに他の人間の力が要るって言ってるだろ?」
「!」
月無のその言葉は毎日、聞く。どんな意味を、どんな意図を持ってそんなことを言っているのか想像できても核心的な部分では分からなかった。だけど、今だったら分かる。本当に当たり前の事だったのになんでこの瞬間まで分からなかったのか、過去の私は何を考えていたのだろうか。
「…………教師の立場故、教えにくいってことは分かってます。隆太……水城さんが入院している病院を、教えてください!」
「なんだ、そんな事だったら幾らでも教えてやったのに、てっきり水城の個人情報を渡せとかなんとか言うとでも思ったんだが」
「幼馴染である私に隆太の個人情報なんて無価値に等しいでしょう……」
「はっはっは! それもそうだな! ……んで水城の病院だったな、アイツは近くの総合病院があるだろ? 屋根がドーム型の、そこの〇〇六号室にいるぞ」
高らかに笑い、隆太の居場所を伝えてくれたのだが、今からそこに行くとなると完全に帰りが家の門限を超えてしまう。しかし、小さい頃からの付き合いでそれぞれの親との交流もあったので親を何とか説得させることはできると思う。
ただ、そこに行くまでが問題だ。月無が言う総合病院は車や自転車、公共交通機関などを使えば二十分程で着くくらいなのだが、生憎私は徒歩通学でバスなども使わないので自転車やお金を持っているかと聞かれたら答えはノーだ。
どうするべきか悩んでいると、後ろから困り事か? と聞き馴染みのある声とこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
振り向くと、片手を肩の位置ぐらいまで上げ、頭上に疑問符を浮かべてそうな表情の仁志田がいた。
「月無先生お久しぶりです」
「ああ、久しぶり……あっそだ、仁志田って自転車通学だったよな? 少し頼みたいことがあるんだけどいいか?」
「頼み事ですか? 内容によりますけど、別にいいですよ」
「マジ? ほんと感謝する。詳しくはそこの少女から聞きたまえ、まあ仁志田なら察しついてると思うが」
そんな言葉に「そんなことないです」と謙遜する仁志田。実際仁志田は分かっているのだろう、しかし、月無からの〝依頼〟だからこそ嘘と謙遜を交えたのだろう。
するとこちらに体ごと向けた仁志田は何も言わず、ただ私の顔面を見つめるだけで会話の主導権を完全にこちらへ渡しているようだった。
今日決着が附くはずだった特生退に向けて色々とアドバイスを貰い、言葉を交わし合った中ではあるが、さすがに私個人の理由だけで先輩であり、この学校の象徴でもあるので躊躇ってしまう。
もじもじとしている間も仁志田は穏やかな微笑みを浮かべ、一直線に私を見つめるのみ。
だが、それでは一向に話は進まない。そして、この弱く、少し揺らげばすぐに崩れてしまいそうに脆い私自身を一歩、数センチでも進めるために、私は重く閉じた口を開く。
「……りゅう、たのところまで、連れて行って、欲しいです」
「別にいいが、自転車一台しかないぞ? さすがに二人乗りはできないし」
「それなら私の自転車使うか? 私二十一時ぐらいまではここにいるから、それまでに返しにくればいい」
「……あ、ありがとうございます……!」
ここで月無の好意を受け取らなかったら仁志田の好意を裏切り、隆太の元へ行く手段もなくなってしまうので、ありがたく頂くことにする。
「てか、私が自転車貸したら仁志田が自転車を貸さなくて済むし、行かなくてもいいのか」
「まあ、そうですけど、交流がある後輩の様子を見てくるのが役割だと思いますし、特生退でもそこそこ仲を深めれたと思うので、ここでどんな具合か見たいってのが少し」
「そうか、ならいいが……くれぐれも補導だけは受けるなよ? 私の仕事が増えるんだから本当に気を付けてくれ」
月無の言葉に首を縦に振って了承し、再度二人にお礼をすると、仁志田の後をついていく。
あの場で大体の事は説明したので特に仁志田と会話をするための話題などないが、さすがに沈黙が続くというのは気まずいという気持ちがある。そんなことを考えていると、前を歩く仁志田が私に分かり切った質問を飛ばす。
「そういや、お前たちっていつから仲が良いんだ?」
見えないことを承知で考える素振りをしてからその問いに答えを返す。
「あまり正しくは覚えてないんですけど、多分幼稚園ぐらい、だと思います」
曖昧なのは私たちが小さい時の記録があまりないからだ。いつから仲が良かったのか、どんなことをしていたのか、親も同級生も分からないし、写真や映像、文字などが全くなかった。
ただ、親から唯一聞いた話では、私たち三人はいつの間にか一緒に登園、降園するような仲で、喧嘩なんて滅多に起こらなかった、らしい。
そんな曖昧な答えでも仁志田は何故か噛み締める様に小さく頷く。それから少しして、突然理解できないことを言い出した。
「お前たちって両親の事を本当の肉親だと思っているか?」
「…………それは、どういうことですか?」
肉親か、そうでないか。そんなの分かり切っていることだろう。なんせ性格、体つきなどの特徴もそっくりで、小さい頃から同じ屋根の下で暮らしてきたのだから肉親で間違えがないはずだ。
「……すまん、忘れてくれ。それと、気分を悪くしてしまったなら申し訳ない」
「いえ、特に気分は悪くなってないですけど……」
追及することができなかった。その真実を聞いてしまったらこの日常が崩れてしまいそうな予感がしたから。そんなの理由も根拠も何もないけど、直感でそう感じ取った。
軽く返事を返して、怪訝な顔で仁志田の背を見るだけに留めておいた。
そこからは何も話すことをせず、教員と生徒が共同で使用する駐輪場に到着する。そこは長い間ちゃんとした整備がされていないのか、草木が自由気ままに伸び切り、風雨を凌ぐために立てられたであろうトタン屋根やそれを支える鉄製の柱は変色して、錆びれていることが見て取れる。
しかし、自転車を駐輪する場所とそこへ通ずる道は気休め程度に整備されていて通学する分に関しては問題ない位だ。そして、数台ある自転車の中から自分の自転車を見つけ出した仁志田は荷物を前方の籠へと入れ、そそくさと自転車を押し出す。
私も後れを取らないよう、月無から伝えられた特徴と一致している自転車を見つけ出し、同じように荷物を籠の中に入れ、頭から入れられていた自転車を押し出す。
押し出したところでふと自転車の全体像を見ると、赤色をベースに所々白色のラインが入っているデザインで、そこまではまだ普通の自転車として遜色変わりないのだが、ハンドルの部分にも施されていて、よく見てみると白色の楕円形の中に黒色の大き目の丸が描かれていた。その他にも色々なデザインが施されていて、一つの生き物を現したようだった。
こんなのに乗って学校へ来ているのかと思うと気持ち悪さが沸いてきてあまり乗りたいとは思えない。しかし、人の自転車を借りる手前文句を付けたり、個人が良いと思うデザインを否定するのは流石に人間性が疑われる。そのため、心の中のみで留めておく。
黙って自転車のハンドル部分に両手を付けると、また仁志田の後に続いて自転車を押して正門前まで移動する。そして仁志田がサドルに跨ったので、私も真似するように跨る。
それから私たちは坂を下ったり登ったり、そう大分の距離を移動したところで真っ白で、大きな建物が視界の端に写る。
その建物の壁には銀色に反射している『総合病院』という文字が記されているのが分かる。さらに移動すると段々行き来する人の量が多くなり、病院の正門らしき場所に着くと自転車から降りて押して病院の駐輪場まで移動する。
病院の駐輪場は高校と打って変わって新品かと思うほどに綺麗で、ゴミ一つ落ちていなかった。
受付カウンターで隆太の面会である事、隆太のいる○○六号室の場所を教えてもらい、そこへ移動する。移動先には病室番号と隆太の名前が書かれたネームプレートが貼られていて、そここが隆太の病室だということがすぐに分かった。
余り音を立てないように引き戸を開けて中に入る。少し歩を進めた先にいたのは、介護用ベッドの上で色々な機械にチューブや着色された線で繋がれた患者服の隆太の姿があった。隆太はまだ目を覚ましていないが息はしているらしく、、人工呼吸器のマスク部分が時折白く曇る。
生きている、そう分かると朝から張り巡らされていた緊張が大分解けて、ゆっくりと隆太の横にある椅子へ腰を下ろす。無意識に力が入っていない隆太の手を握ると、ほんのり温かく、生きているのだと改めて実感する。
「よいしょ……こいつは何を患ってるんだ⁇」
そう呟いた仁志田だが、正直隆太がこんな風になる原因や兆候なんて過去に一度もなかったから私も分からない。知っていたらこんなことになる前に何か行動に移している。
そんなことを思いつつ隆太の顔を見続けていると、ガラガラと病室の引き戸が開く音が聞こえ、思わずそちらへ視線を飛ばす。姿を現したのは白い白衣を着た女性で、その女性もまたこちらを見ていた。
「え~っと、貴方たちは?」
「水城さんの友人の神田恵茉と言います」
「先輩の仁志田と言います。すみません、勝手に入ってしまって」
「いえ、隆太君の知り合いの方たちでしたら問題はありません。それはそうと、貴方たちって隆太君から隆太君の病名とかって聞いてるの?」
「いえ、全く。ていうか、隆太って何か患っているんですか⁉」
私の反対側に座る医者は言いにくそうにして俯くと、凛とした声と表情で私たちに言い聞かせるように言葉を零す。
「水城隆太君は特発性拡張型心筋症の疑いがあります」
「突発性拡張型心筋症? その病気は命に関わる病気なんですか?」
「……言いにくいことですが、仰る通り生死を左右するほどの病気です。今回の隆太君はすぐに救急搬送をして適切な治療を行ったので何とか助かりましたが、それが続いて発症すると体力なども考えると、生命機能は危険な状態になります」
「どうにかならないんですか⁉ そもそもなんでそんなのが隆太に……」
隆太が患っている病気の詳細なんて二の次でいい、それよりも隆太がこの先生きて行くことができるのか、ちゃんとした治療方法があるのか、それを聞きたかった。
ただ医者は表情を変えることなく、淡々と話を続ける。
「一応対処法はあります。隆太君はあまり重症の部類に振り分けませんので心臓移植。という治療方法があります。しかし、隆太君と適するドナーを見つけ、提供してくれるかまでは……」
目の前の医者は何も悪くない。逆に隆太の状態を教えてくれて感謝している程だ。だけど、きっぱり死の可能性が高いと言われればどうにかすることはできないのかとイラついてしまう。
だが、ここで医者に怒りをぶつけるより、少しでも長く隆太と過ごす時間が大事と思考を切り替え、隆太に視線を向ける。
瞼を閉じ、今日の事でぼさぼさになってしまった短い黒髪が眉に掛っていて、影ができていた。〝心から愛している人〟がこんな姿になってしまうことがこんなにも辛く、苦しいことなのかと実感し、どうにかできないのかと思考を巡らせる。
すると、ある疑問が生まれてきた。その疑問は誰に聞かなくても分かるような質問だったが、それでも気になったので目の前で作業をする医者に声を掛ける。
「あの、隆太のお母さん……三奈さんはいらしたんですか?」
「……いえ、まだ来ていません。連絡はしたんですが、忙しいらしく」
忙しい? 隆太から聞いた話だと父親を亡くし、それからは仕事を辞め、あまり外には出ていないということだったが、最近何かを始めたのだろうか。
それとも、隆太の体の事を————。
「失礼します! あ……恵茉ちゃん、それとななちゃん……」
「三奈……⁉ アンタ来て大丈夫なの? あの後三奈を任せた医師からは暫くの間自宅療養だって聞いたけど」
「そうだけど、自分の息子がこうなっているのに来ない母親がどこにいるのよ」
「全国で探せばそこそこの数いそうだけど」
「そんな現実的な話じゃなくて、気持ち? の問題なのよ」
病室に現れたのは息を切らしている隆太の母、三奈さんだった。だけど、そこにいる三奈さんは隆太から聞いたどこか空っぽになった心の母親ではなく、息子の為に必死に来た子供思いの母親の姿だった。
そしてななちゃんと呼ばれたのは目の前の医者で、目を見開き、友達のような会話を繰り広げ始める。この状況を理解できなかったのは私だけではなく、隣で完全に空気と化していた仁志田も分かっていない様子だった。
少しの間二人の会話を見届けていると、こちらの存在に気付いたようで、きちんとした挨拶をしてくる。それに慌てて返すとニコッと微笑んでまた医者と会話を再開する。
「……あれが、三奈さん……?」
「どうしたんだ? 人の母親を凝視して、何かおかしい所でもあるのか?」
「いや、そういう訳じゃないんですけど、隆太から聞いていた三奈さんと全く違うんですよ。何もかも」
「そうなのか……まあ思春期だし、アイツも母親に思うことがあったから誇張していったんじゃないか?」
「そうなんでしょうか……」
仁志田と小さく話し、隆太の誇張しすぎた伝え方だったと落ち着いたが、それでも何かおかしい気がする。それなら隆太はあんなにも重い詰まったような表情を見せるのか。
しかし考えても考えても結局的な結論は見つからず、取り敢えず置いておくことにした。
そこで、三奈さんが笑顔から急に真剣な面持ちとなり、重そうに唇を動かす。
「さっき病室の前で聞いちゃったんだけどさ、隆太を治すためには心臓移植が必要って話……それって家族もできたよね」
「できるけど……まさか自分の心臓を提供する気?」
「うん……隆太のためになるなら……それにこの命は隆太に助けて貰った命でもあるのよ? その命を命の恩人のために使うのは普通じゃない?」
「だけど、隆太君にはまだ母親が必要でしょ? それなのに……」
「……多分、私がいたらこの子の負担になっちゃう。よくあるでしょ? 介護疲れって、私は隆太に迷惑は掛けたくなかった。これは隆太が生まれる前から決めてたことなの。だけど、あの人が亡くなってからずっと迷惑を掛け続けていた。それなら、これからは自由に生きて行って欲しい、私の心臓で、私が経験できなかったことを沢山経験していって欲しい」
その発言にこの部屋にいる人は誰一人として言葉を出せなかった。それは覚悟を決めた言葉で、自分の子供を愛しているが故放った言葉だから、誰も否定も賛成もできなかった。
この人は他の人より一層自分の子供を愛していて、子供のためになら自身の身さえ犠牲にするほどに。
それでも、自分が死ぬということが分かっているからなのか、さっきまでの元気な三奈さんへは戻らず、空色の瞳が震えていた。その姿はどこか、以前見た隆太の姿と似ていて、思わず抱擁したくなる。
しかし、似ているとはいえど普通に人の母親に抱擁するのはまずいかと寸前で思いとどまり、誰かが言葉を発するのを待つ。
すると、三奈さんの隣で俯いていた医者がいきなり立ち上がったと思えば、三奈さんに思いっきり抱き着いて嗚咽交じりの泣き声で吐露する。
「……三奈が、決めたことに、私は何も言えない……だけどっ、まだ時間があるんだから、それまでは…私たちに付き合ってよ……!」
「…………うん、分かった。でも、なるべく早く隆太を助けたい。これだけは知っておいてね?」
「……それは勿論! 命を救う仕事でもありながら、奪う仕事でもある医者なんだから、それくらいの覚悟はあるよ!」
医者はさっきまでの元気を取り戻したように声を張り上げると、三奈さんに向かって親指を立て、グットサインを作り出す。
そうすると、三奈さんは優しい笑みを見せてから、私たちに視線を飛ばして首を傾げる。
「えっと、恵茉ちゃんは分かるんだけど、その隣の君は……?」
「あ、申し遅れました。俺の名前は仁志田健司って言います。以後お見知りおきを」
「態々ご丁寧にありがとうね。……私は隆太の母親、水城三奈。よろしくね」
「ええ、よろしくお願いします」
私だけ話に着いていけていないと感じたものの、どうすれば良いのか分からず呆然と目前で繰り広げられている会話に耳を傾けるだけに留めておく。それに無理に口を挟んだところで会話の流れを止めてしまえば気まずい雰囲気になり兼ねないし。
そんな境遇にいる私を察してなのか、三奈さんが自然を装って私に会話のバトンをパスしてくる。
「恵茉ちゃん、いつも隆太の事を心配してくれてるみたいで、本当にありがとう」
「いえいえ……でも、今回は私が心配していたのにこんなことになっちゃって……」
「これはもう仕方がないことなんだよ、前々から分かっていたしね……」
「それはどういう——」
「は~いそこまで、取り敢えず自己紹介は自然と終わった感じ?」
「いや、ななちゃんがまだ残ってるでしょ、それにこの子たちにも知ってもらっておいた方が良いでしょ?」
「まあ、それもそうね。えっと、私は隆太君の担当医の入間菜々子よ、何か気になる事とかあったら聞いてちょうだい。答えることができることは答えるから」
各々の自己紹介が自然と流れで終わり、病室に沈黙が走り、聞こえるのは患者モニターのピッピッという音と空調などの環境音のみとなった。
それに気まずさを覚え、不意に脳裏に浮かんだ疑問を三奈さんにぶつけてみることにした。
「あの失礼ですけど、三奈さんって、口数が少なくて引きこもり気味って隆太から聞いてたんだけど、本当なんですか?」
「う~んとまあ、そうね、でも今日は不思議と自信とか勇気とか湧いてきて……ほんとなんでなんだろうね、私にもよく分かんないや」
そう言葉を零す三奈さんの表情はどこか寂しそうで、いつしかの隆太と似たような表情だった。だけど、それは一瞬で、すぐに微笑を浮かべる。
(隆太も、三奈さんも、どっちも苦しいことを隠して、誰にも助けを求めようとしない)
その姿は我慢強いと思わせるが、実際は弱く、誰かに助けを貰いたい。心を苦しめているものを見つけ出して、退治してくれる人が現れるのを待っているようにも見える。
その〝救世主〟に私がなれるのか、なれないのか、分からない。だけど、なれるよう努力するのは心から愛している人、その人が大切にする人のためになるだろうから。
——私がなってみせるからね、苦しみから解放する〝救世主〟に——。
どれくらいの時間が経ったのだろう。意識を失ってから考えることができなくなってから暫く経ったと思う。今は明晰夢のような感じで考えることができている状態なのだが、大体なぜこうなったかは推測できる。
しかし、それが嘘であって欲しいと認めたくない自分がいて、頭の中が混乱している。
だが、少しすると小さく上手く聞き取れないものの、誰かの話し声が頭の中に参入してくる。その声は次第に大きくなっていって、少しばかり耳障りとなっていた。
俺は曖昧な意識の中、小さく唸り声のようなものを上げると重くなって閉じていた瞼を持ち上げて、視界を確保する。そこに広がっていたのは知らない天井……ではなく、俺の事を心配面で覗き込む恵茉の顔面だった。
いきなりの事で素っ頓狂な声を零すが、辺りを見渡してみて自分がどのような状況に置かれているのか何となく理解して、俺の顔を覗き込む恵茉に言葉を発する。
「……どうした? というか、少し離れてくれ」
「ああ、ごめんごめん……大丈夫? どこか変な所とかない?」
「う~ん大丈夫かどうかは分からないけど、特に変って感じることはないと思う。まあ強いて言うなら病室に人が集まりすぎな気がするぐらい」
「あはは、そんなことを言えるんだったら今は大丈夫って感じかな? でも何かあったときに怖いから一応診断するよ?」
左側から見覚えのある女性が近づいてきて、身に着けている白衣のポケットに手を突っ込みながらそんなことを言う。その女性は俺に〝絶望〟を突き付けてきた医者の入間だった。
「久しぶりです……って言ってもあれからそんな経ってないですけど」
「久しぶり、じゃあ失礼するわね」
入間はそう呟くと首にかけていた聴診器を構える。俺は応えるように患者服の裾を掴んで肩の位置にまで上げ、上半身を露にする。なんの躊躇もなく聴診器を俺の胸板に当ててふむふむといった感じで診断しているようだったのだが、その後ろで俺の事を見ながら頬を赤らめる恵茉の姿が見えた。
なぜ頬を赤らめるのか、その理由が分からなかったが、一度頭の中を整理してから考えてみたら明白だった。その瞬間顔全体が熱くなって火照ってしまう感覚がくっきり分かる。
何とも居た堪れない気分になり、恵茉と交差させていた目線を横にプイっと顔を向けることで遮り、内心診断が早く終わることを切実に願う。
時計では大体一分で診断が終わったものの、体感時間で言えば5分は余裕で超えている気分だった。診断は特に異常なしというとのことで、この場にいた全員が何とか胸を撫で下ろしたが、俺と恵茉に関しては何とも言えない気まずい雰囲気が間を充満させていた。
何か話題を見つけようと病室内をぐるりと見渡すと、丸椅子に座って肩を竦めている仁志田の姿があり、俺はすかさず仁志田へ話のバトンを渡す。
「……なんで会長がここにいるんですか?」
「すまん、それは俺が聞きたいことだ。俺がここにいる意味があるのかないのか……」
苦笑いを浮かべながら言う仁志田に同情の視線を向けて、さらに気まずい雰囲気になってしまったことに気付く。どうすべきか……そう思考を巡らせていると、母が口を動かす。
「取り敢えず、何する? そう残ってる時間ないでしょ?」
「う~~ん……三奈ってこの今の状態はいつまで続きそ? その長さによってどうするか決めたいんだけど」
「こんなの初めてだからよく分からないんだけど、そう長く続かないんじゃない?」
「なら私たちと話すより隆太君と話してあげな、久しぶりに親子水入らず互いに打ち明けたりとかしたら?」
勝手に話を進められていることに頭の理解が追いつかず、キョトンと思わず呆けた顔を見せる。そんな状態の俺に気付いたのか母は「少しの間外にいてくれる?」と頼み込む。
その要求を文句ひとつ零さず、促されるまま病室を後にする三人を見届けると、母と視線が交差する。ここ最近はちゃんと話す機会、さらには互いに姿を見る機会が減っていたので、少し気恥ずかしさが沸く。
しかし母は何とも思っていないのか優しく微笑んでから俺の隣にあった丸椅子へと腰を下ろす。そして少し腰を上げたと思えばいきなり抱き着いてくる。
いきなりの事で何が起きたのか今一事を把握できず「へ?」と素っ頓狂な声を漏らしてしまう。だが抱きしめられている。そう少し理解した瞬間、考えるよりも前に体が動いて、母のか細い体を少し筋肉質な腕で抱きかかえる。腕から伝わる母のほんのりとした温かみと、震える背中は守ってやりたくなるくらい弱弱しく感じ取れた。
少しすると母はゆっくり俺の体から離れて俺の顔をじっくりと見つめる。そしてピンクに染まった震える唇を開いて、少しずつ言葉を紡ぐ。
「いつも、迷惑を掛けてごめんね…それでも、私の、母さんのお世話をしてくれて本当にありがとう」
「いや、それはもう、当たり前っていうか……母さんが辛い思いをして、ああなっているのは分かっているからさ、そんな……」
面と向かって親から謝罪やら感謝を貰えば思春期である俺からすれば気恥ずかしく、ああだこうだ言い訳になっていない言葉を並べ、最終的に最適な言葉が見つからず、言葉が詰まってしまう。
そんな感じにおどおどとしている俺が面白かったのか、クスッと小さく笑う母。それに思わず少し声を大きくして反論をしてしまう。
「いや、だって、まだ子供なのにそんなこと考えてるの、なんだかおかしいなって」
「確かに母さんから見ればまだ子供かもしれないけど、もう高校生で、ある程度大人帯びてきていると思うんだけど……」
高校生は今までの義務教育とは違って自分で考え、どう進むかを自分で決める。そして責任を持つことになる。なので今まで見たいに子供扱いされるのは少しばかり癪に障る。
ただ生きた年数でも、何もかもが人生の先輩である母にそういう扱いをされるのは仕方がないかと割り切ってこれ以上口答えするのを止め、頭の中でずっと疑問に思っていたことを口にする。
「母さんは万葉さんのことどう思ってる? ありのまま、母さんが思ってる通りに話して」
「万葉さん……母さんは好きよ、愛してる。……でもね、万葉さんは優しいし、私の事を知ろうとして、助けてくれようとしてくれたけど、やっぱり私はあの人じゃないとダメなんだと思う。私が初めて愛して、好きになって、心を許した人」
虚しそうな顔をして話す母の姿は帰ってこないと分かっていながらも愛人をいつまでも待つ愛深い人だった。
聞いておいて何だが俺はその母さんの話にどう返事を返せばいいのか分からず、ただただ母の虚しく、寂しそうな顔を見つめるだけしかできなかった。そんなことを気にもせず、母は話を続ける。母が心から愛したという俺の父親の話を。
「あの人は私の心で飼っていた悪魔を殺してくれたの、優しく、丁寧に、誰も傷つけないで。その悪魔すらも同じように」
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