第二話【そうだけど違う】
俺は微かに聞こえる小鳥の囀りが聞こえ、瞼を閉じていても日差しが顔に当たっていることを確認する。
重い体を起こして目元を擦ってゆっくりと瞼を上げる。少し掠れた視界には見覚えのある家具がいくつもあり、どれも日差しに照らされて、日差しの反射が目にダイレクトインする。
反射的に目を逸らし、窓の外へと視線をやる。そこには朝日に照らされ、優雅に空を縦横無尽に飛び回るスズメ。一~ニ名ほどの八柳と同じ制服の生徒らしき人物たちがゆっくりと歩いている様子が目に映る。
どうやらあの時寝てから一度も起きずに朝まで寝ていたらしい。そして俺はまだ寝ぼけているのか、状況が全く分からずベッド脇に置いてあるデジタル時計に視線を向ける。
そこには六時三二分と表記されていた。そして、無防備なあくびをしてからあることに気付く。
「……あれ? 俺って、昨日、風呂入ったっけ……」
「それに、夕飯も食べてねぇ……」
まだ少し頭がしっかり動いておらず、昨日何をしていなかったか、今から何をすべきなのか頭の中を整理しながらベッドを降り、母がいるであろうリビングへ向かう。
リビングには自分で布団を敷いたのか、布団の中で寝転んで寝息を立てる母の姿が目に映る。
「まだ早いもんな……さてと、時間もあって、昨日の夜は何もしてないわけだし、取り敢えず風呂に入るか」
独り言を呟きながら自室へ戻り、古びた箪笥から制服諸々を取り出すと、そのまま脱衣所へと行き、昨日着ていた制服を脱いで洗濯機へ放り込む。
裸になった俺は引き出しからタオルを取り出して脱衣所と風呂場を隔てるドアの取っ手部分に掛けると、風呂場に入る。
俺たちの部屋の風呂場はボロアパートだからか結構狭く、人一人が体を洗うのでもう一杯一杯になってしまう。
しかし、母と一緒に入るわけでもないのでこの狭さで十分で、もう少し狭くても問題ないくらいだった。
そんなことはさておき、シャワーのハンドルを捻ってお湯を出そうとするが、まだ温まっていないのか冷水が飛び出してくる。
急に冷水が体に降りかかったことで心臓が止まるかと思うほどに驚き、ビクッと体を跳ねさせる。
ただ一瞬の出来事だったため、傍から見れば『風呂をしようとして出てきたお湯に相当びっくりしている人』と写るだろう。まあここは個室でドアも透明ではないから誰にも見られていないが。
そこからも寝ぼけているからなのか、風呂で体を洗っている時も、風呂から出て朝ごはんを作っている時も何かとミスをしてしまったりする。
「ん~なんで今日はこんなミスが? まだ寝ぼけてんのかな……よし、これでいいか」
なぜミスをしまくるのか疑問に思いながら朝ごはんとして食べる目玉焼きを焼き終わったため操作部を回して火を止める。
ベストタイミング。トースターで焼いていたパンも焼き終わり、パンを少し大き目のさらに移してから目玉焼きをパンの上に乗せる。
「母さん、朝ごはんできたから起きて~」
「う、ん~~……おはよ……」
「おはよ……どうする? 今食べる?」
「……そうする」
母を起こし、食べるかどうかを聞くと体を起こして目を擦りながら返事をする。食べるということだったので俺の分と母の分の朝食が乗った皿をもってちゃぶ台に向かう。
コトという皿とちゃぶ台の木材が当たる鈍い音を鳴らして朝食を置き、箸を持ってきてそれぞれの皿の前に置く。
ちゃぶ台に向かって胡坐をかくと母がちゃぶ台に向き終わるまで待ちながら箸を持つ。
同じように起き上がって箸を持った母を確認すると、箸を持ちながら両手を合わせ、母と声を合わせて合掌する。
「隆、時間大丈夫なの?」
「え? ってうわ出るまであと二分しかない! じゃあもう行くから、洗い物は水に漬けておいて、お昼は冷蔵庫にあるからそれを食べて! じゃあいってきます!」
「はい、いってらっしゃい」
早口でそう母に告げると、目の前の朝食を口の中に掻き込むと素早く立ち上がって皿を流し台で水に漬け、高校のカバンを背負うと駆け足で玄関まで走る。
そして急いで足に高校指定の靴を履いてそのまま飛び出すように家を飛び出す。
飛び出して少し経ってから走っている途中にあることに気付く。
「そういや、歯磨きしてね~~~! ……ま、いっか」
何も良くない気もするが、今から戻って学校に遅刻して内心を落とすよりかはは幾分かマシだろう。
少しの不安を抱きながらも足を全力で動かしていると、後ろからドンッと何者かに叩かれる感触がする。
走るのに夢中で誰かに当たってしまったのかと勝手に心の内で反省していると、耳にぶつかってしまったであろう人物の声が入る。
「隆——」
「すいません! ちょっと急いでてて……って恵茉?」
「そうだよ? 一兆年に一人の美少女!
「いやだってもう遅刻しそうだし……恵茉はこのまま初遅刻を体験してみるか?」
「あ、絶対に嫌っす。それだけは絶対に、おかんとおとんに怒られてまう」
「なんで急に関西弁?」
「細かいことはいーのーの! ほら早く行くよ! 陸上部の足を舐めるじゃないよ!」
「あっちょっ待ってって!」
俺の手首をガッチリ掴んで走り出す恵茉に少し文句を垂らしながら引っ張られていくと、やはり陸上部と言ったところか、本気で走ったようでもう学校の校門が目と鼻の先ほどの距離にまで来ていた。
しかし、陸上部でも本気の状態で長距離走はかなり疲れるらしくゼェゼェと息を切らしていた。さらには梅雨入り直前ということもあってか気温もそこそこ高く、恵茉の首筋からスーッとキラキラと光る汗が垂れる。
それを服の袖で拭き取り、信号待ちの間に息を整える。もちろんほぼ同じ速さで走った俺も同様に息を切らしていたので数回深呼吸をする。
しかし、一兆年に一人の美少女って……さすがに自意識過剰な気がするんだが。
恵茉のノリに乗れていないのか、それともただ単に俺がおかしいだけなのかさっきの恵茉の発言について少しネガティブ発言を心の内に留めながら発言する。
心の中で言ったことなのでもちろん恵茉に聞こえているはずもなく、ここまでと変わらない様子だった。
そしてやっと信号が変わったと思った瞬間、恵茉はさっきよりもさらにスピードを上げて腕時計と睨めっこしている教師目掛けて走る。
「人間は急には止まれな~~~~~い!」
「おい! 恵茉! 車じゃないんだから止まれるだろ!」
「え? ごめん、ナニイッテルカワカラナイナー」
「おい聞こえてんだろ、カタコトになってんぞ」
「アートマレナイナー!」
俺の制止をカタコト日本語で聞こえないフリをして振り払うと校門前に仁王立ちで佇む体育教師にスピードを緩めず突っ込む。
あと数メートルというところで俺は反射的に瞼を閉じ、体に力を籠める。……しかし、いくら経ってもぶつかったという感覚や痛みは襲ってこなかったため、恐る恐る閉じた瞼を上げると。
「ふっふっふ、ほら間に合ったでしょ? ギリギリセーフ、早く履き替えて教室行くよ!」
「お、おい、少しぐらい待ってくれても……って本当にギリギリじゃね~か! あと二分しかねぇ!」
「だからギリギリセーフって言ったじゃん! はーやーくー!」
「はいはいちょい待ちちょい待ち」
朝礼開始を知らせるチャイムが鳴るまであと二分のところで校門を通ったらしく、その事実に驚いているといつの間にか上履きに履き替えていた恵茉が急かしてくる。
それを適当な返事を返しながら普段より急ぎ目で履き替え終わると、恵茉が再び俺の手首を掴んで俺たちの教室に向かって小走り気味に向かう。
幸いにも道中他の教師と遭遇することはなく、注意されることはなかった。
そして無事に教室に着き、それぞれの席に荷物を置いた瞬間、朝礼開始を知らせるチャイムが流れてくる。
いやほんとにギリギリ。すっごいギャンブルに近しいことをしてる気がする。
隣からにっしっしと小さく煽るような笑い声が聞こえてきたが、今はそんなことよりもここまで走ってきたことで息が切れてしまい、ぜぇぜぇと荒い呼吸となっていた。
そのため何度か深呼吸を繰り返し何とか少しずつちゃんとした呼吸に戻ってくる。
「え~っと、神田と水城は遅刻か、珍しいな」
「ええまあ少し寝坊してしまいまして」
「左に同じくです」
「そうか、じゃあ次からは気を付けろよ~」
机の上に手付かずの荷物を見たのか、俺たち一年C組の担任教師である
それに俺たちも別に微苦笑で返しても良かったが恵茉はさっきまでの``普通の女子高校生``から打って変わって言葉遣いが緩いものの少しお嬢様のように返答する。
急な変わりようだったが、恵茉は俺と伊月意外と言葉を交わす際は大体こうなのだ。そしてここで恵茉がここで返答したのに俺はしないというのは些か変だろう。
なので俺も恵茉に乗っかる形で、しかし言葉遣いは普段と変わらない言葉遣いで端的に返答する。
興味をそそらなかったのか月無は追及せず話題転換をして本来の目的の朝礼を始める。朝礼では大体日程だったり、連絡事項だったりを伝えるぐらい。時折季節に合った言葉紹介や何か決めごとをする時間にもなったりする。
今日は特に何もなくただ月無から面白味のない連絡事項に頬杖を突きながら耳に流す。
「あとは~……あっそうだ、また来週ぐらいに言うんだが、来月末に入学式の時にちょろっと話した特定生徒退学投票の演説を予定してるから、やりたい奴はまたあとで先生に伝えに来てくれ」
さらっと重要なことを言い放った担任に咄嗟に視線をやると何もなかったかのように連絡事項を書いているのであろう小さい紙を丸めてポケットに突っ込んでいた。
一瞬何を言ったのか理解できなかったが、コソコソと何かを話し合っている在学生たちの端々から特生退という言葉が聞こえたため、何とか理解することができた。
そんなことさらっと告げることではないだろう。俺たち一般生からしては退学になるかもしれないのだから。
(「ねえ隆太、これって……マジ?」)
(「マジ。真面目に結構ヤバい」)
(「多分、いや絶対に俺たち三人出ることになるぞ」)
(「だる~~……まあいずれこうなるって分かってたけど……」)
(「え? 何々? さっき先生何言ってたの?」)
(「え? 来月末に特生退がある……ってちゃんと聞いとけよ」)
(「別にいいじゃん、いっつもそんな重要な連絡事項なんてなかったからちゃんと聞くことなんて疾っくの前にやめたよ」)
両耳に耳打ちをしてくる二人に返答しつつ恐らく……いや必ず周りの在学生から特生退に退学予定生徒として出ることを強制されるだろう。
その時のためにこれからどうすればいいのか、頭を働かせる……のだが、致命的な問題が一つ。
(やべぇ、特生退がどんな風に行われるのかしらねぇぇぇ!)
必然と言えばその通りだが、他のエスカレーター式でやってきた在学生はどんな風に執り行われるのか大体覚えているからそう驚いたりしていないのだろう。
しかし、余所の中学校からやって来た俺たちはほとんど入学式の際に説明を受けたことしか知らないためどうすればいいのか頭を働かせてもさっぱり分からなかった。
そんなことをぼーっと考えているといつの間にか朝礼が終わっていたらしく、月無はもうこの教室から姿を消していた。
「はあぁぁあぁぁぁぁぁ……ほんとどうすればいんだよ~~~」
深々と溜息を吐いて愚痴染みた言葉を呆れたような声で零す。
すると恵茉が誰にも俺以外の誰にも聞かれたくないのか声を極小にして再び耳打ちを打ってくる。
(「で、どうするの? 隆太の事だからこのまま素直に退学させられる訳じゃあないんでしょ?」)
(「んまあそうだけど……今のところどうすべきか思いついてないんだよな~」)
(「…………いつでも協力するし、いざとなったら私のすべてを捨ててでも隆太を守るよ」)
(「そこまでしなくても……でも協力するって言った以上こき使うからな」)
(「ふふ、まあいいだろう、この一兆年に一度の美少女が貴様の道具となってやろうじゃあないか」)
おい、その言い方は少し危ないだろ、しかしまあ協力か、いざとなったときにでも協力してもらおう。そうじゃなきゃ恵茉が過労死してしまう。
恵茉の身を一番に、そしてこれから起きそうなことを複数の場合を考えてどうすればいいか憶測する。
しかし、憶測することを止めるかのように一限目の開始を知らせるチャイムが教室に鳴り響く。
そこで俺はまだ憶測するには早いか、と考えをやめ、少し遅いが一限目の準備を始める。
それから時間は流れ、時は昼休み。いつもと同じように恵茉と伊月による購買で購入した総菜パンの押し売りを受けている最中。
教室で友人達と駄弁りながら昼食を取っている全員の注意を引くように教室のドアが大きな音を立てながら開け放たれる。
「すんませ~ん! 水城隆太君ってここの教室で合ってます~?」
開け放たれたドアの向こうに立っている一人の男子。その男子を注視してみると、名札に二年生であることを示す一本の黄色い線が書かれていた。
教室はいきなり現れた男子に「誰?」「水城って」などとザワザワし始める。
「……え~っと、水城隆太って俺の事ですかね」
「おっビンゴ! そうそう君だよ! と、いう訳で、少し話があるんだが、付き合ってくれないか?」
「え……すいません、俺、男性とそういう関係にはなれない派ですので……」
「付き合うってそういうことじゃないぞ⁉」
「……冗談ですよ冗談。それで、いつです? 俺的には今でも放課後でもいいんですけど」
「ん~少し長くなりそうだから放課後で、それとその二人も一緒にオナシャス」
「……分かりました。二人とも少し予定空けといてもらってもいいか?」
「「しょうがないな~」」
「やっぱりお前ら超絶仲良しなんじゃね~か?」
恵茉と伊月の同行も求められたので確認を取ると、二人はハモリながら応える。そのことを指摘すると「「違う!」」とまた声を合わせて否定する。
これだけ息が合っているのに、本人たちは犬猿の仲というのがとても残念だ。本当に。
しかし、あの先輩。どこかで見たことがあった気がするのだが、まあ気のせいだろう。顔が似ている人なんてこの世界にいくらでもいるのだから。
昼休みが終え、残りの五限六限の授業を睡魔と格闘しながらなんとか乗り越え、放課後になった。俺と恵茉、伊月の三人は先輩に告げられた場所へと向かっていた。
「生徒会室って、あの先輩生徒会役員なのか?」
「隆太覚えてないの?」
「え? 何を?」
「入学式の時、あの先輩生徒会長の挨拶をしてたじゃん」
「あ~~確かに、言われてみればあんな感じの顔をしてたかも」
俺たち三人は先輩に「場所は生徒会室でよろ!」と言われたため生徒会室へ向かっていたのだが、あそこは関係者しかほぼ入られないところなのであの先輩が生徒会関係者なのか疑問に思う。
疑問が言葉となって口に出ていたらしく、恵茉が頭上にクエスチョンマークを浮かべる。
恵茉の話によるとあの先輩は入学式で生徒会長の挨拶をし、この高校では生徒会長は一年に一度変わるとのこと。
そして、会長は一年生、もしくは二年生から一人選出され、次の年の選挙まで務めるとのこと。
そして、まだ今年の選挙が行われていないため、あの先輩が生徒会長ということだろう。
そんなこんなで会話を交わしていると、生徒会室と書かれた札が目に入る。
「初めて来たね、ここ」
「あれ? 伊月行ったことがあるって言ってなかった?」
「それいつ言ったの? 僕」
「え~っとつい先日か?」
「言った記憶ないんだけど……」
「ふっ、冗談、ジャパニーズジョーク」
軽い冗談のつもりだったんだが伊月は少し頬を膨らませて怒りを露にしている。いやすまんて、と謝罪を口にしようとした直後、重々しい生徒会室の扉が開く。
そしてその扉が開け放たれた先には昼休みの際に襲来してきた男好きな先輩が仁王立ちで待ち構えていた。
昼休みの時はいきなりのことで様子を注視していなかったが、今改めてみると……高身長にそこそこのイケメン、黒髪だが顔に合う髪型で、所謂『リア充』という存在だったとして納得してしまうくらいだった。
「クッ、眩しい……あれがリア充の輝きというものなのか」
「その通りかもしれないね、隆太、なんとしてでも生きて帰るよ!」
「恵茉! そんな死亡フラグ立てないでよ!」
「…………なあ、それは褒めてるのか? それともディスってるのか?」
先輩の何故か自信満々な表情がどんどん困惑に満ちた表情に変わっていく。
原因は、まあ俺たちだろう。先輩を視界に捉えた直後目を細め、茶番をいきなり始めたのだから困惑しても仕方がないだろう。
内心このノリに乗って欲しかったが、相手は一応先輩なのでどっちでもよかった。
「……で、なんの用なんですか?」
「私の部活の時間を奪ってまでする話って何です?」
「あっちの奴と同じく」
「なんでそんな寒暖差が激しいんだよ……まあいいや、取り敢えずは入れ入れ」
先輩はいつの間にか閉じられていた扉を再び開け放つと中に入るよう促す。俺たちは先ほどのノリが少し残っているのか躊躇なく生徒会室へと足を踏み入れる。
生徒会室なんて滅多に、というか一度も入ったことが無いので未知の領域という男心がくすぐられキョロキョロと見渡す。
すると入口のすぐ隣にあるソファで寝転び寝息を立てている女子生徒が目に入る。
なぜこんなにも生徒会室を自宅かのようにくつろいでいるのか疑問に思い先輩に視線を飛ばす。
「あ~まあそっとしてやってくれ、最近生徒会がいろいろと忙しくてな、疲れがたまってるんだろう」
「そうなんですか……じゃあ俺たちはどこに座れば……」
「……すまん全然考えてなかった」
「駄目じゃないですか!」
「う、う~ん……お~い
先輩はソファでぐっすりと眠りに就いている小敷と言われた女生徒は先輩に体を揺らされているのもあるのか「ううん……」と小さな唸り声を上げる。そして自身の黒が強めの茶髪をモグモグと口に入れる。それを生徒会長が「もう」と言って口の中の髪の毛を取る。
やがて重々しく瞼をゆっくり持ち上げると、小敷と苗字を連呼している先輩の方へ視線を向ける。
「ぬぅわんですくぁ~? くぁいろー」
「すまん、なんて言ってるかさっぱりわからん、兎に角ソファを開けてくれないか? 来客なんだが」
寝起きで呂律が回っていないのだろう、小敷は目を擦りながら体を起こし、先輩に向かって解読不能な言語を飛ばす。
先輩は占領しているソファを開けてくれないかと小敷に打診する。すると、小敷はパチパチと瞬きを数回してから生徒会室を一瞥し、困惑している俺たち三人に視線を集中させる。
「…………あ、マジなやつです?」
「マジマジのマジだが」
小敷は俺たち三人を少しの間見つめて、先輩に確認するかのように疑問を飛ばすと先輩は頬をポリポリと掻きながら応える。
すると小敷は自分の頬をパチンと両手で叩くと、自身の顔の前に片手を持ってきて親指を自分の顔に向けて立てる。さらにはうまくできていないウインクまで追加される。
「私は生徒会副会長の小敷
「小敷先輩ですね、よろしくお願いします」
「そ~んな硬くならなくていいのに~、ゆる~く瑠璃香先輩って呼んでくれてもいいんだよ~? タメ口でもオーケー!」
「はあ……瑠璃香先輩……?」
「な~んで疑問形なの⁉ まあいっか。それで、この隣のヒョロガリが聞いてるかもだけど、生徒会会長の
「俺は動物園の動物かなんかか? それに三人も困惑してるじゃねぇか、少し落ち着行け」
小敷による勝手な紹介に仁志田と言われた先輩……会長がペシッと小敷の頭を軽く叩く。すると「痛てっ」と大分大げさにリアクションを取る小敷。
その反応に仁志田は小敷が本当に痛がっていると勘違いして酷く心配した表情で小敷の
頭を見つめる。
「だ、大丈夫ですから、顔を離してください!」
「本当に大丈夫ならいいんだが……じゃあすまんな待たせて、三人とも腰掛けて楽にしてくれ」
「わ、分かりました…………ってフッカフカだなこのソファ」
「ね、私も座ったときにめちゃくちゃ沈んだもん」
「教室の椅子もこれくらいフカフカだったらいいのにね~」
「「わかる~~」」
ソファに腰掛けた途端そこら辺の家具量販店で販売しているソファと段違いの沈み具合に二人と共感する。
そんなこんなで一分ほど二人と雑談を交わしたところで、テーブルを挟んだ先にあるもう一つのソファに仁志田と少し涙目になっている気がする小敷が腰を下ろす。
すると仁志田は手を組んで顎に当てると、真剣な眼差しで俺たちを見つめる。
「やっと本題ですか」
「ああ……お前らは特生退で外部生が二人退学せずに済んだ奴が誰か知ってるか?」
「名前は知りませんけど、居たっていうのは噂程度で……」
「そうか、その二人の中の一人が俺だって言ったら信じるか?」
「…………難しい、ですかね。生徒会長ですから、でも、ここにまで呼んでこんな話をするってことはそういうことなんですよね」
「だよな……だがまあそれで合ってる……そこでなんだ——」
「でも会長は外部生と言っても元はそこそこの地位だったんですよね」
仁志田は外部生だと認めたが、噂によると元々は俺らと同じ生粋の外部生ではなく周りと同じような中小企業の社長の息子。それを問い詰めるように俺は仁志田の言葉を遮って言葉を紡ぐ。
俺の言葉に動揺したのか、仁志田の瞼がピクッと揺れる。
「……………………」
「だんまりってことはそういうことなんでしょう?」
「別に会長が元々社長の息子だったりなんだったりなんてどうだっていいんです。でも生まれた時から一般人の俺たちと、生まれた時に社長の息子だった人では俺たちの考えは完全にまで理解できないでしょう?」
俺が言葉を紡ぐ度に仁志田の目が少し泳ぎ、どんどん動揺していっているのが手に取るように分かる。
さらに畳みかけるように言葉を紡ごうとするが、隣に座っていた恵茉に服の裾を引っ張られて熱くなりすぎてしまったことに気付く。
「隆太、少し落ち着きな、会長もすいません。今日のところは帰らせてもらっても大丈夫ですか?」
「…………」
「ごめんね~、帰ってもらっても構わないから、お互い頭を冷やそっか?」
「お言葉に甘えさせてもらいます、お疲れ様でした」
「うん、お疲れ」
俺は恵茉と終始無言だった伊月に連れられて生徒会室から出てそのまま三人無言で夕陽に照らされる廊下をスタスタと歩く。廊下は夕陽に照らされているのにも関わらず冷たい空気が漂っていた。
やがて下駄箱に着くと恵茉と伊月が先に外靴を履く。俺も合わせるように下駄箱の扉を開けて自分の外靴を取り出して足にはめる。そして二人が並んで立つ場所にゆっくりと近づく。
二人は何もなかったように振舞っていつもの犬猿の仲の様に口喧嘩を何故か始めていたけど、どこか俺を気遣っていつもよりかは激しくないような気が……
「どうする? 途中でコンビニ寄る?」
「僕の家に行く?」
「は? なんでそこで急に家なの⁉ それなら私だって——!」
やっぱり、二人は俺のことを気遣ってくれている。この二人のために俺はこれからどうすればいいのだろうか。
「——長? 会長? 大丈夫ですか?」
「え? あ、ああ」
「あんまり気にしない方がいいですよ、あの事はもう終わったことですし、それに会長は何にも悪くないんですから」
「……そう、だよな、すまん少し顔を洗ってくる」
「ちょ、会長! ほんとに大丈夫なんですか……」
後ろで呆れたように呟く小敷を気に留めないように生徒会室を後にすると、一番近いトイレに向かう。
ここ、八柳高校、というか八柳学園のトイレは数年に一度改修工事を行っており、汚さが目立たないほどに綺麗なトイレなのだ。
……どこからその金が出ているのか不思議ではならないがまあ恐らくここの卒業生からなのだろう、ここを卒業したら将来は確証されるのだから。
「はあぁぁあぁ、もうなんなんだよ~、確かに一度はあったけど、それも一ヵ月だったんだぞ? それで息子って……疲れるわ本当に」
深々と溜息を吐いて自分が写る鏡に向かって愚痴を零す。その愚痴に反応をする人はいないため、いつも愚痴を吐く時より気が楽だ。
俺、仁志田健司は過去に一度だけ、それも一ヵ月だけとある家庭の事情で社長の息子になったことがある。さらに言えばそのことは誰にも公言していないし、一年も前の事だ。
そんな昔の事を今言われてもその頃の俺は幼かったし、ただ親についていくことしかできなかった時のことだ。
「俺だって青春を、『普通』に謳歌したかっただけなのによ、今は周りから「落ちこぼれ」って揶揄されるし、どうすればよかったんだよ~」
「あの噂本当だったんですか、てっきりあの特生退で勝ったから勝手に噂されているのかと」
「そうだったら俺がこんなに愚痴は吐かねえよ……って、澄ました顔で普通に男子トイレに入ってくんなよ」
「いや、だって会長がさっきからおかしかったんですもん」
「おかしかったからって入ってくる必要はないだろうに」
俺が愚痴を零していると、隣から聞こえるはずのない聞き馴染みた声が聞こえてきたため思わず声の聞こえた方へ視線を向ける。
そこにはやはり小敷が立っており、しかも男子トイレに五歩ほどのところまで入ってきていた。
それを指摘するも悪びれた様子は無く、自然と話題転換をしようとする。小敷のこういう話題転換能力はものすんごいのだが、ここでは使ってほしくはなかった。
ただ、もう入ってきてしまっているので今更言っても仕方がないかと諦め、手をサッと水で洗うとポケットに入れていたハンカチで拭きながら男子トイレから出る。
俺に続くように小敷もどこか不満がありそうな顔で俺を見つめながら歩く。
「どうするんです? あの子たちどうせ出ることになるんでしょ、負けますよ、あのままじゃ」
「分かってる、分かってるんだがどうすれば話を聞いてくれるか…………」
「まあ、それはまた明日でも考えれますから、今日のところは生徒会の仕事もないですし、家でゆっくりしましょう」
「……まあそうだな」
小敷の言う通り今日は色々とあったので休んだ方がいいだろう。それに、まだ特生退まで一ヵ月はあるのだからチャンスはまだある。
「なあ小敷」
「ん? 何です?」
「また、手伝ってもらうことになるかもしれない、その時は頼んでいいか?」
「ええもちろんですとも、私は副会長ですからね、会長のお世話をするのも仕事の内です」
「お世話って、まあ、ありがとう」
最後に冗談を混ぜてくれるのが小敷らしい。そして俺たちは生徒会室の戸締りをして、下駄箱へと向かって靴を履くと、いつもと何も変わらないように下校をする。
二人と別れ、自宅に帰った俺は母さんに挨拶をしてから夕飯を作り始める。
いつもメニューは母の健康も考えて色々と試行錯誤を施して作るため授業中に考えたりもする。
本日は塩分などを控えめにしたハンバーグを中心にした食事にする予定だ。母の夕飯は俺が作るが、今日の俺の夕食はバイト先で頂く賄いで済ませる。
そんなこんなで母の夕飯を作り終わると皿に盛りつけてラップで包む。そして冷蔵庫の中へ入れると、自室に戻ってバイトへ向かう準備を始める。
バイトの制服はバイト先に置いているため持っていく必要はないがその他にICカードやお金、スマホなどをバッグに詰め玄関に置く。
そしてリビングに戻り、母に夕飯の作り置きをしていること、バイトに行ってくることを告げるとまた玄関へ行き、バイトへ向かう。
「はあ、今日はどんな客がいるんだ~? 面倒くさい奴が居なければいいけど」
独り言を呟きながら以前バイト先に現れた酷いクレーマーのこと思い出す。
少し憂鬱な気分になりながらもバスの停留所に着き、バスが来るのをスマホでネットサーフィンをしながら待つ。
やがてバスがやってきため乗り込み、目的地に着くまでまでさっきと同じようにネットサーフィンやSNSを閲覧したりで時間を潰す。
バイト先はこのバスの終点とほぼ同じ場所にあるため、着くためには結構な時間を要する。
しかしスマホというのは中毒と言われるほど暇つぶしに適しているため一瞬のうちに終点に着く。そして席を立つため手に持っていたスマホをポケットへと突っ込む。
バスのドライバーに礼を告げるとICカードえをかざしてバスを降りる。そこでポケットの中に入れていたスマホが震えた。
俺は大抵メールぐらいしか振動機能をONにしていないため、誰からだろうとスマホを手に取って視線を移す。
画面には『一兆年に一人の美少女』という文字と共にトイプードルらしき犬のアイコン。そのアイコンの主は自称一兆年に一人の美少女の恵茉だ。
【恵茉】『今からバイトっすか?』
【隆太】『そうだよ、面倒くさいクレーマーが現れないことを祈る』
【恵茉】『じゃあ代わりに私が悪魔にお願いをしてくるとするかのぉ』
【隆太】『おいおいおいそれ絶対来るじゃねぇか、それもとびっきり面倒くさい奴』
【恵茉】『あらあらそれは頑張ってもらって(笑)』
【隆太】『笑い事じゃねぇよ~、精神ごりっごり削られる』
【恵茉】『ま、今日の事は気にせず頑張って稼いで来い!』
【隆太】『水城家の稼ぎ頭としてがっぽり稼いできます』
話をひと段落させるとスマホの電源を消してポケットに再度突っ込む。
恵茉はやはり他人のことを気にかけ過ぎではないだろうか、さりげなく今日の出来事は気にするなと、それを告げるためにだけにわざわざメールをする。
そしてどこか無理をしてまでも元気づけるようにしてくるところなど、昔からずっと変わっていないところだ。
そんな利他主義の考えを持っていたら必ず誰かと揉めてしまうことになるのだが、それでも恵茉は完全に自分のせいにして相手は悪くなかった、という一言で毎回終わらせてしまう。
しかしそうやすやすと下がる性格でもないため、ある程度は自分の思い通りの結果に進めてからなのだが。
……こんなことを考えていたってしょうがないかと頭の中をバイト脳へと切り替え、今日はどこの担当だったかを思い出す。
案外楽なゴミ捨て担当だったらいいな~と楽観的に考えながら歩いていると、いつの間にかバイト先の裏口のすぐそこまで来ていた。
そして裏口の扉に手を掛けようとしたその時、目の前の扉が開け放たれて扉の目の前にあった俺の手が当たり、次の瞬間——
「いっっっったぁ⁉」
「もうやめます!」
「え⁉ ちょっ待って、待ってよ~!」
勢いよく開け放たれた扉によって突き指をした時と同じ痛みが指に走り、咄嗟に指を手で引っ込めてしまう。
そうやって痛みに何とか耐えていると開け放たれた扉から出てきたのであろう人物の声が聞こえ、その声は覚悟を決めた、凛とした女性の声と弱弱しい男性の声だった。
恐らく修羅場に近いのだろうと薄々感じてはいたのだが、ジ~ンと残る痛みのせいで確認することができなかった。
少しして痛みも引いて来たので周りに目を向けてみると少し遠くの方で大きな声を出しながら口喧嘩をしている二人、そんな姿をぼーっと見つめていると、手首が掴まれ引っ張られる。
引っ張る力は意外にも強く男でもある俺の体を引きずり込む。
引きずり込まれた先は目の前にあったバイト先の裏口で、引きずり込んだのはバイトの先輩だった。
「大丈夫? なんか手を抑えてたけど」
「え、あっはい、大丈夫です……これってどういう状況なんです?」
「え~っと、あの二人は見たことあるでしょ?」
「え? ……
「そう、なんかね、水田さんが急に店長に退職届を出したんだって、でも人手不足だから残ってくれないかって店長が言ったらこうなったみたい」
「マジすか」
「マジだよ~、はあ、ねえ水城君」
「な、なんです?」
「あの二人の仲さ——」
「無理ですよ、ああいうの苦手なんで俺」
意外と修羅場だったらしく、先輩に仲裁を頼まれそうだったので先輩の言葉を遮って即座に拒否する。
俺の答えに先輩はガックシと肩を落とし疲れが溜まったかのような顔になる。
そんな顔をされたら意地でも何とかしたくなるじゃないか。
だけどこんなバイトの分際がどうにかしようにも立場的にも、俺の脳的にも最適案が思い浮かばない。
「どうすればいいんだ? あれは……」
「ごめん、私三時間ぐらい残業になってるから休憩に行くね」
「あ、分かりまし……って三時間⁉ 飲食チェーン店で三時間も残業する人そういないですよ⁉」
「う~んとまあ、この仕事好きだから、ここの雰囲気とか、一緒に働くみんなとか、多分ここ以外私にピッタリな場所はないと思う。だから張り切って仕事しちゃうのかな」
「そう、なんですか」
「多分ね、じゃ、私休憩に入りま~す」
先輩……
その言葉単体だけ聞けばただ仕事を愛していると受け取れるだろうが、さっきの出来事からのこの言葉は意味が込められていそうで、その込められた意味を俺に感じ取ってほしいと言われているような感じだった。
「何とかしてくれってこと、なのか?」
俺がなんとなく感じたのは『私は誰か一人でも欠けたら仕事を辞めると思う』と。
かなり極端かもしれないが今日までの一年近く市ヶ谷の姿を見てきた俺にはそうにしか感じ取れなかった。
にしてもどうするべきか、なんの事情も知らない俺が何とかできるものなのか。
だが行動に移さなければ何もならないと思った瞬間、無意識に言い争いをしていて、あともう少し油を注いでしまったら殴り合いにでも発展しそうなほどの二人に足を向け、走り出していた。
「ちょ~いちょいちょい、落ち着いてください、落ち着いて」
「私はもう飽きたので他のところに行きたいって言ってるでしょ!」
「いや、でも、人手が、だからあと数ヶ月……」
うん、結構一方的な口喧嘩だった。水田が口にしたことから推測するに……というかほぼ答えが出ているが、簡単にまとめると、水田は飽きたから辞めたい、だけど店長は人手不足だから引き留めたい、という状況でヒートアップしてきたのだろう。
水田は店長を捲し立てるように、店長は弱弱しく水田に言われても強く反論できないでいた。
「落ち着きましょう? 一旦戻って冷静に話しをつけましょう?」
「うるさいなあ! 退職届も出したから問題ないでしょ!」
「そう、ですけど……でももう少し話をしましょうよ、いや、話しましょう、俺と」
「嫌よ! 私はもう——って連れて行くんじゃない! はーなーせー!」
わーわーと喚いて俺の話をまともに聞こうとしない水田の手首を掴んで強制的に店の中へと連れて行く。
店長はというと、何が起きたのか分からないと言わんばかりの呆けた顔をして後をついてくる。
水田を店のバックヤードに連れて行き、そこら辺に置いてあったパイプ椅子を三つ用意して座らせる。
さて、この詰みかけの状況をどうやって覆せばいいのだろうか。
単に『やめて! どこにも行かないで!』だったり『辞めちゃったら寂しいです』などという言葉ではどうにもできないだろう。
ではどうするべきか、どんなことを言えば水田の心に響き、考えを改めることができるか。
……おい待て、こんなのそこらのブラックな企業やバイトと変わらないのでは、まあいいか。
一瞬思考が乱れたが、そのおかげなのかある案が一つ思い浮かぶ。
「水田さん、水田さんは大切な誰かが居なくなるのは寂しいですか?」
「だから私は……って、急に話題を変えるってどういうつもり? 今は私の——」
「いいから答えてください」
「っ……そりゃ寂しいでしょ、あとは、悲しい、とか」
「もし、水田さんがここの辞めることで寂しいとか、悲しい人が居たとしても辞めますか?」
「それは……もう決めたことだから」
今のは手ごたえがあった。あともう少し、もうひと押しでこの詰みかけな状況を何とか出来る。
しかし心を動かすほどの言葉を考えるってこんなにも大変なのか、アニメとかだったらみんなすぐに出しているんだが、現実とフィクションは違うということがよく分かる。
「そうですか、じゃあ、水田さんが一番慕っていて、好いている人であっても?」
「……それは……」
本当にあと一言告げれば何とかなるという状況で勢いよく店内からバックヤードへ続く扉が開け放たれ少し埃が舞う。
「水城君、後は私がやるよ」
「え? でも……」
「いいからいいから~、じゃホールが一人空いたから頼むね」
「……分かりました、じゃあ店長、俺ホール入ります」
「え、あ、うん、頼んだよ」
市ヶ谷から向けられた視線は安心して任せてと言っているかのような真剣な眼差しで、この人なら俺なんかよりもうまく丸めて収めることができると思えるほどだった。
そのため俺は言う通り市ヶ谷によって欠けてしまったホールに入るために店長へ確認を取り、そのままホールへ、何事もなかったように接客を始めるのだった。
あれから三時間近くが経ち、俺のシフトが終わりに差し掛かったところで市ヶ谷が俺の名前を呼ぶ。
今はピークがとっくの前に終わり、二~三人ほどしかいないので残りのスタッフで対応ができるだろうと判断し、市ヶ谷の元へ向かう。
「どう、でしたか?」
「うん、何とかまだ残ってくれるみたい、ごめんね、私の我が儘に付き合わせちゃって」
「いや、大丈夫ですよ、先輩は大丈夫ですか?」
「私は大丈夫、あっそれと、水城君はもう上がっていいよ、店長にもそう言っておいたから」
「あ、はい、分かりました……先輩」
「ん? なに?」
「無理は、しないでくださいね」
「ありがと、無理はしてないから大丈夫、じゃバイバイ、お疲れ様」
「……お疲れ様でした」
ああ、まただ、どうしてこうも市ヶ谷は口では無理をしていないと言うくせに、目はそう言っていない。気づいてと、助けてという目をいつもしている。
そんな目が忘れられなくて、俺は何とか助けようといつも対処をするのだが、今の今まで変わらず、助けられていないと感じていた。
今日も助けられなかったか、どうすればよかったのかなどと考えながら帰り支度をして店を出る。
そしてバスの停留所で帰りのバスを待つ。辺りはほんの少しの熱さを残しつつひんやりとした空気が肌を滑るように吹き抜ける。
「この寒さで梅雨入りって地球さんやおかしくないですかね」
こうやって別の話題で少しでもふざけなければさらに心が沈んでしまいそうだったから。
そんな風に時には呟き、時には心中で呟く。それを数ヶ月、一年と続けていたらさすがに少しは心の浮き沈みをコントロールすることができてきた。
まだちょっとだけなのだが、以前よりかは大分マシになっていた。
「はあ、これでも最低賃金かよ、二人分の生活費は何とかなるけど、学費に関してはどうにかしないとなんだよな」
俺ら家族二人分の生活費などは俺のバイト代で何とか賄えるのだが、学費などの結構な金額がするものに関してはバイト代では何ともできない。
そのためやむを得ず母の再婚相手、俺の義父に当たる
万葉に初め話を持ち掛けられた時は離婚したのにお金を出してもらうのはどうなのかというのもあったが、当時は離婚したばっかりだったために気まずいというのもあった。
だけど、万葉に口説き落とされてしまい、渋々了承することに。
そのおかげで今の生活があるのだから万葉には感謝しなくてはならないのだが、したのはせいぜい一、二回ほどで、それもきちんとしたものではなかった。万葉は別に気にしていないようだったが幾ら何でもこちらの気分が悪い。
「いつかは、きっぱりと感謝しないとな……っと来た来た」
そうこうしているうちに少し遠くの方からバスがやってくるのが見えICカードの準備をする。
そしてバスに乗り込むと、行きとは反対の景色を見つめながら自宅に一番近い停留所まで乗り続ける。
しばらくして目的の停留所に着くと行きと同じようにバスドライバ―に感謝を伝えるとそそくさとバスを降り、自宅へ足を向ける。
歩き続けること数分、アパートへと着き、ポストを確認してから金属製の古びた階段を、一段一段音を立てないよう慎重に昇る。
少し時間を掛けて昇り切ったところでポケットに入れていたスマホが振動する。
その正体は、バイト前にもメールを交わした恵茉だった。
【恵茉】『そろそろかと思いまして、お疲れっす』
【隆太】『ありがと、てかよく俺のシフト覚えてるな、前にちょろっと言っただけなのに』
【恵茉】『まあね、私記憶力いいんだよ~? 勉強以外』
【隆太】『う~んそこは勉強の記憶力を上げてほしかったな』
【恵茉】『まあまあいいじゃん、で、今日の賄いは何貰ったの?』
おっと~? 今日は久々に少し早上がりで、色々と忙しかったから忘れてたが、賄い貰ってない。
【隆太】『ヤバい、貰ってない』
【恵茉】『あ、ご愁傷様です』
【隆太】『待て待て、そんな簡単に死ぬわけないだろ人間が』
【恵茉】『じゃあどうするの?』
どうするべきか、今から夕飯を作ろうにもバイトで疲れているので体力的に無理で、それなら食べなければ、と思ったのだがタイミングが良いのか悪いのかグ~という腹の虫が鳴く。
少しすると、既読を付けたまま放置していた恵茉とのメール画面に新しくメッセージが書かれる。
【恵茉】『じゃあ、今から食べに行く? 一緒に』
その文面に少し驚きながらも、スマホの時計を確認する。時間は二:三を示しており、まだ時間的には一応問題ではなかった。
なので俺は恵茉に『行く』と端的に答えると、急いで部屋に入り、何か難しそうな本を読んでいる母に簡単に事情を述べて了承してもらうと急いで準備をして部屋を飛び出す。
その間に恵茉から追加でメッセージがあり、それには集合場所が書かれていた。
集合場所は駅前の誰なのか分からない銅像の前とこのこと、その銅像は無駄に大きく、無駄に綺麗にされているため多くの人から集合場所として愛用されている。
当然この街に住んでいる俺は駅前を通ることがあるし、何なら昔三人で遊ぶ時の集合場所にも使っていたのでよく知っている。
そして、時間に問題はないものの、余裕はあまりないので走って駅前の銅像に向かう。
「はあはあはあ、着いたけど、さすがにまだ来てないよな……」
「あ、隆太~! こっち~!」
走って銅像の前に着いたので、息を切らしながら恵茉の姿を探す。しかし、さっきの今ではさすがにいないだろうと思っていたが、少し遠くの方から腕を大きく振って、大声で俺の名前を呼ぶ少女が目に入る。
「え? いや、早くね? 来るの」
「まあまあ細かいことは気にしなさんな、さ~てそこら辺のファミレスにする? それともファストフード?」
「ま、まあいいか……ん~気分的にファミレスで~」
「そうだと思った、まあさっきまで蒸すバにいたもんね」
「んま、それもある」
蒸すバというのはさっきまで俺が働いていたハンバーガーチェーン店の略称で、正式には『蒸すバーガー』と言う。
普通のハンバーガーもあるのだが、名前にある通りハンバーガーを蒸して作るものもある。それが蒸すバのアイデンティティなのだ。
だが宣伝をあまりにもしないためピーク時でも人が少なく、ピーク時は平均五~七人ほどしかいない。
それはさておき、俺たちがファストフードを食べに行く際は大抵有名所のハンバーガーチェー店なのだがついさっきまでハンバーガーの匂いを嗅いでいた俺は気分転換もしたいのでファミレスを希望する。
「近くでいうと~……あ、あそこなんてどう? 美味しいし安いしで学生の味方」
「そうだな、金は一応持ってきてるから俺が払うけど、それでいいか?」
「ごちっす」
「躊躇の欠片もねえな……」
俺の奢りと分かった瞬間恵茉は目をキラキラと光らせながら両手を顔の前で合わせて即座に感謝を述べる。
その姿に少し呆れながらも自分で言い出したことなのであまりとやかく言うつもりはない。それにあまりとやかく言い過ぎたらウザがられそうなのでこれくらいがちょうどいい。
そしてファミレスへ向けて歩みを進める。ファミレスに向かう足は周りの人より少し速く、すぐに目的地のファミレスに着く。
少し豪華に装飾が施されているガラスメインの引きドアを引くと、香ばしい匂いや甘い匂いなどが混ざり合った匂いが鼻腔を刺激する。
店の中は外と違って騒然としており、時折赤ん坊の泣き声や若い女性の声などが聞こえたりする。
「赤ん坊元気だね~、あれ絶対将来元気に育つよ」
「だな、お母さんも、お父さんもいるし、あれが所謂家族円満ってのなんだろうな」
「あ……ごめん」
「大丈夫、こっちこそすまん。……ほらそんな顔してないでさっさと名前書いて待つぞ」
「う、うん」
恵茉の視線の先には思いっきり泣き叫び、お母さんらしき人物にあやされている赤ん坊。それを温かい目で見守るお父さんらしき人物。そして年齢相応の少し迷惑していそうな赤ん坊のお兄ちゃんらしき人物。
そんな『普通』な、家族円満な人たちを見て正直嫉妬が湧いてくる。あの人たちは一切悪くない、だけど俺はこんなにも苦労しているのにあの家族は……と思ってしまう。
心中で思っていたことが口に出ていたらしく、事情を知っている恵茉は嫌な思いをさせてしまったと反省したのだろう、弱弱しく謝罪をすると悲しみを含んだ気まずい顔を露にする。
俺はやってしまったと咄嗟に謝罪をして俺もまた気まず顔をするのだが、せっかく飯を食べに来たのに初っ端からこんな重い雰囲気になってしまってはあとの飯の味が悪くなるので話題転換をする。
「いや~何食う? これなんかお前好きだろ?」
「ん~どれどれ~? うっ、こ、これは……食べたい! しかし、私には心に決めた奴がいるのだ……!」
「おう、そうかそうか……俺の奢りなんだぜ? なんでも食べてもいいんだぞ?」
「うっ、そんな甘い誘惑に乗るわけ、乗るわけ……食べてもいいっすか?」
「おう、どんどん食え……前言撤回、なるべく抑えてくれ」
さっきの重たい雰囲気はどこへやら、今は並べられた椅子に座って近くにあったメニュー表を手に取り目を通す。
恵茉は最初から何を食べるのか決めていたらしくどんなものがあるのか流す程度に見ていた。そんな恵茉はやはりどこか俺を気遣っているようで、いつもとは少し違った。
なのでいつもの調子を取りも出させるためにある作戦を実行させる。
恵茉の方へメニュー表を傾けて恵茉が好きそうな料理を指でトントンと軽く叩く。その指に釣られて視線を料理の写真へ向けた恵茉は大げさに、ふざけるように反応をする。
そこで俺が甘い誘惑をすると、恵茉は少し迷ったものの案外すぐに乗ってしまった。
これが俺で、こんな状況でよかったが、他の少しアブナイ状況だったら軽すぎて恵茉の身が心配だ。
それはさておき、何とかいつもの調子に戻った俺たちは店員に名前を呼ばれ、テーブル席へと案内される。
案内された席に座った俺たちは店員に各々選んだ料理を頼み、水がセルフサービスだったので俺が二人分の水を取って席に着く。
「さて、なあ恵茉。お前が呼んだのってただ俺と飯を食うためじゃないよな」
「やっぱり分かっちゃってたか~、まあそうだよ。私は特生退をどうするのか話をするた
めに隆太をご飯に誘った。そうじゃなきゃこんな補導時間ギリギリにご飯食べに行くなんて言わないよ」
「ま、そうだよな」
両者真剣な面持ちで視線を交わし合う。そして、恵茉が口を開いたことで特待生についての話し合いが始まるのだった。
「私のことを毎日、帰るときに見てきているある人物について話そっか」
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