第18話 大学にやって来る

『次の講義までの間、暇してるんです。大学に遊びに来ませんか?』


 瑠衣さんからそう送られてきたのは平日の昼時だった。

 本来であれば高校に通っている時間帯。けれど今はちょうど定期試験中。午前中で試験は終わり、午後からは空いていた。

 それに今日はバイトもない。

 俺は瑠衣さんの誘いに乗ることにした。


『分かりました。今から行きます』

『うれしいです。待ってますね』


 メッセージを返すと、制服から私服に着替え、アパートを出る。

 瑠衣さんの通う大学は、アパートから徒歩で十分ほどの場所にある。俺が高校に通うのとほとんど変わらない距離だ。

 前を通ることは何度もあった。でも中に入るのは初めてだ。


 大学生の群れに紛れ、正門に向かって歩いていく。

 正門前には警備員が立っていた。前を通る時、一瞬、緊張する。呼び止められるのではないかと背筋がこわばる。その後のことを想像して、歩速が上がる。

 でも早足になると、却って怪しまれるかもしれない。普段と同じ歩速を心がける。警備員の目の前を通り過ぎる。呼び止められない。


 目前から、背後に。歩を進め、距離を離す。追ってきてはいないか、途中で何度も振り返りたくなるのを堪える。

 角を曲がったところで、ようやく振り返る。いない。大学生がいるだけだ。結局、無事に入りこむことができた。


 初めて見るキャンパス内は圧巻だった。

 華々しい建物が建ち並び、何というか、明るく開いている。

 カフェがある。テラスがある。フードトラックまである。

 まるでテーマパークだ。


 そんな華々しい空間の中、待ち合わせ場所の喫煙所は薄暗かった。

 校舎と校舎の間、奥まった細い場所に喫煙所はあった。

 日が差さずに、薄暗い。パーテーションで仕切られた狭い空間。まるで人目に付かないように隔離されたかのようだ。

 くすんだ色のベンチに、ぽつぽつと喫煙者たちの姿がある。学生もいれば、職員や工事の業者と見られる人もいた。


 会話はない。皆、タバコを吸いながら、無言でスマホをいじっていた。背中が丸い。目に光がない。明るい表の通りとは隔絶された空間だった。


 淀んだ空気の喫煙所。いくつか並んだベンチの一番奥に瑠衣さんがいた。

 加熱式タバコや電子タバコを吸う人が多い中、紙のタバコを口に咥えながら、ぼんやりと虚空を眺めている。

 ベンチに座って足を組み、頬杖をつきながら一人、物憂げに佇んでいる。その瞳は見る者をぞっとさせるほどに冷たい。

 近寄りがたい雰囲気を放っていた。


 実際、瑠衣さんに声を掛けようとする人間はいなかった。ちらちらと、遠くから様子を覗うだけ。彼女の周りには強固な結界が張り巡らされていた。

 俺もまた声を掛けることができなかった。

 近寄りがたかったから。それもある。でも、それだけじゃない。声を掛けることで目の前の静謐な雰囲気を壊してしまうのが嫌だった。


「…………あ」


 先に向こうが気づいた。相好を崩すと、ぱっと表情を明るくさせる。そしてひらひらとこちらに手を振ってきた。


「こんにちは。来てくれたんですね」

「まあ、暇だったんで」

「私が気づくまで、ずっとそこにいたんですか?」

「何というか、声を掛けづらくて」と俺は言った。「瑠衣さん、人を寄せ付けない雰囲気を全開にしてたから」

「そうなんですか?」

「何というか、寄らば斬る、って感じでしたよ」

「そんなに武士ってましたか、私」

「自覚なかったんですか」


 苦笑しながら、ふと、酒袋のことを思い出した。

 コンビニバイトの同僚で、瑠衣さんと同じ大学に通っている。

 あの人は喫煙所にいた瑠衣さんに話しかけたと言っていた。凄い度胸だ。あるいは結界が見えないほど無神経なのか。たぶん後者だろうと思った。 


「私が結斗くんを呼んだのに、斬り付けたりなんてしませんよ」と言う瑠衣さん。さっきまでの醒めた瞳の冷たさは霧散していた。

「もうお昼は食べちゃいましたか?」

「まだです」


 その前に連絡が来たから。


「私もです。せっかくですし、食べにいきましょうか」

「いいですね」


 瑠衣さんは立ち上がると、吸い終えたタバコを灰皿に捨てる。灰皿の中の水には吸い殻が死骸のようにいくつも浮いていた。


「良かったんですか?」

「何がです?」

「まだタバコ、結構残ってたのに」

「これ以上結斗くんを待たせるのも悪いですから」と瑠衣さんは言った。「それに、お腹も空いちゃいましたし」


 薄暗い喫煙所を後にすると、表の通りに出る。

 瑠衣さんが俺を連れてきたのは学内のカフェだった。

 洒落た英語の名前のそのカフェは、名前負けせずに内装も洒落ていた。落ち着いた色合いではあったけれど、それは明るい落ち着きで、俺には落ち着かなかった。


「意外と空いてますね」と俺は言った。もっと混雑しているものかと思ったが、ちらほらと人がいるだけだった。

「もうお昼時は過ぎてますからね。今は講義の時間ですし。昼休みは凄いですよ。絶対に近づきたくないですね」


 よほどの人混みになるらしい。


「ちなみに注文はあっちです」

「今さらですけど、大丈夫ですかね。俺、部外者ですけど」

「名乗り出るでもしない限りは問題ありませんよ。近所のお爺さんがお茶をしに来てる時もあるくらいですから」

「それは、大らかですね」

「ガバガバとも言いますけど」


 俺はロコモコ丼を注文し、瑠衣さんはフレンチトーストを注文する。受け取った料理をトレイの上に乗せると、奥の席に移動した。


「結斗くんはロコモコ丼にしたんですか」

「食べたことがなかったので。高校の食堂にはないものですし」と俺は言った。「それにロコモコって響きが、何か良いなって」


 それを聞いた瑠衣さんがくすっと笑った。


「俺、変なこと言いましたか」

「いえ。かわいいなと思っただけです」


 そう言うと、瑠衣さんはフレンチトーストをナイフとフォークで切り分ける。ふわふわのトーストには、たっぷりと蜂蜜とシロップが掛かっている。生クリームも。

 見るからに健康に悪そうだ。見ているだけで胸焼けしてくる。ただ今この瞬間の刹那的快楽を凝縮したような食べ物だ。


 ロコモコ丼を口にする。白米の上にハンバーグと目玉焼きが乗り、ドミグラスソースが掛けられている。

 見た目通りの味だった。想像以上でも以下でもない。そこそこの味。でも値段がお手頃なことを考えるとお釣りが来る。


「試験はどうでしたか?」と瑠衣さんが尋ねてくる。

「まだ明日が残ってますけど。今のところはぼちぼちです」

「なら、赤点はなさそうですか」

「名前を書き忘れたりしてない限りは」

「それはよきことですね。ちなみに結斗くんの得意科目は何ですか?」

「国語です」と俺は答える。「苦手なのは、数学と科学」

「典型的な文系ですね」

「瑠衣さんはどうでしたか」

「私も国語は得意でしたよ。あとは英語も」と瑠衣さんは言う。「逆に、苦手だったのは日本史と生物です」

「暗記科目が苦手なんですか」

「いえ。比較的得意でしたよ」

「じゃあ、どうして」

「その二科目は、試験が一限目にあることが多かったので」

「ああ、起きられないってことですか」

「おかげで何度か赤点を取るはめになってしまいました」

「起きて時間を見た時、焦りませんでしたか」

「ギリギリだったら、焦ってたかもしれません。でももう手遅れでしたから。シャワーを浴びてからゆっくり登校しましたよ」

「それは大物ですね」


 俺ならきっと、焦る気がする。焦って、どうすればいいか逡巡する。結局、どうしようもないという結論は変わらないのに。

 瑠衣さんみたいに潔く諦めることはできないだろう。


「次の講義は何時からですか?」

「三時四十分からです」

「じゃあ後、一時間くらいありますね」

「それまでお喋りしていましょうか」


 昼食を取り終えた後、だらだらと話して過ごした。

 吹けば飛ぶような、他愛のない話。有意義でも、生産的でもない。アパートのベランダや喫茶店で話してる内容と変わらない。

 ただ場所だけがいつもと違う。


 明るい陽の差すカフェには、華やかな学生たちが集っている。その光景に俺という人間は上手く嵌まっていないなと思う。

 自分でも落ち着かないし、周りから見てもきっと浮いている。


 でも瑠衣さんは違う。

 くすんだ喫煙所も似合うし、華やかなカフェにも馴染んでいる。どちらの場所でも自分を損なうことがない。


「瑠衣さん、時間大丈夫ですか」


 しばらく話をした後、俺は瑠衣さんに告げた。彼女の肩口の後ろ、壁に掛かった時計の針は三時半頃を示していた。


「そろそろ行かないと間に合わないんじゃ」

「あ、もうそんな時間ですか」


 瑠衣さんは手元のスマホの電源を入れると、時刻を確認する。てっきり席を立つものだと思っていたが、立たない。

 電源を切ると、スマホを伏せた。


「いや、講義……」

「今日はサボっちゃいます」

「え?」

「だって講義に出るより、結斗くんと話してる方が楽しいですから」と瑠衣さんは両手のひらの上に顎を乗せながら微笑む。


「同じ時間を過ごすなら、楽しい方がいいに決まってます。でしょう?」

「けど、大丈夫なんですか。単位とか」

「何とかなりますよ。きっと」と瑠衣さんはあっけらかんと言い放つ。持ち前の思い切りの良さを遺憾なく発揮していた。

「なので、もう少し付き合ってくれますか?」

「……まあ、良いですけど」


 本当は帰って明日の試験勉強をするつもりだった。

 でも、もういい。


 瑠衣さんの言うとおりだ。

 どうせ同じ時間を過ごすなら、楽しい方がいいに決まってる。


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