第四話【猛暑日の散歩】

 あの後は各々少しずつ何とか頭を振り絞って知っていることを共有した。とは言っても本当に少ししかなかったが、それでも情報があればあるほどいいのでプラスに考えることにする。

 そして二十一:〇〇ギリギリまで議論会当日についてのことを綿密に計画して、〝いつも通り″のように恵茉えま伊月いつきの二人に別れを告げるのだった。

 翌日からは昨日の事がなかったのかと思うほどにいつも通りで、恵茉と伊月は取っ組み合いの喧嘩をしていて、それを遠くから『またやってるよ』と呆れている視線を送るクラスメイト。

 何もかもが変わっていないようで、この二人の気持ちの切り替えと演技力の凄さに驚かされる。まあ、昨日まで犬猿の仲だった者同士が翌日になった途端、さも今まで仲が良かったですよーとでも言うかのような関係になっていれば少し噂になるだろう。

 そんなことを考えてなのかどうかは分からないが、もしここで俺が変なことを口走ってしまえばこの二人の努力も無駄になってしまうので何とか平静を装う。


 それから一日、一週間と時間が過ぎて行って気付けば議論会前最後の作戦会議を行う月曜日となっていた。そして行われるのは駅近くの商店街内にあるカラオケ店だ。

 議論会は翌週の月曜日の一限目を使って行われる。そして残りの四~六日間は伊月と恵茉が部活なので作戦会議を行えないのだ。なので今日で全てに結論を出さないとなのだが。「いやでもやっぱ最後の最後で一気に叩くべきだって」

「う~ん、それだと最後しか保険を掛けられないじゃん、やっぱ最初から最後まで追い込んだ方が良いって」

 最後まで結論が出てないことが多く俺たちは焦りをかなり覚えていて、つい先ほどまで大体の事にはスムーズに結論を出せたのだが、今話し合っていることに関しては未だ進展がない。

 主に言葉を飛ばし合っているのは伊月と恵茉なのだが。そして俺はというと、その二人の姿を生徒会の会長と副会長と共に思考を巡らせながら眺めていた。

「あの二人って何かあったのか? 以前あったときよりも仲が良くなってると思うんだが」

「ああ、まあ、色々とあったんですよ……それとこの前はすみませんでした。少し取り乱してしまって……」

「ああ気にするんじゃあない、あの時にちゃんと説明しなかった俺も悪かったんだ、そう気に病まないでくれ」

「お気遣いありがとうございます。……それと、以前生徒会室で言い掛けてたことって何ですか?」

「あれか、あれは単純に助言をしてやろうかって話だったんだが、今はこうして成り行きで助言することになったな」

「そうですね……でもまだあるんでしょう? 助言するだけだったら今こうしてここにいないと思うんですけど」

「う~ん、まあ助言するだけでもここにいたかもしれんが、俺は君自身にも助言しておこうと思っていてな、この前ファミレスで俺たちが助言した時があっただろう?」

「そんなこともありましたね、それで、その事となにか関係するんですか?」

「俺が君に助言しておきたいのは、この特生退をなくしたいなら単純な気持ちで、単純な考えで参加してほしい。複雑に考えなくていいから、単純に考えて欲しいって伝えたかっただけだ」

 その仁志田にしだの言葉に俺は言葉を返すことができなかった。しかし、その仁志田の言葉はあのファミレスからの俺の頭に影響を与え、徐々に今までぐちゃぐちゃだった頭の中が整っていく気がする。

 しかしそれでも特生退が無くなるべき理由、仁志田が言いたいことが理解できるギリギリのところで靄が掛かっているように分からなかった。

 いや諦めよう、こんな状態で考えたところで進展なんてないことは前々から身に染みて知っていたことなのだから。それよりも目の前の未だに結論が出ていないことに結論を出す方が重要なので、俺は思考を切り替える。

「え~っと、ここにいるってことは助言をしてくれるっていう認識で大丈夫ですよね?」

「おう、そうだ。一応バランスの事とかいろんなことで直接答えは言えないが、助言くらいなら大丈夫だからな!」

「ありがとうございます。じゃあ早速、この件についてなんですけど——」

 そんなこんなで下校途中の会長の仁志田と副会長の小敷こしきを捕まえ、無理を承知だったが、カラオケ店で一緒に作戦会議をしてほしいという恵茉と伊月の願いを受け入れてくれた二人に感謝を述べて俺たちの作戦会議に協力してくれる。

 仁志田の助言のおかげもあってか結論が付かなかったこともなんとか答えを導き出して、本日もギリギリで最後の作戦会議が終わる。

 カラオケ店から出ると、すっかり辺りは暗くなっていて商店街の照明が眩しく光る。そして恵茉と伊月、小敷と別れの言葉を交わして最後に仁志田に告げてから帰宅しようとしたのだが、そこで仁志田が先に言葉を俺に向けて紡ぐ。

「……大ヒントを出すなら、平等ってことぐらいだな、それじゃ来週の月曜日頑張ってくれよな、俺は応援してるから」

「え…は? あっはい! 今日は色々とありがとうございました!」

 俺は少し大きな声で仁志田に告げたのだが、仁志田は一切振り向くことはせず、そのまま俺の視界から姿を消すのだった。

 赤の他人が縦横無尽に歩く商店街を眺めながら、仁志田のヒントも踏まえて少し思考を巡らせる。そして絡まっていた糸がほどけるように、そして何本もあった糸がすべて繋がったかのように俺の中で考えが纏まった。

 どうしたら誰もが納得するような、仁志田が言いたかった本当の、特生退が無くなるべき理由というのが理解できたような気がしたのだ。


 それからというものの、少し三人で休憩時間などにコソコソと話をするぐらいで特段話し込むということはなく週末へと差し掛かった。

 週末になったとしても何も変わらず、俺の周りはいつも通りに時間が過ぎて行くだけ。何かイレギュラーがあるわけでもない。ただ、特生退への緊張なのか俺の心がざわざわして、家でもバイト先でもソワソワとして、この日常に俺だけがイレギュラーな存在だった。

 ソワソワと落ち着かなかったせいなのか、バイトでもいつもならしないであろうミスをしてしまう。

 そんないつもと違う俺の様子に市ヶ谷が心配そうな顔で休憩中の俺を問い詰めてくる。

「何々? どうかしたの? 彼女でもできたの?」

「いや、できてませんし、そもそもこんな彼女いない歴=年齢の俺ができると思います?」

「う~ん、まあ出来ないよね、それに彼女の事でこんなことになるとは思わないし……学校で何かあったの?」

 彼女ができないという発言に関しては恵茉の事もあるので今一否定することはできないのだが、ここで認めてしまえば色々と問われて面倒なことになるのは目に見えて分かっていたので一応否定させてもらう。

 そして市ヶ谷は他に心当たりがなかったのか、ほぼ当てずっぽうのように学校の事を聞いてくる。それを聞かれるとは元々から予想していたものの、市ヶ谷の口からその言葉が出てきた途端、ビクッと肩を震わせる。

「その反応は本当に何かあったみたいだね~。何があったの? この私に話して見なさい」

「………別に、先輩が気にするほどの事じゃないですし、俺も話すほどの事じゃないです」

「ふ~ん、まあ本当に話したくないって言うなら別にいいんだけど、その顔。何か悩んでいるんでしょ? そんな顔今まで見たことないよ~? 何か抱え込んでるんだとしたら私に話してみて? 少しでもいいから話したら楽になるんじゃないかな」

「そんな……申し訳ないですよ。俺の問題ですし、俺がもう少し要領よくて、メンタルが強くて、頭が良くて、すぐに気持ちを切り替えられていたらって、この問題の一番の原因は俺にあるんですよ。だから、誰かに甘えるなんてこと、協力してもらっているみんなの事を裏切ったことになるんですよ、だから、甘えるなんて、誰かに話すなんてできないんです」

「……私だって水城君と同じ時ぐらいはミスだって何回もして怒られたし、ミスをして怒られる度に私のせいだって、自分を責めてたよ。でも、だからって誰しもが誰かに甘えちゃいけないって訳じゃないんだよ?」

 市ヶ谷の言葉が俺の心にジ~ンと染みる。俺が今さっき熱く語ったときも、途中で口を挟まず最後まで首を縦に振りながら聞いてくれていた。

 本当にこの人になら甘えてしまってもいいのではないか、もう楽になって悩みも何もかもすべて吐き出してしまえばいいのでは、と脳裏にチラつく。

 しかし、甘えてしまった後の協力してもらってみんなの反応が怖い。『大丈夫』と言って受け入れてくれると分かっていたとしても、『もしかしたら』とか、心のどこかで不満とかがあるのではないかと思ってしまうと〝甘える″という判断がし難い。

「よく人間は脆い生物だなんだって言うけど、実際は堅い人、脆い人が居て、脆い人がダメなんてことはないよ。それほど物事に対して、誰かに対して真剣に接しているってことでしょ?」

「それに堅い人だって崩れる時は脆い人と同じなんだから、人間にそうやって堅いや脆いなんていう区別はいらないんだよ。崩れた時はみんな一緒。誰かに甘えればいい」

 そんな正論が俺の頭の中をぐるぐると回る。市ヶ谷の言う通り人間誰しも同じだ。心が壊れるときはみんな同じように壊れる。

「でも、一番いいのは崩れる前に誰かに伝えて甘えること。今の水城君のままだったら少し衝撃を与えたら崩れちゃうんだよ? 崩れちゃってからじゃ遅いんだから、崩れる前に、誰でもいいんだから甘えなさい。 それを咎める人はいない。もしいたとしたら私が正論攻めしてあげるから、だから、安心して甘えてくれる?」

 なんでこの人はこうも無責任な発言ができるのだろう。だけど、そのおかげで俺は甘えていいんだ。すべて吐き出して、楽になってしまってもいいんだと心の底からそう思えることができた。

 俺は、今までの葛藤を、悩みをすべて打ち明けるつもりで、市ヶ谷の胸元目掛けて飛び込む。

 急に飛び込んだせいなのか、市ヶ谷は「おっとっと」と体制を崩しかけるもなんとか立て直して、両腕で俺の背中をギューっと強く抱きしめる。

 市ヶ谷の体から伝わってくる暖かさに、抱きしめられて誰もから守ってくれるような安心感に思わず涙を流す。今俺の顔がどうなっているかなんて知ったことじゃあない。

 今はただ、泣いて泣いて、悩みを、辛かったことを市ヶ谷なら受け止めてもらえるだろうと吐き捨てるように言葉にする。市ヶ谷はうんうんと頷きながら優しく微笑んで、俺の頭を撫でてくるのだった。


 その後、特生退のことについてや俺の家庭のこと、さらには〝体のこと″についてなど色々なことをぶちまけると、疲れてしまったのか俺はいつの間にか眠ってしまっていた。

 それも市ヶ谷の柔らかい太ももの上で。所謂膝枕、というものをされていた。この状況に理解が追いつかず、俺の事を覗いてくる市ヶ谷の顔を驚きで開いた口を閉めれないまま見つめ続ける。

「な~に、どうしたの? それとも私の柔らか~い太ももで膝枕を堪能してるの?」

「んなっ⁉ そ、そんなこと……」

「そんなこと? 何よ~、勿体ぶらずにハッキリ言っちゃえばいいのに」

 恐らく俺を落ち込ませないように、慣れない下ネタに触れるか触れないかぐらいの冗談を言う。

 いつもの市ヶ谷とは違うとすぐに分かったが、それを指摘することはしない。逆にその冗談に乗って二人揃って冗談を交わしたところで店長が休憩時間の終了を告げに来る。

 その際に俺はまだ市ヶ谷の太ももで膝枕状態だったので店長からは妬み半分疑い半分の目で俺を見てくる。一応補足しておくが、店長は元気なことに八二歳だ。補足した理由は伏せておく。話したら消されてしまいそうな気がするので。

「早く戻ろ、みんなに迷惑掛けちゃだめだし」

「え、ええそうですね……」

 市ヶ谷は全く以て気にしていないというような口調でそんなことを口にするが、顔だけは嘘を吐けなかったらしく、頬がほんのり紅く染まっていてどこか気まずそうな表情をしていた。

 赤面する市ヶ谷を内心可愛いなと思ったものの、恵茉の件もあるのでそれ以上深く考えないようにしておく。

 俺は店の裏方にある洗面台で色々とぐちゃぐちゃとなってしまった顔を冷たい水で洗い流す。そして鏡を見て目立つ汚れが落ちたので休憩前に勤務していたホールへと出る。

「いらっしゃいませー! 空いている席へどーぞー!」

 店内に入ってくる客に対して腹から声を出しておもてなし、席へと誘導する。ここは名の知れた有名チェーン店やルールに厳しい飲食店ではないので自由に席に着いてもらう。

 そもそもとしてここに入る客が少なく、大抵常連客か名前に惹かれてやってきたチャレンジャー。そしてたまたま見つけた客くらいなので席なんていつでも空いている。

 そんなことはさておき、今日は土曜日。特生退の議論会は明後日と着々と時間が迫ってきていた。

 しかし不思議と焦燥感などは感じない。恐らく、それよりも緊張が上回っているからなのだろうが、上手くいく自信が微塵も感じられない。

 こんな不思議な感覚に陥るのは初めてだ。この感覚をどうすればいいのか考え込んでいるとまたもやバイトでミスを連発してしまう。

 例えば配膳する卓を間違えたり、皿を割ったり、さらには料理を皿ごと落としてしまうということが今日だけで十件を超えていた。その都度叱責を受けていたのだが。

 さすがにやばいと思ったのか、店長が『今日含めて三連休を取りんさい』と告げてきた。今日と明日、そして元から休みだった月曜まで休んで来いとのこと。反論をしようにも今の俺では却って足を引っ張ってしまう。

 俺は小さく了承するとバイト着から着替え、帰り支度を始める。市ヶ谷が来ると思ったが、俺のミスも相まってなのか、仕事が忙しいのだろう。

(はあま~たネガティブになってるよ……うし、せっかくの三連休だし議論会について考えるか、後はまあ少し羽を伸ばそう)

 事務作業をしている店長に『お疲れ様でした』と告げてからそそくさと店を出る。

 いつもとは店を出る時間が違うのでバスを待つ時間がかなりあり、大分暇を持て余してしまう。

 今日は色々と疲れてしまったので停留所に備え付けられている古臭い木でできたベンチに腰掛け、議論会がどんな風になるのか頭を巡らせる。

 会長から聞くに教師たちが議論会の二日前から議論会場を設営し、そして議論会当日に議論者が舞台へと上がり、全校生徒の視線がある中で相手と議論を交わす。とのことだ。

 しかし、その議論会場に関しては当日のお楽しみということで具体的な話は聞くことができなかった。

 まあそんなことは別にどうだっていい。問題なのは俺たちの作戦が通用するか、それとあの二年生の先輩がどんな話題で俺たちとぶつかってくるのかが今考えるべきことだ。

 この手の話題に関してはもう既に二人と話し合っているが、個人的にも対策を考えておいて損はないだろう。

 だがあの一件以来、一切あの先輩の姿を視界に入れたことがなかった。さらには噂も何も耳にしていない。そのためどこでどんなことをしていたのか、どんな話題で俺たちを潰しにかかるのか当然だが分からない。

 しかし全く予想ができないという訳でもない。例えば仁志田の広い人脈を使って先輩がどんな人物なのか、どんな過去なのかと先輩についての情報を引き出したりしてもらった。

 俺たちは俺たちで二年生数名を拉t……お誘いに快く乗ってくれて、最近どんなことをしていたのかを聞いたりしていた。

 そのおかげで先輩がどんなことをしていたのかが少し分かった。まずあの先輩の名前は倉敷 右京くらしき うきょうというらしい。倉敷は昔から怒りっぽいが根はやさしい人柄で、去年も特生退に参加し、今の会長を退学させようとしていたらしい。

 そして最近は部活を早々帰ったり、最後の最後まで残ったりと不規則な行動を繰り返しているという。

 ここまで情報を引き出してもなおどんなことをしたいのか全く見当がつかない。それが俺たち三人の結論だったのだが、俺は倉敷が何をしたいのか、どんなことを話題にして俺たちを潰すのか少しは予想がつく。

 しかしまだその予想について考えたいので恵茉や伊月、仁志田など誰にも伝えることはない。恐らく、この予想を知ることになるのは明後日の議論会当日になるだろう。明日までに考えが纏まる気がしない。

 するといつの間にか乗車するバスがすぐそこまでに来ており、俺は慌てて乗車して空いている席へ腰を下ろして目的地までスマホを突くのだった。

 それからバスを降り、家へ帰ると母の食べた後の汚れが付いた食器を洗い、自分のベッドに倒れ込む。

 最近は何かと忙しく、ずっと家に帰り食器を洗い終わるとベッドに倒れてそのまま意識を飛ばしているのだが、今日は少し違った。

 倒れこんだが、髪を掻き上げるとベッドから降りて床に置いてある机に面と向かい頬杖をつく。

「明後日……というよりかはもう明日か……特生退上手くいくといいんだが、こればかりは本場にならないと分からないよな~。まあ上手くいくことを願っておくけど」

「それと、いつ話すべきかな……母さんに話しても大丈夫なのか? これについては一切聞いてねえからわっかんねえ」

 いつかは母に話さなければならないことをいつ伝えるべきか、そんなことをぐるぐると考えて、結局答えは出なかった。

(まあ、その時にでもなったら話せばいいか……)

 そうやって考えることを辞めると、眠気が襲ってくるまで明後日の事についてまた思考を巡らせる。

 翌日は恵茉も伊月も部活で、バイトもなく、個人的に何かがあるという訳でもないので久しぶりの休みを楽しむことにする。

 とは言ってもどこかに出かけるということはなく、ただ家でのんびりと過ごすだけなのだが、まあいつも動かしているのと明日のためにも体を休めておくということにしておく。

 久しぶりにバタバタしない朝を過ごせると思うと無意識にも心が躍り、早くやるべきことを終わらせたい欲が沸いてくる。

 そしてすぐに寝間着から普段着に着替え、自室から出る。居間の小さなちゃぶ台に置かれたデジタル時計は午前六時を表示しており、まだ朝早いので母は布団で横になって寝息を立てていた。

 母を起こさないようコッソリ足音を立てずに風呂場に行くと、掃除道具を手に持って風呂場の掃除を始める。

 風呂掃除が終わると次はトイレ掃除、そして朝食を作ってと慌ただしい朝になる。いつもより時間は申し分なくあるものの、いつもの癖と早く終わらせたい欲で慌ただしくなる。

 それから一~二時間後、やるべきことが終わり、自由な時間が訪れ自室で適当にスマホを突く。しかし、スマホを使ってすることがなくどうしようか悩んでいた時だった。

 部屋と居間を区切るドアが軋む音を立てながらゆっくりと開く。そして少しの隙間から顔を覗き込ませる母。

「母さん? 何かあった?」

「ううん……ねえ隆太、何かしたいことって、ある?」

「したいこと? 今は特に何もないけど……」

「なんでもいいんだよ、遊園地に行きたいとか、欲しいものを買いたいとか」

 母からの急な質問にどう答えればいいのか分からず、特に何も思い浮かばなかったので頭上に疑問符を浮かべながらないと返事する。

 それでも何かさせたいのか母はしつこく聞いてくるものの、ないものは幾ら聞かれても出てこない。しかしここまで問われると少しは考えた方が良いかと思い、何か少しでもしたいこと、欲があることを考える。

 これまで何かしたいと思ったことがあまりなく、思ったとしてもそれはすぐにできることなので引きずることはなかった。……強いて言うならば。

「母さんと一緒にここら辺を散歩したい、かな」

「……え? それだけ……?」

 母のそんな呆気にとられたような言葉に無言で首を縦に振る。すると、外に出かけるためなの準備をするためか俺の部屋から姿を消す。

 散歩と言っても近くを歩くだけと母に伝えたため特に持っていくものはないが、何かがあったときのために幾らか紙切れが入っている財布と六十%近い充電がたまっているスマホをポケットに入れて居間へ行く。

 居間では寝間着から普段着へと着替えている最中の母。さすがに自分の母親でも着替えシーンを見るのは躊躇うものがある。それに気恥ずかしさもあるからな。

 取り敢えず母の準備が終わるまで何もすることが無いのでいつでも散歩に出かけれるよう玄関で待つことにする。

 どこをどう散歩するのか考えていないので行き当たりばったりの散歩になるのだが、まあ問題はそこまでないだろう。どうせ時間は沢山あるしな。

 そこから数分玄関で壁に体を任せて待っていると、四十近いはずの母が到底そんな歳とは思えないほどの顔で、服装も最近の女子高生などが好んで着そうな純白のワンピース。そこに革でできた小さめの肩掛けバッグ。外見だけ見れば今どきの女子大生ぐらいに見えるだろう。もう少し頑張れば女子高生も夢ではないほどだ。

 そんな母に微笑んでから靴を履くと、母が俺の肩に手を置いてくる。

 見た目が若いと言っても体年齢は普通に四十歳なので少しばかり靴を履くのがしんどいのだろう。かと言って散歩ができない程ではないし減るものでもないので潔く肩を貸す。

 二人共靴を履くと家の扉を開いて外へ出る。本日の神様のご機嫌は良いらしく、雲一つない青空が見えた。

 梅雨明けすぐの七月、それはそれは暑く、少し外に出るだけで汗が滲みだしてくる。

 そんな外を散歩するわけで、初めてすぐに喉がカラカラに乾く。そのため近くにあった自動販売機で水を購入し、自動販売機のすぐそばにあった木製のベンチに体を預ける。

「なんでこんな暑い日に散歩って言ったの? 家でもできることあるのに」

 少し苦言を呈する母に苦笑いを浮かべながら水が入ったペットボトルを口にして、母の問いかけに少し考えてから答える。

「なんかさ、俺が最近学校とかバイトとかで忙しかったからさ、まともに話す機会がなかったなって思って、散歩なら話せるし、気分転換にもなるしいいかなーって」

「そう……なら思う存分話したいことを話して? 多分母さん、今日は大丈夫だから」

「ん、なら歩きながら話したい。その方が何となく気が楽」

 そう告げてから俺はベンチから席を立ち母に向かって手を伸ばす。その手の意味を汲み取ったのか、母は俺の手を取ってベンチから立ち上がる。

 行き当たりばったりと個人的に決めたので取り敢えず適当に道を進むのだが、どのタイミングで本題に入るべきか……そんなことを考えて、どれほどの時間が経っただろうか。         

いつの間にか帰ることになっていた。何も大事なことを母に話すことができないまま。

いやいやちょっと待て、俺はこの散歩をするって決めてから何回も覚悟を決めてきただろ。それなのにいざ話そうとすると話す機会がないからというのは些か言い訳染みていないだろうか。

一応まだ話すタイミングはこの後でも、今日以外でもあるだろうが早く話しておく分には損はないだろう。ただ話すタイミングがつかめないのと、勇気がないから。

そんな覚悟を決めたはずなのに勇気がない自分に自己嫌悪が芽生えたものの何とかまだ時間はあると自分を納得させて母と共にアパートに戻ることに。

 部屋に着いた頃にはもう太陽が傾き始めており、早く昼食を摂らなければ夕食が入らなくなってしまう。そのため帰りに道中にあったコンビニへよってコンビニ弁当を購入していた。

 俺と母の分で二つ。それを中古ショップで購入した少しガタついた電子レンジの中に入れると八百Wで一分三十秒温める。俺はボーッと電子レンジの中でゆっくりぐるぐると回るコンビニ弁当を見つめる。

(……朝食少なかったはずなのに全然腹が空かない)

 そんなどうでもいいことを考えているとすぐに一分三十経っており、ピピピと温め終了したことを知らせる電子音が電子レンジから流れてきた。

 扉を開けて弁当箱の蓋を触るがまだ少し温まっていないところがありそうだったのでまた同じ設定で、今度は二分にしてみる。

 そしてまたボーッと弁当を見つめる。とは言ってもその弁当箱が意識の中にあるわけではないので今どうなっているのか分からない。

 いつの間にか二分が経っていたらしく電子レンジの扉に備え付けられていたガラスのような部分が湯気によって曇っていた。すぐに扉を開けて弁当の状態を確認するのだが。

 弁当の蓋が曇っており中の状態が確認できなくなっていた。しかし、ここまでなっているということはもう十分に温め終わったということだと思うので電子レンジから取り出す。

 弁当の底は意外にも熱く、あまり熱くなかった弁当の縁を持ってワークトップへ移す。

 蓋を開けてみるとそこには水滴がついて煌びやかに光るくりの実色をした牛肉。その下に純白な白米。恐らくそれが主食で、その隣に卵焼きやブロッコリー、そして申し訳程度の紅ショウガが添えられていた。

 蓋を開けたと共に出てきた湯気と、香ばしい匂いが鼻腔を刺激して腹がさらに減る。そのためすぐに母と俺の箸を取り出してちゃぶ台へ持っていく。

 母は何かに迫られているような表情で虚空を見つめていた。最近は自分の目では見ていなかったのだが俺がいない間に症状が出ていたのだろう。だが早くお昼を食べなければせっかく温めたのに冷めてしまうので母の体を揺さぶる。

「母さん? 大丈夫? 弁当温め終わったけど……」

「え、ああごめんね、食べる、ありがとう」

 一瞬不意を突かれたかのような顔をしてからすぐにその表情を取り繕って苦しそうな苦笑いを浮かべてちゃぶ台に置かれたコンビニ弁当に手を付ける。

 その微笑みが脳裏に焼き付いて離れない。母がどれほどの苦痛に耐えながら毎日を過ごしていたのかと思うと居た堪れなくなって、何か行動をしなければ今よりももっと心が蝕まれていくような気がして俺もコンビニ弁当をがっつく。

 いつもなら最低二言ぐらい会話を交わすのだが、今日はどちらも気まずそうにしていて黙々と弁当の中身を胃の中に入れることしかできなかった。もしここで気遣って何かを告げることができれば何かが違ったんだろうが、そんなこと高校生の俺では何もできない。

 やがて弁当の中が綺麗にすっからかんとなっていて「ご馳走様でした」と合掌すると流し台でプラスチック製の弁当箱を水洗いしてからバラバラにしてゴミ箱に投げ入れる。

 母も俺とほぼ同時に食べ終わったため、俺を真似して弁当をゴミ箱に捨てる。

 なんだか急にドッと疲れが体に伸し掛かってきて無性に休みたくなる。しかしまだやることが——と思ったが体の本能的欲望には敵わず、自室へ入ってベッドに辿り着く前に床へ倒れこんでしまう。するとすぐに睡魔が襲ってきて俺は眠りへと落ちるのだった。


 久しぶりに夢を見た。その夢は思い出したくない記憶を流用したかのような夢だった。

 俺が小学生だった時の夢だった。夢の中では俺がクラスの男子に暴力暴言などのいじめを受けていて、それを止めようと俺の前に立ってくれている恵茉と伊月の姿。

 二人の姿は今よりもずっと幼く身長が比較的高く、力も強いいじめリーダーに殴られでもしたらすぐに吹き飛ばされてしまいそうな程だった。

さらに言えばいつも歯向かっているため二人もいじめの標的になっていた。ただ、それでもいじめを受けている俺を庇ってくれている。この光景を思い出すと今も

罪悪感を覚える。

 だけどなんで今になってこんな夢を見たのだろうか、今となってはあんなことをもうどうでもよいと思っていたはずなんだが

 まあ最近忙しく、ストレスの掛る事続きだったため心の余裕がなくなり、嫌でもこのような夢を見てしまったのだろう。しかし、疲れているのにも関わらずこんな夢を見るなんて神様の悪戯にも程があるのではないかと思えてくる。

 だが、まだ睡眠を続けている途中のはずなのだがこうやって考えることができているのは何故なのだろうか……考えるだけ無駄と判断して何とか無心にさせた。

 その後は特に夢を見ることなく眠り続け、起きた頃にはもう外が完全に暗くなっていた。

 恐らくもうとっくにいつもの夕食を食べる時間を越しているとハッキリ分かった。さすがに昼も夜も総菜は健康に悪いので今からでも夕飯を作ることにする。

 幸いにも散歩の帰りに夕飯の材料はある程度購入してきているので作ることはできるのだが、母がまだ起きているのかが問題だった。

 大体母が床に入るのが二十二:〇〇ぐらいなのだが、部屋にあるデジタル時計には二十一:四十分を示していた。今から作ったところで調理している途中に睡魔に負けて寝てしまうだろう。

 それなら作る必要があるのかと思うが、明日の朝や昼の分、もし母が起きていた時のことを考えると作らざる得ない。それに、母にこうして食事を作ることがいつまでできるかが分からない。それなら少しでも料理を作って振舞っておくべきだ。

 そんな考えに至った瞬間自室から飛び出して台所に足を運んだ。俺を疑問視する母に微笑み返すと白色の無生地で出来たエプロンを身に着けてそそくさと材料と器具を用意する。

 今日の夕飯は元々あまり時間と手間が掛からないオムライスとトマトを乗せたサラダにしようと思っていたのでさらに時間を短縮させるためにテキパキと卵を割って油を引いたフライパンに乗せる。

 その後は頭の中に入っているレシピ通りに料理を進めてトーク番組を閲覧している母に「夕飯できるけど食べる?」と一言告げてからすぐに手元に視線を戻すが、少し小さく「うん」という母の声が聞こえた。

 食べてもらえると安堵と嬉しさなのか俺は意気揚々と作り終え、皿に盛り付けるとちゃぶ台まで運ぶ。そして箸やらスプーンやらを持ってくると母の前に置いてから自分の前に置く。

 母はオムライスを視界に捉えると少し目を輝かせてスプーンを手に盛った。俺がいただきますと呟いてから合掌すると母も釣られるように少し大きくいただきますと合掌する。

 オムライスをスプーンで大きく掬い取ると、掬い取ったオムライスと同じ程の口を開けてオムライスを頬張る。そしてちょっとばかし幸せそうな顔になる母。

 ここまでくれば大体の人は察するだろう。母の大好物はオムライスなのである。

 俺はこうやって幸せそうな母の顔を見れれば幸せだ。例え明日、今死のうが母の幸せな顔を見れればどうだっていい。

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