第28話 行き着く先が地獄なら

 しばらく、居場所を求めて昼休みには校内を彷徨い歩いていた。一人になりたい。周りに群れのいないところに行きたい。

 でも、そんな場所は見つからなかった。


 結局、特別棟の裏手に足を運んでいた。

 いなければいいなと思ったけど、いた。まるで待ち構えていたかのように。ここにいれば俺が来ると踏んでいるかのように。


「おいっす」


 しゃがみ込んでいた小春先生が、軽い調子で声を掛けてくる。


「ここに顔出すの、久しぶりじゃない?」

「……ご無沙汰してます」


 気まずさを感じながらも返事をする。避けていたことに対する負い目と、他に行く場所がなくて結局戻ってきたことの羞恥と。


「よかった。もう来ないかと思った」


 小春先生はほっとしたように言う。


「ここの先住民は榎木くんの方だから。このまま来なかったら、私が追いやったみたいで後味が悪いもんね」

「何ですか、それ」

「まあ、座りなよ。お昼、まだなんでしょ?」


 俺は屋根の庇の下の影に入ると、小春先生と距離を開けて座る。購買で買った焼きそばパンの包装を開けると口にする。


「焼きそばパン、好きなの?」

「……特には」


 目に付いたものを適当に取っただけだ。でも、おいしい。思えば、学校でちゃんと昼食を取るのは久しぶりだった。


「私はね、コッペパンが好き」

「はあ」

「いっつも不人気で、最後まで余ってるから。私が推してやらねばって思う。まあ、味が好きなのもあるんだけど」


 小春先生はそう言うと、


「そういえば、聞きたかったんだけどさ」

「はい」

「この前の遠足をサボった時、あの女の人と家で映画を観てたって言ってたよね? 何の映画を観てたの?」

「……気になりますか? そんなの」

「気になりますよ、そりゃあ。遠足サボってまで観る映画だし。どんなに面白いものなのかなって思うじゃん」


 別に面白いものじゃなかった。むしろつまらない部類のものだった。もっとも、遠足に行くよりはずっとマシだけど。

 俺は小春先生にあの日観た映画のタイトルを告げた。


「ふーむ。全然聞いたことないな。私、普段、映画とか観ないからなあ」

「最後に観た映画だと何になるんですか?」


 興味があったわけじゃない。無言でいるよりはその方がいいかと思ったからだ。


「去年の夏にやってたアニメ映画。友達に誘われたの」


 話題になっていた作品だ。興行収入が数百億とか騒がれていた。


「それなら俺も観ました。面白かったです」

「あ、榎木くん、そういうのも観るんだ。てっきり、皆が観るような映画はシャバいとか言って観ないのかと思ってた」

「俺のこと、何だと思ってるんですか」


 皆が観ているとか、観ていないとか、売れてるとか売れてないとかは関係ない。

 良い作品は良い。面白い作品は面白い。それだけだ。


「まあ、映画館に人が多いのは嫌でしたけど」


 紙パックのコーヒー牛乳にストローを差すと、中身を飲む。普段飲んでいるブラックのものに比べると甘みが凄い。

 でもこれはこれでいい。


「ね。キスした相手って、あの女の人?」


 不意打ちに、咽せた。

 咳き込む。


「やっぱりね。そうだと思った」

「……何も言ってませんけど」


 そもそもキスをしたとも言ってない。


「でも、身体は正直だったよね」


 小春先生は名探偵みたいな顔をしていた。


「そっか。榎木くんは年上が好きなんだなあ。ま、あの人、かなり美人さんだったし」と一人納得したようにふむふむと頷いている。


 そこでふと、声色が変わった。


「でもさ、あの人は危ないと思うよ」

「危ない?」

「女の勘っていうのかな。会った時に思ったんだよね。この人は榎木くんをよくない方に導いてしまう人だって」


 紗希さんも似たようなことを言っていた。

 瑠衣は人を狂わせる奴だ。

 女の人から見ると、瑠衣さんはそう映るのだろうか。それにしても、散々な言われように笑ってしまいそうになる。


「実際、榎木くんは感化されちゃってるんじゃない?」

「そうなんですかね」

「だってここ最近、学校サボりがちだから」


 と小春先生に指摘される。


「前までは、ちゃんと来ることは来てたのに」


 そうだ。俺はこのところ、学校をサボっていた。


「でも連絡はしてますよ」と俺は言った。「サボるのは百歩譲って良いとしても、無断欠席と嘘をつくのはダメだって言われましたから。先生に」

「そうだね。ちゃんと毎日連絡はしてくれてるね。休みたいから休みますって、バカ正直に。他の先生から伝言された時、毎回恥ずかしいんだよね。私が生徒に舐められてるの丸わかりな感じがして」

「俺は先生のこと舐めてませんよ」

「君がそう思ってても、周りはそうは取らないの」

「それと学校をサボってるのは、瑠衣さんのせいじゃないです」と言いながら、原因ではなくとも理由ではあるかもしれないと思う。


 学校をサボった時間は、瑠衣さんといることが多かった。同じく大学をサボった彼女と共に過ごすこともあれば、大学に付いていくこともあった。

 俺が学校をサボっていることを知ると、瑠衣さんは『結斗くんは悪い子ですね』と自分のことを棚に上げて笑っていた。そして言った。


『なら、いっしょに過ごせる時間が増えますね』


 学校にも、バイト先にも居場所はなかった。

 だけど、瑠衣さんは俺を受け容れてくれている。彼女と過ごす時間だけが、俺に安らぎをもたらしてくれていた。


「このペースで欠席してたら、留年することになっちゃうよ。それに授業に全く付いていけなくなっちゃうし。ノート借りる相手もいないでしょ?」

「かもしれませんね」

「かもしれないって……本当に分かってるの?」

「分かってます」と俺は頷いた。「それに最悪、留年してもいいと思ってます」

「よくないよ。留年した生徒の大半は退学することになる。そうしたら、人生の難易度が一気に跳ね上がる。榎木くんは今、学校生活が楽しくないのかもしれない。でも、今ぐっと我慢して頑張ればきっと――」

「いつまで我慢すればいいんですか」

「え?」

「我慢したとして、その先にいったい何があるんですか」

「それは」

と小春先生は一瞬言葉を詰まらせた。

「大学に行けば、環境が変わる。今が嫌でもきっと楽しいことが待ってる」

「何も変わりませんよ。大学生になっても、社会人になっても、どこに行っても俺は俺の嫌いな連中から逃れることはできない。名前や姿を変えて、何度だって目の前に現れる。この社会が共同体である限り。あいつらはどこにだって沸いて出る。

 十人いたら、九人は嫌いな人間なんです。周りには嫌いな人間が溢れていて、でも世の中は彼らを中心に回ってる。彼らに迎合しないと、社会では生きられない。俺はその群れには馴染めない。馴染めないし、馴染もうとも思わない。今我慢してもこの先の人生で報われることはなくて、そのことが分かっていて、それでも我慢し続けられるほど俺は殊勝でも鈍感でもないんですよ」


 この前、はっきりと気づいた。

 世の中には嫌いな人間たちで溢れていて、彼らもまた俺を嫌っていて、けれど社会は彼らを中心に回っている。

 そこに俺の居場所はない。

 

 我慢し続けた先には、更なる我慢が待ち受けている。その果てには何もない。ただ耐え抜いた挙げ句に報われず終わるだけだ。

 そして他の人たちは、俺のしている我慢を我慢とも思っていない。ごく自然に周りに馴染むことができているから。

 不条理で、理不尽なレースを走らされている。だったら、今のうちに降りてしまった方がいいんじゃないかと思った。


 どうせ行き着く先が地獄なら。そしてその道中も地獄だと言うのなら。瑠衣さんと共にいられる今の時間を大切にしたい。


「俺が学校をサボって、最悪退学になったとしても誰にも迷惑はかかりません。クラスの皆の気に留まることもない。誰も困らない」


 たとえどうなろうと、誰からも顧みられることはない。繋がりがないから。だから俺は後ろ髪を引かれずに破滅の道を歩むことができる。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。表の方からは、生徒たちが慌ただしく教室に戻っていく足音が聞こえてくる。

 でも俺は動かない。遅れようとどうでもいいから。遅刻して怒られるのが嫌なら、その前に学校ごとバックレればいい。簡単なことだ。


「……ごめんね。気づいてあげられなくて」

 と小春先生が言った。

 小春先生もまた、その場を動こうとしなかった。授業が控えているはずなのに。


「榎木くんがそんなふうに考えてたの、知らなかった」

「別に小春先生の謝ることじゃないですよ」


 小春先生には何の非もない。ただ俺が馴染めなかっただけだ。どのクラスの、どの担任の先生でも遠からず同じことになっていた。


「でもね、一つだけ言わせて欲しい。榎木くんは、自分が退学になったとしても誰も気に留めないって言ってたけど。それは違うよ」

「どういうことですか?」

「榎木くんが学校に来なくなったら、私は寂しいよ」


 小春先生はそう言うと、真っ直ぐに俺を見つめてきた。

 その衒いのなさに、言葉の強度に、思わず目を背けてしまいそうになる。真っ向から受け止めることができずに、思わず逃げの台詞を口にする。


「……でも、そうなれば、この場所を一人で独占できますよ」

「そうだね。だけど、ずっと一人でいるのは寂しい。誰かに愚痴を聞いて欲しい。そんな日もきっとあると思うから」

「自分のためにですか」 

「うん。でも、少なくとも榎木くんが学校に来たら喜ぶ人がここに一人いる。そのことを頭の片隅にでもいいから留めておいて」


 そう言うと、


「それだけ。じゃあ、私は授業があるから」と立ち上がり、去っていった。


 授業に出ろとは言われなかった。

 小春先生の言葉は、小春先生がいなくなった後も頭の片隅に残っていた。

 

 だから何かが変わるというわけでもないけど。

 

 でも、残り続けた。

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