第31話 パレード②

「そういえばこの前、紗希さんと喫煙所で会って話したんです。就活生を見て、スーツ姿の自分が想像できるかどうかって」

「ふうん。それで?」

「紗希さんは出来ないって言ってました」

「結斗くんは?」

「俺も想像できませんでした。というか、想像したくないというか。そんなに未来のことを考えたくなくて。瑠衣さんはどうですか?」

「んー。どうでしょう。私のスーツ姿、想像できますか?」


 想像してみる。

 瑠衣さんがスーツに身を包み、ヒールを履いているところを。


「似合うとは思います」


 瑠衣さんはスタイルが良いから、何を着ても様になる。大企業の内定だっていとも簡単に取れるかもしれない。

 でも、見たいとも、着て欲しいとも思わなかった。


「何だか含みがある言い方ですけど、似合うと言われるのは、悪い気はしませんね」

「前に酒袋――櫻田さんに聞かれた時には未定って言ってましたけど。結局、インターンには参加するんですか」

「いえ。特には考えてません」と瑠衣さんは言った。「スーツ、まだ荷ほどきしてない段ボールの中に入ってるんですけど。取り出すのが面倒臭くて」


 何だその理由。社会不適合者すぎるだろ。

 思わず笑ってしまいそうになる。

 でも、瑠衣さんがそう答えたのを聞いて、ほっとしている自分がいた。瑠衣さんが社会に呑まれてしまわなくて良かったと。

 変わらないで欲しい。心からそう思う。


「結斗くんと出会って、もうすぐ半年になりますね」


 瑠衣さんはふいにそう切り出した。

 俺と瑠衣さんが出会ったのは今年の春頃だった。今でもはっきりと覚えている。初めて店に来た日から毎回、ずっと目で追っていた。


「あの時はまさか、今みたいに仲良くなるとは思いませんでした」


 俺も思わなかった。

 憧れを抱いていた相手がアパートの隣に越してきて、言葉を交わすようになり、今では夜中に散歩をする仲になるなんて。


「あの、一つ聞いてもいいですか」

「何でもどうぞ」

「瑠衣さんが店に来た時、いつもお礼の言葉を言ってたじゃないですか。かたじけないとかありがとうさぎとか」

「ええ」

「あれって、どういう意図だったんですか」


 瑠衣さんは店に来る度、ありがとうの言葉を毎回言い換えていた。酔って自意識の栓が外れていたからか、素直に訊くことができた。


「遊び心の意図を改まって尋ねられると、何だか恥ずかしくなりますね」


 瑠衣さんは袖で口元を覆いながら、苦笑いを浮かべる。 


「でも、そうですね。たぶん、気を惹きたかったんだと思います」


 え、と俺は声を漏らしていた。


「私は、結斗くんと仲良くなりたかったんです。だから、気に留めて欲しくて、ああいう振る舞いをしたんだと思います」

「……俺と仲良くなりたかった?」


 理解できなかった。

 勉強ができるわけでも、運動ができるわけでもない。顔が良いわけでも、人に好かれるものがあるわけでもない。

 むしろ、嫌われていたのに。

 そんな俺と、瑠衣さんは仲良くなりたいと思ってくれた。

 どうして、という俺の疑問は次の瞬間に氷解した。


「初めてあの店に入った時、レジにいた結斗くんの目を見た瞬間に思ったんです。この人はきっと、世の中全部が嫌いで堪らない人なんだろうなって」


 そう言われた瞬間、脳天をぶん殴られたかのような衝撃があった。

 瑠衣さんの言う通りだった。

 俺は最初、群れに馴染もうとしていた。生きるためにはそうする必要があったから。でも本当は、全部が嫌いだった。

 自分の優秀さを誇示するために、俺を人前で貶めてくる酒袋も。

 非がないのにこちらにも非があるような言い方をしてきた店長も。

 歪曲された噂を信じてうっすら避けてくるバイトたちも。

 何をやっても許されると思っているクラスの中心の男子も。奴の言った面白くない言動に迎合して笑うクラスの他の連中も。

 何もかも皆、本当に嫌で仕方なかった。そして何より、世の中に折り合いを付けることができずにいる自分のことが嫌いだった。

 だけど。


「……どうして分かったんですか? 俺が、世の中全部が嫌いで堪らないって」


 そのことを誰かに見抜かれたことはなかった。

 表面上は取り繕っていたから。

 誰も俺に興味なんて持とうとしなかったから。


「うーん。そうですね。何となく、としか言いようがないんですけど。あえて言葉にするとするのなら……」

「するのなら?」

「私も、結斗くんと同類だったからでしょうか」


 瑠衣さんはそう言って、微笑みかけてきた。

 その優しい表情を見た瞬間、ふいに泣きそうになった。


 ずっと、一人ぼっちだと思っていた。

 この世界に宇宙人は俺だけなのだと。誰とも分かり合うことはできないのだと。

 でも、いた。もう一人。同じ周波数を持つ人がいた。確かにここにいたんだ。そのことを理解した途端、息が出来なくなるくらいに胸が詰まった。


 そして、酔った頭で改めて思った。

 この人のことが好きだ。

 瑠衣さんといっしょにいる時間が好きだ。

 人間が十人いたら、九人は嫌いだ。

 けれど、瑠衣さんは違う。

 彼女は俺にとって、たった一人の大切な人だった。


 ――だけど、いつかは。

 紗希さんが言っていたことを思い出す。

 今はよくても、いつかは瑠衣さんも世の中にやられてしまう日が来るかもしれない。

 汚れて、呑まれて、輝きを失ってしまう時が訪れるかもしれない。


 このまま、社会に出なければ。

 就職せずに大学を卒業すれば。アルバイトをしながら、気ままに暮らせば。貧乏でひもじいかもしれないけど、世の中には呑まれずに済むかもしれない。

 それでもいつかは、限界が訪れる。輝きを失い、夢から醒める日が来る。今の自分たちではいられなくなる日が。

 きっと、何かがなければ夢を見続けることはできない。その何かは若さだったり、才能だったりするのだろう。


 その時が訪れるのが、俺は怖い。魔法が解けてしまうのが。たった一人、初めてこの世界で大切だと思えた人を失ってしまうのが。

 そうなった時、俺はどう生きていけばいいのか分からなくなる。

 瑠衣さんという光を失ってしまえば、暗闇の中で立ち尽くすしかなくなる。これから何をよすがにしていけばいいのか見失ってしまう。

 だから、この時間がずっと続いて欲しい。パレードが終わって欲しくない。瑠衣さんとこのままずっと真夜中を歩き続けていたい。


「実は、結斗くんに話しておきたいことがあるんです」


 瑠衣さんはふいにそう呟いた。


「話したいことですか?」


 その声色に不穏なものを感じた。


「前に読んで貰った短編小説を覚えていますか?」

「もちろん、覚えてます」


 ゼミ生たちに酷評された五十枚ほどの短編。ゼミ生は酷評していたそうだが、俺はあの作品のことを面白いと思っていた。


「あの短編なんですけど、公募の新人賞に送ったら受賞しました」


 言葉を失った。

 瑠衣さんが賞を取った。

 皆に扱き下ろされた短編で、認められた。結果を出した。

 瑠衣さんが話したその賞は、俺も知っている有名な新人賞だった。今までも才能のある作家を何人も輩出してきた。


「まだ発表前なので、本当はまだ誰にも言ってはいけないらしいんですけど。結斗くんには先に伝えておきたくて」


 瑠衣さんはそう言うと、


「結斗くんが褒めてくれなかったら、面白いと言ってくれなかったら、賞に出してみようとは思わなかったと思います。だから、お礼を言いたくて」

「……別にお礼を言われるほどのことはしてないですよ」


 本心だった。

 むしろお礼を言いたいのは俺の方だった。

 瑠衣さんは正しかった。あの作品は、面白いものだった。俺が、瑠衣さんが信じていたものは間違ってなんかいなかった。

 そのことを証明してくれたのだから。


「でも、おめでとうございます」

「ふふ。ありがとうございます」


 瑠衣さんは少し照れ臭そうに笑う。


「と言っても、短編なので本になるかはまだ分からないですけど。小説だけで身を立てるのはとても難しいでしょうし」

「大丈夫です」と俺は言った。「瑠衣さんなら絶対、大丈夫です」


 だって、瑠衣さんには才能がある。

 世の中に呑まれてしまわないだけの、才能が。魅力が。


「結斗くんにそう言って貰えると、本当にそんな気がしてきます」


 瑠衣さんは俺の百パーセントの肯定を受けると、微笑みを浮かべた。

 それを見て、俺は心からの幸せを感じる。


「私、爆弾を作りたいんです」

「爆弾、ですか?」

「本当に凄い作品は、人の心を変えることができると思うんです。その人の思想を、価値観を変えてしまうだけの力がある。

 だから私は小説を通して自分の思想を、毒を、世の中に撒き散らしたい。そして、作品を読んだ人の心に消えない傷跡をたくさん刻みつけたい。

 自分の思想に共鳴する人たちを一人でも多く作りたい。

 そうすることで、ほんの少しだけでも世の中が変わるかもしれない。私たちにとっての楽しい世の中になるかもしれない」


 テロだ、と思った。瑠衣さんはテロを仕掛けようとしている。小説を通して、この世界に爆弾を撒き散らそうとしている。


「それは」と俺は言った。「凄く良いですね」 


 想像するだけで、胸が震えた。


「だから、結斗くんにも共犯者になって欲しいんです」

「俺も……ですか?」

「はい」


 瑠衣さんはそう言うと、微笑みながら手を差し出してきた。


「私といっしょに、この世界に爆弾を落としませんか?」


 それは誘いだった。

 何か表現を通して、この世界を変えようという。

 だけど、才能がなければそれは叶わない。

 才能があれば、夢を見続けていられる。世の中に呑まれてしまわずに済む。これからも瑠衣さんの隣にいられる。


「……俺に出来ますかね」

「出来ますよ」

 

 恐る恐る尋ねた俺に、瑠衣さんは即答した。そして、笑みを浮かべると言った。


「だって、結斗くんは面白い人ですから。それは私が保証します」 


 どうして、と思った。

 どうしてこの人はいつも、俺の一番欲しい言葉をくれるのだろう。


 瑠衣さんは、俺にとっての光だ。このつまらない世界で初めて出会えた、心から大切だと思えたたった一人の相手だ。

 そんな人が、自分を必要としてくれた。

 共犯者になって欲しいと言ってくれた。

 面白い人だと認めてくれた。


 生きる理由なんてないと思っていた。長生きしたい理由も。いつ全てが終わっても別に構わないと思っていた。

 だけど、今、死にたくない理由ができた。できてしまった。


「返事を聞かせて貰えますか?」

「……俺でよければ、ぜひ」


 瑠衣さんの作る爆弾を、俺は見てみたい。

 その毒が世の中に撒き散らされる瞬間を。

 そして俺の作る爆弾を、瑠衣さんに見て欲しい。

 その毒が世の中に撒き散らされる瞬間を。

 何かを変えるかもしれない瞬間を。


 だから。

 その日が来るまでは、もう少しだけ生きていようと思った。。

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