第29話 いつかは世の中にやられちまう

 それ以降も学校に登校することはなかった。一度足が遠のいてしまうと、何かきっかけでもない限りは戻れない。

 それでも外には出ていた。

 瑠衣さんから昼食に誘われていた。日の当たらない大学の喫煙所のベンチに座り、彼女の講義が終わるのを待つ。

 講義中ということもあり、周りに人は少ない。持ち込んだ本を読んでいると、ふと頭上から声を掛けられた。


「よう。いつから大学生になったんだ?」

「……紗希さん。お久しぶりです」


 瑠衣さんの友人の紗希さんだった。Tシャツにジーパン姿。間近で見ると、スタイルの良さがより際立っている。


「授業、サボりですか?」

「お前らといっしょにすんじゃねえ。講義の前に一服しに来ただけだ。つーか、未成年が来るところじゃねえだろ。ここは」

「でも静かなので」

「ま、キャンパス内はどこも人多いからな。にしても喫煙所はどうなんだよ。確実に身体には良くねえだろ。長生きできねえぞ?」

「かもしれません」と俺は答える。「でも、別にいいかなって」


 長生きしたところで、何があるわけでもない。むしろ長生きすればするほど、まだ人生が続くのかと思ってうんざりする。


「もっと大切にしてやれよ、自分のことを」と呆れたように言いながら、紗希さんは箱から取り出したタバコを咥え、ライターで火を点ける。

「そう言いながら、紗希さんもタバコ吸ってますよね」

「あたしは自分を大切にしてるからこそ、吸ってんだよ」


 紗希さんは俺の座るベンチの傍に立つと、壁に背をつけながら、美味そうにタバコの煙を虚空に向けて吐き出す。吐き出し終えた後、切り出した。


「最近、学校サボってるらしいな?」

「瑠衣さんに聞いたんですか」

「嬉しそうに話してやがったよ」

「紗希さんはどう思いましたか」

「行きたくなけりゃ、別にいいんじゃねえの。留年したとしても、後から振り返ると良い経験になるだろ。中退しても大検取れば進学できるし」

「寛容なんですね」

「興味ねえだけだよ。あたしの人生じゃねえし」

「紗希さんはちゃんと講義に出られてるんですか」

「大学生は留年したら、その分、金が掛かるからな。百万単位で。それを考えたら思春期してる場合じゃねえだろ」

「真面目なんですね」

「ばーか。真面目な奴は、バンドなんてやらねえよ」


 紗希さんは自嘲するように笑うと、視線を喫煙所の外に向ける。その先を追う。薄暗い建物と建物の間からは表の通りが見える。

 スーツ姿の大学生たちが連れたって歩いていた。


「あれは……」

「就活生の連中だな。熱い中、ご苦労なこった」


 紗希さんはどこか遠いものを見るような目をしていた。


「けどあいつら、凄いよな」

「何がですか?」

「それまで散々遊び呆けてたような連中も、就活の時期になったら皆、染めてた髪を黒に戻してピシッとし出すんだぜ。よくああも割り切れるよな」


 それは皮肉なのか、それとも素直な尊敬なのか。


「そういえば、もうすぐインターンの時期だそうですね」


 俺は酒袋が話していたことを思い返しながら言う。


「らしいな」

「紗希さんは参加するんですか」

「あたしがスーツ着て、髪を黒に染めて、ああやって歩いてる姿、想像つくか?」

「つかないですね」

「あたしも全くつかない。だから参加はしない」と呟くと、紗希さんは短くなったタバコを灰皿の水の中に捨てた。

「じゃあ、バンド一本で行くんですか」

「上手くいったらな」

「格好良いと思います」


 本心だった。


「褒められるようなことじゃねえよ。言うだけなら誰でも言える。結果の伴わない宣言には何の意味もねえ」


 紗希さんはそう言うと、それに、と続けた。


「特別でいられるのなんて、ほんの一部だけだ。ほとんどの連中は、そうはなれずに世の中にやられちまうからな」

「世の中にやられる、ですか」

「バンドをやってると嫌でも実感するよ。才能ある奴も次々に夢破れて辞めていく。ようやくデビューまで漕ぎ着けても、売れなかったりメンバー同士で揉めたりして、気づいたら最初に抱いてたものをなくしちまってる。金や名誉は手に入っても、デビュー前の自分から見るとつまらない人間になってる」


 そこまで語ると、箱からタバコを取り出し、ふと自嘲するように呟いた。


「あたしも今はこんなふうに言ってるけど、いつかはそいつらと同じようになって、同じになったことにも何も思わなくなるのかもな」


 遠い未来を想いながら、紗希さんは火の付いたタバコを吹かす。空に立ち上るその煙を眺めながら、俺もまた思案に耽っていた。


「……瑠衣さんも」と俺はふと尋ねていた。「瑠衣さんもいつか、そんなふうに世の中にやられる時が来るんでしょうか」

「さあな」


 紗希さんは虚空を見つめながら言う。


「けど、時間が経てば、嫌でも人は変わる。変わらない奴なんていない。いつかは世の中にやられちまう日が来る。たとえば就職する時だったり、結婚する時だったり、自分の中の何かが折れた時だったり。それはきっと瑠衣も例外じゃない」


 俺は想像する。

 瑠衣さんが、瑠衣さんではなくなってしまう時のことを。今、瑠衣さんが宿している光を失ってしまう時のことを。 

 想像して、胸が締め付けられる思いになる。堪らなくなる。


「あー。やめやめ」


 不意に紗希さんは虫を払うように手を振ると、強引に会話を打ち切った。


「思春期と喋ってると、こっちまで思春期になってくる。言っとくけどな、喫煙所ってのはしょーもない話だけをする場所なんだよ」

「すみません」


 紗希さんは吸い終えたタバコを灰皿に捨てると、ぶっきらぼうな口調で言った。


「今度、海に連れていってやるよ」

「海ですか」

「お前、何か悩んでるんだろ。だいたいの悩みってのはな、バイクで風切って、海を見れば解決するんだよ」と紗希さんは豪快に言い切った。


 その一刀両断ぶりに、思わず笑ってしまう。


「何だよ」

「紗希さんは」と間を置いて言った。「優しい人ですね」

「……んなことはねえよ。平気で暴力も振るうし」


 紗希さんはそう言うと、照れ隠しするように俺に肩パンしてきた。痛いけど、痛いとは全然感じなかった。

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