第32話 夜が明けて

  四限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 教師が退室するのと同時に、教室内は一気に賑わう。

 昼休み。クラスメイトたちが群れを成し始めるのを尻目に、一人教室を後にする。

 購買部に寄り、焼きそばパンを買ってから、いつもの場所に向かう。

 特別棟の裏手には小春先生がいた。俺を見ると、ぱっと表情を明るくさせる。


「お、来た来た。今日は私の方が速かったね」

「四限目は古典でしたから」


 古典の井原先生は始業時間には厳しいけど、終業時間はいつもはみ出してしまう。生徒たちからは大いに不評を買っていた。


「今日はコッペパンじゃないんですね」と俺は言う。しゃがんだ小春先生の手には、包装された焼きそばパンがあった。

「この前、榎木くんが食べてるのを見て美味しそうだなって思ったから。どんな感じなのか気になって試しに買ってみたの」


 そして俺の手元に目を向ける。


「そういう榎木くんは、今日も焼きそばパンか。やっぱ好きなんじゃん」

「……かもしれないです」


 なぜだか今日は素直に認められた。

 俺は小春先生の隣に座ると、焼きそばパンの包装を丁寧に剥がす。


「最近、何か良いことでもあった?」

「どうしてですか」

「憑き物が落ちたみたいな顔してるから」


 小春先生は言う。


「それに、最近はサボらずに登校するようになったし。きっと、私の知らないところで何かあったんだろうなって」

「…………」


 ここ最近はずっと、毎日登校していた。

 それは瑠衣さんと過ごしたあの夜が明けてからのことだった。

 けれどそこで何があったのかは、誰にも話すつもりはなかった。


「でも、あんなにサボってたから、てっきり授業についていけないと思ってたのに。昨日の小テストも全然問題なかったね」

「教科書を読んで自習してたら何とかなりますから」

「かわいげがないなあ。榎木くんが泣きついてきた時のために、放課後に主要科目の特別補習の準備もしてたんだよ?」

「先生はそういうの面倒臭がるタイプじゃないんですか」


 部活の顧問をさせられた時は、盛大に愚痴を吐いていた。余計な仕事が増えるのは歓迎しないと思っていたけど。


「私は不本意なことをさせられるのが嫌なだけ。可愛い教え子が困ってるのなら、何とか力になってあげたいもん」


 臆面もなくそんなことを言ってくる。

 その混じり気のない、真っ直ぐな優しさを受けて、気づけば俺は口にしていた。


「……あの、小春先生」

「ん?」

「ありがとうございます。それと、心配かけてすみませんでした」


 小春先生はぽかんとした表情を浮かべた後、照れ臭く感じたのか、


「なーに、いいってことよ」

 と妙に芝居がかった口調で言って笑った。


 俺も何だか妙に照れ臭く感じてきて、「そういえば」と話題を変えた。

「なに?」

「昨日、学校近くにあるラーメン屋を通りがかったんですけど。店頭に設置された灰皿のところで喫煙してた人、先生に似てたなって」 


 先生に似た人は、ラーメン屋の前の喫煙所でタバコを吸っていた。やさぐれて、退廃的な雰囲気を纏っていた。


「ああ、うん、それ私だよ」

 あっさりと認める。

「小春先生、タバコ吸うんですね」

「吸うよ。バリバリ」

「知りませんでした」

「まー学校では吸えないからね。驚いた?」

「まあ、そうですね」


 小春先生は童顔だからか、何となく吸わないイメージがあった。

 今思うと、勝手な決めつけだ。


「きっと、それと同じだと思うよ」

「え?」

「榎木くんは嫌いな人が多いって言ってたけど、実際に関わってみたら、知らなかった面もたくさん出てくると思う。私がタバコを吸うことを知らなかったみたいに」

「つまり」と俺は尋ねた。「どういうことですか?」

「世の中を見限るには、榎木くんはまだまだ若すぎるってこと」


 小春先生は軽い調子で言うと、


「この焼きそばパン、おいしいね。もうコッペパンから乗り換えちゃおうかなあ」と冗談めかしたように笑いかけてきた。


 コッペパンが悲しみますよ、と言って俺も笑った。

 また、明日の昼休みにはこの場所に足を運ぼうと思いながら。


 

 その日の夕方もバイトのシフトが入っていた。

 酒袋と同じだった。

 これまでならきっと、憂鬱な気分になっていただろう。

 でも今は違っていた。

 境遇はまるで変わっていない。

 相変わらずバイト先では浮いているし、酒袋からは見下されている。わざとらしく嫌味を言われることもあった。

 それでも以前までとは心持ちが違っていた。

 

 バイトのシフト終わり。

 バックヤードで着替えていた俺に、酒袋が声を掛けてくる。


「なぁエノっち、まだあの人とつるんでんの?」

「あの人、ですか?」

「瑠衣さんのことだよ」

「ええ、まあ」

「可哀想だな。遊ばれてるだけだろうに」


 憐れむように嗤ってくる。瑠衣さんにまだ未練があるのだろうか。執拗に貶してくるのは不安だからなのかもしれない。


「……そうかもしれません」

 俺はそう言った後、


「あの、櫻田さん。この前、聞いてきたじゃないですか。俺のこと嫌いになったかって」

「……それが?」

「あの時、別にって答えたんですけど、すみません。あれは嘘でした」


 それまで余裕めいていた酒袋の表情が、不穏なものを感じたのか曇る。

 怪訝そうに俺を見つめてくる。

 その気取った顔に向かって、俺は告げた。


「俺はあなたが嫌いです。ずっと前から。それこそ、殺してやりたいくらいに」


 ずっと言いたかった。でも言えなかった言葉。

 それを今、ようやく言えた。


「…………え?」 


 まさかそんなことを言われると思っていなかったのか。

 酒袋は戸惑ったような、呆然とした表情をしていた。

 その目に怯えの色が滲んでいるのを見た瞬間、思わず笑ってしまいそうになった。ほんの少しだけだけど、愛おしさすら感じた。

 なんだ。俺はこんな奴のために憂鬱な気分にさせられてたのか。


「すみません。それだけです。それじゃ、お先に失礼します」

 

 着替え終わった俺は酒袋に向かって笑顔で頭を下げると、バックヤードを後にする。

 裏口から店の外に出ると、出勤した頃に降っていた雨は止んでいた。

 

 夜空には煌々とした月。

 胸のうちは空くように晴れ晴れとしていた。

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