第30話 パレード

『今から散歩しに行きませんか』


 瑠衣さんからそんな誘いがあったのは、バイト終わりの夜、鬱屈とした気分を醒まそうとベランダに出ようとした時だった。


『散歩ですか?』

『お酒を飲みながら、真夜中をいっしょに練り歩くんです。楽しそうだと思いませんか?』


 楽しそうだった。

 他に予定もなかったし、頭の熱を冷ますためにもちょうどいいからと了承する。支度をしてから廊下に出ると、瑠衣さんが部屋の前で待っていた。


「こんばんは」

「どうも」


 合流すると、共に歩き出す。錆の浮いた階段を降り、地上に立った。


「ちょっと待っていてください」


 そう言うと、瑠衣さんは近くのコンビニに立ち寄る。

 店から出てきた彼女の手には、ハイボールの缶が握られていた。


「ひんやりしていて、気持ちいいですよ」


 頬に缶を当てていた瑠衣さんは、その缶を今度は俺の頬に宛がってきた。


「ね?」

「…………」


 確かに冷たかった。でも、それと同じくらい顔が熱くなった。


「さあ、夜に繰り出しましょう。パレードです」

「パレードと呼ぶには、二人は少なすぎる気がしますけど」

「でも、二人いれば充分でしょう?」


 瑠衣さんの言う通りだ。それ以上は誰もいらない。

 コンビニの光から離れ、夜の帳の中に踏み出す。

 すでに時刻は真夜中を回っていた。

 車通りから外れた住宅街に、俺たち以外の気配はない。家々の明かりも消え、人の姿はまるで見当たらない。外灯の明かりだけが、うら寂しく道に伸びている。

 瑠衣さんはハイボール缶のプルタブを開ける。カシュッ。小気味良い音。そして飲み口を傾けると中の液体を飲む。


「相変わらず好きなんですね、お酒」

「楽しい時間が、もっと楽しくなりますから」

「それは羨ましいです」

「結斗くんも飲んでみますか?」


 と瑠衣さんが缶を差し出して勧めてくる。

 今までなら未成年だからと断っていただろう。でも今日はそうしなかった。瑠衣さんと同じ景色を少しでも見てみたかった。


「じゃあ、いただきます」


 俺は缶を受け取ると、飲み口に唇をつけ、勢いよく中身を呷った。

 甘くてほろ苦い液体が喉を滑り落ちる。臓腑がじんわりと熱くなった。


「ふふ。良い飲みっぷりですね」

 と瑠衣さんは微笑む。

「初めてのお酒の味はどうですか?」

「美味しくはないです」


 苦いし、鼻がツンとする。これを好んで飲む人の気が知れない。それとも大人になればまた違う味わいに変わるのだろうか。


「最初はそんなものですよ。タバコも、お酒も」と瑠衣さんはかつては自分も通ってきた道なのだということを示してくれる。


 今日、俺は初めてお酒を飲んだ。

 それは間違いなく瑠衣さんがきっかけだ。

 もし俺が二十歳になってタバコを吸い始めたら、それもやっぱり瑠衣さんがきっかけということになるのだろう。

 俺の人生のいくつかの初めてを瑠衣さんは奪った。消えない爪痕を刻んでいった。


 いつか年老いた後。タバコを吸ったり、酒を飲んだりしている時に、俺は発作のようにふと瑠衣さんのことを思い出すのだろう。

 今日この瞬間、飲んだハイボールの苦い味を。

 夏の匂いを孕んだ、夜の空気を。

 隣を歩く瑠衣さんの白くて滑らかな肩を。

 月みたいな輝きを。


「結斗くん、顔が赤くなってますよ」


 外灯に照らされた瑠衣さんが、俺を見つめながら笑う。


「お酒、弱いんですね」

「まあ、未成年ですから」


 頭の芯が痺れている感じがする。身体が内側からじんわりと熱い。


「気分はどうですか?」

「悪くはないです」


 ふわふわと浮き足立つような心地がして、気持ちがいい。

 何より、普段纏っている分厚い自意識の鎧が薄くなっている。世の中からの敵視の眼差しが弱まっている気がする。


「このパレードはどこに向かってるんですか」

「特に決まってないですけど。強いて言えば、コンビニですね。結斗くんがハイボール缶を全部飲んでしまったので。二本目を買います」

「それなら、俺が払います」

「いえ。さっきの飲みっぷりを見せてくれただけで、お釣りがきますよ」


 瑠衣さんはコンビニに寄ると、再びハイボール缶を買ってきた。今度は二本。そのうちの一本を俺に差し出してくる。


「はい。結斗くんの分です」


 結局、また奢ってもらう。

 お礼を言って受け取ると、プルタブを開ける。カシュッ。小気味良い音。缶の冷たさを手のひらに感じながら中身の液体を飲む。


 酔いが回る。感覚がぼやけ、景色の輪郭が曖昧になる。

 夜と外灯の明かりと建物が絵の具のように混ざり合う。

 だけど、自分と隣にいる人の輪郭だけはハッキリとしている。ぼやけた世界に俺と瑠衣さんの二人だけが存在しているような感覚。

 それは俺にとっての理想の世界で。

 とても幸せな空間のように思えた。

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