第23話 帰りの夜道

一服を終えてしばらくした頃。紗希さんは不意に切り出した。


「そろそろ帰るわ」

「駅まで送っていきましょうか?」と瑠衣さんが申し出る。「結斗くんが」

「俺ですか」

「私だと、頼りないでしょう?」

「そんなに変わらないと思いますけど」


 別に俺も頼りにはならない。スポーツもやってないし、喧嘩をした経験もない。襲われた時に守れる自信はない。

 俺と紗希さんだと、何なら紗希さんの方が強そうだ。


「じゃあ、頼むわ」

「え」

「何だよ、その反応」

「てっきり必要ないって言われると思ってたので」

「通り魔に襲われた時、肉壁にはなるだろ」


 完全に盾としての役割を期待されていた。


「じゃあな。大学、ちゃんと来いよ」と紗希さんは瑠衣さんに釘を刺してから、俺と共に部屋を後にした。夜の帳の中に身を投じる。

 駅の方向に向かって歩く。ここからはだいたい十分程度の道のり。

 周囲は静まりかえっている。車通りからは外れ、住宅街。外灯と建物の窓から漏れる光だけが夜を照らし出す。


「悪いな。付き合わせて」

「いえ」

「羽目外しすぎたな。結構酔っちまった」


 紗希さんはハイボールの缶を三本空けていた。顔がほんのりと赤らんでいる。声も普段より少し高くなっていた。


「普段は飲んでも一本なんだけどな。瑠衣に乗せられちまった」


 瑠衣さんは紗希さんよりも空けていた。


「それにしても瑠衣の奴、滅茶苦茶だったな。夕方まで寝てるわ、材料買わせにパシらせるわ、バイク乗りに酒を勧めるわ、あんたに野菜を全部押しつけるわ」

「ですね」と俺は苦笑しながら同意する。「でも、楽しかったです」


 普段は一人で食事をしていた。学校でも、家でも。

 寂しいとも思わなかったし、誰かといっしょにいたいとも思わなかった。

 他人と食事をするのは、煩わしいだけだ。だけど、今日は楽しかった。瑠衣さんと紗希さんと鍋を囲む時間は良かった。


「…………」


 紗希さんは楽しかったと答えた俺の表情をしばし見つめていた。そして、歩を進めるのを止めずにふと切り出してきた。


「あたしが瑠衣と仲良くなったの、喫煙所だって言ってたろ」

「はい」

「あいつのことは元々、教室で何度か見たことがあったんだ。いつも退屈そうに、頬杖をつきながら一人で座ってた。けど、その時は声を掛けようとは思わなかった。きっかけがなかったってのもあるし、そこまでの興味もなかったから」

「じゃあ、どうして?」

「ある日、面倒な授業をサボって喫煙所に行った時に、たまたま瑠衣もそこにいた。一人でベンチに座って、タバコを吸ってた」

「喫煙者同士で親近感が沸いたんですか」

「それもあるけど、それだけじゃねえ。こいつ、こんな清楚な見た目してヤニ吸ってんのかよっていう驚きはあったけどな」


 紗希さんはそう言うと、突拍子もないことを告げた。


「あたしはさ、結構モテるんだよ」

「え?」

「モテるって言っても、女にだけどな。よく告白されたし、バンドを始めてからも熱心なファンが付いてくれた。

 そいつらはさ、言うんだよ。紗希さんのことが大好きですって。初めて見た瞬間、一目惚れしちゃいましたって。目の奥を輝かせながら」


 分かる気がした。紗希さんは、格好良い。見た目も振る舞いも。女性からすると憧れの存在に見えたのかもしれない。


「あたしにはその感覚が分からなかった。今までにもいいなと思う人はいたし、顔や容姿の良い男女もたくさん見てきた。けど、一目見た瞬間に心を鷲掴みにされるような、そんな鮮烈な経験をしたことはなかった。あたしはきっと、そういうタイプの人間じゃないんだろうなと思ってた。……あの時までは」


 紗希さんは遠くの夜を見やる。そこに映る過去を思い返すように。


「喫煙所でタバコを吸う瑠衣の姿を見た瞬間、がつんと来たんだ。長い足を組んで、気怠そうに煙を吹かしてる物憂げな姿。その陰の濃さに、あたしは心惹かれちまった。世の中にこんなに絵になる女がいるんだって思った。普段、こんな言葉を使うことなんてないけどさ、美しいと思った。綺麗でも、可愛いでもなくて、美しい。それ以外に当て嵌まる言葉が見当たらなかった。その時に、初めて理解したよ。あたしに一目惚れして告白してきた子たちの気持ちを。

 気づいたら、あたしは瑠衣に話しかけてた。近寄りがたい雰囲気だったけど、そうせずにはいられなかった」

「それで仲良くなったんですね」

「引いたか?」

「……いえ」と俺は答えていた。「分かります、俺にも。その気持ちが」


 瑠衣さんがコンビニにタバコを買いに来る度、俺は彼女がそれを吸う姿を夢想した。

 現実は往々にして理想に及ばない。

 にも関わらず、彼女が実際にベランダでタバコを吸う姿は、思い描いていた理想の姿に劣ることがなかった。同じくらいか、上回っていた。

 美しかった。思わず見とれてしまうくらいに。


「……あんた、結斗だっけか?」

「はい」

「悪いことは言わねえ。これ以上、瑠衣とは関わるな」

「え?」


 俺は紗希さんの横顔を見つめる。

 紗希さんは顔を合わせず、虚空を見つめながら続ける。


「瑠衣のことが好きなんだろ? でも、それは報われない。あいつにとってあんたはただの遊び相手でしかない。あんたがどう思っていようと。

 瑠衣はきっと、あんたが瑠衣に好意を持ってることに気づいてる。会ってすぐのあたしでも分かったんだ。あいつが分からないはずがない。

 気づいていて、それを都合よく利用してる。

 あいつはそういう奴だ。相手のことも構わずに、好き勝手に他人を振り回す。無理難題を投げかけてくる。あんたの好意を人質に取りながら。

 あんたの想いが報われることはない。瑠衣はその想いには応えない。想いが強くなればなるほど、報われなかった時が辛くなる」

「だから、今のうちに関わりを断てと?」

「そうだ。あいつに人生を滅茶苦茶にされる前に。今ならまだ引き返せる」


 紗希さんは酔っていた。

 でも、目を見れば分かる。本気だった。


「……友達なのに、随分な言いようですね」

「友達だからこそ分かることがある。瑠衣はいい人間じゃない。性格とか、そういうことじゃなくて。他人の人生を狂わせる奴だ」


 分かる気がした。

 瑠衣さんには陰がある。そしてその陰は、人を惹きつける陰だ。惹きつけて、その中に取り込んでしまうほどの。


 ふと思う。

 紗希さんはこの忠告をしたくて、俺に送って貰おうとしたんじゃないかと。二人きりになれる時間を作ろうとした。


 沈黙が続いているうちに、駅に辿り着いた。改札口の前に来たところで、紗希さんが俺に向かって言った。


「送ってくれてさんきゅーな」

「はい」

「帰り、気をつけろよ」


 紗希さんはそう告げると、スマホのICカードを使い、改札口を通り抜ける。ホームに向かおうとした時だった。


「一つ聞いてもいいですか」

「あん?」

「さっきの忠告は、紗希さんの経験からですか」


 瑠衣さんのことが好きで、でも、その想いは報われることはない。それでも、彼女の魅力に惹きつけられてしまったから。離れることができない。


 紗希さんは一瞬、虚を突かれた表情を浮かべた。怒っているような、傷ついたかのような複雑な面持ちを浮かべた後。


「…………かもな」


 自嘲するようにそう呟いて力なく笑った。


 ちょうど、ホームに電車がやって来る。その音を聞いて紗希さんは踵を返すと、まばらな人の車内に乗り込んでいった。


 俺はその後ろ姿を、見えなくなるまで見つめていた。


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