第26話 修羅場
「小春先生……。どうしてここに」
部屋の前に立っていた小春先生を見て、俺は尋ねていた。
「様子を見に来たの」
小春先生はそう答えた。
「榎木くん、一人暮らしだし。何かあったら大変だと思ったから。飲み物とかフルーツの差し入れも買ってきたよ」
ほら、と持ち上げた手には、膨らんだレジ袋が提げられていた。
「でも、インターホン鳴らしてでも出てこないし。中で倒れてたらどうしようって。そしたら隣の部屋から出てきたからびっくりした」
小春先生は俺に尋ねてくる。
「榎木くんの部屋、こっちの二○四号室だよね? というか、その人は? 今日は体調不良って言ってなかった?」
「…………」
困った。まさか家にまで押しかけてくるとは。その上、瑠衣さんといっしょに出てきたところを目撃されてしまった。
体調不良と申告していたが、今の俺にそのそぶりはまるでない。健康そのものだ。顔色も至って良好だった。
「私は二○三号室のものです。結斗くんとはお隣さん同士です」
と瑠衣さんが名乗る。
「あ、これはどうも。私は榎木くんの担任の明坂小春と申します」
小春先生はぺこりとお辞儀をする。
「……あの、つかぬことを覗いますが、榎木くんとは仲がよろしいんですか?」
「どうしてです?」
「結斗くんって、親しげに呼んでいたので」
「そうですねえ。結斗くんとは、とっても仲良くさせて貰ってます」瑠衣さんはくすっと意味深な笑みをこぼしながら言う。
小春先生はその言い方と雰囲気に何か不穏なものを感じたのか、表情を曇らせる。すぐに明るさを取り繕うと、俺に尋ねてきた。
「もしかして、お隣さんに看病して貰ってたとか? それで回復したから、自分の部屋に戻ろうとする途中だったりする?」
こっちの都合のいいように解釈してくれていた。
意図せず、助け船を出すような形になっている。
助かった。
あとは俺がそれに頷けば、助け船に乗り込めば、何もかも丸く収まる。この場を無事に乗り切ることができる。そう思った時だった。
「いっしょに映画を観てたんです」
瑠衣さんの言葉が爆弾みたいに落とされた。
「朝からずっと、二人で映画を観てました。身を寄せ合いながら。何本も。そうですよね? 結斗くん」
瑠衣さんは微笑みながら、俺に同意を求めてくる。
それは純粋な悪意に満ちていて。
乗り込もうとした助け船を粉々に破壊する一言だった。
小春先生は絶句していた。
俺もそうだった。
いきなり何を言い出すんだ。瑠衣さんの考えてることが分からない。まるで俺をわざと窮地に追い込もうとしてるみたいだ。
何にせよ、もう誤魔化しきれない。
「すみません。体調不良っていうのは嘘です」
俺は正直に打ち明けることにした。
「遠足をサボるためにでっち上げました」
「……へ、へえ。そうだったんだ」
小春先生はどこか呆然としていた。瑠衣さんの言葉の余韻がまだ残っているのか。感情を上手く表せないでいるようだった。
「あのさ、ちなみに理由聞いてもいい?」
「え?」
「なんで遠足、サボったの?」
「それは……」
「つまらなかったからですよ」
俺の代わりに瑠衣さんが答えた。
「遠足に行くことより、私と映画を観ることの方が結斗くんにとっては楽しかった。ただそれだけのことですよ。ね?」
言う通りだった。
遠足に行くことと、サボって瑠衣さんと映画を観ること。その二つを天秤にかけて、俺はサボって映画を観ることを選んだ。
それは間違いない。
でも、小春先生の前ではっきりと明言するのは躊躇した。
「……あの。あなた、何なんですか?」
と言った小春先生はさすがにむっとしていた。瑠衣さんに対する不快感を露わにしている。
「ただのお隣さんですよ」
瑠衣さんは平然と答える。
「それにしては、さっきから出過ぎてると思いますけど」
「あなたもじゃないですか?」
「私は榎木くんの担任ですし」
「担任が家にまで押しかけるのは、充分に出過ぎた真似ですよ」
小春先生と瑠衣さんは互いに視線を交わし合う。
小動物が歯を剥き出しにして威嚇して、大蛇が舌を覗かせながら様子を覗う。そういうイメージがふと頭の中によぎった。
おかしいなと思う。小春先生の方が、瑠衣さんよりも年上のはずなのに。
小春先生はしばし睨み合った後、瑠衣さんに対する臨戦態勢を解いた。視線を切り、俺に対して呆れ交じりに言う。
「……サボったのは褒められたことじゃないけど、体調不良じゃないならよかった。部屋で倒れてたらどうしようかと思ったから」
そう言うと、レジ袋を渡してくる。
「はいこれ、差し入れ」
「でも俺、体調悪くないですよ」
「もう買ってきちゃったから。持って帰るには重いし。経口補水液もフルーツもある分には困るものじゃないでしょ」
「じゃあ、すみません。いただきます」
ありがたく受け取ることにした。
「サボるのは百歩譲って良いとしても」と小春先生は言った。「もう体調不良じゃないのに体調不良って言わないでよ。心配するから」
「どう言えばいいんですか」
「そんなの自分で考えてよ」
「親戚の不幸があったとか」
「嘘だとしても、親族を巻き込むのはよくないよね」
「海が見たいから休みますとか」
「詩的だけど、休む理由にはならないよね」
「もういっそ、サボりたいからサボりますとか」
「それを言える度胸があるなら、認めてあげる」
小春先生はそう言うと、
「サボるのはいいけど、嘘つかれるのは普通に傷つくよ」
ふと本音を覗かせるように呟いた。
少しだけ悲しそうな表情をしていた。ような気がした。見間違いかもしれない。それを見て胸がぎゅっと詰まった。
「それじゃあね。お大事に」と小春先生は皮肉か冗談か分からない言葉を残すと、赤錆の浮いたボロい階段を降りていった。
遠足の引率を終えた後、わざわざ俺の家にまで立ち寄ってくれた。決して高くはないであろう給料から差し入れを買ってまで。
そのことを思い、申し訳ない気持ちになった。
「あの人ですよね?」
瑠衣さんが俺に尋ねてくる。
「特別棟の裏手でお昼をいっしょに食べてる先生は」
「そうです」
「かわいい人ですね」
「そういえば、どうしてあんなこと言ったんですか?」
「あんなこと?」
「小春先生は俺が瑠衣さんに看病して貰ってたって勘違いしかけてたのに。わざわざ本当のことを打ち明けたじゃないですか」
「嘘をつくのは、よくないことですから」
「絶対思ってないですよね?」
「ふふ。そんなことないですよ。人間、素直なのが一番です」
瑠衣さんはそう言うと、それに、と続けた。
「何事もなく終わったら、つまらないじゃないですか」
「絶対そっちが本音ですよね」
「結斗くんが遠足をサボって一日私と映画を観ていた。そう聞いて、あの先生がどんな顔をするか見たかったのもあります」
「やっぱりいい性格してますね」
「私、学校の先生って嫌いなんです」
瑠衣さんは軽やかな口調で言う。
重さや湿度を感じさせない、晴れやかさがあった。
「でも、結斗くんのあたふたする姿、良かったですよ。見応えがありました」と瑠衣さんは楽しそうに告げてきた。
色々と言いたいことはあった。
でもその楽しそうな姿を見たら、全部どうでもよくなった。
瑠衣さんの手のひらの上で踊るのも悪くない。そう思ってしまうくらい、目の前の彼女の表情は魅力的だったから。
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