第25話 とある雨の日

 夜が明けても朝が来たと分からないくらい、雨だった。

 

 カーテンを開ける。

 厚い雲が空を覆い隠していた。糸を引くように、銀色の雨が街に降り注ぐ。薄暗い部屋に跳ね返る雨音が聞こえる。

 

 昔から、雨の日が好きだった。閉じている感じが安心した。

 俺は着替えて部屋を出ると、隣の部屋のインターホンを鳴らす。少しして、開錠する音と共に扉が開かれた。瑠衣さんが顔を覗かせる。


「おはようございます」

「どうも。今日は早いですね。起きるの」

「雨の日は調子がいいんです」


 瑠衣さんはそう言うと、尋ねてくる。


「もう学校には連絡したんですか?」

「さっきしました。熱が出たから休むって」


 電話に出たのは他学年の先生だった。

 熱が出たから今日は休みます。俺がそう申告すると、あっさり受理された。

 授業日ならまだしも、まさか遠足をサボるとは思っていなかったのか。あるいは他学年の生徒の素行には興味がなかったのか。どちらでもいい。

 どちらにせよ、俺は今日、遠足をサボった。それは変わらない。


「ふうん。発熱ですか」


 瑠衣さんは顎に手を置いて、くすっと笑う。

 次の瞬間、伸びてきた彼女の手が、俺の前髪を上げていた。

 

 え、と思った時には、彼女のおでこと俺の額が触れ合っていた。

 蠱惑的な瞳と作り物めいた顔立ちが、すぐ傍にあった。


「ふむ。三十八度五分。確かにこれは休まないといけませんね」


 瑠衣さんがたっぷりと茶目っ気を含ませながら言う。

 もちろん、そんなわけがない。俺は至って健康だった。でも今、体温計で測ったらそれくらいはあるかもしれない。

 実際、顔が熱かった。


「さあ、中にどうぞ。珈琲でも入れますよ」


 開いた扉から、部屋に招き入れてもらう。

 この前は紗希さんといっしょだった。でも今日は違う。完全に二人きりだ。それを意識すると妙に緊張してきた。


「砂糖とミルクはいりますか?」

「なくて大丈夫です」


 ブラックで飲みたかった。

 少しして、マグカップを両手に持った瑠衣さんがやってくる。


「はい、お待ちどおさまです」

「ありがとうございます」


 マグカップを両手で受け取る。黒い液体の水面に、自分の顔が映っている。


「来客用のカップ、ちゃんと用意してたんですね」

「紗希ちゃんに買えって言われたんです。面倒だから買わずにいたら、紗希ちゃんが自分で持ち込んできました」

「じゃあ、これは……」

「ナイショですよ」


 瑠衣さんは唇に指を当てた。そして雨音を聞きながら、窓の外に視線を向ける。


「雨だと遠足は中止になるんですか?」

「雨天決行らしいですよ」


 でも、海に行くことは叶わなくなるだろう。

 クラスメイトを従わせることはできても、自然を従わせることはできない。それを思うと少なからず胸が空く思いがした。


「今日は何の映画を観るんですか?」

「今日はつまらない映画を観ます」

「つまらない映画」

「正確には、世間的にはつまらないとされているけど、私はそこまで悪いものじゃないと思っている映画ですね」


 瑠衣さんは「むしろ、結構お気に入りかもしれません」と付け足した後、俺を諭すようにその先を続けた。


「本来なら、結斗くんにとっての今日はゼロ点の一日でしたから。どんな映画を見せたとしてもそれよりはマシかなと」

「そういうことですか」


 苦笑が漏れる。


「いいですよ。観ましょう」


 受けて立つことにした。

 瑠衣さんといっしょに映画を観る。それがどんなに面白くなかったとしても、学校の皆と過ごすよりはずっと良い。

 瑠衣さんはテレビの前のプレーヤーにDVDを入れる。


「DVDなんですね」

「サブスクで観られない映画って、結構あるんですよ。そういうのはDVDを探して購入しないと観られないんです」


 瑠衣さんは部屋の明かりを消した。

 カーテンの閉め切られた部屋は、小さな映画館になる。

 テレビが小さいから、画面を観ようと思うと距離が近くなる。

 前には炬燵が、背にはベッドの側面が。そして隣には瑠衣さんが。俺たちは互いの肩が触れ合うくらいに身を寄せ合う。

 ほのかにタバコの匂いがする。朝、吸ったのだろうか。俺にとって、このタバコの匂いは瑠衣さんの匂いだった。


「知ってますか? カップルは映画を観ながら乳繰り合うそうですよ」

「そうなんですか?」

「キスをしたり、身体をまさぐり合ったりして、盛り上がってきたら途中で映画を観るのをほっぽり出して行為に及ぶらしいです」

「でも、俺たちはカップルじゃないですよね?」

「付き合っていなくても、男女であればそういう雰囲気になり得るかもですよ。ちなみに結斗くんは今の話を聞いてどう思いましたか?」

「映画と本気で向き合えよと思いました」


 作品を何かの出汁として利用するな。


「全くです」と瑠衣さんも微笑んだ。そしてリモコンの再生ボタンを押す。


 小さなテレビ画面に映像が映し出される。

 そこからの百分弱は、まるで永遠のように感じられた。

 世間の評判通り、お世辞にも面白いとは思えなかった。

 脚本は稚拙だし、俳優の演技も上手いとは言えない。演出も荒いし、キャラの行動原理もよく分からないままに話が進む。

 お金を払って映画館で観ていたら、怒り出す人がいてもおかしくない。人によっては最後まで観ずに損切りするのが正解と断じるかもしれない。

 俺もそうかもしれない。


 けれど、瑠衣さんは違った。

 途中でふと表情を覗うと、彼女はテレビの画面を見つめていた。その目は大学の喫煙所で見た醒めたものとは違っていた。


 楽しそうに映画を観る瑠衣さんの横顔を見て、良いなと思った。

 世間の声や評判に惑わされない。つまらないとされているものの中にも、自分にとっての面白いものを、大切なものを見定めることができる。

 瑠衣さんの目には、他の人が見えていないものが見えている。俺はそんな瑠衣さんの瞳に映る景色を見てみたいと思った。

 それはいったい、どんな光景なのだろう。

 上映が終わると、瑠衣さんが俺に感想を尋ねてくる。


「どうでしたか?」

「正直、面白くなかったです」


 俺が素直にそう述べると、瑠衣さんはとても愉しそうにしていた。瑠衣さんが愉しそうにしているのを見ると、俺も愉しかった。


「では、どんどん行きましょう」


 その後も次々につまらない映画を観た。

 終始退屈で、時間の流れが悠久のようだった。普通なら苦痛に感じるところだけど、俺はそうは思わなかった。このままずっと終わらなければいいと思った。


 二本目を見終え、昼食を挟んでから三本目を見る。

 それは本当につまらない映画だった。

 序盤から中盤、終盤に至るまで完璧なまでに稚拙だった。砂を噛むような、という言葉がこれほど当て嵌まるものもない。


 でも、とあるワンシーンが胸を打った。

 鬱屈とした主人公が、感情を爆発させて暴れ回るシーンだった。

 自分の人生の終わりと引き換えに全てを破壊し尽くそうとするが、その壮絶な覚悟を鼻で笑うかのように、すぐに呆気なく取り押さえられてしまう。

 本人としては真剣で、人生のクライマックスだと思ってるのに、映画自体の稚拙さも相まってか外から見るとただつまらなくて、空回りしているだけに映る。

 カタルシスも何もない。見る人の大半にとっては、ただ面白くない映画。

 でもその空虚さが、やるせなさが、何だか妙に胸に刺さった。たぶん、他の人が見ても同じような気持ちにはならないと思う。

 上映が終わると、また瑠衣さんが俺に尋ねてくる。


「どうでしたか?」

「正直、面白くなかったです」


 でも、と俺は付け加えた。


「最後のシーンだけは凄く好きでした」


 話した。

 自分が感動した場面について。

 どうして良いと思ったのか。上手く言語化はできなかったかもしれないけれど。

 瑠衣さんは俺の感想を聞いて、今までと同じように愉しそうにしていた。でも、今までよりもどこか愉しそうな気がした。喜んでいるように見えた。


 その答え合わせはすぐ後に訪れた。

 瑠衣さんは膝を抱えながら俺を見つめると、柔らかな微笑みを浮かべる。そして世界の秘密を打ち明けるようにそっと告げた。


「私もそのシーンは凄く好きです」


 

 立て続けに朝から映画を三本見終えた頃には、雨が上がっていた。

 映画が終わり、場内に明かりが灯るかのように。窓の外は赤くなっていた。

 

 時刻は十八時半を回っていた。

 すでに遠足も終わり、それぞれが帰路についた頃だろう。

 さすがに三本も連続して映画を観ると疲れていた。あと、腹も減っていた。瑠衣さんも同じ気持ちだったのかもしれない。


「雨も上がったことですし、どこかに食べに行きましょうか」

「いいですね」


 瑠衣さんの提案に乗り、夕食を摂りに出かけることに。

 俺たちは財布とスマホを手にすると、部屋を後にする。

 玄関の扉を開け、廊下に出た。

 先に瑠衣さんが出て、その後に俺が続く形。廊下に出た瑠衣さんに続こうとして、一歩を踏み出そうとしたところでぶつかった。彼女の背中に。

 

 瑠衣さんは立ち止まっていた。そしてどこか一点を見つめている。驚いたような、戸惑ったような横顔だった。


「……瑠衣さん?」

「結斗くんにお客さんみたいですよ」

 

 訝しみながら俺はその後ろから廊下に出ると、瑠衣さんの視線の先を追う。

 俺の部屋の前に人が立っていた。

 ショートカットの髪に小柄な体格。明るめのブラウンのジャケットにパンツ姿。それは毎日のように教室で見る姿。

 でも、教室以外では一度も見たことがない。


「榎木くん?」


 そこにいたのは、小春先生だった。

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