第三話【そうか、なら全力で戦おうじゃないか】

 昨日はなんとか補導時間ギリギリで帰宅することができた。家に帰ると母は既に居間に布団を敷き、毛布に包まっていた。

 その姿に特に何も思わずそのまま寝る支度を済ませると寝た。特にあの後は面白いことはなく時間が違うだけでいつも通りだった。

 そして翌日の今。俺は二年生の誰か全く知らない先輩に呼び出され、貴重な昼休みの時間を奪われていた。

 俺は先輩に連れられ、多くの生徒が昼食を取っている中庭へと連れられていた。その中でも多くの視線が集まるであろう中庭の中心にあるガゼボの中で向かい合わせとなり、次の瞬間先輩の口から大声で少しだけ予想していた言葉が飛び出す。

水城隆太みずきりゅうた! 俺はお前を特生退への参加を求める!」

 もうなのか、と内心少しの焦りを覚えつつ少し黙り込んでから先輩に向けて言葉を紡ぐ。

「…………分かりました、お望み通り出ますよ。ですけど条件として助っ人を連れてもいいですか? そちらも連れていいので」

「その条件を飲もうじゃないか、そんなごときで勝てるとは思えないがな」

 なんかこいつの言葉が鼻に着くな。まあ恐らく俺を見下しているような言葉を吐いているからなのだろうが。

 さっきまでは少し考えを巡らせていたから気付いていなかったが、先輩が大声で挑戦状を俺に叩きつけたからなのか俺たち二人に中庭にいる生徒、教室の窓から顔を出している生徒からの視線が集まっていた。

 その視線の大半は野次馬の視線で、中には「あんな奴が勝てる訳ない」とでも言うような痛い視線もあった。

 しかし先輩はなにも気にしていない凛とした表情だったのでここで気にしてしまったら負けな気がするので何とか平然を装う。

どこかで崩れてしまっているのではないかと不安になるがそれでも何とか話が終わり教室に戻るまでは一切動かさないように努力する。

「お、帰って来た、今の今まで何してたの?」

「ほんとだよ、こいつと戦ってたら急にいなくなるし」

「すまん、さっきまで二年の先輩と話してた」

「話? 隆太ってそんな話をするほど親しい先輩いたっけ?」

「いやいないいない、な~んにも知らない」

「じゃあなんで急に話を?」

 まあこんな反応をするのは当たり前だろう。恵茉えまは何が何だか分かっていないようで俺に質問攻めするが、伊月いつきは落ち着いていて、何か勘付いたのだろう、顎に手を当てて考える素振りを見せる。

 答えを提示するように俺は自分の席に着いてから教室に着いた途端に零した安堵の笑みを捨てて、眉を細め、真剣な表情にすると重々しく二人に告げる。あの中庭での出来事を。

「ん~とまあ話ってのは簡単に言うと、特生退の挑戦状を叩きつけられた」

 次の瞬間二人の眉間を顰めてさっきの緩んだ雰囲気はどこへやら、ピリピリとした雰囲気が俺の席の周りに漂う。

 この教室には数人しかおらず、それも俺たち以外は教室の前の扉で駄弁っているのでこの雰囲気に気が付くことはなかった。

「でそれを受け入れた。そして俺の助っ人を釣れることを条件にしてな」

「…………」

「…………」

 沈黙が数秒間流れ、俺はふと何か余計なことをしてしまったのだろうかとほんの少し不安に思ってしまうが、次に伊月が口にしたことで俺の不安は一気に飛ばされる。

「分かった。じゃあ助っ人は僕たちでいい?」

「私も、隆太の助っ人として頑張るよ」

「……そっか、ありがとう。よ~し! じゃあ早速今日の放課後作戦会議するか!」

「隆太バイトでしょ? 家庭の事情があるんだからバイトを優先しないと」

「うげっそうだった、じゃあ月曜日はないから来週の月曜日で」

「おっけ分かった。予定空けとく」

「僕もなんとかして空けとくよ」

「ありがと」

 二人大したことはしていないと言わんばかりの顔をしているが、俺にとっては二人が居たからこそこの挑戦状を受けることができたのだ。

 だけど、これを言うのは少し気恥ずかしいので口にすることはないのだが。

……そういえばあの先輩の目、俺を本当に見下しているかのような、もう少し時間があればもっと煽るような言葉を口にしていたであろう目だった。


 それからは周りからの視線が少し痛い視線に変わったこと以外は特に普段通りの一週間を過ごし、翌週の月曜日の放課後。

 作戦会議は学校近くのファミレス店で行われることになった。

 店に着き、各々ドリンクバーを頼むと伊月はコーヒーを、恵茉と俺はコーラをコップに注いで席に着く。

「特生退は七月にあってあともう三ヶ月もないけど、どうするの?」

「そうなんだよな~、なんかしなくちゃいけないんだけど、どうにも何をすればいいのかさっぱり」

「そんなことだろうと思ったよ、ほらこれ、あの生徒会長が特生退をした時の資料。先生に頼んでコピーしてもらった」

「お、さっすが! 伊月は有能だな」

「ん? それって、私は無能って……」

「よ~し作戦会議始めよう!」

 危ない危ない、もう少しで色々と面倒なことになるところだった。しかし伊月は本当に有能である。

 伊月がコピーしてもらったという資料はあの生徒会長がどんなことを題材にして、どんなことを発言したのか、それについて相手側の発言、題材もきめ細かく書かれていた。

「どれどれ? あの会長は何を題材に……ってこれは」

「『この学校に本当に相応しいのは誰か』か、確か生徒会役員選挙って五月だったよな」

「うん、多分会長は会長になった後に外部生だってことが分かったんじゃないかな」

「隠してたってことか?」

「——いいや別に隠してたわけじゃない」

「か、会長⁉ あ、それと小敷さん……」

「どうも、会長、いきなり割り込まないでください」

 話の途中で後ろの席から顔を覗き込ませ、俺が放った質問に答える仁志田にしだ

 その仁志田の頭をペシっと叩いて少し叱責するのは副会長の小敷こしきだった。

 しかし仁志田の言った隠してはいなかったとはどういうことなのだろうか。隠していなければ``一応``外部生が生徒会に入ること、ましてや会長になる可能性など〇%に等しいだろうに。

 内心疑問に思っていたことが顔に出ていたらしく、仁志田は苦笑いをしながら俺の隣に座って詳しく話す。

「隠していなかったのは本当なんだが、俺が誰にも言う気がなかったから選挙まで誰も気づかなかったってだけだ。バレたというか、まあ、俺の家がアパートだったからって理由で噂が出回ったって感じだな」

「……そう、ですか」

 この話が本当なら、いや本当なのだろう。仁志田の目の奥に恨みや後悔しているような感情が感じ取れた。だから俺はこの前の仁志田を問いただすようなことを後悔し、表情を曇らせる。

 そんな俺をお構いなしに話を続ける仁志田。その話を何とか頭に留めながらあの時の光景を想像していた。

「一応会長になりたい人がいなかったからなったんだけど、その後の一回目の特生退に出ることになった、けど俺は会長だから退学するわけにはいかない。だから俺は二回目の特生退までに三つの実績を積めば誰も咎めない。っていうのでその場を収めたんだ」

「ということはちゃんと実績を積めたんですね」

「ああ、例えば半袖短パンの制服の作成、体育祭で色々ハプニングがあったんだが、それを何とか俺を中心に収めたり、学校指定の防寒着の作成だったりをした。そして何とか成功して、満場一致で俺の優勝だった」

 今は目の前の話に集中しなければ。……しかし仁志田はたったの一年間で三つも意外とすごいことを成し遂げているのは分かるのだが、それはこの仁志田だからできたことで俺たちにできるとは限らないと不貞腐れているような考えが頭を支配する。

 仁志田の話に恵茉は目をキラキラと輝かせて聞いていたがその隣に座る伊月と仁志田の隣に座る小敷は険しい表情をしていた。

 なぜ二人は険しい顔をしているのか、そしていつも仁志田のすぐそばにいるはずの小敷でも険しい顔をしている。

 いくら考えても答えに辿り着かなかったので諦めることにして作戦会議を再開する。

「俺たちにできること……」

「例えば、特生退をやめさせる、とか?」

「特生退をやめさせるって……どうやって、歴史も古い伝統なのにさ」

「そうでもしなきゃ、歴史を変える気で挑まなきゃ何もできないよ?」

「うっ、確かにそうだけどよ、具体的にどうすれば……」

「それならちゃんとした理由があるじゃないか」

「理由って、なんなんですか?」

「それは自分で考えてみな、俺はそこまで手伝う気はない。ただアドバイスをするだけで答えを提示するつもりはないからな」

 確かに自分たちの勝負なのに全くもって関係のない人物が答えを悠々と出せばそれは俺たちがやったことではなくなるということを理解していての言葉だったのだろう。

 仁志田は苦笑を漏らしながら口にした言葉に内心付け加えながら理解する。しかし、自分で考えろと言われてもどんな理由なのか分からずう~んと唸り声を上げるのだった。


 そこから一時間ほどどんなことを準備しておけばいいのか仁志田にアドバイスを貰いながら話をまとめていく。

 結局理由は何だったのか分からず、今アパートへと歩を進めている最中も顎に手を当て、考え込む。

 だが特にこれと言った結果は無く、アパートに着く。部屋に入り、自室のベッドに倒れ込むと仰向けになって白い天井を見つめる。

「まだ二ヵ月はあるんだ、それまでに分かれば何とかなる、よな」

 独り言を呟くと深く息を吐いて気持ちを切り替えると母の夕飯の準備を始めるために台所に足を運ぶ。そしてフライパンを用意し、IHコンロにセットすると油をフライパンに垂らす。

そして次々と手際よく母が食べれる量と翌朝の分の食事を作ると盛り付けるために皿を取り出した次の瞬間——。

 ガシャ——ン

 手が滑り、手元から白色の大き目な皿が落ち、地面に当たった衝撃で木っ端みじんになってしまう。

 一瞬何が起きたのか理解できず皿の破片が散乱している地面を見つめていたが、驚いて近寄って来たのであろう母が俺に向かって「大丈夫?」と声を掛けてきたことによってひとまずは理解できて処理を始める。

 大き目の破片を手で取り新聞紙で包めると、後は掃除機を使って小さな破片を吸い取る。

 そしてまた皿を棚から取り出して料理を盛り付ける。母の分の盛り付けができたので、食べてもらうためにちゃぶ台まで運ぶ。

 ちゃぶ台の前で心配面をして待っていた母は俺の足元を見て驚愕したかのように表情を変える。

 ちゃぶ台に皿を置き、母の視線が気になったので釣られて足元を見ると……。

「……は? な、なんで血が?」

 俺の足の裏から濃い赤色の血が出ており、もう既に小さな血だまりができていた。

 なぜ血が出ているのか分からず数秒間思考が停止したが、その後に襲ってきた強烈な痛みによって俺は思わず座り込む。

「~~~~~~」

 痛みが強烈過ぎて声にならない声が部屋を満たす。するといつの間にかちゃぶ台の前から姿を消していた母がタオルと救急箱をもって姿を現す。

 そしてあわあわと救急箱から包帯を取り出してどうにかこうにかしようとしている。しかし何をすればいいのか分からないのだろう、「え~とえ~と」という声を零している。

 こういう時の対処法は以前何かの授業で豆知識として教えてもらったので俺が自分で対処をするために救急箱を自分の方へ寄せる。

 足の裏を見てみると、大きな破片は刺さっておらず小さな破片が幾つか刺さっているだけのようだった。

 そのため傷口近くの血を綺麗に拭き取ると救急箱に入っていたピンセットで皿の破片を丁寧に取り出す。

 恐らくすべて取り出したので風呂場に行き流水で傷口を流してから消毒液を使って消毒し、ガーゼを傷口に貼る。

 なんとか一通り応急処置が完了すると母が待っている居間へ戻る。

 母は心配面で俺の足を見ていたが幸いにもすぐに痛みは引いてきて少し安静にさせておけば大丈夫なくらいだった。

「大丈夫だった?」

「うん、何とか、学校で教えてもらったのが吉だった」

「ごめんね、母さんは元看護士だったのに」

「大丈夫、それに母さんは父さんの事で血を見たら冷静な判断ができなくなるのは分かってるから悪くない」

 俺の父、水城弘人みずきひろとが亡くなった原因。それは交通事故によって亡くなったのだ。それも車との人身事故ではなく電車との接触による人身事故だった。

 母はその時の記憶がないため近くで警察から教えてもらった推測だが、母が少し父から目を離した隙に父が地面につまずいてそのまま降りている踏切の遮断棒を乗り越えて電車に轢かれてしまったのだろうとのこと。

 父の亡くなった姿を見た母はそれから血を見ることを嫌がり、もし見てしまった時には事故当時の記憶がフラッシュバックしてしまいパニックに陥ってしまう。

 そして母は普段から血を見たり使ったりする看護師の仕事だったのでこのままでは仕事にならないと判断したのだろう、母は総合病院の看護師を辞めることにしたのだ。

 しかし今回の件で対処できなかったのは母のせいでも父のせいでもない、誰のせいでもないのだ。まあもし誰が悪いのかと問われれば俺のせいだろう、だって俺が破片を踏まなかったらよかっただけの話なのだから。

 そんなことを考えていると母がいつの間にか外服に着替えて俺の目の前に立っていた。

「ど、どうしたの?」

「病院行くよ」

「え? いやいや、これぐらい病院に行くほどじゃないでしょ」

「ううん行くの、もしかしたら破傷風になっちゃうかもでしょ? 破傷風になったら致死率三十%なんだよ?」

「破傷風って……別に大丈夫だって」

「大丈夫って言って何度も大丈夫じゃなかった人たちを見たから、行くよ」

「えぇ……分かったよ、でも今やってる所なんてある?」

 さすがにこんな夜遅くまでやっている病院はないだろう。それを指摘すると母は普段あまり使わないスマホを手に取って少し操作すると耳に当てる。電話をしているのだろうか、少しするとスマホから小さく声が漏れてくる。

 また少しすると「ありがと」と言って母はスマホをポケットに突っ込む。

「母さんの知り合いの総合病院が見てくれるって」

「え? いやいや総合病院って大体五時くらいに診療終わるじゃん」

「そこを何とか通してもらった」

「何とかって……どうなっても知らないよ」

 こんな時間にも関わらず診療してくれるということならここで断るのは失礼になるだろうと思い、俺は渋々病院に行くことにする。

 母はこういう医療系に関しては父の事があった前も後も看護師の時の血が沸くようで、祖父母の言う父が亡くなる前と同じようになる。いつものようなか弱い姿はなく、なんとしてでも命を守りたいという一人の医療従事者の姿に。

 そのあとは駅でタクシーを捕まえて母の知人がいるという総合病院へ。

 総合病院に着くと夜遅くで診療時間も終わっているので誰もおらずすぐに診療が始まった。母の強い希望でなんとまあレントゲンなども撮ってもらえるとのことで母の知人や関係する人たちには頭が上がらない。

 しかし、こっちの希望でこんな急に診療しても大丈夫だったのだろうか、普通は幹部や院長などと相談して決めることだと思うのだが、まあ病院に関してはほぼ何にも分からないので考えないことにしよう。

 そしていろいろと済ませ、後は結果だけとなったのだが心なしか少し長い気がする。

 何もないのであればもう少し早い気がするのだが、いや夜遅くだから人手が足りていないのだろう。

 そう結論付けると母の方へ視線を向けると、母は少し俯いており、瞳には寂しさと心配など色々な感情が入り混じったような瞳をしていた。

「母さん? 大丈夫?」

「え? ああ、うん、大丈夫大丈夫。ちょっと疲れただけだから」

「そう、大丈夫ならそれでいいんだけど……」

 母は苦し紛れの微笑みを浮かべるとまた俯くが、すぐに病院に天井を見上げる。それから数分、母との会話は無いまま診療室から名前を呼ばれ診療室へ入る。しかし母は看護師に止められて入るのを拒まれたため診療室には俺一人入ることになった。

 なぜ母が止められたのか分からないがまあ何かしらの事情があるのだろうと楽観視していた。

「キミが三奈みなの息子クンだね」

「えぇはいそうです。なんかすいません、こんな夜分遅くに」

「いいのいいの、三奈にはみんな助けられてるから、院長にも事情を話せば減給くらいで済むだろうから」

「減給って……結構大変じゃないですか」

「まあそんなことはさておき、本題に入ろっか」

 母の知人は今さっきまでの冗談面から医者としてのモードにへと切り替わったのか、凛とした表情となり、彼女の前にあるモニターに写されているレントゲン画像を見ながら告げる。

「え~っとまずは破傷風になる可能性は〇%に近いから心配しなくても大丈夫。多分十分な応急処置をしたからだね」

「そうですか、ならよかったです。ありがとうございました」

「ちょいちょい待ちなさい。まだ話すことがあるんだよ」

席を立ち診療室を出ようとする俺を引き留めてまた椅子に座らせる母の知人。その顔は少し曇っている表情で何とも言えない表情でもあった。

 そして彼女から告げられたのは——

「隆太君、キミは、————、なんだよ」

「……え? なんですか、それ……」

「三奈さん! 大丈夫ですか⁉ 誰か! 入間いるまさん呼んできて!」

 診療室の外から飛んできた大きな声で俺の抗議の声が遮られる。そして目の前の母の知人はすぐに席を立ち、走って飛び出すように診療室から姿を消す。

 診療室に一人残された俺は頭を抱えて告げられたある一言を頭の中でループさせるのだった。


 あとから聞いた話だが母は時々起こすパニック発作より少しばかり酷いものを発症してしまったらしく、少しの間倒れてしまっていたらしい。

 だけど母の知人。入間さんが即座に手当をしたことによって何とか数十分安静にするのみで済んだ。そして今は入間さんたちに感謝を述べて帰路についているところだ。

「ごめんね、隆太」

「だから謝る必要はないって、母さんは何にも悪くないんだから謝らない」

「うん……そうだよね、分かった。で? 入間になんて言われたの?」

「ん? ああ、十分な応急処置をしてたから破傷風にはならないだろうって」

「そう、ならよかった。他には何か言われた? なんか迷ってるような感じの顔だけど」

「え? いや、何も言われてない。多分学校の事を考えてたからだと思う」

 ああ、心が痛い。入間さんに言われたことを母に告げるのが怖くて、でも母は真剣に向き合ってくれるというのは予想できる。だけど、もし母が……いや、多分、俺が怖がっているだけなのだろう。

 その事実を認めること、もしかしたらまた母がパニックになってしまうかもしれない。母の症状が進行してしまうかもしれないと。

 ただ俺が怖がって言えないだけなのに、それを隠すために母に嘘を吐くこと。もしかしたらもう少しで母の期待、拠り所を奪ってしまうというのを母に知ってほしくないから。

 色々な不安で押し潰されてしまいそうになるが、進める歩みは緩めることなく母のペースに合わせて進める。

 やがて俺たちの部屋に着いて、母は食事を、俺は風呂へと各々やるべきことをし始める。しかし最近母は俺のまでは放心状態にならなくなってきた。その代わりというのだろうか、以前までは月に数回しかなかったパニック発作がここ最近週一で発症している気がする。

 だが気のせいということで済ませておくことにする。そうしないと知りたくないことも知ってしまう気がしたから。

 しかし俺の脳は無意識に思考を巡らせてしまっているので、一度深く溜息を吐く。すると場所が風呂場だからか無駄に大きく響いてしまう。

「まあ、多分一時的なものなんだろうけど……しっかしこれからどうすっかなあ」

 母に関することから特生退の事について思考をチェンジさせる。特生退に関しては伊月や恵茉、そして会長、副会長と話し合い、結果お題は特待生の必要性ということに決定した。

 後は本番に向けて色々と情報収集を行ったり、どんなことをすればいいのか考えて実行に移す段階に来ていいた。……しかしそんな段階でも未だに会長の言う『特生退が亡くなるべき理由』について具体的なものが思いつかずにいた。

「確かにないほうが良いってのは分かるんだけど、多分俺が考えてる理由とあの会長が考えてる理由は違うんだろうな」

 明確に違うと仁志田から否定された訳ではないが、俺の直感が違うと、もっと別の誰もが納得するであろう理由を仁志田は持っている気がした。だから俺はこのことになると頭をフル回転させて思考を巡らせる。

 なんとしてでも特生退の本番。演説会までには間に合わせたい。というか間に合わせなければ俺たちは退学となってしまう。

 しかし今日も結局結論へは出ず、ただ煮え切らない考えにモヤっと気持ちになる。

 まだその結論を出す時ではないのだろうか、そんな考えが脳裏に浮かぶ。そこで意外と長くお湯のシャワーを浴びていたせいか、少しのぼせてきた感じがしたのでさっさと髪と体を洗って風呂場から出る。

 そしてきっちりタオルとドライヤーを使って髪と体に着いている水分を飛ばす。そして寝間着を来てから居間へと向かう。

 そこにはいつの間にか風呂にも入らないで寝間着に着替えていた母は夕飯を食べ終わったのか、料理が無くなった皿を重ね、布団に包まって小さな寝息を立てていた。

「もう、ちゃんと風呂に入らないと……まあ今日くらいはいっか、疲れてるだろうし」

 母を見つめ、微笑みながらそう呟くと、丁寧に重ねられた皿を持って台所へ行き、水に漬ける。

 しばらく放置しないと汚れが落ちにくいので俺は自室に入りベッドの上で寝転びながらスマホを突くことにした。

 暫くしてスマホの充電が二十%を切ったところでそろそろ洗い物をするかと重い腰を上げて流し台の前に立つ。

 寝間着の袖を捲るとまだほんのり冷たく感じる水道の水を少し有れている手に当てて汚れが付着した皿を洗っていく。

 すべて洗い終わり、乾燥機に突っ込んだところで今日の疲れがドッと押し寄せて酒に酔っている千鳥足のような足取りで自分のベッドの前まで辿り着くと、失神するかのようにベッドへ倒れる。

 本日何度目か忘れるほどの溜息を、肺の中の空気をすべて一新させるような深い溜息をベッドに吐き捨てる。

「取り敢えず明日の放課後は図書室か図書館かで調べてみるか、八柳の過去について」

「……でも他にやること、というかできることって何が……印象操作?」

 脳裏に浮かんだ印象操作。こんな俺でもそこそこ本を読むのでこういう場面が書かれている書籍を読むことはある。だから印象操作でどんなことをしたらいいのか、どうすれば良い印象を持ってくれるのか大体は予想がついている。

 だがそれをどう八柳高校で、八柳学園で実行させるかが問題で、俺はベッドの上で頭を悩ませるのだった。


★  ★  ★  ★  ★


 僕はみんなとファミレスの前で別れてから特にやることもなかったから家の近くの公園のベンチに座って夜風に当たりながら軽く考え事をする。

「ふう、会長はどこか隆太にドライだよね~。もう少しぐらいヒントを上げてもいいと思うんだけど……まああんな事があったし当然って言えば当然なのかな~」

 あんな事と言うのは隆太が仁志田に立てついた、というか捲し立てた時の事だ。確かに気まずいからというのもあるだろうけど、多分、仁志田は隆太と同じということを気付いてほしいから、なのだろう。

 詳しい理由とか、本当にそう思っているとは限らないけど、あの時、隆太に教えている時の表情から僕なりに読み取れたのはそんな感じだった。

 だけど、僕はあの場で仁志田に追及することはできなかった。多分、仁志田が追及を許さない雰囲気を勘が鋭い人だけが感じ取れるほどしか漂わせていなかったからだろう。

 僕は小さい頃から周りの人とは少し勘が鋭い方だった。そして、あの場で恐らく僕と同じように勘が鋭い人がもう一人。

 副会長の小敷瑠璃香るりか。確証があるわけではないけれど、仁志田が成し遂げたことを述べていた時点でその雰囲気を漂わせており、その瞬間、小敷の顔が険しくなったから。

 ただそれだけ。ただ僕の勘がそう言っているのだ、小敷瑠璃香は僕と同じだ、と。僕は勘が鋭い者同士話がしたいと思ったけど、今日は時間がなかった。

仁志田は、会長は、パートナーでもある副会長にも話していないことがあるのではないか。それが隆太に気付いてほしい『特生退が無くなるべき理由』の一つではないのだろうか。

「……ただ、どこまで考えたって結局は推測だからね~、本当のことを知るにはやっぱり直接本人に聞くしかないのかな~」

 そう誰にも聞かれない言葉を零すと、僕はベンチから腰を上げて自宅へと踵を返すのだった。


 そんな月曜日を過ごした一週間は特に誰も収穫は無く、いつもより早く感じる一週間だった。

翌週。着々と特生退の演説会が近づいてくる中であと数回しかない作戦会議を行うために隆太たちとどこで行うか話し合った結果、僕と恵茉の家からの距離がほぼ同じところにある隆太の家で行われることになった。

そして痛々しい視線に耐えながら週の初めの六限授業をやり過ごす。

……主にその視線を飛ばされているのは二年生の先輩の要求を大っぴらに飲み込んだ隆太なのだが、まあ仲間ということで僕たちに多少なりとも向くことがあった。

放課後、僕と恵茉は部活を休むという旨を顧問に連絡した後、隆太は準備をするために先に家へと帰ったため、僕は恵茉と帰路を共にすることになった。

「ねえ恵茉、なんか、先週の月曜から隆太の様子おかしくない?」

「……伊月も感じてたんだ、元気がないっていうか、心ここにあらずって感じ」

「だよね~、例えるなら『生きることに希望がない人』かな? あの隆太の顔から生気を感じ取れないからこれが相応しいと思うんだけど」

「ん~まあ確かに、それが相応しいと言われればそうなんだけど……なんでなんだろうね」

「勘の鋭い僕でもさすがにそこまでは分からなかったな~」

「はあ、でも今はそんなことに思考を囚われちゃ勝てるもんも勝てなくなる」

「じゃ、思考を改めるってことで近くのコンビニで差し入れか何か買って行こっか」

「お、いいねえ、何買うー? 私はチョコが良いなー、考え事するのに糖分は必須だから」

「僕は、そうだね、角砂糖にしよっかな、久しぶりに食べれるよ~」

「いっつも思うけど、伊月って本当に甘党だよね」

「そう? 普通だと思うんだけど……」

「いや全然普通じゃない、普通ってのは私みたいなチョコレートを食べるぐらい、そんな角砂糖丸ごと食べる人は私たちからしたらすごい甘党だよ」

「そうかな~、まあいいじゃん、人それぞれってことで」

 そんな風に恵茉と他愛のない会話に花を咲かせながらコンビニへと向かう。道中隆太にコンビニを寄るため遅れることをメールで伝えると、すぐに返信が来て『じゃあ芋けんぴ買ってきて』という要求をされた。

 まあ他人の家を使い、そして予定より遅れているのでそれぐらいならいいだろうと脳内メモの中に付け加えておく。

 こうして恵茉と会話に花を咲かせれるのは大分嬉しい、まあ親友でもあり幼馴染でもあるからと言えばそうなのだけど、普段は犬猿の仲というのを演じているのでトゲトゲした会話で楽しさが無かったから。

 どうして犬猿の仲を演じているのか、それは——

「あれ? 後輩の二人!」

「小敷、先輩……?」

「ええ、そうですとも、この私こそが八柳高校生徒会副会長の小敷瑠璃香で~すよ!」

「なんで改めて自己紹介してんですか? 僕たちもう顔見知りじゃないですか」

「え、え~っと、そんなことはいいとして、君たちもここのコンビニに?」

「いや、よくないでしょうに……まあそうです、今日も作戦会議があって、それの差し入れをと思いまして」

「いや~優しいねえ、確か神代君と神田ちゃんだよね。あ、因みに私は母のお使いでここまで来たんだよ」

「聞いてないので結構です」

 丁度コンビニの前に着いたところで、俺たちの後ろから聞き覚えのある声が聞こえ、振り返ってみると、ジーパンに肩や鎖骨ら辺の露出が激しい白色の服を身に纏った小敷の姿があった。

 小敷は俺たちに小走り気味に近づいてくると何故か自己紹介をして、質問を繰り出したりしてくる。

 それに僕は冷たすぎるかもしれないが、流すように答えると一瞬寂しそうな表情をして、また元の笑顔だけど、どこかクールっぽさのある表情になる。

 そしてまだ沈まぬ太陽に照らされて黒色の主張が強い茶髪がキラッと輝く。

「まあいいでしょういいでしょう。あっそうだ、君たちが買うものも一緒に買ってあげよっか?」

「いやいやいいですよそんな、ちゃんとお金持ってますし」

「ほ~ら先輩の言葉には甘ておきなさい、ね?」

「……はあ、分かりましたよ、でも今度会った時は僕たちが払いますからね」

「え? それって私も入ってんの?」

「当たり前でしょ? 払ってもらってるんだから、借りた貸しは返すのが筋でしょ」

「私一切頼んでないのに……でも私の分も払ってくれるなら」

「ちゃんと私の話聞いてた? 君たちって言ったのに……」

 謎にしょぼくれてしまった小敷をよそに、コンビニの中に入る。すると「待ちなされ」という声が聞こえたが、聞こえていなかったフリをして店内を巡る。

 それにしても小敷は大分太っ腹ではないだろうか。偶然バッタリ会った後輩二人の会計を持つのは流石に太っ腹にも程があると思う。……もしくは、何か目論見があるか、だが。

 暫くして、各々購入するものを手に持ってレジ待ちの列に並ぶ。少しして次が僕たちの番となったとき、小敷がいきなり耳打ちをしてきた。

(「コンビニ出たら少し付き合ってくれる? 伊月君一人で」)

(「……まあ分かりました。でも手短にお願いしますよ」)

(「だいじょーぶ、すぐ終わるから」)

 そこでレジの方から「次のお客様どーぞー」という声が聞こえたので僕たちはレジに向かう。レジのカウンターに商品を置くと恵茉と僕は少し横にずれて小敷が会計をしやすいようにする。

 会計が終わり、小敷に礼を述べると次の人たちもいるのでそそくさとコンビニから退店する。

「恵茉、少し小敷先輩と話すから先に行ってて」

「ん、分かった。くれぐれも遅くなり過ぎないように」

「うん分かってる」

 恵茉はそれだけ告げると小敷から渡されたコンビニ袋を片手に歩き出し、俺の視界から姿を消していく。

 そして僕は小敷に向き直って視線を交差させ、眉を顰める。

「それで? 話って何ですか?」

「いやなに、うちの会長の事について、というよりかは伊月君、君についてかな」

「僕について、ですか……どんなことをお話に? それとも質問ですか?」

「先週の月曜日のファミレスでの事なんだけど」

 先週の月曜日でファミレス、そこまで言われれば恐らくあのことだろうと小敷が言いそうな、聞きたそうなことについて推測を飛ばす。

「……伊月君も気付いてた、よね。会長のあの雰囲気と何かがある微妙な表情の変化に」

「……小敷先輩も、ですか」

 やっぱり。そう内心で吐露する。頭の中で幾つかの推測があったけど、その中でも特段推していたのが今、小敷が口にしたことだった。

「私、勘が鋭いから、そういうの分かっちゃうんだよね、伊月君の事も会長の事もある程度」

「僕も小さい頃からよく勘が鋭いって言われます。……話ってそれだけじゃないですよね」

「うん、まあそうだね、先に言っとくけど、これを他の二人に話すかは君の自由だから。そこを踏まえた上で聞いてほしい」

 勘が鋭いということを述べたので、僕もある程度の情報は渡しておこうと、同族であると、勘が鋭いもの同士だということを込めた言葉を口にする。

 すると小敷は一瞬ホッとした、今さっきまでのクールっぽさがあった表情から安心したかのような表情をして、すぐに戻す。

 恐らく今まで勘が鋭い人と関わってこなかったのだろう。もし関わっていたとしても小敷ほどではない。だから僕という小敷と同等、もしくはそれ以上かもしれないという期待が溢れた。

そして小敷が抱える悩みを僕も持っているかもしれないと、同族だからという安心感で作っていた表情が崩れてしまった。僕が推測できるのはここまでだ。

今からの話をどう使うのか、それは僕次第ということを告げた小敷の言葉に肯定するように首を縦に振ると小敷はゆっくりと口を開く。

「会長は君たちに、八柳の歴史を、あの残虐非道ともいえる特生退を変えてほしい、無くしてほしいって思ってる。……それは多分、あの人が不平等を嫌う平等主義者だから」

 平等ではなく不平等だから、それを理由に計画しようと思ったこともあった。だけど、それで本当にあの平民ではなく貴族の地位で暮らしてきた人たちに響くのか、そう問われれば何も答えることができないから別の理由を考えていたけど。

 会長が考える理由は単純だけど、単純じゃない。

僕は推測のみで自分の考えを固めるのは好きではない。だからさっき推測をした時も色々な推測を頭の中に作り上げて、もし何か一つ間違っていたとしてもどれか一つでも擦っていればよい状態にしていた。

だけど、これに関しては自分の考えを固めることができた。多分、その推測に、この考えに絶対的な自信があったから。だから、僕が考えたのは、僕が思ったのは——。

 どんなに希望が見えないほど弱弱しい武器でも、工夫を凝らしていけばいつかは希望が叶うほどの強い武器になる。ということだった……。


「まあ、ほんの少し長引いちゃったけどまあ大丈夫だよね?」

「ええまあ大丈夫だと思います」

「ちゃんと答えに辿り着けたようで何より、それじゃ」

「ありがとうございました、それではまた会う時まで」

「ハハハ、やっぱ合う人は合うんだなー。あっ! 伊月君!」

「はい? どうしました?」

「特生退の事もいいけど、〝あの娘″のことも頑張らなくちゃ! 応援してるからね!」

「ちょっな、なんで⁉ なんで分かるんですかーーーーー⁉」

 僕が全力を注いでまで隠し通していたことをあっさりと見抜き、雑談のようなノリで言葉にしたので、なんでバレたのか理解できなかったが、小敷も勘が鋭いということを何とか思い出せたのでそういうことかと自分を納得させる。

 自分の中で一番全力を尽くして隠していたことをあんなあっさり突破されれば、もしかすると他の人たちが気付いてしまう可能性も捨てきれない。

 なので今よりももっと、表情を殺すかのように、誰にも勘ずられないようどうすべきかということに思考を巡らせる。

「バレっちゃったものは仕方ない。小敷先輩なら他言しなさそうだし……ってもうこんな時間⁉ やばいやばい! 急がなきゃ!」

 左手首に巻かれた腕時計の時間を確認すると、もう一七時を回っていた。恐らく、というか確実に小敷と少しの間雑談を交わしてしまっていたからなのだが。

 そして、僕は小走り気味にコンビニの敷地内から出て、隆太の家に向かうのだった。許してもらえるだろうかと思いながら。


「ほ~ん、作戦会議をすっぽかしてまであの副会長と話をね~、それだけ大事なことだったんだ。あと数回しかない作戦会議よりも」

「そ、それは……」

「ほら隆太、もうそこまでにしときなされ、伊月だって言えない事情があるのかもだし」

「……わーったよ、でも次からはちゃんとしてくれよ? 遅れるなら大分遅れるって連絡を……」

「はいはい早く始めないと」

 神様というのはあまりにも非情ではないだろうか、ギリギリセーフかと思ったけど、隆太にとっては大分の遅刻だったらしい。

 いや理解できる、恵茉と別れて十分ほど小敷と話し込んでしまったので遅れてしまって隆太が怒るのも理解できるのだが、理由も聞かずに部屋に入った瞬間お説教が始まるのは違うのではないだろうか。

 少しは理由を、言い訳も聞いてほしいものだ。まあどこまで行っても遅れた僕が最終的に悪いのだけど。

「あーあと一つ、お前らっていつからそんな仲直り? したんだ? 今日の帰りまでは険悪の仲だっただろ?」

「え…………」

「あ…………」

「……もし、俺に何か隠してるんだったら話してくれ、お互い隠し事を持っていたら特生退の議論会で上手くいかないかもしれないだろ? でも、まあ、あまりにも話たくことなら別にいいんだが……」

 できることならまだ話したくないことなのだけど、ここまでバレてしまって、白々しく嘘を吐けば却って怪しく見えてしまい、ギスギスした関係で特生退に臨むことになってしまう。

 それではこれまで上手くいってたとしても、これから上手くいったとしても勝率はガクッと下がってしまうだろう。ならば話した方が吉なのだが、これに関しては恵茉に確認を取らなければ何も喋ることはできない。

 なので恵茉に視線を飛ばし、どうするのか伺うと。

『私は決心した、全てそちらに任せる』とでも言うような視線を送り返してくる。そんな視線に僕は内心溜息を吐く。

(そんな視線をされましても……提案したのそっちでしょうに……まあ、いっか……)

 そもそもの提案者が責任を負わない姿勢に呆れるものの、これが恵茉なので仕方ないという気持ちが勝ち、僕は隆太へ視線を向け、これまで隆太に向けていた瞳を一段と違う、決心をしたかのような瞳に入れ替える。

「隆太、僕たちが今まで犬猿の仲だったのはぜーんぶ演技。あの暴言も、昼休みでの出来事も、恵茉との取っ組み合いも全部演技だったんだよ」

「…………なんで、演技をする必要があったんだ?」

「それは………」

 初っ端から核心を突いてくる隆太に僕は本当に話して大丈夫なのか、公開しないのかという意味を含めた視線を恵茉に送ると、恵茉は深々と首を縦に振った。

 本人が良いのなら僕は別にとやかく言うつもりはないのだけど、でもさすがに人の秘密を第三者に伝えるというのは少し躊躇するものがある。

 だけど、ここで言わなくちゃ、という心の内にあった強い意志が姿を現してきたので、僕は意を決して、その恵茉の秘密を隆太に告げるのだった。


★  ★  ★  ★  ★


 伊月の口から告げられたことは良い意味でなのか、それとも悪い意味でなのか俺の中では判断できなかったが、それは俺の予想を遥かに超えていた。

 ——それは恵茉が隆太の事を恋愛的に好いているからだよ——

 そんなの予想できるはずがない。そりゃあ昔から恵茉が俺に好意を寄せていたの知っていた。知っていたが、それは友人として、親友として、そして幼馴染としての好意で、恋愛的に好意を寄せられていたなんて今までの事から俺は全く予想ができなかった。

 それに、少し前までの恵茉は俺と同じようなことを伊月にも散々していたから、そんなことはないだろうと勝手に思っていた。

 しかし、俺はそんな真実を聞いて、どうするべきなのか、今この場でどんな言葉を口に出せばいいのか全くもって分からない。

 恵茉から、伊月から注がれる視線が気まずいし、凄く痛い。別に何も悪いことはしていないのだけど、今何も言えていない俺に対して恵茉は、伊月はどう思っているのかと考えると罪悪感が沸き、心臓がキューっと締め付けられているような痛みが襲う。

 そんな罪悪感を、締め付けられるような痛みを今すぐにもどうにかしたいと思ってしまい、俺は、凄く曖昧で、最低で、相手を傷つけてしまう言葉を口にしてしまう。

「そう、なのか…………悪いな、今ここでは返事はできない。……作戦会議を再開しよう」

 俺がそう言うと、今この瞬間まで希望に満ちた目で、羞恥心で頬を紅く染めていた恵茉の表情が固まり、すぐに暗くなる。そして伊月は落胆したのか肩をガクッと落としてしまう。その二人の姿があまりにも心苦しくて、今にも呼吸ができなくなってしまいそうな、そんな重々しい雰囲気が俺の部屋に漂う。

「は、早く、やらないと、間に合わなく……」

 とても作戦会議が行えるような雰囲気ではなかった。俺の口から何とか出た言葉は誰にも返事されることなく重たい雰囲気が支配する俺の部屋に静かに消えて行く。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか、一秒一秒が長く感じて一分以上経っているのかどうかすら分からなかった。

 ただ今この瞬間、どんどん恵茉と伊月との関係に溝ができていて、深くなっていっているのが手に取るように分かる。

 だが、どうすればいいのかは一切分からない。あの時にどう返答すれば良かったのか、あの返答が良かったものなのか、幾ら思考を巡らせても分からなかった。

 しかし、そんな重たく、気まずい雰囲気と、静寂を破ったのは実質俺に告白をした恵茉だった。

 恵茉はゆっくりと顔を上げて、震える唇を何とか動かして震える言葉を口にする。

「……もう、大丈夫……そんなことより、隆太の言う通り始めよう……私は大丈夫だから」

「恵茉……」

 伊月が何とも言えない顔で振り向き、恵茉の様子を伺うが、そんなこと気付いていないかのように震える言葉を紡ぎ続ける。

「取り敢えず、知ってる情報があれば共有しておこう?」

「…………分かった。じゃあ隆太、何かあった?」

「俺は、特に何もない…………あるとすれば、印象操作をやった方が良いと思う、けど」

「うん、そうだね……ごめん、ちょっと外の空気吸ってくる」

「ちょ、え、恵茉! ……まあしょうがないよね、ねえ隆太」

「な、なんだ?」

「なんで、あんな返事をしたの? 隆太なら分かるでしょ、恵茉を傷つけるって」

 そうだ、分かっていた。だが俺は自分自身でもよく分からなかった。なんで分かっていたのにあんな返事をしてしまったのかと。

 答えが見つかっていないから伊月の言葉に対して相応しい言葉が口に出せない。俺の頭の片隅にはまた卑怯な考えがあったが、またそんな返答をすれば今のギリギリで保っている二人の関係が完全に崩れてしまうので何とか言葉を寸前で止める。

 返事ができなかった故か、伊月は険しい顔をして俺を見つめる。さらには軽蔑するかのような痛い視線を向けてくる。

 こんな視線を向けてくる伊月は付き合い始めてから初めてで、俺は思わず委縮する。

「……隆太、少しの間考えてもいいから恵茉にちゃんと返事してこよう? 分かった?」

 伊月は軽蔑する視線にどこか暖かい視線を混ぜながらそう俺に告げる。

(そんなことを言われても、どうにかできると思うか?)

恵茉が俺のことを好きで、その好意を伊月の口からだが教えてくれたのは嬉しい。だけど俺は、俺自身がどう思っているのか。

もちろん恵茉の事は好きだ、昔からの付き合いで、幼馴染、親友ともいえる存在なのだから嫌いなわけがない。でもその好きが友情的だけなのか、恋愛感情も入り混じっているのか分からない。

(このままって訳も、ダメだよなあ……でも、答えが見つかっていないのに返事をするのはどっちにとってもいい気にはならないだろうし……)

「……隆太。僕は隆太の考えていることを知ることはできない。だけど、何か行動を起こさないと状況は何も変わらないんだから、今は隆太自身ができることをした方がいいよ」

 伊月が俺に向けて飛ばされた言葉が静寂に包まれた部屋によく響く。その言葉は今頭の中がこんがらがっていて、考えがハッキリとしていない俺にも響き、考えがある程度ハッキリとする。

「……ありがとうな、それと、ごめん。お前の事も、恵茉の事もしっかりと考えずにあんな発言をして……それじゃあ俺は少し行ってくる」

 伊月は俺の言葉に微笑みながら軽く頷くと『頑張って』とでも言うかのような視線を飛ばしてくる。……だが、どこか悲愴感のある視線もある気がするが、すぐに無くなったため気のせいだと頭に言い聞かせる。

 どこに恵茉がいるのか部屋の中にいる時は見当もつかなかったが、部屋を出てすぐに恵茉の姿を視界に入れることができた。

 恵茉はアパートの敷地内にある背の低い石柵に腰掛けながら空を見上げて、黄昏ているようで、俺はゆっくりと足を進めて恵茉に近づく。

「ん? ああ、隆太……」

「恵茉……ごめん、さっきはあんな恵茉の事を考えてなかった発言をして」

「んー大丈夫、今はある程度落ち着いたし、自分でもあのタイミングでしかも伊月の口からだったもん、私も悪かったよ、ごめん」

「その、俺、今はまだ完璧な返事はできないし、また恵茉の事を傷つけてしまうかもしれないが、それでも一応俺の考えに一段落させたから聞いてくれるか?」

「……うん、いいよ。どうせどんな言葉来ても今の私にはほとんどダメージないから」

「ならお構いなしに言わせてもらうからな」

 コホンと一度軽く咳ばらいをすると、俺と恵茉は視線を交差させて、ゆっくりと口を開く。

「俺は恵茉が好きなのかどうかは分からない。もちろん幼馴染として、親友としては好きだ。だけど恋愛的に好きなのかどうかは分からない。でもこのままなあなあじゃダメだ」

「だから俺は、特生退が終わった後に、答えを伝えようと思う。俺が恵茉の事をどう思っているのか、その時まで待っていて欲しい。そして本当に虫が良い話なんだが、それまでは今まで通りに過ごして欲しい」

 恵茉は俺の話をほんの少しくらい表情をして、軽く頷きながら聞く。そして俺が少し長い話を言い終わると、石柵から降りて少し歩くと、振り返って微笑を浮かべながらいつものテンションで言葉を飛ばす。

「なら待とうじゃあない、もしその間に隆太が告白でもされたりしたら嫉妬しちゃうかもしれないけど」

「……なら好都合だな、そもそも俺の学校での目標は誰かに嫉妬されることで、それも恋愛的にだったからな!」

「よぉ~しその意気だよ! あの金持ちの坊ちゃん嬢さま全員をギャフンと言わせてやろう!」

「言わせてやろう言わせてやろう! 勝ってあいつらを下に見てやろう!」

「いやあ隆太も悪じゃのう、でもそれもいいかもね~」

 恵茉はそう言うと後ろで手を組んでそのまま部屋へと帰る。その足取りはどこか軽く、何かから解放されたような足取りだった。

 その後ろ姿を呆然と眺めていると少し日が暮れてきたので俺は作戦会議を行うためにも部屋に戻ろうと石柵から降りて歩を進める。

 恵茉の言う通り金持ちの家出の生徒を一泡吹かせるのもいいのだが、今後入ってくるであろう俺たちと同じ外部生には今のような不平等な学校生活を送ることが無いようにしてあげたい。

 そんな思いが俺の頭の中を支配する。そして俺は恵茉のためにも、伊月のためにも、今後の俺たちと同じ外部生のためにも全力を尽くす。

恐らく周りからはなぜそんなにも関係のない人達のためにも自分の人生を掛けるのか、偽善者だろと言われるだろう。それは自分でも思うが、でも何故かそうしないといけないという使命感に駆られそんなことが頭を支配した。後は、俺の体の事も考えると——

「……そうか、なら全力で戦おうじゃないか」

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